論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
季氏富於周公而求也爲之聚斂而附益之子曰非吾徒也小子鳴鼓而攻之可也
校訂
東洋文庫蔵清家本
季氏冨扵周公/而求也爲之聚斂而附益之/子曰非吾徒也小子鳴鼓而攻之可也
後漢熹平石経
…而求…
定州竹簡論語
季氏富於周公,而求也為[之聚斂而付a益之b。子曰:「非吾]280徒也。小子鳴鼓而c攻之,可也。」281
-
- 付、今本作”附”。
- 皇本”之”作”也”。
- 而、皇本無。
標点文
季氏富於周公、而求也爲之聚斂、而付益之。子曰、「非吾徒也。小子鳴鼓、而攻之可也。」
復元白文(論語時代での表記)
聚斂
※論語の本章は、「聚」「斂」の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
季氏周公於り富めり、し而求也之が爲に聚め斂め、し而之を付け益す。子曰く、吾が徒に非ざる也。小子鼓を鳴し、し而之を攻めて可き也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
季氏は周公より富んでいた。それなのに冉求は季氏のために税を集めて季氏の利益を増した。先生が言った。「私の弟子ではないのである。お前達、太鼓を鳴らして冉求を攻めてよいのである。」
意訳
魯国門閥家老筆頭の季氏は、周王の直臣である周公より富んでいた。ところが季氏の執事・冉求は、せっせと税を取り立てて、益々季氏を太らせた。
孔子「あんなのもう弟子じゃない! …コリャお前達、太鼓をドンドン叩いて、冉求をこらしめてやりなさい!」
従来訳
先師はいわれた。――
「季氏は周公以上に富んでいる。然るに、季氏の執事となった求は、主人の意を迎え、租税を苛酷に取り立てて、その富をふやしてやっている。彼はわれわれの仲間ではない。諸君は鼓を鳴らして彼を責めてもいいのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
季氏比周公還富,然而冉求還在幫他搜括錢財。孔子說:「他不是我的學生,同學們可以敲鑼打鼓地聲討他。」
季氏は周公より富んでいた。それなのに冉有は、季氏が根こそぎ徴税するのを手助けしていた。孔子が言った。「彼は私の弟子ではない。弟子の諸君、ドラや太鼓を叩いて、彼の罪を責め立ててよい。」
論語:語釈
季氏(キシ)
魯国門閥家老筆頭の季孫氏の意。孔子が生まれる半世紀ほど前の第5代国公・桓公から分家した門閥三家老家を三桓と言い、季孫家が司徒(宰相)を、叔孫家が司馬(陸相)を、孟孫家が司空(法相兼建設相)を担った。孔子と季孫家・孟孫家の関係は良好で、『史記』孔子世家によると、若年時には季孫家の家臣だったこともある(「季子の史と為り、料量平らかなり」)。
中国人の子の名乗りには、長子から順に伯・仲・叔・季との呼び方がある。三人の場合は孟・仲・季または孟・叔・季と呼ぶ場合もあり、後者が三桓の場合に当たる。
孔子が魯から亡命したときの季孫家当主は季桓子(季孫斯)で、孔子亡命直前に斉国から来た女楽団を見物したと『史記』には書いてあるが、なにか具体的に孔子を追い出すようなことをしたとは書いていない。次代季康子(季孫肥)の代になって孔子は帰国するのだが、これといって孔子と関係が悪かったという記録は無い。
三桓が国政を壟断する悪党で、孔子はそれに対抗した正義の味方という、子供だましのヒーローもののような構図は全て、後世の儒者のでっち上げで、信用するに足りない。
論語の本章について言えば、弟子の冉求子有が仕えていること、季孫氏が「聚斂」”徴税”して「富」んだとあることから、孔子帰国ごろに行われた税制改革についての記事と判断すべく、季孫家の当主は季康子と解するのが妥当。この税制改革については、論語先進篇13「魯人長府を」を参照。
(甲骨文)
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。同音は存在しない。甲骨文の用例は、地名なのか、人名なのか、末子を意味するのか分からない。金文も同様。詳細は論語語釈「季」を参照。
(甲骨文)
「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「以」と同じで、人が手にものを提げた姿。原義は”提げる”。「提」は「氏」と同音。甲骨文の用例は、欠字が多くて判読できない。金文では「眂」と記し「視」と釈文される例がある。西周末期の金文では、”氏族”の意と解せる例がある。金文では官職の接尾辞、夫人の呼称、”氏族”の意に用い、戦国時代では”だから”、”これ”の意に用いた。詳細は論語語釈「氏」を参照。
富(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”財産”。「フ」は呉音。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…において”→”…より”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
周公(シュウコウ)
論語の本章では”魯の国公”。本章の時間軸では具体的には第27代哀公を指す。本来「周公」は周の王族で重臣を兼ねる地位を指し、具体的には武王の弟周公旦を指すことが多い。周公旦の後も地位として周王の近臣として存在した。その最後の記述が魯僖公二十四年(BC636)で絶えてはいるが、だからといって周公位が廃絶したとも言えない。
それでも魯の国公だった哀公が、すなわち周公ではなく、周公に任じられた記録も無い。『春秋左氏伝』哀公年間に見られる「周公」は以下の通り。
- 哀公十五年…冬,及齊平,子服景伯如齊,子贛為介,見公孫成,曰…子,周公之孫也。
哀公十五年(bC480)、斉と和平したので、子服景伯が正使として斉に出向き、副使に子贛(子貢)が付き添った。公孫成と会見して、子服景伯は言った。「あなたは周公の末裔です。」
- 二十四年,夏,四月,晉侯將伐齊,使來乞師,曰…寡君欲徼福於周公。
哀公二十四年(BC471)夏四月、晋侯が斉を攻めようとして、魯国に援軍を求めに来た。使者が言った。「…我が君は周公のために幸福を招こうとしている。」
- 宗人釁夏…對曰,周公及武公娶於薛。
典礼係の釁夏が…(哀公に)答えて言った。「我が魯の初代周公と9代武公は薛国から嫁取りしました。」
2.の例を見ると、魯の国君が周公に任じられたか否かにかかわらず、魯国公の美称として「周公」が用いられた形跡はあるのだが、どこまで信用していいか分からない。孔子生前、周公は忘れられた存在で、うるさく言い回ったのは孔子没後一世紀に現れた孟子だからだ。詳細は論語泰伯篇11余話「シューコーシューコー」を参照。
ともあれ「周公」の解釈は、周公旦個人と、当時の魯国公の二通りあり、中国の儒者も、両論併記で揺れている。すなわち”季氏は全中国の摂政だった周公旦より豊かだった”という解釈と、”季氏は魯国公より豊かだった”という解釈の二通り。だが話の背景が季康子による新税法施行にあるから、周公旦の話ではあり得ず、”魯国公”と解するのが妥当。
古注『論語集解義疏』
季氏魯臣也周公天子臣食采於周爵為公故謂為周公也蓋周公旦之後也天子之臣地廣祿大故周公宜富諸侯之臣地狹祿小季氏宜貧而今僭濫遂勝天子臣故云季氏富於周公也
季氏は魯の家臣である。周公は天子の家臣であり、周から領地を貰って生活していた。そして爵位は最高の公爵だった。だから周公と言った。おそらくここで言う周公とは、その末裔である魯公のことかも知れない。天子の直臣は領地は広大で俸禄も多い。だから周公が富んでいたのは当然だ。しかし諸侯の家臣は領地は狭く俸禄は少ない。だから季氏は貧乏していてもおかしくない。ところがおごり高ぶって、好き放題をして、とうとう天子の直臣にまさる収入を得た。だから季氏は周公より富んでいる、と書いてあるのだ。
新注『論語集注』
周公以王室至親、有大功、位冢宰、其富宜矣。季氏以諸侯之卿、而富過之、非攘奪其君、刻剝其民、何以得此。冉有為季氏宰、又為之急賦稅以益其富。
周公は王室の一族で、大きな功績があり、宰相の地位にあったから、富んでいたのももっともだ。季氏は諸侯の家老に過ぎないのに、その財産が周公より富んでいたのは、主君をないがしろにしたのでなければ、民からむごく取り立てたからだが、どうやってそれを実現したか。冉有が季氏の執事となって、季氏のために取り立てを厳しくしたからで、その結果季氏の財産は増えたわけだ。
(甲骨文)
「周」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は彫刻のさま。原義は”彫刻”。金文の字形には下に「𠙵」”くち”があるものと、ないものが西周早期から混在している。甲骨文では諸侯としての”周”に用い、金文では「周」と「君」が相互に通用した可能性がある。春秋末期までに、人名・青銅器名に、また”たまをみがく”の意に用いた。ただし同音から、”おわる”、”掃く・ほうき”、”奴隷・人々”、”祈る(人)”、”捕らえる”の語義はありうる。詳細は論語語釈「周」を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”それなのに”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
求(キュウ)
孔子の弟子、冉求子有のこと。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく孟子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
論語の本章ではいみ名の「求」と呼んでおり、いみ名で呼ぶのは見下げた言い方。論語では通常地の文で孔子の弟子を呼ぶときは、あざ名、つまり敬称を用いるのと比べて本章の記述は異常。冉有は例えば論語雍也篇4では「冉子」と記され、孔子と同格に扱われている事とは大きな落差がある。
「求」(甲骨文)
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「求也」では主格の強調、”…はまさに”。それ以外は「かな」と読んで詠嘆”…だぞよ”の意か、「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のために”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。「爲之」「益之」では季孫氏を指す。「攻之」では冉有を指す。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
聚*(シュ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”集める”。論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「耳」+「又」”手”+「人」3つ。戦功の証しとして人の耳を切り取って集めるさま。同音は存在しない。「シュウ・ジュ」は慣用音。呉音は「ズ」。詳細は論語語釈「聚」を参照。
斂*(レン)
(戦国金文)
論語では本章のみに登場。初出は戦国末期の金文。金文の字形はA字形”屋根”+両手にものを携えた「兄」2つ+「曰」+「攴」”打つ”で、主だった者たちから強制的に徴税し記帳するさま。楚系戦国文字では携えたものを欠き、秦系戦国文字から「曰」が取れる。原義は”徴税する”。同音は「僉」を部品とする漢字群、「蘞」”草の名”、「獫」”口の長い犬”。戦国末期の金文では”徴税する”の意に用いた。詳細は論語語釈「斂」を参照。
武内義雄『論語之研究』によると、「聚斂」は斉の方言だという(p.103)。
附*(フ)→付(フ)
(漢代篆書)
論語の本章では”付け足す”。論語では本章のみに登場。初出は前漢の篆書。字形は「阝」”丘”+音符「付」。土を集めて作った人口の小丘。同音は「付」を部品とする漢字群。漢音「フ」で”付く”を、「ホウ」で”丘”を意味する。戦国の金文や竹簡では、「符」「尃」を「附」と釈文する例がある。文献時代では論語の本章のほか、『墨子』『孟子』『荘子』『韓非子』に見える。特に「付」と区別せず使われる。詳細は論語語釈「附」を参照。
(金文)
定州竹簡論語では「付」と記す。初出は殷代末期の金文。字形は「人」+「又」”手”。人に手を触れる様。春秋末期までに、人名や”あたえる”の意に用いた。詳細は論語語釈「付」を参照。
益(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”つけ加える”。初出は甲骨文。字形は「水」+「皿」で、容器に溢れるほど水を注ぎ入れるさま。原義は”増やす”。甲骨文では”利益”と解せる例がある。春秋時代までの金文では、地名人名、「諡」”おくり名を付ける”の意に用いられ、戦国の金文では「鎰」(上古音不明)”重量の単位”(春成侯壺・戦国)に用いられた。詳細は論語語釈「益」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
徒*(ト)
(甲骨文)
論語の本章では”弟子”。初出は甲骨文。字形は「土」+「水」+「夂」”足”。原義は不明。甲骨文の用例は多くが破損がひどく語義が分からない。春秋末期までに、”家来”・”駆け回る”・”歩兵”・”無駄に”の意に用い、その他西周の金文では、「司土」と記して「司徒」”役人の頭→宰相”と釈文する例が多い。詳細は論語語釈「徒」を参照。
小子(ショウシ)
論語の本章では”お前(ら)”。呼んだ弟子が一人か複数かは分からない。孔子は弟子複数に呼びかけるとき「君子」”諸君”とか「二三子」”きみたち”とか呼んでおり、「小子」という無礼な言葉遣いをおそらくしていない。
- 而後、吾知免夫。小子。(論語泰伯編3。発言者は曽子。偽作)
- 子在陳曰…吾黨之小子𥳑。(論語公冶長篇21。偽作)
- 子曰…小子鳴鼓而攻之可也。(本章論語先進篇16。偽作)
- 子曰、小子、何莫學詩。(論語陽貨篇9。語法に疑問あり)
軍人が上官に「小官は…であります」と言うのは謙遜の辞だが、艦長が操舵手に「小官、面舵一杯」と言えば、キレて取り舵一杯を切りかねない。言葉に敏感な孔子が、「小子」の無礼に気付かぬワケがないだろう。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
鳴(メイ)*
(甲骨文)
論語の本章では”鳴らす”。初出は甲骨文。字形は「𠙵」”くち”+「鳥」で、鳥の声。「嗚」とは別字。甲骨文から”鳥が鳴く”の意に用いた。詳細は論語語釈「鳴」を参照。
鼓(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、鼓や太鼓のような、皮を張った打ち物の楽器。初出は甲骨文。字形は「壴」”日時計に下げられた皮を張った太鼓”+「攴」”ばちを取って打つ”。太鼓を鳴らすさま。甲骨文では”太鼓を打つ”のほか、地名・人名と解せる例がある。syunju末期までに、”鳴らす”・”太鼓”の意に用いた。詳細は論語語釈「鼓」を参照。
攻(コウ)
「攻」(金文)
論語の本章では”攻撃する”。初出は春秋中期の金文。字形は「工」”工具”+「又」”手”で、工具を手に取るさま。原義は”打つ”。金文では”攻撃”(㚄鼎・年代不明)、”軍事”(王孫誥鐘・春秋)、また官職名に用いられた。”作る”の語義が現れるのは戦国時代、”おさめる”の語義が現れるのは文献時代以降。詳細は論語語釈「攻」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のがよい”。勧誘の意を示す。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
鳴鼓而攻之可也
映画「攻殻機動隊・イノセンス」でバトーが、「理非なき時は鼓を鳴らし攻めて可なり」と言ったセリフの出典。ただし「理非なき時は」の出典は訳者には分からない。
論語の本章では、孔子は”攻めてもよい”と煽っているだけで、”攻めねばならない”という命令まではしていない。ただ漢文の語法として留意すべきは、「可」は日本語の「べし」と同じく、可能(~できる)・許容(してもよい)・当然(~すべきだ)・推定(~だろう)の意味も持つこと。ただし日本古語「べし」が持つ、命令(~せよ)の意味は、辞書的には持たない。
論語時代の軍隊は、太鼓を叩いて進軍し、金鼓=青銅製のかねを叩いて退却した。「鳴鼓」とは、言わば突撃ラッパを意味する。孔子のこの発言の雰囲気をよく伝えようとすれば、下の動画になるだろうか。ただし弟子たちが冉求の執務室に、暴れ込んだかどうかは分からない。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語に含まれ、孔子没後一世紀に現れた孟子も同じ話を説いている。
求也為季氏宰,無能改於其德,而賦粟倍他日。孔子曰:求非我徒也,小子鳴鼓而攻之可也。
冉求が季氏の執事になり、季氏の性根を叩き直す能が無いから、それまでより年貢を倍にして取り立てた。孔子が言った。「冉求は私の弟子ではない。お前たち、太鼓をドンドコ鳴らして非難してよろしい。」(『孟子』離婁上)
孟子が世に出たとき、儒家は事実上滅びて、墨家と列子学派とで天下を二分していたと当人が証言しており(「楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊,則歸墨。」『孟子』滕文公下)、孟子は好き勝手に自説を儒教に押し込んだ。すると本章の偽作者は、孟子ということになる、
孟子の言う『列子』に、論語の本章の一部が見える。
季札无爵於吳,田恆專有齊國。夷、齊餓於首陽,季氏富於展禽。
春秋のはじめでは季札のような賢者が爵位も無しに田舎の呉国で一家臣として過ごしたのに、末期には田常のような悪党が斉国を好き勝手にした。西周の時代には伯夷と叔斉のような義士が首陽山で飢え死にしたというのに、春秋の世では悪党の季氏が賢者の柳下恵より富み栄えていた。(『列子』力命)
孟子は世間師としてあまり成功しなかったが、話術の達者ではあり、本章の上掲の面白さから、おそらく孟子の作と考えたい。文字史からは、もちろん春秋時代の漢語とは言えない。また孔子存命中、周公は忘れられた存在で、シューコーシューコーと再びうるさく言い回ったのは孟子でもある。詳細は論語泰伯編11余話「シューコーシューコー」を参照。
解説
ただし論語の本章の前半は、同時代の史料的裏付けがある。
季孫欲以田賦,使冉有訪諸仲尼,仲尼曰,丘,不識也,三發,卒曰,子為國老,待子而行,若之何子之不言也。仲尼不對,而私於冉有曰,君子之行也。度於禮,施取其厚,事舉其中,斂從其薄,如是則以丘亦足矣,若不度於禮,而貪冒無厭,則雖以田賦,將又不足,且子季孫若欲行而法,則周公之典在,若欲苟而行,又何訪焉,弗聽。
季孫家が耕地の面積で徴税しようとした。冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。
孔子「知らん。」
三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。
「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。
御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)
同じ年(BC484)の春、斉に攻められた魯は冉有を総大将にして撃退しており、その戦勝の功績を背景に、冉有は孔子の帰国を季孫家の当主・季康子に要請、孔子の帰国が実現した。冉有が税制について孔子に相談したのは、帰国直後のことと思われる。
この年の魯は戦続きで、斉を撃退した後は呉と連合して斉を攻め、勝利した。だが勝利とは言え軍費はかかるので、増税の必要が出たのだろう。それゆえ孔子は「丘甲制で足りる」と言った。丘甲制とは魯の成公元年(BC590)に定められた法で、人口毎に戦車と兵と馬を出す制度。
すると孔子は間接的に、「戦をやり過ぎている」と言ったのだろうか。訳者は孔子一門と呉国はつるんでいたと睨んでいるから、呉国の中原進出に孔子が反対したとは考えにくい。それとも魯国は平和ボケを決め込んで、呉が進軍するのをただボケーッと見ていろと言ったのか。
そんなことを呉が許すはずはない。この年の斉国侵攻も、どちらかと言えば呉に付き合わされたのだ。言語習慣が違う呉との間に行き違いもあり、その間を子貢が取り持ったりもしている。
將戰,吳子呼叔孫曰,而事何也,對曰,從司馬王賜之甲劍鈹,曰,奉爾君事,敬無廢命,叔孫未能對,衛賜進曰,州仇奉甲從君而拜。
いざ開戦の間際になって、呉王夫差は魯の門閥家老・叔孫州仇を呼びつけて言った。
「お前は何の仕事をしている。」「司馬(陸軍大臣)を務めております。」
そこで呉王は、叔孫に鎧と両刃の剣を与えて言った。「そなたの主君に忠義を尽くせよ。精一杯戦い、期待を裏切ることがないように。」
叔孫は口をもぐもぐさせて何も言えない(剣を賜るとは、「自殺せよ」の意味だったからだ)。そこへ子貢が進み出て、「州仇どのは鎧だけ頂いて、王殿下に従います。」と返答した。(『春秋左氏伝』同上)
ともあれ新税法は『左伝』によると、翌年実施された。孔子の真意は分からない。あるいは左伝をも含めて、新税制に反対したというのが偽作かも知れない。「配給は厚く徴税は薄く」とは、いかにも漢代以降の偽善儒者が言いそうなことだからだ。
もう一点左伝について言えば、孔子が冉有に対して「且子季孫若欲行而法」=子と季孫がもし法を実行したいなら、と言っている点で、弟子の冉有を「子」と敬称で呼んでいる。論語には冉有を冉子と、孔子と同格の敬称で呼んでいる章がある(論語雍也篇4など)が、それはおそらく、孔子と冉有が同じ大夫格の貴族であったという史実の反映なのだろう。つまり帰国後の孔子と冉有との関係は、複雑で微妙になっていたのだ。
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
季氏富於周公註孔安國曰周公天子之宰卿士也而求也為之聚斂而附益也註孔安國曰冉求為季氏宰為之急賦税也子曰非吾徒也小子鳴鼓攻之可也註鄭𤣥曰小子門人也鳴鼓聲其罪以責也
本文「季氏富於周公」。
注釈。孔安国「周公とは天子の宰相を務める上級貴族である。」
本文「而求也為之聚斂而附益也」。
注釈。孔安国「冉求は季氏の執事になり、主家のために徴税を厳しくしていた。」
本文「子曰非吾徒也小子鳴鼓攻之可也」。
注釈。鄭玄「小子とは門人である。鳴鼓とはその罪を声に出して責めることである。」
新注『論語集注』
季氏富於周公,而求也為之聚斂而附益之。為,去聲。周公以王室至親,有大功,位冢宰,其富宜矣。季氏以諸侯之卿,而富過之,非攘奪其君、刻剝其民,何以得此?冉有為季氏宰,又為之急賦稅以益其富。子曰:「非吾徒也。小子鳴鼓而攻之,可也。」非吾徒,絕之也。小子鳴鼓而攻之,使門人聲其罪以責之也。聖人之惡黨惡而害民也如此。然師嚴而友親,故己絕之,而猶使門人正之,又見其愛人之無已也。范氏曰:「冉有以政事之才,施於季氏,故為不善至於如此。由其心術不明,不能反求諸身,而以仕為急故也。」
本文「季氏富於周公,而求也為之聚斂而附益之。」
為は尻下がりに読む。周公は周王室から見て近い親戚で、大きな功績があり、身分は宰相だから、富んでいても当然だ。季氏は諸侯の家老に過ぎず、富んでいるのは間違いだ。思い上がって主君の権力を奪い、領民から厳しく税を取り立てた。どうしたこんな(ひどい)ことができたのだろう。冉有は季氏の執事で、主家のために税を厳しく取り立て、主家の財産を殖やした。
本文「子曰:非吾徒也。小子鳴鼓而攻之,可也。」
非吾徒とは、師弟の縁を切るという事である。小子鳴鼓而攻之とは、門人に冉有の罪を声に出させ、責めさせたのである。聖人が悪党や庶民いじめを憎むのはこの通りである。だから師匠にふさわしい厳しさ、同格貴族としての親しみの釣り合いを考えた上で、だからこそ自分から師弟の縁を切った。そして門人を遣わして冉有の間違いを改めさせたのだから、自分の感情を抜きにして人を愛する心が見て取れる。
范祖禹「冉有は政治の才があった。その才能を季氏のために使い、その結果こんなひどいことをした。その性根は明るくなく、自分で行動を律することもできなかったので、こんな非道な仕え方をした。」
余話
偉大な出任せ
論語の本章、前半と後半は、まるで違う文体になっている。
- 季氏富於周公、而求也爲之聚斂、而付益之。
季氏は周公より財産が多い。かつ、冉求はそのために働いて徴税した。かつ、さらに財産額が増えた。 - 子曰、「非吾徒也。小子鳴鼓、而攻之可也。」
先生が言った。「むぐぐぐ、あやつめ、もうワシの弟子ではないわ! こりゃお前たち、ドンドコ太鼓を鳴らして、そんでな、やつをこらしめてやれい!」
地の文と台詞部分が違うのは当然だが、前半がまるで法律条文のような、学術論文の注記(同業者にケチを付けられないように、”先行研究は読みました”という言い訳というより、文句を言われないためのオマジナイ)のような冷たさに対して、後半は高らかに「也」”ヤッ!”と言う。
2,500年も昔の古文書である論語を解読するには、少々の想像力が要る。ここは「余話」ゆえ勝手なことを書かせて頂くが、後半は文字史的に孔子の生の声であるのを疑う必要がないが、前半の冷たい文章は戦国時代の漢語でしかあり得ない。成立時代はおそらく違う。
孔子帰国前後に魯国で税制改革があったこと、弟子の冉有が宰相家の執事として改革の実務に当たったこと、冉有が孔子に同意を求めて断られたことは、『春秋左氏伝』の裏付けがある。だが中華の覇権を斉と晋と呉が争う中で、孔子が改革に同意しなかったのは腑に落ちない。
孔子は道徳を説いていれば食える世間師でも、庶民の人気取りをしていれば済む扇動家でもなかった。国公や貴族が家職に精を出しても回らなくなった春秋後半の世で、庶民の出だろうと回す技術を身につけた者が政治を扱うべき、官僚制をひっさげて世に出た革命家だった。
明治以降の日本で革命を唱えた者が、なべて庶民の味方の振りをした世間師や扇動家だったので誤解されているが、革命家は自分の信じる正義が通じるなら、庶民などどうでもいいのである。庶民を扇動しないと革命が出来なくなった近代以降ゆえで、古代中国では事情が違う。
春秋の世はまず周王が権力を取り落とすことから始まった。だが権力は誰かが掲げ続けないと、殺し合い食い合いの無秩序がまかり通る地獄が出来る。我に従え、野蛮をやめよと言う者がいて、大勢が従わなければそうなる。兵隊アリのやっていることがまさにそれだ。
地に落ちた権力をまず拾って掲げたのが斉の桓公と宰相の管仲だった。だが二人が世を去ると元の木阿弥になった。しばらく間を置いて晋の文公が覇者となった。だがやはり世を去ると、晋そのものが大貴族に分割され、互いに勝ち残るために覇権はどうでもよくなった。
孔子が世に出たのはそんな時代だった。生国の魯は決して弱小国ではなかったが、昨日は斉、今日は晋、明日は新興の呉の言うがままにならないと国が保てなかった。出兵もさせられた。そんな中で独立を維持するために、旧い法や税制ではやっていけないのは明らかだった。
同時代人の誰よりも明敏だった孔子に、それが分からないはずはない。当時の中華世界の国際的暴風を、我関せずと知らんふりも出来ただろうが、だったら孔子は亡命や放浪などせずに済んだ。魯国を去ったとき、自分一人のことなら隠居すればそれで済んだのである。
論語の本章の前半と、『春秋左氏伝』の不同意ばなしは、たぶん孟子の創作だ。
そう考えれば論語の本章は理が通る。三千人と言われる孔子塾生の中には、けしからん弟子もいて当然で、本章後半のような怒りを孔子が言って不思議は無い。だがそれが冉有に向けた怒りだと注記を付け、孔子を庶民のヒーローに仕立てたのは孟子に他ならない。
なぜか? 孟子は中華世界で初めて、庶民の立場に立つことでメシを食った世間師だったからだ。現伝『孟子』の冒頭は、庶民の苦労をよそに勝手なことを言う梁の殿様に、孟子が説教する話から始まる。そして孟子が証言したように、当時儒家は事実上滅んでいた。
だが孔子の名だけは伝わっていた。孟子は儒家を自分の商材として仕立てるに当たり、売り先はもちろん殿様だが、売り込むための威嚇の基盤を庶民に置いた。既に戦国の世で、軍隊は徴兵された庶民の歩兵が主力だった。庶民をいかに従えるか、それが殿様の生命を握った。
春秋の世とは違い、戦に負ければ容赦なく併合され、殿様は一族丸ごと殺される。孟子の脅しには確かな事実があった。だがだからといって、孟子が庶民のために生きたわけではない。生きるために庶民の支持が必要だっただけで、実は死のうが生きようがどうでもよかった。
だが、庶民をないがしろにしてはいけないという教えだけは残った。人は生きながらに個人として尊重される権利がある。その人権という概念は勝手に生えてきたわけではない。中国史での人権は世間師の口先で始まった。だが当人の思惑を超えて人権思想に正当性を与えた。
孟子は口車を回して世を去った。言葉だけが残った。残った言葉はその時代ごとの儒者が勝手に解釈した。しかし人は人として尊いという言葉を否定することは誰にも出来なかった。江戸の儒教は遠く孟子に発祥している。だからひどいことをするなと江戸人は知っていた。
もし現代日本人が、同様にひどいことをしてはいけないと知っているなら、その発祥は孟子の出任せにあるかもしれない。偉大な出任せだった。孟子が現伝論語にいくつものでっち上げをねじ込んだと知っても、訳者が孟子をどうしても憎めないのはそのためかもしれない。
コメント
イノセンスの引用を調べていました。
勉強になります。
あと、進軍ラッパの動画、笑いました。
先進篇第十一(16)、とのことですが、手元の『完訳論語』では(17)でした。
論語に限らず漢文の古典にはもともと句読点がありませんから、どこで切り分けるかは読み手次第です。私は基本的には朱子による切り分けに従っていますが、一部違う箇所もあります。井波先生も同じで、訳者によって違いがあり得るのです。