論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
季氏使閔子騫爲費宰閔子騫曰善爲我辭焉如有復我者則吾必在汶上矣
校訂
諸本
- 武内本:釋文、一本吾の字なく、鄭本則吾の二字なし。史記弟子伝引鄭本と同じ(如有復我者,必在汶上矣)。
東洋文庫蔵清家本
季氏使閔子騫爲費宰/閔子騫曰善爲我辤焉/如有復我者/則吾必在汶上矣
- 「辤」字:「辭」の異体字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[我a必在汶上矣]。117
- 我、今本作「吾」字。『釋文』云、「一本無”吾”字。鄭本無”則吾”二字。」
標点文
季氏、使閔子騫爲費宰。閔子騫曰、「善爲我辭焉。如有復我者、則我必在汶上矣。」
復元白文(論語時代での表記)













焉 










※騫→馬・汶→(金文大篆)。論語の本章は、「焉」の字が論語の時代に存在しない。ただし無くとも文意が変わらない。「我」の字を主格に用いている(春秋時代なら「吾」)が、今本と定州本の間の錯綜であり、後世の創作と断じられない。「爲」「辭」「如」「必」の用法に疑問がある。
書き下し
季氏、閔子騫を使て費の宰爲らしめんとす。閔子騫曰く、善く我が爲に辭り焉れ。如し我に復びする有ら者、則ち吾は必ず汶の上に在り矣と。
論語:現代日本語訳
逐語訳

季氏が閔子騫を費邑の代官に任じようとした。閔子騫が言った。「上手に私のためにキッチリ断って下さい。もしもう一度私を用いようとするなら、私は汶河の上にいるでしょう。」
意訳

使者「ご家老の思し召しであるぞ。貴殿を費の代官に任じる。」
閔子騫「いやです、うまいこと言って断って下さい。もう一度誘いにに来たら、私は国境の汶水を渡って斉へ逃げますからね。」
従来訳
魯の大夫季氏が閔子騫を費の代官に任用したいと思って、使者をやった。すると、閔子騫は、その使者にいった。――
「どうか私に代ってよろしくお断り申しあげて下さい。もし再び私をお召しになるようなことがあれば、私はきっと汶水のほとりにかくれるでございましょう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
季氏請閔子騫當費市市長。閔子騫說:「請替我婉言謝絕了吧!如果再有人請我,我就逃到外國去。」
(筆頭家老の)季氏が閔子騫を(その根城である)費市の市長として招こうとした。閔子騫が言った。「私の代わりに遠回しに断って下さいよ!もしもう一度私を招く使いが来たら、私はすぐさま外国へ逃げます。」
論語:語釈
季氏(キシ)
論語では、魯国門閥三家老家筆頭、季孫氏のこと。後述の通り本章に名が出る閔子騫は孔子の弟子ではなく、同じ季孫家の家臣だったことはあるが、孔子が季平子に仕え、先代の季武子に仕えたかは不明なのに対し、閔子騫は両人に仕えていたことが『春秋左氏伝』により知れる。
| 氏-あざ名 | いみ名 | 生没 | 血統 |
| 季武子 | 宿 | ?-BC535 | 季文子の子 |
| 季平子 | 如意 | ?-BC505 | 季悼子の子、季武子の孫 |
| 季桓子 | 斯 | ?-BC492 | 季平子の子 |
| 季康子 | 肥 | ?-BC468 | 季桓子の子 |
従って論語の本章に言う「季氏」の当主は季平子・季武子のいずれとも決めがたい。
孔子と同世代だったのは季桓子で、『史記』孔子世家によると隣国斉が送った女楽団を主君定公と共に三日間楽しみ、その間政務を執らなかったので、孔子は魯国を捨てて亡命したとされる。
その孔子が放浪をやめて帰国したのは、季桓子の没後あとを継いだ季康子に呼び帰された事による。そうするよう説得したのは孔子の弟子・冉有で、説得の台詞が『史記』孔子世家に記されている。
(哀公十一年、魯の部将として斉軍を撃退した冉有に季康子が尋ねた。)
李康子「そなたはどこで戦いを学んだのか。生まれつき才があったのか。」
冉有「孔子先生に教わりました。」
李康子「孔子はどんな人なのか。」
冉有「先生を用いれば諸国でのあなたの評判が良くなり、その採用は、民衆に知らせても、先祖の霊や山川の神に当否を問うても、後悔することがありません。先生を呼び戻せば、きっとそうなるでしょう。ただし、たとえ千社=二万五千戸の領地を与えて厚遇すると言っても、先生はそれにつられてふらふらとやって来るような方ではありませんぞ。」
李康子「では私は孔子を呼ぼうと思うが、良いか。」
冉有「先生を呼ぶなら、有象無象の凡人が、先生をうんざりさせるようなことをせねば、まあよろしいでしょう。」
…
李康子は、公華、公賓、公林〔といった孔子の政敵〕を追放し、贈り物を用意して孔子を迎えたので、孔子は魯に帰った。孔子は魯を去っておよそ十四年で、魯に帰ったのである。(『史記』孔子世家)

「季」(甲骨文)
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。甲骨文では人名に用いた。金文でも人名に用いたほか、”末子”を意味した。論語ではほぼ、魯国門閥三家老家筆頭・季孫氏として登場する。詳細は論語語釈「季」を参照。

「氏」(甲骨文)
「氏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は人が手にものを提げた姿で、原義は”提げる”。「提」は「氏」と同音。春秋時代までの金文では官職の接尾辞、夫人の呼称に、また”氏族”の意に用いた。詳細は論語語釈「氏」を参照。
使(シ)

(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
閔子騫(ビンシケン)
生没はBC536ーBC487とされ、孔子没後一世紀に生まれた孟子のうっかりにより、孔子の弟子にされてしまった人物。姓は閔、いみ名は損、あざ名は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を孟子に評価され、孔門十哲の一人。だがおそらく孔子の弟子だというのはウソで、孔子が生まれた翌年に、すでに「閔子馬」の名で『春秋左氏伝』にひとかどの人物として登場する。下記するとおり架空の人物でないなら、「騫」は論語の当時「馬」または「黽」(ビン)と書かれた。詳細は論語の人物:閔損子騫を参照。

「閔」(金文)
「閔」の初出は西周の金文。字形は「門」+「文」で、「文」はおそらく”文様”ではなく”人”の変形。「大」と同じく”身分ある者”の意。閉じられた門に身分ある者が訪れるさまで、原義はおそらく”弔問”。日本語では「あわれむ」と訓読する。金文では人名に用い、戦国の金文では、中山国・燕国の方言として”門”の意に用いた。戦国の竹簡では姓氏名に用いた。詳細は論語語釈「閔」を参照。

(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

「騫」(篆書)
「騫」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。字形の由来・原義共に明瞭でない。固有名詞のため、置換候補は特定できず、かつ後世の捏造とは断定できない。架空の人物でないなら、論語の時代では部品の「馬」と表記されたと考える以外に方法が無い。詳細は論語語釈「騫」を参照。
「そこなう」と日本漢語で読み下し、閔子騫のいみ名「損」と対応している「であろう」と『字通』は言う。対して閔子馬の名は、すでに孔子生誕翌年の『春秋左氏伝』に見える。
季孫家の当主季武子には正妻に男子がなく、庶子では公弥(公鉏とも)が年長だったが、別に悼子(紇とも)があって可愛がっていたから、悼子を跡継ぎに立てようとした。…季武子は公鉏を馬屋番にしたが、公鉏は腹を立てて真面目に勤めなかった。
閔子馬が公鉏に意見した。「おやめなさい。運不運はほかでもなく、自分の行為から始まるのです。人の子たる者は、不孝者にならないよう心がけ、地位が無いのを苦にしてはいけません。
父上の言いつけをしかと守り、いつも期待に背かず働き、天晴れ孝行者よと言われるようになれば、今の季孫家を倍にしたほど富み栄えることができましょう。やけになってぐれてしまい、親を怨んであだを為すようでは、下民と変わらないではありませんか。」
公鉏はなるほどと思って、言われた通り真面目に馬屋番を務めた。(『春秋左氏伝』襄公二十三年2)
孔子は若年時に季孫家の家臣として仕え、帳簿仕事をしたことが『史記』孔子世家に見えるが、孔子が満年齢で0歳か1歳かのころ、季孫家の若様に意見した閔子馬は、すでに分別盛りの中年以上だったことになる。
爲(イ)

(甲骨文)
論語の本章では「爲費宰」では”作る”→”地位に就ける”。「爲我」では”(私の)ために”。後者の語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
費(ヒ)
論語では魯国の都市。季氏の根拠地。子路が代官を務めたことがある。

(金文)
文字は春秋時代には「弗」と書き分けられず、初出は春秋早期の金文。同音に「朏」(上)”薄暗い月”、「昲」(去)”さらす”・”かがやく”。字形は「弗」”…でない”+「貝」”財貨”で、財貨を費やすこと。戦国時代の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「費」を参照。
宰(サイ)

(甲骨文)
論語の本章では”代官”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
曰(エツ)

(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
善(セン)

(金文)
論語の本章では、”波風の立たないよう上手に”。もとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
辭(シ)

(金文)
論語の本章では”辞退する”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「辞」。初出は西周早期の金文。「ジ」は呉音。字形は「𤔔」(乱)+「䇂」”尖った道具”で、原義は”ととのえる”。金文では”誓約する”の意に用いた。詳細は論語語釈「辞」を参照。
焉(エン)

(金文)
論語の本章では「たり」と読んで、”…てしまう”。完了の意。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。
ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。また本章の場合、「焉」が無くとも文意が変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
如(ジョ)

(甲骨文)
論語の本章では”もしも”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”ごとくす”。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
有(ユウ)

(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
復(フク)

(甲骨文)
論語の本章では、”もう一度する”。初出は甲骨文。ただしぎょうにんべんを欠く「复」の字形。両側に持ち手の付いた”麺棒”+「攵」”あし”で、原義は麺棒を往復させるように、元のところへ戻っていくこと。ただし”覆る”の用法は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「復」を参照。
我(ガ)

(甲骨文)
論語の本章では”わたし(を)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
者(シャ)

(金文)
論語の本章では、助詞のような働きをし”…ならば”。上の文句を「それは」と、特に提示することば。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
則(ソク)

(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
吾(ゴ)→我(ガ)

(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
定州竹簡論語が主格に「我」を用いるのは後世の用法。詳細は論語語釈「我」を参照。
必(ヒツ)

(甲骨文)
論語の本章では”必ず”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は先にカギ状のかねがついた長柄道具で、甲骨文・金文ともにその用例があるが、”必ず”の語義は戦国時代にならないと、出土物では確認できない。『春秋左氏伝』や『韓非子』といった古典に”必ず”での用例があるものの、論語の時代にも適用できる証拠が無い。詳細は論語語釈「必」を参照。
在(サイ)

(甲骨文)
論語の本章では、”…に居る”→”行ってしまう”。「ザイ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
汶(ブン/ビン/ボン)
論語では、斉国との国境にある河(汶水)という。おそらく論語の時代は単に文といったか、文水と呼んだと思われる。

出典:http://shibakyumei.web.fc2.com/

「汶」(篆書)
「汶」の字の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。論語では本章のみに登場。「ブン」で山東省の川の名、「ビン」で四川省の山の名、「ボン」で”暗い”を意味する。同音に文・問など。詳細は論語語釈「汶」を参照。
上(ショウ)

(甲骨文)
論語の本章では”…の上”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
優雅に”汶水のほとり”と解する場合があり、辞書的に間違いとは言えないが、汶水のほとりではまだ魯の領内とも言え、”川の上を舟で渡って斉に行ってしまう”と解した方が迫力がある。
矣(イ)

(金文)
論語の本章では、”…てしまう”。完了の意。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
則我必在汶上矣
上掲の通り武内本は南朝末期の『経典釈文』を引いて、「一本」には「吾」が無く、「鄭本」には「則吾」の二字が無く、『史記』弟子伝でも「鄭本」と同じという。「鄭本」とは南朝末までは伝わっていただろう古注の一種で、鄭玄が記した注釈書だろうが、現存していない本を物証とするわけには行かないし、それより先行する定州竹簡論語が本章にはある。それに従って上掲の通り改めた。
論語:付記
検証
論語の本章は、先秦の誰一人引用も再録もしていない。定州竹簡論語にあることから、前漢前半には論語の一章として成立していたのだろうが、簡の欠損がひどくて果たして閔子騫の話だったかどうか分からない。ただ「焉」の字が無くとも、文意はほとんど変わらない。
加えて儒者が偽作する動機が見いだせない。何らかの史実を伝えた話と考えてよい。ただ引用・再録のなさから、事実上の再出は前漢末~南北朝成立の古注と言える。以上を踏まえ、「焉」の春秋時代に於ける不在はどうにもならないが、無くとも文意が変わらないことから、本章を史実と扱って構わない。ただし、閔子騫を孔子の弟子と解釈するのは誤っている。
解説
論語の本章について、閔子騫が代官職を嫌がった理由を、従来の定説ではこう説明する。
この章は閔子騫が無道な者の臣になることを欲しなかったことを記したのである。閔子騫は…徳行をもって有名な人である。山東沂水県の西北七十里に閔公山というのがあって、閔子が召を避けた処だと伝えられている。(宇野哲人『新釈論語』)
「のである」までは全て誤っている。当時の魯国門閥=三桓は無道でも孔子の政敵でもない。
史料を丁寧に読めば、孔子は三桓と対立したどころでなく、そもそも底辺出身の孔子を政界に引き上げたのが、三桓の一家である孟孫家で、季孫家も孔子自身や、弟子たちを雇うなど好意的だった。孔子が三桓の根城破壊の挙に出たときも、季孫家は反対も妨害もしなかった。
孔子が失脚して魯国を去ったときにも、三桓はこれと言った追い出し工作をしていない。隣国の斉では、政変のたび家老ばかりか国公まで殺されるのが常だった春秋時代に、処刑も追放もしないのはものすごい温情と言ってよく、有り体に言えば孔子が勝手に国を出た。
また三桓を無道だと言い回るのは、泣き濡れたような事を書く儒者と、その虚偽を疑いもしない不真面目な漢文業者だけなのだが、国公の権力と権威を臣下が奪い、政治を専断したのだと言い張っている。だが史料を丁寧に読めば、むしろ国公が政治を放棄したのだ。
これは昭公個人の問題ではなく、沸騰する春秋後半の技術革新により、君主が国を治め貴族がそれを助けるという身分秩序が、すでに機能しなくなっていたからだ。だからこそ社会の底辺に生まれた孔子が、能力によって宰相にまでなった。それを踏まえねば論語は読み解けない。
三桓を糾弾するなら、孔子こそもっと激しい身分秩序の破壊者ではないか?
論語・左伝・史記に次ぐ論語理解の史料である『孔子家語』によれば、本章で代官を断った閔子騫は、のちにちゃっかり費の代官になっている。一旦断ってから気が変わったのか、『孔子家語』がでっち上げなのか。その記述は長すぎるので端折ればおおむね以下の通り。

閔子騫が費の代官になって、政治を孔子に問うた。
孔子「德と法に従いなさい。そもそも德と法は、民を従える道具であり、馬を操るくつわや手綱のようなものだ。主君が御者で、役人がくつわで、刑罰がムチだ。つまり人を治めるとは、くつわやムチを手にするようなことに過ぎない。」
子騫「すみませんが、いにしえの政治の道をご教示下さい。」
孔子「(おうおう、よくぞ聞いてくれた、嬉しいな!)ウムそれはじゃな、くどくどくどくどくど…。」(『孔子家語』執轡1)
「孔子家語ぜんぶニセモノ説」は、定州竹簡が出た現在では否定されている。だからといってこの話が史実というのは早計だが、ここでは閔子騫は「一時的に」代官になるのを嫌がったのであり、事情が変わればウキウキと、代官になりたがったのだ。なぜだろう。

費というのは季孫家の根城だが、季孫家自身はふだん都城の曲阜に居て留守だった。その結果、代官に費を乗っ取られかけたことがあった。論語陽貨篇5が伝えるのはその事情である。季孫家が孔子の根城破壊に同意したのも、また反乱を起こされてはたまらんと思ったからだ。
この反乱の時は、『史記』を信じるなら孔子50歳で、孔子はまだ中堅の役人に過ぎない(→論語年表)。翌年になってやっと、孔子は中都宰=代官職に就いた。それから五年間が、孔子が魯国の政界で重きを為した時期で、55歳から放浪の旅に出る。
孔子放浪中、閔子騫がどこで何をしていたかは分からないが、孔子生誕ごろにすでに中年以上だったと思われるから、年齢から見て、すでに世を去っていたと見るべきだ。従って『孔子家語』の伝説が、まるまる作り話だと見なければ理屈に合わない。
おそらく論語の本章が伝えるのは、孔子の大先輩で、賢者として知られた閔子騫が、春秋後半の世の激動を敏感に感じ取り、代官など割に合わないから断った故事で、孔子とその一門とは何の関係も無い。ただ孔子がその賢明を聞き知っていて、賢者と讃えた可能性がある程度だ。
上掲の通り「閔子騫」の論語の時代での表記が「閔子馬」だとするなら、鉄器と小麦と弩(クロスボウ)の実用化で沸き立つ当時の世の中を、知性無しでは乗り切れないと悟った言葉が『春秋左氏伝』に記されている。この年、孔子は数えで28歳。
昭公十八年(BC524)秋、曹の平公の葬儀に各国の使者が集まった。そこには周王の使者の原伯魯もいたが、「もう勉強など意味の無い時代になった」と言った。魯国の使者が帰国して閔子馬にこの話をすると、閔子馬は言った。
「周王室はいずれ乱れるでしょうな。そもそも、役立つものごとを喜ぶ分別があって、ひとかどの人物と言えるのです。そういう人物は、やけになったりうろたえたりするのを嫌うものです。
学問なしで世を渡れるなら、無学でもかまいません。学ばなくとも害がないなら、あるいは無学でもかまわないでしょう。ですが今は身分秩序が揺らいでいます。無学では領地を治めることは出来ないでしょう。
学問とは能力を高める営みであり、こんな世の中で無学のままでは、没落するのは目に見えています。原伯魯どののお家は、没落を免れないでしょうなあ。」(『春秋左氏伝』昭公十八年2)
この予言は的中した。4年後、周の景王の葬儀に乗じて、王子朝が反乱を起こした(『春秋左氏伝』昭公二十二年2)。こういう実績があったからだろう、孔子は同じ季孫家家臣の大先輩として、先を見通せた賢者として閔子騫を敬い、弟子扱いして呼び捨てていない。
他にこのような敬称が確認できる「弟子」は、恐らく孔子より年長で、冉一族の長老だった冉伯牛を呼んだ「斯人」=このひと、だけになる(論語雍也篇10)。冉伯牛が孔子の弟子ではなく、むしろ後援者だったことは、「孔門十哲の謎」侮りがたい冉氏一族に記した。
閔子騫を孔子の弟子だと言い出したのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子で、弟子でない者を弟子だと決めてしまった上、上掲の通り孔門十哲に入れてしまって、閔子騫孔子の弟子説を鉄筋コンクリート固めにしたことは、大いに後世を誤らせた。

弟子の公孫丑「宰我や子貢は口車が回り、冉牛と閔子と顔淵は、道徳の行いに優れていました。孔子はどちらも出来ましたが、”わしは公の命令文を書くのは苦手だ”とも言いました。ということは、孔子先生も万能の聖人ではなかったのですか?」
孟子「つまらんことを言うね、君は。むかし子貢が孔子に尋ねたことがある。”先生は万能の人ですか?”孔子は答えて”万能なんてとんでもない。わしはよく勉強して、教えるのにうんざりしたことがないだけだ”とね。すると子貢が言い返した。”勉強が苦にならないのは智恵者で、教えてうんざりしない者は情け深い仁義の人です。仁義で智恵者なら、先生はやっぱり万能ですね”と。もし孔子が万能の聖人でなかったら、一体誰が聖人だというのかね。」(『孟子』公孫丑2)
公孫丑も孔子も、「閔子騫」とは言わずに「閔子」とだけ言っていることから、現伝『孟子』筆記者は論語の「閔子騫」の存在と、『春秋左氏伝』の「閔子馬」の存在を両方知っていて、その矛盾を誤魔化すためにあえて「閔子」で止めたのだろう。宋儒の仕業を訳者は疑う。
公孫丑が「閔子」を孔子の弟子と疑っていないのは、もちろん師匠の孟子にそう教わったからで、中国史上初めて「閔子なんちゃら」を孔子の弟子だと言い張ったのが、孟子であるのは疑いない。存外孟子は『春秋左氏伝』を読んでおらず、それは勉強不足か、あるいはまだ『左氏伝』が出来る前だったからだろう。
本章と同じく論語雍也篇には、15章「孟之反ほこらず」のように、孔子の弟子ではない人物の逸話も記されている。論語に出て来る人物だからといって、誰も彼も孔子の弟子ではない。
閔子騫が弟子になってしまったのは孟子のうっかりに始まり、その後に出来た『史記』や『孔子家語』による弟子伝説は、孟子のうっかりも、司馬遷に語った「古老」のデタラメも疑わなかったから出来たわけで、それが今なお後生大事に史実と扱われているだけだ。
なお論語の本章の新古の注は、いつも通りろくな事を書いていない。
古注『論語集解義疏』
…註孔安國曰費季氏邑也季氏不臣而其邑宰數叛聞閔子騫賢故欲用也…註孔安國曰不欲為季氏宰語使者曰善為我作辭說令不復召我也…註孔安國曰復我者重來召我也…註孔安國曰去之汶水上欲北如齊也

注釈。孔安国「費は季孫家の領有するまちである。季孫家は殿様をバカにした不忠者だった。その所領はしばしば季孫家に反乱を起こしていた。閔子騫が賢者だと聞いて、代官にしようと考えたのである。」
注釈。孔安国「季孫家の代官になりたくなかったのである。それで使者には、上手いこと言って二度と誘わないように頼んだのである。」
注釈。孔安国「復我と言ったのは、もう一度自分を招いたら、の意である。」
注釈。孔安国「汶水のほとりに行って、北上して斉国に行こうとしたのである。」
毎度おなじみ孔安国で、実在が如何わしい人物。新注は口汚く三桓を罵っている。
新注『論語集注』
費,音秘。為,去聲。汶,音問。閔子騫,孔子弟子,名損。費,季氏邑。汶,水名,在齊南魯北竟上。閔子不欲臣季氏,令使者善為己辭。言若再來召我,則當去之齊。

費は、秘の音で読む。為は、尻下がりに読む。汶は、問の音で読む。閔子騫は、孔子の弟子で、いみ名は損。費は、季孫家の所有するまちである。汶は川の名で、斉国の南、魯国の北にあって、国境だった。閔子騫は季孫家の家臣になりたくなかった。それで使者に、上手いこと言って断ってくれ、と頼んだ。そしてもう一度誘いに来たら、絶対に斉に行ってしまうと言った。
程子曰:「仲尼之門,能不仕大夫之家者,閔子、曾子數人而已。」謝氏曰:「學者能少知內外之分,皆可以樂道而忘人之勢。況閔子得聖人為之依歸,彼其視季氏不義之富貴,不啻犬彘。又從而臣之,豈其心哉?在聖人則有不然者,蓋居亂邦、見惡人,在聖人則可;自聖人以下,剛則必取禍,柔則必取辱。閔子豈不能早見而豫待之乎?如由也不得其死,求也為季氏附益,夫豈其本心哉?蓋既無先見之知,又無克亂之才故也。然則閔子其賢乎?」

程頤「孔子先生の一門には、家老階級に仕えないでいられる者がいた。閔子騫と曽子がそうである。」
謝良佐「学問をする者は、少しでも自分とそれ以外を区別することを理解すると、誰でも学問の道を楽しみ世の中の権勢を忘れる事が出来る。聖人について学んだ閔子騫は言うまでも無い。
閔子騫は季孫家があくどく財産を積み上げているのを見て、犬やめすブタのような連中だと思ったばかりでない。その家に仕える気持に、どうしてなるはずがあろうか。だが聖人は必ずしもそう思わなかった。当時は乱世で、悪党が横行していたから、仕えるのもやむを得ないと考えたのである。
聖人には至らない者は、強気な者は必ずひどい目に遭うし、気弱な者は必ず小バカにされた。だから閔子騫が、どうしてそういう結果を予見してあらかじめ備えなかったと言えるだろうか。
子路のような奴はまともな死に方をせず、冉求のような奴は季孫家に肩入れしてせっせと稼いだが、それがどうして本心からと言えようか。多分先見の明が無く、乱世を乗り切る能も無かったからだ。だから閔子騫を、賢者というのは間違いではあるまい?
謝良佐は朱子学の一味と言うよりのちの陽明学の祖で、「知行合一」=自分が正しいと思うことならどんなことをやっても正義だ、という〒囗刂ス卜の理屈を言い出した。この男に限らず宋儒はメルヘンやオカルトを平気で言うので、あまり真に受けると精神衛生上よくない。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
漢文の本質的な虚偽
論語の本章で閔子騫を孔子の弟子に仕立てて仕舞ったように、後世の儒者のウソ偽りは甚だしい。『史記』孔子世家によると、まだはな垂れだった孔子が、勝手に季孫家の宴会に現れたのを、「おととい来い」とつまみ出した陽虎だが、後世では孔子と対等のように描かれた。

陽虎は社会の底辺から執政に出世した、孔子の先達に他ならず、対等ではあり得ない。
孔子有母之喪,既練,陽虎弔焉。私於孔子曰:「今季氏將大饗境內之士,子聞諸?」孔子曰:「丘弗聞也。若聞之,雖在衰絰,亦欲與往。」陽虎曰:「子謂不然乎?季氏饗士,不及子也。」陽虎出。曾參問曰:「語之何謂也?」孔子曰:「己則喪服,猶應其言,示所以不非也。」
孔子の母親が亡くなった。それから一周忌を迎えた頃、陽虎が弔問に訪れた。それが済んで孔子と雑談していわく、「今、季孫家では国内の紳士を集めて大宴会を開こうとしています。あなたはご存じですか?」
孔子「いいえ。ですが仰る通りなら、私はまだ喪中の身ではありますが、ぜひ行きたいものです。」
陽虎「それは間違いというものです。季孫家は紳士がたを呼んでいるので、あなたを呼んでいるわけではありません。」
陽虎が帰った後で、曽子が尋ねた。「陽虎は、呼ばれもしない宴会のことを、何でわざわざ話に出したのでしょう。」
孔子「呼ばれていないわけではないのだ。喪中だから、おやめなさいということだ。言う通りではあるし、常識に反しているわけでもない。」(『孔子家語』公西赤4)
陽虎の扱いが不当な上、孔子家の家事使用人に過ぎない曽子を、弟子扱いしたのはまだいいが、曽子が孔子晩年の「弟子」と記した漢籍はあまたあるのに、孔子が母を亡くしたときにもう、弟子であるかのように記している。これが漢籍に本質的に染みついている虚偽の例だ。
あるいは、儒者のあまりの論理能力の無さを明らかにする話で、名高い清朝考証学の儒者も、円周率を「径一周三」で済ませていた。こうした本質的虚偽に気付かない、あるいは気付かないふりをして漢籍を解釈するのが、日中台の漢文業界に取り憑いた座敷わらしになっている。
こんにちの論語その他漢籍を、暇つぶしに読むに止まるなら、座敷わらしに従うのも良いだろう。だが多分それは、あまり面白い暇つぶしにはならないはずだ。なぜなら漢籍の虚偽の目的は、読者を脅して食い物にすることにあるから、文意が極めて難解でつまらないからだ。
あるいは多くの漢文業者同様、虚偽を再度他人に説き、びっくりさせようと図るのもありだろうが、そのびっくりで得られる実利や快感に比べて、虚偽を暗記する労力の方がどう見積もっても多く、勘定に合わないから止めた方がいいし、読める者にせせら笑われる危険もある。
暗記が苦痛なほど難解なのにも理由がある。上掲のように「どう考えてもおかしいだろこれ」という理に合わないことが書いてあるから、生身の脳が気味悪がり、受け付けないからだ。だから漢籍の座敷わらしは従ったり恐れたりするよりも、笑い飛ばして退散させた方が面白い。
あるいはわらしを説教する漢文業者を、鼻で笑うのも面白い。なぜ笑えるか? それはその漢文業者は、読めていないことを自分から白状しているからで、自分が出来ていないことを他人に求める者は、どんなに年かさで肩書きがあっても、駄々をこねる子供と同じだからだ。
だからどうか若い漢学徒は、わらしや爺婆のハッタリを恐れず、勉強に励んで頂きたい。





コメント