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訳者:九去堂

論語 訳者九去堂

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閲覧者の皆様に、訳者の論語読解能力を公式に主張できるのは、中国史で文学修士号を取ったことを言える程度。あとは拙文に記したあれこれを、皆様ご自身に評価して頂くしかない。実験や数学的証明の出来ない人文業界では、正しいとは人が正しいと思う事でしかないからだ。
論語 九去堂 学位記論語 九去堂 学位記

論語は2,500年前の語録だけに、多くの儒者や学者が解釈を世に問うた。その解釈は、中国では三国時代を中心とした古注、宋代の新注に大別される。日本では江戸儒者と、明治以降の漢学者の解釈に大別できる。しかしいずれも、孔子本人に意味を問いただしたわけではない。

論語 古注 何晏論語 朱子 新注
理の当然だが、それをいい事に勝手な個人的感想や、ひどいのになると自己宣伝をたっぷりと論語やその解釈に混ぜ込んだ者がいる。しかしでたらめも古びると骨董的価値があるようで、新古の注は現在でもほとんど疑われていない。これもまた証明不能という人文の宿命だ。

論語 毛沢東
人文業界で古いとは、それだけ多くの人の支持があったことを意味する。実際、滅んでしまった論語の解釈は多い。しかし古いからと言って、正しいとは誰にも言えない。天動説がまともに信じられたように、独裁者バンザイの国があるように、支持者の数はあてにならない。

論語 古注
そこで訳者は論語の解釈を独自に行うに当たって、できるだけ過去の解釈や注釈を読まない﹅﹅﹅﹅ことにした。釣り込まれるからだ。読むにしても、読者に読んで貰いたいと願っている本に限ることにした。書き手の名誉に関わるから、それがどの本だとはここでは書かない。

論語 儒者論語 教授
読んで貰いたいと願わない文章は、書き手の高慢ちきを表す。つまり主張したいことは特にないが、それよりワシを敬え、結局はカネを出せ、と言っている。読む価値があるだろうか。主張もないとは、つまりまじめに研究していないということだ。何の参考になるだろうか。

論語 古文
というわけで、本文中で引用した過去の注釈も、一度自分で訳してから参照した結果だ。その代わり、辞書は徹底的に引くことにした。書体も調査した。すると面白いことが分かってくる。論語の解釈ではなく本文にさえ、後世の儒者が勝手に書いたニセモノが含まれている!

論語 驕 睡虎地秦墓竹簡論語 甲骨文 帝不我又
無論、本サイトに記した訳者の論語の現代語訳も、過去にも書かれた個人的感想のたぐいに過ぎない。しかしその代わり、辞書や字書など、論語業界以外の学問成果を参照して客観性を高めた。無論辞書も字書も人文の所産ではある。しかし文章の解釈ほど身勝手にはできない。

訳者・過去の行状

日本のとある、ものすごい山奥の生まれ。
論語 山奥

上京して早稲田大学に入り、中国史を専攻。当時日本の景気はことのほかよろしかったが、企業でわけ分からん人に頭を下げるのがいやで、大学院に進学。そのまま学者になるつもりでいたが、院生・教員ともにあまりに人が悪いのにうんざりして、学位は取ったが早大を去る。

こんなはずじゃない。他大学なら人間もまともだろうと移籍したが、関係するほとんどの大学人、いずれも高慢ちきと弱い者いじめが大好きで、公式発表といわゆる「内規・慣習」がまるで違い、ずいぶんと差別されたので、歴史学のみならず文系学問そのものに見切りを付ける。

今考えて見れば当たり前の話で、院生はわんさかいるが研究職はごくわずかだかだから、人のよくなりようがない。講座をとりまとめる教授連にした所で、人を蹴落とすことを何とも思わない人物でないとなれないから、人心の荒廃に歯止めをかけるような人物ではありえない。

加えて職に就くには、希有な幸運が必要。世に成功法則はないが、必敗の法はあることのいい例で、そんな幸運を自分の才能と勘違いできるのが、つまりは文系の大学教授というものだ。確かマックス・ウェーバーもそんなようなことを『職業としての学問』に書いていた。

なげけとて月やは物を思はするかこち顔なるわが涙かな

西行法師の場合は恋の物思いだが、文系院生の物思いは、要は世間知らずだった。

論語 北海道サロマ湖
ところが世の中に出てみると、ほんの数年で景気は一変しており、どこに行っても職がない。ずいぶんメンタルをやられて、そのまま食うために全国を放浪する。結局わけわからん人に頭を下げっぱなしで食いつないだが、少しずつ東京へ東京へと居を移す野望をたくましくする。

念願かなって東京のさる老舗出版社に就職、編集者として前途洋々の船出、のはずだったが、すでに会社は傾いており、若手を薄給でコキ使って使い捨てにする戦略だと、間もなく判明した。頭に来たので独立を決意し、仕事は適当にさぼって商いと会社設立手続きを独学。

念願の独立を果たし、それこそほとんど寝ないで働く。そのかいあって会社を黒字化し、今度こそ前途洋々、のはずだったが、黒字化したとたんにいろいろあって、結局会社を手放す事に。遺憾の意とする所は多いが、関係者それぞれにはそれなりの言い分があるだろう。

論語 天
これで正解と思っている。思い返せば大学の頃、所属していた体育会の先輩に、将来の望みを問われたことがある。即座に「自由」と返したが、もとから人とつるむように出来ていない。出来ていないものは仕方がない。それなりに生き、好き勝手に世を送るしかない。

ブッダは「人は望み通りの人生を生きる」と言ったが、訳者に関してはそうだろう。体育会で無事おツトメを終えられたのは、趣味の場でもあったからだ。ただ生きることも重大だが、そのためだけに生涯を組織で送らなくて済み、よかったと思っている。

趣味など

趣味は漢文読み、鉄の馬での放浪、武術の修行。鉄の馬でない放浪もずいぶんやり、日本で行ったことのない場所がほとんどない。武術の修行も他流試合や各地の道場をまわり(道場破りではない)、教わった武術は合気道・弓道・中国武術・居合抜刀術・剣術・棒術など。
論語と算盤 元気出していきましょう

とりわけ棒術は性に合い、また運にも恵まれてずいぶん稽古した。今でも修行は続けているが、棒も面白いが居合も好きで、稽古でクウを切り、「斬れた!」と思える瞬間が何より楽しい。空を切っても音と手応えが違うのですよ、斬れた時は。「切」と「斬」は全然違う。

野球で言えば、球の重さと硬さを感じたときは、たいていゴロに終わってしまう。でもスパーンと当たったときには、外野の外に飛んでいくでしょう? それと同じ。合気の技がかかった時は、仕手と受け手が共に雑な刃違いを感じず、すなおに転がり転がしたのと似ている。

抜刀・納刀の緊張感も好きだ。わずかでも手元が狂えば、指など簡単に落ちてしまう。その上刀はそう簡単に抜けはしない。抜けるようでは危ないから。一瞬で抜き、斬り、鞘に納める。敵を注視しつつ納めるから、鞘など一切見てはいない。この清々しさはたとえようがない。

論語 伊豆大島放浪
放浪の旅もそうだが、武道は見える世界をまるで変えてしまう。第一にいざとなれば自分が強いという確信が持てるから、無意味な怯えを感じなくて済む。そして武器なんか要らないと思える。合気道が刀を持たない剣術であるように、合理的な体さばきは体術も武器術も同じだ。

体術の経験がない人でも、剣道など武器術の初段を持っていれば、道具など無くても十分強い。そもそも歩き方が違うし、置くべき相手との距離や位置も即座に分かる。日本武道のいい所は、戦わないで勝てる点だ。戦う前に勝負は着いており、伐つのではなく制してしまう。

さらに常に気を付けることを武道は教える。わずかなきざし﹅﹅﹅に素早く応じ、危険が具体化する前に避ける。歩き方が違うというのはまずこれだ。海外でこれで助かったなと思ったことは何度かある。勝つことの前に戦わないことだ。積極的な受け身で、戦いの種を消してしまう。
論語 パリ

何事も「させられる」と思うのは嫌だ。だが人も一切の形あるものも、必ず滅ぶという摂理の前には敗北する。しかしそれを憎んでも始まらない。与えられた環境の中で好き勝手に過ごすこと、それは工夫次第で増大する。『論語』の醍醐味も、実はそこにあると思っている。

論語と孔子について

論語 孔子
孔子は春秋戦国時代の諸子百家の中で、珍しい人だ。まず武術の達人だった。口先だけの青白い学究では全然ない。次に数理の重大さに気付いた人だ。当時の数理は易に集約されるが、当の陰陽家は黒魔術化して、かえって数理から遠ざかってしまった。もったいを付けたのだ。

ちょうど論語をメシの種にして、孔子を神格化と言うよりカナブツ化して、論語を好き勝手に書き換えた、後世の儒者と同じだった。対して孔子はかなり透明な理性を持った人で、徳によって人を圧倒することを知っていた。徳とは人間の機能であり、人徳道徳では全くない。

たぶん孔子は武術の達人だったから、徳の効用に気付いたのだろう。概して即物的なことしか考えられない中国人に対して、孔子の視野は広々としていた。ただし儒者がカナブツ化したような人格者ではなく、いい加減でおしゃべりな陰謀家だった。そこがまたたまらない。

論語 孔子 せせら笑い
元来無精な訳者が、嬉々として本サイトのような事を書き付けているのは、孔子と論語にそれ相応の魅力があるからだ。木やかね﹅﹅で作った聖像に、惚れ込むような趣味を訳者は持たない。そして魅力があるからと言って容赦しない。悪いことは好き勝手にどんどん書かせて貰う。

論語に限らず漢文の読解は、趣味人にはいい暇つぶしだ。多義語の上に格変化や助詞を持たない漢文は、数学の順列組み合わせを解くような面白さがある。しかも抽象的な数ではなく、解けば過去の面白い話が分かる。数理の能がない訳者には、解いたご褒美が必要だ。

論語 有若 アホ
訳者はほとんど確信を持っている。従来の論語解釈の多くはでたらめだ。偽善とごますりを事とする、儒者のインチキが濃厚に入り込んでいるからだ。もはや儒者の注釈は要らない。かえって論語が読めなくなる。儒教の信徒でない訳者は、儒者の狂信から自由でいられる。

もちろん、儒者の政治経済的な都合からもだ。こんにちの東洋思想や東洋史で、論語がどのように扱われているかはわからない。しかし時代の転換期、注目されやすい論語だが、狂信からサヨナラした本をほとんど見かけない。話は簡単で、ならば自分で読めばいい。

論語 大漢和辞典
幸いにも訳者は若い頃から、漢文の読解だけは得意だった。院生生活にうんざりした理由の一つも、実は教員でありながら漢文が読めない者がいたことだ。院生については言うにや及ぶ。そんな者に何を習い倣おうか。訳者はフリーであるからには、組織のご都合にも関係が無い。

というわけでここに、好き勝手な論語の解釈を記す。無論手続きを経た上だ。まずは徹底的に辞書を引くこと。次に論語だけ読んでそれでよしとしないこと。古い論語には古い背景を知る必要がある。ただし間違いは多々あるだろう。お気付きの諸賢はどうか指摘して下さいませ。

注釈

論語 切 古文
「切」(「碧落碑」施安昌拓本)

『学研漢和大字典』によると「切」は会意兼形声文字で、七は、┃印の中ほどを━印できりとることを示す指事文字。切は「刀+(音符)七」で、刃物をぴったりときり口に当ててきること。

類義語の断は、上から下へと、ずばりときり離すこと。絶は、途中でぷつりときること。剪(セン)は、刀で端をそろえてきること。載(サイ)・截は、きって小さくすること。斬は、刃が食いこんできれめをつけること。斯は、ばらばらにきり離すこと。伐は、刃物で二つにきること、という。

一方『字通』によると「七+刀」で、『説文解字』四下に「るなり」とし、音はしちだとするが、七は骨節の形で、膝のような部分を言う。そこを切り離して分解すること。『詩経』衛風・オウに「切磋琢磨」とあり、その伝に「骨を治するを切という」と見える。

切断には注意と技術を要するので、緊切・切要(押し迫った)の意となる、という。

論語 斬 古文
「斬」(睡虎地秦墓竹簡)

「斬」は『学研漢和大字典』によると会意文字で、「車(くるま)+斤(おの)」。車をおのできることを示す。鋭い刃が割りこむこと。塹(ザン)(土をきり取ったように掘る)・漸(しだいに割りこむ)・曽(ザン)(割りこむ)・芬(セン)(割りこむくさび)などと同系のことば、という。

一方『字通』によると「車+斤」で、車を作るための材を斬ることをいう。

『説文解字』十四上に「るなり」とし、また「斬は車裂にのっとるなり」という。斬を刑罰とすることは、『釈名』釈喪制に「頭を斫るを斬といい、腰を斬るを要斬という。斬はザンなり。しばらぶきを加え即ち断つなり」とするが、斬の初義ではあるまい。

殊に車裂には別にカンという字があり、また斬首は古くは伐といい、伐とは人頭をる形である。『周礼』考工記・輪人に「三材(車の各部に用いる材)を斬る」のように、もと車の制作に関して用いる字である、という。

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