論語詳解255先進篇第十一(2)我に陳蔡に従いし

論語先進篇(2)要約:孔子先生と共に革命を目指して諸国を放浪した弟子たちは、特に優れた才能を持つ者たちでした。今は世を去り、あるいは他国で仕官した弟子たちを、孔子先生は回想するのでした。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「從我於陳蔡者、皆不及門*也。」德行、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、季路。文學、子游、子夏。

校訂

武内本:清家本により門の下に者の字を補う。

書き下し

いはく、われ陳蔡ちんさいしたがひしものは、みなかどともにせざるなり德行とくかうには顏淵がんえん閔子騫びんしけん冉伯牛ぜんはくぎう仲弓ちうきう言語げんごには宰我さいが子貢しこう政事せいじには冉有ぜんいう季路きろ文學ぶんがくには子游しいう子夏しか

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

先生が言った。「私と共に陳・蔡へと旅した者は、いまはもう門下にいない。人格力の養成と実践(徳行)では顔淵(顔回)ビン子騫シケン(閔損)ゼン伯牛(冉耕)仲弓チュウキュウ(冉雍ゼンヨウ)が優れ、弁舌の才(言語)では宰我(宰予)子貢(端木賜)が優れ、政治では冉有(冉求)季路(子路)が優れ、古典研究(文学)ではユウ(言エン)子夏(ボク商)が優れていた。」

意訳

論語 孔子 ぼんやり
私と革命を共に戦った同志諸君は、もうこの世にいないか仕官したか、あるいは外国に行ってしまった。その中でも優れた弟子は十人いた。

すなわち徳行では顔回、閔子騫、冉伯牛、冉雍が優れ、弁舌の才では宰我と子貢が優れ、政治では冉有と子路が優れ、古典研究では子游と子夏が優れていた。

従来訳

論語 下村湖人

先師がいわれた。――
「私について陳(ちん)・蔡(さい)を旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない。」
 先師に従って陳・蔡におもむいた門人の中で、徳行にすぐれたのが顔渕・閔子騫(びんしけん)・冉伯牛・仲弓、言論に秀でたのが宰我・子夏、政治的才能できこえたのが冉有・季路、文学に長じたのが子游・子夏であった。

下村湖人『現代訳論語』

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

陳蔡

論語 陳 金文 論語 蔡 金文大篆
(金文)

論語の本章では、論語の時代に中国南方にあった二つの小国。地図を参照。

論語 春秋時代地図

クリックで拡大。Map via http://shibakyumei.web.fc2.com/

ただし論語の本章で注意すべきは、挙げられている弟子の全てが孔子の放浪に従ったのではないこと。放浪の始まりはBC497で孔子55歳、帰国はBC484で68歳。生没年未詳の冉雍は不明として、子夏は11歳から24歳に当たり、付き従ったにしても後半だけだろう。
論語 子夏 論語 子游

同じく子游は20歳から33歳に当たり、付き従ったかどうか微妙なところ。

皆不及門也

論語 皆 金文 論語 及 金文
「皆」「及」(金文)

論語の本章では、”みな我が家を出入りしなくなった”。

「及」は超多義語で、”およぶ”と読んで分かった気になっていると、いつまでたっても論語を読んだことにならない。論語の本章では孔子の屋敷の門を、同じ泉に口を付けて飲むように”ともにする”ことであり、通いにせよ住み込みにせよ、孔子塾に日頃から出入りすることを指す。

德(徳)行

論語 徳 金文 論語 行 金文
(金文)

論語では、孔子の主張する礼法を習得しそれに従って生きること。

論語に言う「徳」とは、道徳とか人徳ではない。体力・気力・暴力・学力・智力・能力を背景にした、潜在的な人格的迫力を言う。詳細は論語における「徳」を参照。その人格力で、他人を圧倒したのが顔回ほか三人だったのである。

ここで暴力という言葉にビックリしてはいけない。顔回ですら孔子塾の必須科目である六芸に通じていたのだから、戦車の乗りこなしや弓術は人並み以上に達者だったはず。おそらくは当時の主兵器である戈の扱いにも長けていただろう。訳者は長柄武器の有段者だが、顔回相手に立ち回る気にはなれない。

顏淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游、子夏(顔渕・閔子騫・冉伯牛・仲弓・宰我・子貢・冉有・季路・子游・子夏)

本名で呼び捨てにされている弟子はいない。姓・名とあざな(かっこ内)を並べてみると、

顔渕=顔・回(子淵)
閔子騫=閔・損(子騫)
冉伯牛=冉・耕(伯牛)
仲弓=冉・雍(仲弓)
宰我=宰・予(子我)
子貢=端木・賜(子貢)
冉有=冉・求(子有)
季路=仲・由(子路)
子游=言・偃(子游)
子夏=卜・商(子夏)

となる。

論語 子路
子路が季路と呼ばれているのは、季=末っ子の路くん、という親しみからと思う。一番初めに入門した弟子で、時に孔子を叱責した、弟子と言うより年下の同志といった関係。

論語 顔回
しかし最も才能を評価された顔回が、姓とあざなの省略形で呼ばれているのに、仲弓・子貢・子游・子夏はあざなそのもので呼ばれている。何か意味があるのか、それとも詮索するほどのことはないのか、よく分からない。

論語 子貢
このうち子貢については、孔子一門を財政から支えた金庫番兼やりくり担当だから、なにがしか孔子も遠慮したのかも知れない。子游と子夏については、他の弟子と違って孔子とは年齢が懸け離れていて、おだててやらねばならず、その分孔子とは心理的な距離があったのかも。

論語 冉雍
ワケが分からないのは冉雍(仲弓)で、年齢不詳だから一層わからない。「君主に据えてもいいほどだ」と孔子は論語の雍也篇で褒めちぎったが、一説には冉伯牛・冉有と同族で、そうなると一族の結束が固い中国社会で、冉一族は孔子を支える一グループだったと見える。

ただし冉雍については同じく論語雍也篇で、「家格が低い」と言われているから、冉一族は決して君子=貴族の家柄ではなかっただろう。しかし中国では、家格が低いからと言って無力だったというわけではなく、現に孔子は底辺の出身。

年齢不詳ながら、おそらく冉雍は年が若かっただろう。そうでなければ、家格の低さを気にするなと、孔子に慰められはしなかっただろう。将来のある年齢だからこそ、そういう励ましをしたのだろうから。となるとあざなで呼んだのは、子游や子夏と同じ理由か。

孔子を支えた一族として見逃せないのは顔回の家もそうで、孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。

論語:解説・付記

論語を読んでとにかく感じるのは、孔子は実にいい弟子に恵まれていることだ。何しろカネの心配をする必要がなかった。最晩年はやや困ったようだが、それ以外は子貢のおかげで、あまりカネにならぬどころか、いくらカネがあっても足りない革命運動に邁進できた。

身を守るについては、自身が武術の達人だから大胆に行動できたし、半生を武芸自慢の子路が付き添い、子路が仕官してからは、対斉防衛戦で武名を挙げた樊遅が、ボディーガードとして付き添っていた。だからこそ、強国・楚の王が恐れるほどの力を、一門は持っていられた。

「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」(『史記』孔子世家)

助教としては子游と子夏がいれば十分だったろうし、孔子が大好きな政治いじりも、子路・子貢だけでなく宰我にも工作を任せることが出来た。それに顔回という人は、とにかくそこにいるだけで、人が和む人物だったらしい。だから派閥争いや学級崩壊も起こらなかった。

当時、孔子と同じぐらいの智者や学者は他にもいただろう。しかし孔子ほど、弟子に恵まれた人物は皆無だった。だから孔子が偉くないのではなく、そんな弟子を引きつけて止まない、何かを孔子は持っていた。それを推理小説のように探るのが、論語を読む楽しみでもある。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。未だ人を斬ったことが無い。刀(登録証付)の手入れは毎日している。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回す。覚悟致せ。
斬首
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