論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子路使子羔爲費宰子曰賊夫人之子子路曰有民人焉有社稷焉何必讀書然後爲學子曰是故惡夫佞者
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子路使子羔爲費宰子曰賊夫人之子/子路曰有民人焉有社稷焉何必讀書然後爲學/子曰是故惡夫佞者
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[子路使子羔]……子路曰:「有295……[人焉,有社稷焉,何必讀書,然后a為]學?」子曰:「是故[惡]296……
- 后、今本作”後”。
標点文
子路使子羔爲費宰。子曰、「賊夫人之子。」子路曰、「有民人焉、有社稷焉、何必讀書、然后爲學。」子曰、「是故惡夫佞者。」
復元白文(論語時代での表記)
焉 稷焉 讀 佞
※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「夫」「何」「必」「然」「后」の用法に疑問がある。本章は前漢以降の儒者による創作である。
書き下し
子路、子羔を使て費の宰爲らしむ。子曰く、夫の人之子を賊はむ。子路曰く、民人あり焉、社稷あり焉、何ぞ必ずしも、書を讀みて然る后に、學べりと爲らむか。子曰く、是の故に夫の佞き者を惡むと。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子路が弟弟子の子羔を季氏の根城、費邑*の代官に推薦した。先生が言った。「あの人を悪くするだろう。」子路が言った。「領民がいます。土地神や穀物神殿もあります。どうして必ず、本を読んだあとだけが学んだ者へと変化するでしょうか。」先生が言った。「これが理由で、あの口のうまい者を憎むのだ。」
*邑はまちをぐるりと城壁で囲んだ城郭都市。論語時代の諸侯国は、こうした邑の連合体で、はっきりとした国境を引けない。
意訳
子路が弟弟子の高柴子羔を、季孫家の根城である費邑の代官に据えようとした。
子路「拝啓。先生ますますご清祥の事とお喜び申し上げ候。さてこたび高柴を費邑の代官となすべく、主家に推薦し候。敬具。」
孔子「前略。そなた弟弟子を思いやり誠に結構に候。しかどもかの高柴いまなお若く、代官勤めは無理にて、再考を勧め候。草々。」
子路「拝啓…。費邑に治むべき民これあり、祭るべき神々あり。本を読むばかりが学問にあらずと存じおり候。敬具。」
孔子「子路の奴め。こういう口車だけは立派じゃわい。」
従来訳
子路が子羔を費の代官に推挙した。先師は、そのことをきいて子路にいわれた。――
「そんなことをしたら、却ってあの青年を毒することになりはしないかね。実務につくには、まだ少し早や過ぎるように思うが。」
子路がいった。――
「費には治むべき人民がありますし、祭るべき神々の社があります。子羔はそれで実地の生きた学問が出来ると存じます。何も机の上で本を読むだけが学問ではありますまい。」
すると、先師はいわれた。――
「そういうことをいうから、私は、口達者な人間をにくむのだ!」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子路派子羔當費市市長。孔子說:「這是誤人子弟。」子路說:「有人民,有土地,何必讀書,才算學習?」孔子說:「這真是強詞奪理。」
子路が子羔を遣わして費市の市長にしようとした。孔子が言った。「これは人の子弟を勘違いさせる。」子路が言った。「人民がいて、土地があります。どうして本を読むだけが、学問をすることになるでしょう。」孔子が言った。「それはまったくの、言い逃れというものだ。」
論語:語釈
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
(甲骨文)
「子」は論語の本章、「子路」「子羔」「子曰」では敬称、「人之子」では”子供”。
初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
子羔(シコウ)
論語の本章では、孔子の弟子の一人。論語先進篇17で「柴や愚(情緒不安定)」と酷評された人物。だが人柄が善く、子路づきの弟子だったらしく、『史記』の記述によると、子路が衛国に仕えた際も同行し、子路が内乱で命を落とす直前に、逃亡を勧めた。
子路が公宮に入ろうとすると、弟弟子の子羔(シコウ)が門から出てきたのに出会った。子羔は「門はすでに閉じています」と言ったが、子路は「まあとにかく行ってみよう」と言った。子羔は「無理です。わざわざ危ない目に遭うことはありません」と言ったが、子羔は引き止められずに公宮から出て、子路は入って門前に立った。
公孫敢が門を閉ざして「入るな」と言うと、子路は「公孫どの、貴殿は利益に目が眩んで逃げたな。拙者はそうではない、俸禄分は主君の危険を救うつもりでござる」と言った。たまたま外に出る使者があったので、入れ替わりに子路は門を入った。そこで大声で叫んだ。
「太子どの、孔悝(コウカイ)どのは役立たずですぞ。殺しても代わりはいくらでもござる。それにしても太子どのは昔から臆病でござった。孔悝どのを放しなされ。さもないと下からこの見晴らし台に火を付けますぞ。」
太子は震え上がって、石乞・孟黶(ウエン)を台から降りさせて子路と戦わせた。戈で子路を撃ったところ、子路の冠の紐が切れた。子路は「君子は死んでも冠を脱がないものでござる」と言って、紐を結び直している内に殺された。(『史記』衛世家)
『孔子家語』では姓は高、いみ名は柴とされる。
高柴、斉の出身である。斉で勢力のあった高氏の別族で、あざ名は子羔。孔子より四十歲年少で、身長は六尺(120cm?)足らず、顔の造作が極めて悪かったが、人柄はまじめで孝行者であり、掟通りに従った。若いうちから魯に移住し、孔子の弟子として世間に知られた。仕官して武城の代官になった。(『孔子家語』七十二弟子解)
『史記』弟子伝では次の通り。
(金文)
「羔」の初出は西周早期の金文。訓は「こひつじ」。初出に比定されている漢字の字形は「羊」+まさかりの刃先。西周中期より「羊」+「火」。羊の焼肉の意。西周早期の用例は3件あるが、解読不能字が多く語義不明。”こひつじ”の語義は後漢の『説文解字』から。前漢で「羊」と区別がつかなくなり、前漢末期の劉向が『説苑』で「羔者,羊也」と説教しなくてはならなくなったが、どのような羊なのかは書いていない。詳細は論語語釈「羔」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章、「爲費宰」では”作る”→”就任する”。「爲學」では”…へと変化する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
費(ヒ)
論語では魯国の都市。季氏の根拠地。子路が代官を務めたことがある。論語雍也篇9では閔子騫が代官に、と領主の季孫家から望まれた。
(金文)
文字は春秋時代には「弗」と書き分けられず、初出は春秋早期の金文。同音に「朏」(上)”薄暗い月”、「昲」(去)”さらす”・”かがやく”。字形は「弗」”…でない”+「貝」”財貨”で、財貨を費やすこと。戦国時代の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「費」を参照。
宰(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”代官”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される”言う”を意味することば。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
賊*(ソク)
(金文)
論語の本章では”ダメにする”。初出は西周末期の金文。字形は音符「則」”食器とカトラリー”+「戈」”カマ状のほこ”。傷付けること。「ゾク」は呉音。西周の金文から、”害を与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「賊」を参照。
夫(フ)
(甲骨文)
論語の本章では「かの」と読んで”あの”という指示詞。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
論語の本章、子路を「夫佞者」と孔子が呼んでいるのは、その場に子路がいないことを示しており、両者の往復は口頭ではなく手紙であったことになる。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
夫人(かのひと)
論語の本章では”あの者”。本来は”あのお人”という敬称であり、孔子が弟子を敬称で呼んでいることになっておかしい。あるいは、子羔の実家がよほど身分の高い家であることを示すかも知れない。ただし春秋時代の漢語では、”父の如き人”の意で、同じく敬意は込められるが”あの人”の意ではない。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「ぬ」と読んで、”…てしまう”を意味する。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
社(シャ)
「社」(金文)/「主」(甲骨文)
論語の本章では”鎮守の森”。その土地の守護神の神域とやしろ。新字体は「社」。台湾・香港ではこちらが正字体とされる。現行字体の初出は戦国末期の金文。部品の「土」にも”大地神”の意があり、初出は甲骨文。字形は「示」”祭壇”もしくは”位牌”+「土」で、大地神を祭るさま。原義は”大地神”。「土」は甲骨文では”大地神”のほか”領土”、金文では加えて”つち”を意味し、「𤔲土」はいわゆる「司徒」を意味した。「社」は戦国の金文では「社稷」で”国家を意味した。詳細は論語語釈「社」を参照。
周が殷を滅ぼして国盗りをすると、後ろめたさから「申」”天神”の字を複雑化させて「神」(神)の字を作り、もったいをつけて”自分は天命を受けて乱暴な殷を滅ぼしたのだ”と宣伝した。そのため「土」も複雑化させて出来たのが現行の「社」。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
稷*(ショク)
(戦国金文)
論語の本章では”穀物神”。初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「禾」”イネ科の植物”+「鬼」”頭部が大きい”+「女」”中身が詰まった”。穂の大きな穀物のさま。同音に「即」、「蝍」”飛ぶ虫の総称”、「畟」”田畑をすく”(初出説文解字)。戦国の金文では”穀物の実る”の意に、戦国の竹簡では穀物神の固有名に用いた。詳細は論語語釈「稷」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
必(ヒツ)
(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
讀*(トク)
(前漢隷書)
論語の本章では”読む”。論語では本章のみに登場。初出は戦国最末期の秦系戦国文字。ただし字形が未公開。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「言」”ことば”+音符「賣」。新字体は「読」。同音は「賣」・「蜀」とそれらを部品とする漢字群多数。「ドク」は呉音。戦国最末期の竹簡で”読む”の意に用いた。詳細は論語語釈「読」を参照。
書(ショ)
(甲骨文)
論語の本章では”本”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は”ふでを取る手”+「𠙵」”くち”で、言葉を書き記すさま。原義は”記す”。金文では文書を意味し、また人名に用いた。甲骨文を筆記するには筆刀という小刀を使うが、木札や布に記す場合は筆を用いた。今日春秋時代以前の木札や竹札、字を記した布が残っていないのは、全て腐り果てたため。紙は漢代にならないと発明されない。詳細は論語語釈「書」を参照。
然(ゼン)
(金文)
論語の本章では”そうである”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。
後(コウ)→后(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では時間的な”そのあとで”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語は「后」と記す。初出は甲骨文。字形は軍事権と祭祀権を持った女性のさまで、后妃のこと。春秋時代では男女を問わず”君主”を意味した。詳細は論語語釈「后」を参照。
學(カク)
(甲骨文)
論語の本章では”学び”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「爻」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
故(コ)
(金文)
論語の本章では、”だから…”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。初出は西周早期の金文。ただし字形が僅かに違い、「古」+「攴」”手に道具を持つさま”。「古」は「𠙵」”くち”+「中」”盾”で、”口約束を守る事”。それに「攴」を加えて、”守るべき口約束を記録する”。従って”理由”・”それゆえ”が原義で、”ふるい”の語義は戦国時代まで時代が下る。西周の金文では、「古」を「故」と釈文するものがある。詳細は論語語釈「故」を参照。
惡(アク)
(金文)
論語の本章では”にくむ”。現行字体は「悪」。初出は西周中期の金文。ただし字形は「䛩」。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「アク」で”わるい”を、「オ」で”にくむ”を意味する。初出の字形は「言」+「亞」”落窪”で、”非難する”こと。現行の字形は「亞」+「心」で、落ち込んで気分が悪いさま。原義は”嫌う”。詳細は論語語釈「悪」を参照。
佞(ネイ)
(篆書)
論語の本章では”口上手”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「亻」+「二」+「交」の略体で、ころころと言うことを変える、二言ある者の意。詳細は論語語釈「佞」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に載る。ただし子羔が代官に就任したまちの名が欠けている。それよりやや先行する『史記』弟子伝では、現伝論語が季孫家の根城である費邑であるとするのに対し、「費郈宰」と記し、叔孫家の根城だった郈邑でもあるとする。
後漢の王充『論衡』は、一世紀以上に滅んだと自分で言い出した「斉論語」「魯論語」「古論語」について、見てきたようにペラペラかたるうさんくさい本だが、子羔の就任したまちを芸増篇では郈邑と記し、問孔・量知・正説篇では費邑と記す。要するに王充も知らなかったと断じてよい。
また『孔子家語』は論語と並んで、もっとも古い版本が前漢中期の定州漢墓竹簡なのだが、子羔について「孔子塾で学んだ後、仕えて武城の宰(代官)になった」と記している。それが記された七十二弟子解篇が定州漢墓竹簡でどうなっているか訳者は知らないが、仮にその通り記されたとするなら、就任したのは費邑ではなく武城だったとするのが最古の史料になる。だがそれでも、時間軸として論語の本章には無理がある。
孔子が五十前後で魯の宰相代行の任にあった頃、子路は季孫家の執事を務めたが、その時の子羔の年齢は、『孔子家語』によれば十歳前後、『史記』によれば二十歳前後で、そんなはな垂れを門閥が根城とするまちや、南部国境の最前線である武城の代官に任じるわけがない。
孔子が亡命すると子路はその旅に付き従ったが、『史記』を信用して二十歳そこそこの子羔も同行したにせよ、子路は魯国に戻らず衛国で蒲の領主になった。『史記』や『春秋左氏伝』によれば、子羔も衛国に仕えているから、魯に戻らず子路と共に衛国に居たと考える方が話が通る。
つまり子路がその権限で、子羔を魯国の代官にするという話そのものに無理があり、本章は文字史から見ても、漢儒による創作とするのが筋が通る。
解説
子路が弟弟子をどこかの代官に据えたとするなら、衛国の自領である蒲の代官のほかは考えにくい。子路が衛国に仕えた当時は、孔子も衛国滞在中で、論語の本章がもし史実ならその時期は孔子が68歳で帰国する直前、子羔も28または38歳で、代官に据えてもおかしくない年齢になっていた。
ただそうなら、子路は衛の都で孔子と直談判したはずで、本章のように舞台を手紙仕立てにする必要がない。あるいは子路も子羔も蒲邑にいて、「弟弟子を代官に任じました」と子路の方から書き送ったのだとすれば話が噛み合う。かようにいくつかいじくらないと、論語の本章は史実らしくならない。
余話
論語の本章に登場する子路は、衛の荘公が即位する際のクーデターによって命を落としたとされるが、わざわざ死地に赴く子路を、子羔が引き留めたとする記述が『史記』衛世家にある。だがこの下りは、『史記』のタネ本となったと言われる『春秋左氏伝』と微妙に記述の違いがある。
欒甯將飲酒,炙未熟,聞亂,使告仲由。召護駕乘車,行爵食炙,奉出公輒奔魯。仲由將入,遇子羔將出,曰:「門已閉矣。」子路曰:「吾姑至矣。」子羔曰:「不及,莫踐其難。」子路曰:「食焉不辟其難。」子羔遂出。子路入。
衛の家老の一人、欒甯は酒を飲もうとしていたところ、まだ燗がつく前に乱の知らせを聞いて、使いを仲由(=子路)にやって知らせた。護衛付きの馬車を呼んで乗り、車内で爵(三本足の青銅製の杯)で酒を飲みつつ炙ったツマミをつまみ、(反乱されている)出公・いみ名は輒を乗せて魯に逃げた。
仲由が宮殿に入ろうとすると、たまたま子羔が出てくるのに出くわした。
子羔「門はすでに閉じています。」
子路「ワシはとりあえず入ってみることにした。」
子羔「おやめください。こんな騒ぎに足を突っ込む必要は無いでしょう。」
子路「すでに俸禄をもらっているからには、困難から逃げない。」
子羔はそのまま宮殿を出て、子路は入った。(『史記』衛世家)
欒寧將飲酒,炙未熟,聞亂,使告季子,召獲駕乘車,行爵食炙,奉衛侯輒來奔,季子將入,遇子羔將出,曰,門已閉矣,季子曰,吾姑至焉,子羔曰,弗及,不踐其難,季子曰,食焉,不辟其難,子羔遂出,子路入,及門,公孫敢門焉,曰,無入為也,季子曰,是公孫也,求利焉而逃其難,由,不然,利其祿,必救其患,有使者出,乃入
欒寧が酒を飲もうとしていたところ、燗が付く前に乱の知らせを聞いた。季子に使いをやって知らせ、狩り用の快速車を呼んで乗り、爵で酒を飲みつつ炙ったツマミをつまみ、衛侯の輒を警護しつつ我が魯国にやってきた。
季子が宮殿に入ろうとすると、たまたま子羔が出ようとするのに出くわした。
子羔「門はすでに閉まっています。」
季子「ワシはとりあえず入ることにした。」
子羔「おやめください。こんな騒動に足を突っ込む必要は無いでしょう。」
季子「俸禄はもらった。こういう困難から逃げない。」
子羔はそのまま宮殿から出て、子路が入ろうとした。
門番の公孫敢「入って何かするのはやめてください。」
季子「お前も公族の末席だろう。なのに利に目がくらんで難から逃れようとするんだな。この由は違うぞ。俸禄をもらったら、必ず主君の困難を救う。」
そこへ中から使者が出てきたので、そのまま入れ違いに入った。(『春秋左氏伝』哀公十五年)
『史記』が門に入ったのを一貫して「子路」と記しているのに対し、『春秋左氏伝』は「季子」「子路」「由」と不統一に記す。
通説では子路の別名を「季路」とするため、『春秋左氏伝』の「季子」も子路のことだと疑われないが、「季路」とは顔淵の父の名であって子路のことではない(論語先進篇2語釈)。少なくとも、「仲由」”次男の由さん”と「季路」”末っ子の路さん”では、別人と考える方がまともに思う。
また顔淵の父の名は、『史記』弟子伝ではいみ名「無繇」、あざ名「路」とするが、『孔子家語』七十二弟子解では、いみ名「由」、あざ名「季路」とする。春秋時代のいみ名は一字が原則で、あざ名はそれに呼応するのも原則とする。「無繇」と「路」に関連はないが、「由」は”通り道”であり「路」と関連する。
さらに『史記』も『春秋左氏伝』も、現伝の文字列はいつ記されたか分からず、例えば現存最古の『史記』完本は、日本の戦国武将である直江兼続が所持していた南宋本でしかない。『春秋左氏伝』の錯綜は、長い間にわけが分からなくなってそうなったと考えるべきであり、新史料が発掘されない限り、錯綜の真相はもっともらしいことを言うことが出来ない。
だが想像は出来る。「季子」とは孔子と同格の敬称で、「弟子の親御さん」である顔路は、「季子」と呼ばれる資格がある。魯哀公十五年(BC480)、衛の荘公の乱に際して宮殿に突入したのは子路だけでなく、顔淵の父・顔路もそうだった。顔路は前年に息子の顔淵に先立たれており(論語先進篇7に記述あり)、命惜しみする気が無くなっていた。せめて息子と自分の令名を後世に残そうとして、子羔に止められたが突入した。
そう考えると『春秋左氏伝』の錯綜をいくらか説明できるかも。
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