論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、「善爲我辭焉。如有復我者、則吾*必在汶上矣。」
校訂
武内本
釋文、一本吾の字なく、鄭本則吾の二字なし。史記弟子伝引鄭本と同じ(如有復我者,必在汶上矣)。
定州竹簡論語
……[我a必在汶上矣]。117
- 我、今本作「吾」字。『釋文』云、「一本無”吾”字。鄭本無”則吾”二字。」
→季氏使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、「善爲我辭焉。如有復我者、則我必在汶上矣。」
復元白文
※閔・騫・汶→(金文大篆)・焉→安・矣→已。論語の本章は、我の字を主格に用いている(春秋時代なら「吾」)が、今本と定州本の間の錯綜であり、後世の創作と断じられない。
書き下し
季氏閔子騫を使て費の宰爲らしめんとす。閔子騫曰く、善く我が爲に辭り焉れ。如し我を復びすること有ら者、則ち吾は必ず汶の上に在ら矣と。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
季氏が閔子騫を費邑の代官に任じようとした。閔子騫が言った。「上手に私のためにキッチリ断って下さい。もしもう一度私を用いようとするなら、私は汶河のほとりに行きます。」
意訳
使者「ご家老の思し召しであるぞ。貴殿を費の代官に任じる。」
閔子騫「いやです、うまいこと言って断って下さい。もう一度ここに来たら、私は斉へ逃げますからね。」
従来訳
魯の大夫季氏が閔子騫を費の代官に任用したいと思って、使者をやった。すると、閔子騫は、その使者にいった。――
「どうか私に代ってよろしくお断り申しあげて下さい。もし再び私をお召しになるようなことがあれば、私はきっと汶水のほとりにかくれるでございましょう。」
現代中国での解釈例
季氏請閔子騫當費市市長。閔子騫說:「請替我婉言謝絕了吧!如果再有人請我,我就逃到外國去。」
(筆頭家老の)季氏が閔子騫を(その根城である)費市の市長として招こうとした。閔子騫が言った。「私の代わりに遠回しに断って下さいよ!もしもう一度私を招く使いが来たら、私はすぐさま外国へ逃げます。」
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閔子騫(ビンシケン)
「閔」(金文大篆)・子(金文)・騫(金文大篆)
BC536ーBC487。孔子の弟子。姓は閔、名は損、字は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を孔子に評価され、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:閔損子騫参照。
閔の字の初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はmi̯wænで、同音は存在しない。騫の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はkʰi̯anで、同音は遣など。いずれも固有名詞のため、置換候補は特定できず、かつ後世の捏造とは断定できない。
費
(金文)
論語では魯国の都市。季氏の根拠地。子路が代官を務めたことがある。この文字は論語の時代、弗の字と書き分けられていなかった。論語語釈「費」も参照。
汶(ブン)
(金文大篆)
論語では、斉国との国境にある河(汶水)という。論語では本章のみに登場。汶の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はmi̯wən。同音に文・問など。おそらく論語の時代は単に文といったか、文水と呼んだと思われる。
出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/
吾→我
論語の時代、「吾」(古代音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。従って主格に「我」を用いるのは後世の用法。詳細は論語語釈「我」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章について、閔子騫が代官職を嫌がった理由を、従来の定説ではこう説明する。
「当時の魯国では下剋上の結果、国公がお飾りとなり、門閥家老三家=三桓が政治を牛耳っていた。孔子はその有様に憤り、三桓と仲が悪かった。従って閔子騫も、三桓筆頭である季氏に仕えるのを汚らわしいと感じて断った。」大ウソである。
史料を丁寧に読めば、孔子は三桓と対立したどころでなく、そもそも底辺出身の孔子を政界に引き上げたのが、三桓の一家である孟孫家で、季孫家も孔子自身や、弟子たちを雇うなど好意的だった。孔子が三桓の根城破壊の挙に出たときも、季孫家は反対も妨害もしなかった。
孔子が失脚して魯国を去ったときにも、三桓はこれと言った追い出し工作をしていない。隣国の斉では、政変のたび家老ばかりか国公まで殺されるのが常だった春秋時代に、処刑も追放もしないのはものすごい温情と言ってよく、有り体に言えば孔子が勝手に国を出たのである。
さらに、論語・左伝・史記に次ぐ論語理解の史料である『孔子家語』によれば、閔子騫はちゃっかり費の代官になっている。一旦断ってから気が変わったのか、『孔子家語』がでっち上げなのか。その記述はおおむね以下の通り。


閔子騫が費の代官になって、政治を孔子に問うた。孔子曰く、「德と法に従いなさい。そもそも德と法は、民を従える道具であり、馬を操るくつわや手綱のようなものだ。主君が御者で、役人がくつわで、刑罰がムチだ。つまり人を治めるとは、くつわやムチを手にするようなことに過ぎない。」子騫曰く、「すみませんが、いにしえの政治の道をご教示下さい。」孔子曰く、「(おうおう、よくぞ聞いてくれた、嬉しいな!)ウムそれはじゃな、くどくどくどくどくど…。」(『孔子家語』執轡)
「孔子家語ぜんぶニセモノ説」は、定州竹簡が出た現在では否定されている。閔子騫は実際に費の代官になったと見てよい。つまり閔子騫は「一時的に」代官になるのを嫌がったのであり、事情が変わればウキウキと、代官になりたがったのだ。なぜだろう。
費というのは季孫家の根城だが、季孫家自身はふだん都城の曲阜に居て留守だった。その結果、代官に費を乗っ取られかけたことがあった。論語陽貨篇5が伝えるのはその事情である。季孫家が孔子の根城破壊に同意したのも、また反乱を起こされてはたまらんと思ったからだ。
この反乱の時は、『史記』を信じるなら孔子50歳、閔子騫35歳で、孔子はまだ中堅の役人に過ぎない(→論語年表)。翌年になってやっと、孔子は中都宰=代官職に就いた。それから五年間が、孔子が魯国の政界で重きを為した時期で、55歳から放浪の旅に出る。
孔子放浪中、閔子騫がどこで何をしていたかは分からない。魯に残り、城壁を破壊されて荒れた費の代官になるのを嫌がったのかも知れないし、孔子の放浪に付き添ったかも知れない。ただ一点気になるのは、孔子は閔子騫を、他の弟子のように呼び捨てにしていないこと。
他の弟子には、有り得べからざる言葉遣いである。弟子だったかどうかも怪しい。年下というのも疑われる。他にこのような敬称が確認できる「弟子」は、恐らく孔子より年長で、かつ冉一族の長老だった冉伯牛を呼んだ「斯人」=このひと、だけになる(論語雍也篇10)。
つまり閔子騫は、放浪に付き合わねばならないほど孔子に従属していない。
また視点を変えると、費は孔子が魯国の政権中枢にあった頃、一番弟子の子路が代官を務めていた。つまり費の代官職は、孔子一門にとって嫌がるべき職では無かったことになる。結局「国を出る」とまで言った閔子騫の嫌がり理由は分からないが、嫌がるべき理由もない。
疫病でも流行っていたのだろうか。それを含めて役者の想像だが、孔子と共に代官の子路がいなくなって、季氏は困ったのではないか。孔子一門がのし上がれた背景に、門閥に人材がいなかったことを想定できる。従って居残り組の閔子騫に話を持っていったという筋が引ける。
しかしさすがに、「師」である孔子が亡命した直後に、ノコノコと後釜に座れるほど閔子騫も人が悪くなかったから、とりあえず断ったのだろう。そうすると論語の本章の時期は、孔子と同世代の季桓子が季氏の当主で、閔子騫が代官を引き受けたのは、孔子帰国後のことだろう。
その時には季氏も季康子に代替わりした。費邑の旧任だった子路は衛国で代官職に就いていた。閔子騫は遠慮無く話を承けられたはずである。最後に、儒者の感想文を記しておく。
季氏使閔子騫為費宰註孔安國曰費季氏邑也季氏不臣而其邑宰數叛聞閔子騫賢故欲用也閔子騫曰善為我辭焉註孔安國曰不欲為季氏宰語使者曰善為我作辭說令不復召我也知有復我者註孔安國曰復我者重來召我也則吾必在汶上矣註孔安國曰去之汶水上欲北如齊也
本文「季氏使閔子騫為費宰」。
注釈。孔安国「費は季氏の領地である。ところが治めきることが出来ないで、たびたび反乱を起こしていた。そこで閔子騫がやり手と聞いて、代官に迎えようとしたのである。」
本文「閔子騫曰善為我辭焉」。
注釈。孔安国「季孫家の代官になりたくなかったのである。そこで使者に”上手く断ってくれ。また来たら逃げるから”と頼んだのである。
本文「如有復我者」。
注釈。孔安国「復我者とは、もう一度来たら、ということである。」
本文「則吾必在汶上矣」。
注釈。孔安国「汶水をわたって斉国に逃げるぞ、ということである。」