論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰雍也可使南面
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰雍也可使南靣也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「雍也可使南面也a。」108
- 阮本「面」下無「也」字、高麗本有「也」字。
※「高麗本」は正平本の誤り。
標点文
子曰、「雍也、可使南面也。」
復元白文(論語時代での表記)
書き下し
子曰く、雍也南に面か使む可き也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「雍こそは南向きに座らせる事が出来るなあ。」
意訳
弟子の冉雍には実に王者の風格があるのう。
従来訳
先師がいわれた。――
「雍には人君の風がある。南面して政を見ることが出来よう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「仲弓可以當君主。」
孔子が言った。「仲弓は君主に据えることが出来る。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
雍(ヨウ)
(甲骨文)
孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。姓氏が冉、いみ名が雍、あざ名は仲弓。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。文字史的に偽作の疑いが無い論語子路篇2の記述では、魯国筆頭家老の季孫家に仕えて家宰になっている。日本の戦国時代で言えば、将軍家の管領である細川家の重臣だった三好氏にあたるが、冉雍が三好氏のように、季孫家や魯国公室の権限を肩代わりしたという記録は無い。
冉雍の属する冉一族は、おそらく孔子の時代に勃興した新興氏族で、その長老である冉耕伯牛が孔子の人となりを見定めた後で、一族の素質に優れた若者として冉雍と冉求(子有)を入門させた。冉求も季孫家の家宰となり、孔子の帰国運動に一役買っている。
詳細は侮りがたい冉氏一族を参照。
一役買った冉求に対し、冉雍は何をしたのかよく分かっていない。冉求は武将として、また税制改革の推進者としての記録があるが、冉雍については記録がすっかり消えている。かといって、顔淵や宰我のように、政治工作に関わっていたと想像することも難しい。
主要弟子の中で目立つ点は、同族の長老冉耕伯牛と同じく、あざ名に「子」が付かず「仲弓」であることで、「仲」とは次男を意味する。年長から「伯仲叔季」の順に呼ぶ習いだが、これを排行といい、二人の他には仲由子路のまた一つのあざ名として、「季路」があるのみ。
「子○」式のあざ名と比べ、仲弓は”次男坊の弓”という意味で、若干軽い扱いであると同時に、若干親しみを増した呼び名でもある。「弓」のカールグレン上古音はki̯ŭŋ(平)で、同族の冉求と日本語音は同じだが、「求」のカールグレン上古音はɡʰ(平)でかなり異なる。
いみ名の雍のカールグレン上古音はʔi̯uŋ(平/去)、ʔは咳の音に近い。いみ名とあざ名が対応する論語の時代の通例として、音に共通性があるのは頷ける。「雍」は”やわらぐ”こと、「弓」は”ゆみ”だが、春秋時代では何らかの語義の共有があったと思われる。
「雍」の初出は甲骨文。同音は「雍」を部品とする漢字群、「邕」”川に囲まれたまち”、「廱」”天子の学び舎”、「癰」”できもの”。字形は「隹」”とり”+「囗」二つで、由来と原義は不明。甲骨文では地名・人名に用い、金文では”ふさぐ”、”煮物”、擬声音に用い、戦国の竹簡では”ふさぐ”に用いられた。詳細は論語語釈「雍」を参照。
なお「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
也(ヤ)
唐石経は「雍也」と記すが句末は「南面」で終え「也」を記さない。清家本は句末の「也」を記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も記す。清家本は唐石経より年代は新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。本章の場合定州本が句末の「也」字を記すことにより、より確定的になる。これに従い句末の「也」をあるものとして校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では、「雍也」では「や」と読んで主格の強調、「南面也」では「かな」と読んで詠歎の意に用いている。後者は断定の意に解してもよいが、断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…してもよい”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
南(ダン)
「南」(甲骨文)
論語の本章では”南向きに”。初出は甲骨文。「ナン」は呉音。字形は南中を知る日時計の姿。甲骨文の字形の多くが、「日」を記して南中のさまを示す。「楽器の一種」とか言う郭沫若や唐蘭の説はあまりに程度の低い胡説で聞くに耐えない。甲骨文では原義に用い、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「南」を参照。
面(ベン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”…の方向を向いて着席する”。初出は甲骨文。「メン」は呉音。甲骨文の字形は、隈取りをした目のものと、開いた花のもの二つが比定されており、字の成り立ちが必ずしも一系統だけでなかった例を示す。原義はおそらく”顔”だが、”…を向く”の意も、甲骨文の花形字形からみてあっただろう。甲骨文には他に五角形状の板の中央に目を描いたものがあり、これらの字形はやがて隈取り形の字形へ統合されていったように思われる。甲骨文では国名に用い、戦国の竹簡では”顔を向ける方向”の意に用いた。詳細は論語語釈「面」を参照。
南面(みなみにおもてむく)
論語の本章では、”北側に南を向いて座る=君臨すること”。武内本には「可使南面とは卿大夫となりて政せしむべきをいう」とあるが、卿大夫では南面できないと考えるのが普通。
古代から清朝崩壊までの中国では、君主の座席は部屋の北側に据えられ、南向きに座った。臣下はあたかも北極星を拝むように、北向きに居並んで君主に面会した。今日北京の故宮に見られるように、宮殿も南北の軸に沿って建てられた。日本もこれに習い、京都の紫宸殿や清涼殿は、南北に建てられている。Photo via https://www.cepolina.com/
なお孔子と同時代のインドでは、貴人は東を向いて西に坐し、下座の者は右肩を向けて貴人のまわりをめぐり、敬意を表したという(中村元『ブッダ最後の旅』)。
出土史料で君主が南面することを記した最も早い例は、戦国中末期の「郭店楚簡」唐虞25になる。
而受(授)之,南面而王而〈天〉下而甚君。古(故)堯之廛(禪)虖(乎)舜也,女(如)此也。古者(聖)人廿(二十)而
…して(推戴を)受け、南面して天下の尊貴な君主となった。だから堯が政権を舜に譲ったありさまとは、この通りだった。昔は聖人二十人がいて…
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期成立の『史記』弟子伝に全文が再録されたほか、前漢後期の劉向『説苑』脩文31にも再録されている。ただしその後の引用や言及は間が開き、後漢末から南北朝にかけて成立した古注に、両漢交代期の包咸が注を付けている。
古注『論語集解義疏』
子曰雍也可使南面註苞氏曰可使南面者言任諸侯可使治國政也疏子曰雍也可使南面 南面謂為諸侯也孔子言冉雍之徳可使為諸侯也
本文「子曰雍也可使南面」。
注釈。包咸「可使南面とは諸侯に任じて国政を治めさせることが出来るという事だ。
付け足し。先生は冉雍に南面させていいと言った。南面とは諸侯だ。孔子は雍の徳は諸侯にしてもよいほどだと言ったのだ。(『論語集解義疏』)
「南面」という言葉は本章の他に、論語衛霊公篇5にもあるが、そこで取り扱われている君主は舜で、舜を創作したのは孔子没後一世紀に生まれた孟子だから、衛霊公篇の章は偽作と分かる。従って君主か必ず南面すべきものという掟は、論語の時代にあったか極めて心細い。
ただし古注が編まれるより前に、後漢前期の章帝は、冉雍が季孫家に仕えていたことを知っていたと記す。これは論語子路篇2「仲弓季氏の宰となる」を章帝が知っていたことにはなるが、本章について何かを証明する記述ではない。
建初元年…三月甲寅,山陽、東平地震。己巳,詔曰:「朕以無德,奉承大業,夙夜慄慄,不敢荒寧。而災異仍見,與政相應。朕既不明,涉道日寡;又選舉乖實,俗吏傷人,官職秏亂,刑罰不中,可不憂與!昔仲弓季氏之家臣,子游武城之小宰,孔子猶誨以賢才,問以得人。明政無大小,以得人為本。夫鄉舉里選,必累功勞。今刺史、守相不明真偽,茂才、孝廉歲以百數,既非能顯,而當授之政事,甚無謂也。每尋前世舉人貢士,或起甽畝,不繫閥閱。敷奏以言,則文章可採;明試以功,則政有異跡。文質彬彬,朕甚嘉之。其令太傅、三公、中二千石、二千石、郡國守相舉賢良方正、能直言極諫之士各一人。」
建初元年(76)…三月きのえとらの日、山陽と東平(いずれも山東省)で地震があった。そこできのえみの日に詔書を出した。
「朕は無能にもかかわらず、帝位という重い責務を引き継ぎ、早朝から深夜まで震える思いで恐れ慎み、デタラメに走らぬよう気を付けてきた。それなのに天災が相次いでいるのは、政治が悪いせいだろう。
朕はもの知らずで、帝としての経験も足りないからだ。また役人の採用がデタラメで、利権に居座った者が民衆を苦しめ、適材適所からもほど遠く、刑事裁判も滅茶苦茶だからだ。このままではどうなるのかと、心配でたまらない。
むかし仲弓は季孫家の家臣だった。子游は武城の代官代理だった。孔子の直弟子にこれでは役不足だが、孔子は二人になおも人材を求めるよう諭し、”誰か見つけたか”と尋ねた(論語雍也篇14)。つまり政治を明るくするのは、とにもかくにも人材を得ることが基本だ。だから今後、各地方から人材を推薦するに当たっては、必ず実績をもとに推薦せよ。
このごろの地方の監察官や長官は、実績があるかどうかも確かめずに、優れた人材だ、あるいは孝行者で無欲だとして年に百人も推薦してくる。無能は明らかなのに、そのような者どもに政治を委ねるなど、どう言っていいか分からないほどの無茶苦茶だ。
これに対していにしえの世の役人採用を調べると、採用されたのは畑仕事に精を出していたような者ばかりで、権勢家との縁故など無かった。奏上の言葉も立派で、推薦には実績の裏付けがあったから、政治を委ねても功績が挙がった。そうした言葉も仕事も立派な者こそ、朕の求める人材である。
ゆえに中央政府の高官と、地方政府の長官に申し渡す。賢く善良でまじめな者のうち、正しい政道のためなら恐れることなく事実を言える者を、おのおの一人ずつ推薦せよ。」(『後漢書』章帝紀14)
有情を踏まえ、文字史的には完璧に論語時代まで遡れるので、本章を史実として扱う。
解説
論語の本章について、新注はほぼ何も言っていないに等しい。何も言えなかったのだろう。
新注『論語集注』
南面者,人君聽治之位。言仲弓寬洪簡重,有人君之度也。
南面とは、人君が政治を執り行う座り場所である。仲弓の寛容で飾らない慎重さには、人君の資格があると言ったのだ。
冉雍仲弓で特筆すべきは、弟子の中でも、物わかりのよい人物だったことだ。
冉雍「子桑伯子とはどんな方でしょう。」
孔子「悪くないが、雑な奴だ。」
冉雍「なるほど。心が細やかな人なら、行動が雑なまま民の前に出ても、それはそれでいいかも知れませんが、心も行動も雑だというなら、雑にも程があるでたらめ人間だ、ということですね。」
孔子「その通り。あの男は気配りは細やかだが、せっかくの気配りも行動に表れない。惜しいことだ。」(論語雍也篇2)
詳細は次章に譲るが、孔子にとって出来のよい弟子ではあったようだ。
なお本章は次章とともに、現存世界最古の論語の紙本、宮内庁蔵南宋本『論語注疏』では、論語雍也篇10の後ろに収められている。理由は今のところ分からないが、南宋以前に日本に伝わった古注『論語集解義疏』でも、また京大蔵唐石経でも、本章と次章は論語雍也篇の冒頭に置かれている。
余話
オイこれでええか
確実であろう記録では、漢帝国になると、君主は推戴を受けると、「いえいえ私ごときが」と断るという偽善大会が開かれるのが吉例となった。
正月,諸侯及將相相與共請尊漢王為皇帝。漢王曰:「吾聞帝賢者有也,空言虛語,非所守也,吾不敢當帝位。」群臣皆曰:「大王起微細,誅暴逆,平定四海,有功者輒裂地而封為王侯。大王不尊號,皆疑不信。臣等以死守之。」漢王三讓,不得已,曰:「諸君必以為便,便國家。」甲午,乃即皇帝位汜水之陽。
(BC202)正月、諸侯と軍部と政府が語らって、一致して漢王を皇帝の座につけようとした。
漢王劉邦「えーと。このカンニング簡*にこう言えと書いてある。
…ワタクシハ、賢者ジャナイト帝ニナッテハイケナイト聞イテオリマス。無意味ナソラゴトハ、言ッタ後デ守レルモノデハアリマセン。ワタクシ如キガ皇帝ナンテ、トンデモナイ。
おいちんぺーよ、これでええか。」
軍師の張良が書いた筋書きで、宰相の蕭何が「せーのさんはい」と掛け声をかけて群臣が揃って言った。
「だいおー様は、庶民から身を起こし、暴虐な秦や項羽を攻め滅ぼし、世界中を平定し、功績の有る者には、国土を割いて領地に与え、高い位に就けました。そーなると大王という称号は、安すぎまぁす。みなの者が、ヘンだヘンだと言っております。やつがれどもは、死んでもいいから、大王様にはぜひぜひ、皇帝になっていただきたぁい。」
劉邦は三度譲る真似をして、「しょうがないのお」とぶつぶつ言ってから続いて簡を読み上げた。
「諸君ガソコマデ言ウナラ、言ウとーりニシヨウ。国家ノ為ニナロー。」
そうやって甲午の日、汜水の南岸で皇帝に即位した。(『史記』高祖本紀53)
*紙の発明は、後漢の蔡倫による、とするのが高校世界史的常識になっている。帝国を運営できたことから、たぶん秦末ごろからあったと想像したいが、物証が無いのでそうとも言えない。それまで筆記は木や竹の簡、絹などに記した。
似たような話は周以前にもあるが、極めてうさんくさい。
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