論語の人物:曽参子輿(そうしん・しよ)

子守りに励んでうすのろから死後に高弟へ大出世した孔子家の下男

至聖先賢半身像「曽子」
国立故宮博物院蔵

略歴

BC505ー?。孔子の弟子。姓は曾(曽)、名は參(参)、參は伝統的に「しん」と読むことになっている。字は子輿。後世、尊称して曽子と呼ばれた。『史記』『孔子家語』によれば魯国南武城出身、孔子より46年少。父は曾蒧(点)子皙(そうてん・しせき)、子は曾申。親孝行に優れたとされ、『孝経』を著したという説があるが、儒家の伝説に殆ど疑義を挟まない吉川本ですら、曽子死去時に『孝経』が成立していたか怪しいという。

漢文では「子…」はただの”…さん”でしかないが、「…子」は”…先生”という尊称で、通常は孔子・老子・墨子のように、一学の開祖にしか与えられない。孔子に「参や魯(うすのろ)」と言われた曽参が曽子へと、後世に出世した理由は、孔子の孫・子思の子守りだったため。

論語 孔伋子思 論語 孟子
この子思の系譜から後に孟子が出て、当時ほとんど滅びかかっていた儒学の小人派を再興し、さらに後の漢代になってこの派閥が国教化されたため、うすのろが先生と呼ばれるようになった。ついでに在世当時は孟軻・子輿(あざなは曽子と同じ)でしかなかった孟子も、先生呼ばわりに加えて孔子に次ぐ聖人と言うことで、「亜聖」とまで呼ばれるようになった。

論語 曽子 ウスノロ
要するに、曽子の出世は七光りの類である。また顔回同様に、曽子の父親・曽点もまた孔子の弟子であるとされるが、弟子としての父親の実在は極めて疑わしい。

曽点
『孔子家語』によると曽点はホンモノの𠮷外親父で、こんな父を持った曽子が、親孝行のお説教本など書くわけがない。

曾子耘瓜,誤斬其根。曾晢怒,建大杖以擊其背,曾子仆地而不知人久之。

曽子が瓜畑を耕していたところ、うっかり瓜の蔓を切ってしまった。それを見た曽皙(曽点のあざ名)が真っ赤になって怒り、地面に突き立てておいたクワの柄を引き抜いて曽子の背中をぶん殴り、倒れて意識不明になるまでやめなかった。(『孔子家語』六本10)

曽子の本名「参」(三本のかんざし→混ざる)とあざ名の「輿」(担いで人を乗せるこし→万物をのせる台、すなわち大地)の間の関連性は、有若と同じく乏しい。あざ名は”大地の如く偉大な先生”の意で、のちに曽子と呼ばれて祖師扱いされたのも、有子と呼ばれた有若に似ている。

つまりそれだけ、後世の帝国官僚=儒者が担ぎ挙げるには相応しい人物だった。なにせ頭が悪すぎて、政治家としても学者としても、全く何の業績も残していない。子守りだから当然だろう。だからこそ、好き勝手に事跡をでっち上げ、お神輿にするには都合がよかったのだ。

論語での扱い

論語では十五ケ章に記述があり、うち孔子との問答は一カ所しかない。さらにもう一カ所は「うすのろ」との評価で、残りは全て曽子自身のお説教になる。兄弟弟子による人物評もなく、何か一門のために仕事をした記述もないから、同時代では小僧扱いだったと思われる。

孔子の諸国放浪にも名が見えないから、やはり小僧には無理と判断されたのか、あるいはおとなしく留守番していなさい、と言われたのだろう。曽子自身の発言も、良く言っても鬱を放つような話ばかりが記されている。

孔子と同様に曽子と、宗匠格の名で後世呼ばれたにもかかわらず、孔子と曽子の対話が論語にほぼ皆無なのは、弟子では無かったか、教えてもメモも取らないような不埒な弟子だったからだろう。論語の源資料は、弟子が各自記した講義メモだから、真面目にノートを取るような弟子なら、孔子との対話が論語に残っていないはずがないからだ。

他の典籍での扱い

上記の事情から、孟子は何度も曽子の言葉を引用し、大変に持ち上げている。『孟子』の曽子問篇では、論語を補うように孔子との問答多数を載せている。子張子游子夏による有若後継者指名の件でも、曽子が反対して実現しなかったことになっており、子夏が子を無くした際にはわざわざ魏国へ出かけていって、叱りつけて説教したことになっている。

孔子の直弟子たちを強く批判したジュン子も、曽子の言葉は多数載せ、「賤儒」といったような悪罵は投げていない。いわんや儒教が国教化された漢代の書籍では、曽子を悪く言う者は誰も居ない。

『史記』では縦横家の蘇秦の言として、孝行者として曽子を挙げている。その他の書籍にも孝行話が出て来るから、孝行と言えば曽子、ということになっていたようだ。

なお参考までに、「身体髪膚」で有名な『孝経』の冒頭は次の通り。

仲尼居,曾子侍。子曰:「先王有至德要道,以順天下,民用和睦,上下無怨。汝知之乎?」曾子避席曰:「參不敏,何足以知之?」子曰:「夫孝,德之本也,教之所由生也。復坐,吾語汝。身體髮膚,受之父母,不敢毀傷,孝之始也。立身行道,揚名於後世,以顯父母,孝之終也。夫孝,始於事親,中於事君,終於立身。《大雅》云:『無念爾祖,聿脩厥德。』」
仲尼居るに、曾子侍る。子曰く、「先王は至德の要道を有てり、以て天下を順う。民を用いるに和睦をもってせば、上下怨み無し。汝之を知る乎。」曾子席を避けて曰く、「參や不敏にして、何ぞ以て之を知るに足りん。」子曰く、「夫れ孝は、德之本い也。之を教うるは生るるに由る所也。復た坐れ、吾汝に語らん。身體髮膚は、之を父母に受く、敢えて毀傷せ不るは、孝之始也。身を立ちて道を行き、名を後世於(に)揚ぐるは、以て父母を顯かならしめ、孝之終也。夫れ孝は、親に事うる於始まり、君於事うるを中ばとし、身於(を)立つるに終わる。大雅に云わずや、『爾が祖(おや)を念(おも)う無からば、聿(おさ)め脩(おさ)めるも德を厥(か)く。』と。」
ある日孔子のそばに曽子がいた。孔子が言った。「先王は人格力を高め尽くす方法を知っており、それで天下を従えた。民を使役するにも親しくなごやかに取り扱ったので、身分にかかわらず怨みが出なかった。お前はこのことを知っているか?」
曽子は席を立って言った。「私はうすのろですので、どうしてそれを知りましょうか。」
孔子「そもそも親孝行が、人格力を養う基本なのだよ。孝行を教われば、人格力向上が分かるぞ。まあ座りなさい。教えてやるから。身体、髪、皮膚は、親に貰ったものだ。わざわざ傷付けるような事をしないのが、孝行の始まりだ。出世して君子の修養に努め、自分の名を後世に残すのは、父母の名を世間に明らかにするためで、それで孝行は終わりになる。だから孝行とは、親の世話をする所から始まり、主君に仕えるのを半ばとし、出世する事で完成する。『詩経』の大雅篇にもあるだろう、お前の親を思う心がなければ、勉強しようと稽古しようと、人格力は身に付かない、と。」

論語での発言

1

私は毎日三つのことを反省します。誰かの相談に乗ってやって、心にもないことを言わなかったか。友達づきあいで約束を破らなかったか。自分に出来もしない事を、偉そうに誰かに講釈しなかったか。(学而篇)

2

自分もいずれ死ぬんだ。悪いことをしている場合じゃない。(学而篇)

3

先生は、率直と思いやりを信条になさっている。(里仁篇)

4

もう死にそうだ。どうだ諸君、手足を開いても私の体には、傷一つ無いだろ? 親孝行者とはこういうものであるぞ、諸君!(泰伯篇)

5

もう死にそうだが、うすのろにも言い残しておくことがある。うわべをもっともらしく繕っておけば、世間で君子として通る。細かな知識は、頭のいい奴が覚えていればいい。(泰伯篇)

6

賢いのにバカの振りをし、バカにもものを聞いてやり、知っていても知らぬ振りをする。手出しされても受け流す。こういう友人*が昔いた。

*古来顔回のこととされるが、16の年齢差も大きく、曽子がとてものこと友達呼ばわりできる人物ではないし、こんな人の悪い人物でもない。

7

孤児となった幼い主君を守り、小さいながら国を切り盛りし、時代の転換期にも地位を奪えない人は君子か。君子である。(泰伯篇)

8

士族は心広々と、また意志が強くなくてはならぬ。その務めは重く、行くべき道は遠い。仁の実践を自分の務めと心得る、たいそう重い務めだ。死ぬまでそれをやり続ける、本当に遠いことだ。(泰伯篇)

9

堂々としているなあ、子張は。こういう人物と一緒に人の情けは実践しがたい。(子張篇)

10

陽膚ヨウフ(曽子の弟子)よ、お歴々が無茶な政治をし、民が逃げ散るようになって長い。お前は司法官に仕官して、犯罪の情報を掴んでも、犯人を哀れんで、喜ぶような真似をせぬように。(子張篇)

*つまり好き勝手に犯罪者を見逃し、治安が悪くなっても私は善人、を決め込めと言う。法家が聞いたら真っ赤になって怒りそうだ。なお孔子は厳罰主義者である。

論語での記述

  1. 曾子曰、「吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。」(学而篇)
  2. 曾子曰、「愼終追遠、民德歸厚矣。」(学而篇)
  3. 子曰、「參乎。吾道一以貫之。」曾子曰、「唯。」子出、門人問曰、「何謂也。」曾子曰、「夫子之道、忠恕而已矣。」(里仁篇)
  4. 曾子有疾、召門弟子曰、「啟予足。啟予手。詩云、『戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。』而今而後、吾知免夫。小子。」(泰伯篇)
  5. 曾子有疾、孟敬子問之。曾子言曰、「鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善。君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣。正顏色、斯近信矣。出辭氣、斯遠鄙倍矣。籩豆之事、則有司存。」(泰伯篇)
  6. 曾子曰、「以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虛、犯而不校。昔者吾友、嘗從事於斯矣。」(泰伯篇)
  7. 曾子曰、「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也。君子人與。君子人也。」(泰伯篇)
  8. 曾子曰、「士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任、不亦重乎。死而後已、不亦遠乎。」(泰伯篇)
  9. 柴也愚、參也魯、師也辟、由也喭。(先進篇)
  10. 曾子曰、「君子以文會友、以友輔仁。」(顔淵篇)
  11. 曾子曰、「君子思不出其位。」(憲問篇)
  12. 曾子曰、「堂堂乎張也、難與並爲仁矣。」(子張篇)
  13. 曾子曰、「吾聞諸夫子、『人未有自致者也、必也親喪乎。』」(子張篇)
  14. 曾子曰、「吾聞諸夫子、『孟莊子之孝也、其他可能也、其不改父之臣、與父之政、是難能也。』」(子張篇)
  15. 孟氏使陽膚爲士師、問於曾子。曾子曰、「上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。」(子張篇)

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コメント

  1. […] 孔子が自宅でくつろいでいるところに、曽子がそばにいた。孔子が言った。「参(シン、曽子の名)よ、今の君子は、士分と大夫の言葉だけが聞く価値があるな。君子で言葉が立派なのはまずいない。ああ、私はさらに上の、王者の言葉でものを言おう、戸や窓から出ないまま、天下の民を躾けられるぞ。」 […]

  2. […] 曽子が言った。「疲れず費やさないなら、これを明王と言っていいのでしょうか、お聞かせ頂けますか。」孔子が言った。「昔、帝舜が禹(ウ)と皐陶(コウトウ)を左右の補佐官として、玉座を降りることなく天下が治まった。こんな政治なら、どうして為政者が疲れようか。政治が不適切なのは、君主の悩みだが、政令が行われないのは、臣下の罪だ。 […]

  3. […] 曽子が言った。「道については理解できました。しかし道を明らかにすることについては、まだわかりません。」 […]

  4. […] 曽子が言った。「どうかお教え下さい、三至とは何ですか。」 […]

  5. […] 曾子:孔子の弟子で、現伝儒教の祖師の一人、曽参シン子輿ヨのこと。 […]

  6. […] 本章の事実上の主人公。曽子の父という事になっており、息子と共に孔子の弟子だったとされる。しかし曽子がそもそも孔子の弟子ではなく、孔子家の家事使用人だった。従って実在はしたのだろうが、現在伝えられている名前だったとは考えにくい。 […]