略歴
BC505ー?。孔子晩年の弟子とされる。姓は曾(曽)、名は參(参)、參のカールグレン上古音はtʂʰi̯əm(平)「サン」なのだが、曽子のいみ名に限っては伝統的にʃǐəm(平)「シン」と読むことになっている。「なんかヘンや」と古代の中国人ですら思ったらしく、後漢の『説文解字』にこう記している。
森、木の多貌なるもの。林に従い木に従う。読みは曽参之参の若し。(『説文解字』巻七林部)
この読みは『詩経』などにしか例の無い珍音で、実の名は「申」ɕi̯ĕn(平)だった可能性がある。
穆公之母卒,使人問於曾子曰:「如之何?」對曰:「申也聞諸申之父曰:哭泣之哀、齊斬之情、饘粥之食,自天子達。布幕,衛也;縿幕,魯也。」
魯の穆公(位BC415-BC383)の母が亡くなった。殿様は人を曽子の元にやって問わせた。「どうすればよいのだろうか?」答えて言った。「申はかつて申の父からこう聞きました。声を上げて泣き、粗末な喪服を着、薄い粥しか咽を通さぬ作法は、上は天子から庶民まで同じです。斎場に麻布で幕を張るのは衛国のならい、絹布で幕を張るのは魯国のならいです。」(『小載礼記』檀弓上14)
そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
大小の『礼記』は戦国までの間に儒家の各派がそれぞれ伝えていた説話の集合体で、年代的に先行する論語が「曽参」と書いているのを必ずしも訂正できるわけではない。さらにこの伝説が史実なら、曽子は90を超す年齢となり、あり得はするが珍しいほどの長寿でもある。注に「曽参之子」とあるように、『礼記』のすぐ後には別人としての「曽申」の名も見えるが、別伝としてここに記しておく。
「參」は春秋末期では明確に数字の”3”として用いられており、「曾參」(曽参)とは単に”曽家の三男”を意味するのではないか。
字は子輿。後世、尊称して曽子と呼ばれた。『史記』『孔子家語』によれば魯国南武城出身、孔子より46年少。父は曾蒧(点)子皙(そうてん・しせき)、子は曾元・曾申。親孝行に優れたとされ、『孝経』を著したという説があるが、儒家の伝説に殆ど疑義を挟まない吉川本ですら、曽子死去時に『孝経』が成立していたか怪しいという。
『孝経』のお説教の始まりは、有名な「身体髪膚、之を父母に受く。敢えては毀傷せざるは、これ孝の始め也」だが、「毀」の字は戦国中期にならないと現れない。また『孝経』は忠君を説くが、「忠」の字も戦国時代にならないと現れない。
BC505ごろに生まれ、その生涯高位高禄を食んだことのなかった曽子は、50ほどで世を去ったと思われるが、戦国時代の始まりを告げた晋の三分(BC453)を生きて見られたかどうか。
『呉子』を著した武将の呉起は、一説には曽子の弟子。曽子は兄弟弟子との関係では他人に厳しく、有若が孔子の後継者に擬せられた際には反対し、晩年の子夏を叱りつけたりしている。子を亡くした子夏に、「自業自得だ」と言い放つのは、人間としてどうなのだろうか。
漢文では「子○」はただの”○さん”でしかないが、「○子」は”○先生”・”○様”という尊称で、通常は孔子や老子のような学派の開祖か、孟懿子のような大貴族にしか与えられない。この曽子の権威化は、前漢宣帝期に埋蔵の定州竹簡論語に三箇所「曽子」とあるから、それ以前に行われたことになる。
しかしそれで曽子の権威化が完了したわけではなさそうで、前後の漢儒も気軽に「曽参」と呼び捨てで記している。それが神聖にして犯すべからざる権威をまとい始めたのは、則天武后の傀儡だった唐の睿宗による官位の追贈がある。
太極…二月…丁亥,皇太子釋奠于國學。追贈顏回為太子太師,曾參為太子太保。每年春秋釋奠,以四科弟子、曾參從祀,列於二十二賢之上。
太極元年二月丁亥の日、皇太子が国学でチンチンドンドンと儒教の祭典を行った。この際顔回に太子太師、曽参に太子太保の官位を追贈した。孔子廟では毎年春と秋に、そのほこらの前でチンチンドンドンの祭を行い、孔子のほか孔門十哲を祀るが、曽参をそこに加え、顔淵と曽参の二人は、二十四人の高弟の首座に位置づけられた。(『旧唐書』睿宗紀)
※四科:論語先進篇2で挙げられた徳目。「德行、顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、季路。文學、子游、子夏。」孔門十哲の謎も参照。
唐が滅ぶと五代を経て宋が成立するが、その時代は学界・政界・官界が儒家に独占され、代表的な宋儒である北宋末から南宋にかけて活動した朱子(1130-1200)は、論語に重大な注記を行った。
存命中には不遇だった朱子の学派は、のちに朱子学として中国・朝鮮・日本の国教の地位に据えられた。曽子は没後600以上過ぎてから、儒家の宗家として不動の地位を得た。ただし朱子自身は、弟子への説教の中で平気で「曽参」と何度も呼び捨てており(『朱子語類』)、崇め奉っていたわけではない(孔子は「孔子」と敬称し、顔淵はうっかり二度ほど「顔回」と言ってしまったほかは「顔淵」「顔子」と敬称している。)。
こうして孔子に「参や魯(うすのろ)」と言われた曽参が曽子へと、後世に出世した理由は、孔子の孫・子思の子守りだったため。
この子思の系譜から後に孟子が出て、事実上滅びていた儒家を再興し、さらに後の漢代になってこの派閥が国教化されたため、うすのろ曽参が曽子先生と呼ばれるようになった。
さらに後世、政界官界学界が儒家に独占された宋代、在世当時は孟軻・子輿(あざなは曽子と同じ)でしかなかった孟子も、先生呼ばわりに加えて孔子に次ぐ聖人と言うことで、「亜聖」とまで呼ばれるようになった。これに引きずられて顔淵・曽子・子思・孟子は、「四聖」と呼ばれ、儒家の正当な系譜の宗家とされた(儒家の道統と有若の実像)。
要するに、曽子の出世は七光りの類である。また顔淵同様に、曽子の父親・曽点もまた孔子の弟子であるとされるが、弟子としての父親の実在は極めて疑わしい。
『孔子家語』によると曽点はホンモノのキじるし親父で、こんな父を持った曽子が、親孝行のお説教本など書くわけがない。
曾子耘瓜,誤斬其根。曾晢怒,建大杖以擊其背,曾子仆地而不知人久之。
曽子が瓜畑を耕していたところ、うっかり瓜の蔓を切ってしまった。それを見た曽皙(曽点のあざ名)が真っ赤になって怒り、地面に突き立てておいたクワの柄を引き抜いて曽子の背中をぶん殴刂、倒れて意識不明になるまでやめなかった。(『孔子家語』六本10)
曽子の本名「参」(三本のかんざし→混ざる)とあざ名の「輿」(担いで人を乗せるこし→万物をのせる台、すなわち大地)の間の関連性は、有若と同じく乏しい。あざ名は”大地の如く偉大な先生”の意で、のちに曽子と呼ばれて祖師扱いされたのも、有子と呼ばれた有若に似ている。
つまりそれだけ、後世の帝国官僚=儒者が担ぎ挙げるにはふさわしい人物だった。なにせ政治家としても学者としても、全く何の業績も残していない。子守りだから当然だろう。だからこそ、好き勝手に事跡をでっち上げ、お神輿にするには都合がよかったのだ。
曽子が仕官した話は、前漢にならないと現れない。
曾子仕於莒,得粟三秉,方是之時,曾子重其祿而輕其身;親沒之後,齊迎以相,楚迎以令尹,晉迎以上卿,方是之時,曾子重其身而輕其祿。
曽子が莒(魯の南東にある小国)に仕えて、俸給としてアワ931L(1秉=310.4L)受け取った。この時、曽子は俸禄は高かったが身分は低かった。親が没してのち、斉は宰相として迎え、楚も宰相として迎え、晋は閣僚として迎えた。この時、曽子は身分は高かったが俸禄は低かった。(『韓詩外伝』巻一1)
もちろん史実ではなく、史料に記載のある伝説でもない。魯の宰相だったときの孔子の俸禄を、六万と『史記』孔子世家は言い、年俸六万斛(石)だとすると1,200,000Lであり、三秉=931Lを「高禄」と言えるわけがない。月給だとしても12倍して11,174Lに過ぎない。
曽子が孔子の直弟子とは思えない理由は他にもある。孔子塾は当時の君子=貴族の必須技能として武芸も教え、卒業生は仕官ののちは従軍の義務を負った(論語における「君子」)。孔子や塾生たちの真相について論語の次に信じられる文献は『春秋左氏伝』で、孟子の教説『孟子』がそれに次ぐ。そこにこう書いてある。
曾子居武城,有越寇。或曰:「寇至,盍去諸?」曰:「無寓人於我室,毀傷其薪木。」寇退,則曰:「修我牆屋,我將反。」寇退,曾子反。左右曰:「待先生,如此其忠且敬也。寇至則先去以為民望,寇退則反,殆於不可。」沈猶行曰:「是非汝所知也。昔沈猶有負芻之禍,從先生者七十人,未有與焉。」
曽子が武城(魯国南部のまち)に住んでいた。そこへ越軍が攻めてきた。
ある人「いくさが始まります。どうしてボンヤリしているのですか。」
曽子「どこぞの他人に、勝手に我が家に棲み着かれてはたまらない。逃げる前に叩き壊して薪にしてしまおう。」
やがて越軍が撤退した。孟子「では我が家を再建しよう。まちに帰るとするか。」そう言って曽子が帰ろうとすると、身近な者が言った。
「先生ちょっとお待ちを。これが忠実で慎み深い者のすることですか。いくさが始まれば真っ先に参陣して民の希望を担い、敵軍が退いたら家に帰るのが君子の務めです。これでは君子らしくないと言われても仕方がありません。」
沈猶行が言った。「事の是非は君たちに分かることではない。むかし沈猶は負芻の戦乱をこの目で見たが、その時先生に従っていた者は七十人いた。だが従軍した者は一人もいなかった(先生はその時も従軍しなかったし、させなかったのだ)。」(『孟子』離婁下59)
「寇至則先去以為民望」を通説通りに解さない理由は、『孟子』現代語訳:離婁下59を参照。
もし曽子が孔子の直弟子で、上掲『孟子』の伝説が史実なら、曽子は孔子から「何たる卑怯者か!」と怒鳴られ、弟子仲間からは「あいつ、いくさから逃げたんだってよ」と言われて仲間外れになっただろう。曽子は儒家の分派の長ではあり得ても、春秋の君子ではあり得ない。
「士」はまさかりの象形で、春秋の「士」は従軍するから「士」だからだ(語釈)。
『論語』に孔子との対話が偽作の一章しかなく、『春秋左氏伝』に名が載らないのに、孔子と同格の尊称で飛ばれた曽子の実体は、せいぜい『孟子』によるしかない。孔子没後一世紀に生まれた孟子は、ぎりぎり孔門をじかに知る人の話を聞けた可能性があったからだ。
- 用心深い性格だった(梁恵王下19)
- 控え目な性格だった(公孫丑上2)
- 自尊心の高い人物だった(公孫丑下11)
- 孝行者だった(滕文公上2)
- 節操のある人物だった(滕文公上4)
- 自分で畑仕事をした経験があり、人におもねるのをいやがった(滕文公下17)
- 親孝行だった(離婁上19)
- 戦に出るのを嫌がった(離婁下59)
- 親孝行だった(尽心下82)
要するに曽子は、子夏と同年代の孔門の若者で、学者でもなく役人でもなく、つまり当時の貴族ではなかったが、魯国に残留した孔門のとりまとめ役の一人で、同じく魯国に残った子游一派のように、器用にチャルメラを吹いたり祝詞を唱えたり出来なかった者たちの統領だった。
『史記』孔子世家は、孔子の墓のまわりに物売り屋が並んでちょっとした街になったことを記しているが、それがおそらく曽子一派で、今で言うなら孔子テーマパークの興行師だった。「儒家音頭」を流し「孔子饅頭」を得るたぐいで、「○子」と尊称される程の人物ではない。
孟子や荀子が生きた戦国時代、曽子は「曽参」と呼び捨てされるのが普通だったことを、『史記』は戦国時代人の言葉として伝えている。前漢になっても儒家から「曽参」と呼び捨てされており、『塩鉄論』の青二才儒者も、「曽参」と呼び捨てしてはばからない。
戦国の孟子や荀子が「曽子」と敬称で呼んだのは、儒家の先達で宗家だったからだろうが、あるいは後世の宋儒による書き換えを疑ってもよい。
「曽子」(甲骨文)
「曾」(曽)の初出は甲骨文。旧字体が「曾」だが、唐石経・清家本ともに「曽」またはそれに近い字体で記している。原義は蒸し器のせいろう。詳細は論語語釈「曽」を参照。「子」の初出は甲骨文。原義は産まれたばかりの子供の姿。詳細は論語語釈「子」を参照。
論語での扱い
論語では十五ケ章に記述があり、うち孔子との問答は一カ所しかない。さらにもう一カ所は「うすのろ」との評価で、残りは全て曽子自身のお説教になる。兄弟弟子による人物評もなく、何か一門のために仕事をした記述もないから、同時代では小僧扱いだったと思われる。
孔子の諸国放浪にも名が見えないから、やはり小僧には無理と判断されたのか、あるいはおとなしく留守番していなさい、と言われたのだろう。曽子自身の発言も、良く言っても鬱を放つような話ばかりが記されている。
孔子と同様に曽子と、宗匠格の名で後世呼ばれたにもかかわらず、孔子と曽子の対話が論語にほぼ皆無なのは、弟子ではなかったか、教えてもメモも取らないような不埒な弟子だったからだろう。論語の源資料は、弟子が各自記した講義メモだから、真面目にノートを取るような弟子なら、孔子との対話が論語に残っていないはずがないからだ。
他の典籍での扱い
孟子は何度も曽子の言葉や行動を引用している(孟子は曽子をどう見たか)。だが孟子自身は、「ワシは曽子の系統を引く」とはただの一言も言っていないので、数多い孔門弟子の一人として記しているに過ぎない。
孔子の直弟子たちを強く批判した荀子も、曽子の言葉を複数載せ、「賤儒」といったような悪罵は投げていない。しかしこれも孔門弟子の一人として記すのみで、他を圧した偉い儒者だとは記していない(荀子は曽子をどう見たか)。
孔子没後一世紀に生まれた孟子は、ぎりぎり孔門の史実を知る人物から話をじかに聞けた可能性がある。しかし孟子より60ほど年下の荀子は、おそらく孔門のさまについて伝説が聞けたに過ぎない。
孟子・荀子が「曽子」と尊称しているについては、宋儒による書き換えを思うべきだ。なお『春秋左氏伝』には、「曽子」も「曽参」も出てこない。「曽子」の初出はむろん論語だが、再出は『孟子』で、『荀子』のほかは、あまたの伝説を、戦国時代に作られた儒家伝説の集大成である、前後漢帝国の時代に編まれた大小の『礼記』が載せる。『小載礼記』の曽子問篇では、論語を補うように孔子との問答多数を載せている。もちろん史実性は疑わしい。
『史記』では子張・子游・子夏による有若後継者指名の件でも、曽子が反対して実現しなかったことになっており、子夏が子を無くした際にはわざわざ魏国へ出かけていって、叱りつけて説教したことになっている。また縦横家の蘇秦の言として、孝行者として曽子を挙げている。
なお参考までに、「身体髪膚」で有名な『孝経』の冒頭は次の通り。
仲尼居るに、曾子侍る。子曰く、「先王は至德の要道を有てり、以て天下を順う。民を用いるに和睦をもってせば、上下怨み無し。汝之を知る乎。」曾子席を避けて曰く、「參や不敏にして、何ぞ以て之を知るに足りん。」子曰く、「夫れ孝は、德之本い也。之を教うるは生るるに由る所也。復た坐れ、吾汝に語らん。身體髮膚は、之を父母に受く、敢えて毀傷せ不るは、孝之始也。身を立ちて道を行き、名を後世於(に)揚ぐるは、以て父母を顯かならしめ、孝之終也。夫れ孝は、親に事うる於始まり、君於事うるを中ばとし、身於(を)立つるに終わる。大雅に云わずや、『爾が祖(おや)を念(おも)う無からば、聿(おさ)め脩(おさ)めるも德を厥(か)く。』と。」
ある日孔子のそばに曽子がいた。孔子が言った。「先王は人格力を高め尽くす方法を知っており、それで天下を従えた。民を使役するにも親しくなごやかに取り扱ったので、身分にかかわらず怨みが出なかった。お前はこのことを知っているか?」
曽子は席を立って言った。「私はうすのろですので、どうしてそれを知りましょうか。」
孔子「そもそも親孝行が、人格力を養う基本なのだよ。孝行を教われば、人格力向上が分かるぞ。まあ座りなさい。教えてやるから。身体、髪、皮膚は、親に貰ったものだ。わざわざ傷付けるような事をしないのが、孝行の始まりだ。出世して君子の修養に努め、自分の名を後世に残すのは、父母の名を世間に明らかにするためで、それで孝行は終わりになる。だから孝行とは、親の世話をする所から始まり、主君に仕えるのを半ばとし、出世する事で完成する。『詩経』の大雅篇にもあるだろう、お前の親を思う心がなければ、勉強しようと稽古しようと、人格力は身に付かない、と。」
論語での発言
1
私は毎日三つのことを反省します。誰かの相談に乗ってやって、心にもないことを言わなかったか。友達づきあいで約束を破らなかったか。自分に出来もしない事を、偉そうに誰かに講釈しなかったか。(学而篇)
2
自分もいずれ死ぬんだ。悪いことをしている場合じゃない。(学而篇)
3
先生は、率直と思いやりを信条になさっている。(里仁篇)
4
もう死にそうだ。どうだ諸君、手足を開いても私の体には、傷一つ無いだろ? 親孝行者とはこういうものであるぞ、諸君!(泰伯篇)
5
もう死にそうだが、うすのろにも言い残しておくことがある。うわべをもっともらしく繕っておけば、世間で君子として通る。細かな知識は、頭のいい奴が覚えていればいい。(泰伯篇)
6
賢いのにバカの振りをし、バカにもものを聞いてやり、知っていても知らぬ振りをする。手出しされても受け流す。こういう友人*が昔いた。
*古来顔回のこととされるが、16の年齢差も大きく、曽子がとてものこと友達呼ばわりできる人物ではないし、こんな人の悪い人物でもない。
7
孤児となった幼い主君を守り、小さいながら国を切り盛りし、時代の転換期にも地位を奪えない人は君子か。君子である。(泰伯篇)
8
士族は心広々と、また意志が強くなくてはならぬ。その務めは重く、行くべき道は遠い。仁の実践を自分の務めと心得る、たいそう重い務めだ。死ぬまでそれをやり続ける、本当に遠いことだ。(泰伯篇)
9
堂々としているなあ、子張は。こういう人物と一緒に人の情けは実践しがたい。(子張篇)
10
陽膚(曽子の弟子)よ、お歴々が無茶な政治をし、民が逃げ散るようになって長い。お前は司法官に仕官して、犯罪の情報を掴んでも、犯人を哀れんで、喜ぶような真似をせぬように。(子張篇)
*つまり好き勝手に犯罪者を見逃し、治安が悪くなっても私は善人、を決め込めと言う。法家が聞いたら真っ赤になって怒りそうだ。なお孔子は厳罰主義者である。
論語での記述
- 曾子曰、「吾日三省吾身。爲人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎。」(学而篇)
- 曾子曰、「愼終追遠、民德歸厚矣。」(学而篇)
- 子曰、「參乎。吾道一以貫之。」曾子曰、「唯。」子出、門人問曰、「何謂也。」曾子曰、「夫子之道、忠恕而已矣。」(里仁篇)
- 曾子有疾、召門弟子曰、「啟予足。啟予手。詩云、『戰戰兢兢、如臨深淵、如履薄冰。』而今而後、吾知免夫。小子。」(泰伯篇)
- 曾子有疾、孟敬子問之。曾子言曰、「鳥之將死、其鳴也哀、人之將死、其言也善。君子所貴乎道者三、動容貌、斯遠暴慢矣。正顏色、斯近信矣。出辭氣、斯遠鄙倍矣。籩豆之事、則有司存。」(泰伯篇)
- 曾子曰、「以能問於不能、以多問於寡、有若無、實若虛、犯而不校。昔者吾友、嘗從事於斯矣。」(泰伯篇)
- 曾子曰、「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也。君子人與。君子人也。」(泰伯篇)
- 曾子曰、「士不可以不弘毅、任重而道遠。仁以爲己任、不亦重乎。死而後已、不亦遠乎。」(泰伯篇)
- 柴也愚、參也魯、師也辟、由也喭。(先進篇)
- 曾子曰、「君子以文會友、以友輔仁。」(顔淵篇)
- 曾子曰、「君子思不出其位。」(憲問篇)
- 曾子曰、「堂堂乎張也、難與並爲仁矣。」(子張篇)
- 曾子曰、「吾聞諸夫子、『人未有自致者也、必也親喪乎。』」(子張篇)
- 曾子曰、「吾聞諸夫子、『孟莊子之孝也、其他可能也、其不改父之臣、與父之政、是難能也。』」(子張篇)
- 孟氏使陽膚爲士師、問於曾子。曾子曰、「上失其道、民散久矣。如得其情、則哀矜而勿喜。」(子張篇)
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