論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
伯牛有疾。子問之、自牖執其手。曰、「亡之、命矣夫。斯人也而有斯疾也。斯人也而有斯疾也。」
校訂
定州竹簡論語
[伯牛有疾,子問之,自牖執]其手,曰:「末a之,命矣夫!118……而有斯疾也!命也夫b!斯人也而有此c疾也!」119
- 末、今本作「亡」。末、有衰亡之意。
- 命也夫、今本無、『史記』仲尼弟子列伝有此三字。
- 此、今本作「斯」。
→伯牛有疾。子問之、自牖執其手。曰、「末之、命矣夫。斯人也而有斯疾也。命也夫、斯人也而有斯疾也。」
復元白文
※牖→枼・矣→已。
書き下し
伯牛疾有り。子之を問ひ、牖自り其の手を執る。曰く、之を末はん、命矣夫。斯の人也、し而斯の疾ある也。命矣夫。斯の人也、し而斯の疾ある也と。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
伯牛が病気になった。先生は見舞いに行き、窓からその手を取った。言った。「これを失うのも運命なのか。よりによってこの人がこんな病気になるとは。運命なのか。よりによってこの人がこんな病気になるとは。」と。
意訳
冉伯牛が伝染病にかかった。先生が窓越しに伯牛の手を取って言った。「この人を失うのも運命なのか。これほどの人がこんな病気にかかるなんて。かかるなんて。」
従来訳
伯牛が癩を病んで危篤に陥った。先師は彼をその家に見舞われ、窓から彼の手をとって永訣された。そして嘆いていわれた。――
「惜しい人がなくなる。これも天命だろう。それにしても、この人にこの業病があろうとは。この人にこの業病があろうとは。」
現代中国での解釈例
伯牛生玻孔子去探問,從窗口握著他的手,說:「快要死了,命該如此嗎?這樣的人竟然會得這樣的病!這樣的人竟然會得這樣的病!」
伯牛が病気になり、孔子は行って見舞い、窓から彼の手を取り、言った。「もうすぐ死んでしまう。天命とはまったくこのようなものか?このような人が意外にもこのような病気にかかるのか!このような人が意外にもこのような病気にかかるのか!」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
伯牛
(金文)
孔子の最も初期の弟子、冉伯牛のこと。徳行を孔子に評価された、孔門十哲の一人。冉雍・冉求はその一族。「伯」は長男を意味し、おそらく冉氏の長老だったと思われる。詳細は論語の人物:冉耕伯牛参照。
牖(ユウ/ユ)
(金文)
論語の本章では”窓”。初出は『説文解字』で、論語ではここだけだが、『孟子』『荀子』、大小の『礼記』にも見え、とりわけ『孔子家語』に多く見られる。カールグレン上古音は声母のzのみ、韻母を共有する漢字多数。藤堂上古音はḍiog。動詞として”みちびく”の語釈があり、その場合の上古音はdog。「道・導」に当てた用法という。
日本語音で音が近い楪「ヨウ」は、初出『説文解字』より後。枼「ヨウ」は甲骨文から見え、”まど”の語釈を『大漢和辞典』が載せ、置換候補となり得る。カールグレン上古音・藤堂上古音は不明。なお葉の字のカ音はdi̯ap、藤音はḍiap”葉っぱ”またはthiap”楚の領邦の名”。
『字通』はもと庸に従い、庸声であろう、とし、漢碑「婁寿碑」に「棬樞甕牗」とあって、字を牗に作り、墉”つちかべ”に作った木枠の窓とし、牖が庸に従うなら、その声義を解することが出来る、という。ただし牗の字は『説文解字』にも『大漢和辞典』にも見えない。
庸の字の語釈として『大漢和辞典』は”ひ=水門”を載せる。
『大漢和辞典』の第一義には”壁をうがち木を交えて作った窓。連子窓”とある。
そうなるとその隙間から手を取ったことになるが、第二義に”南向きの窓”とある。伝染病を恐れて、壁ごしに手を取ったのだと言われている。
亡→末
(金文)
「亡」は”うしなう”、「末」は”無くす”。詳細は論語語釈「亡」・論語語釈「未」を参照。
命
(金文)
論語の本章では”天命・運命”。「命」の原義は”天命”であり、天命によって享受するものだから、のちに”いのち”の意になった。論語の時代に含まれるBC518ごろの「蔡侯尊」には、「蔡𥎦虔共大命」とあり、「虔んで大命を共にす」と訓める。つまり”天命”の意。
詳細は論語語釈「命」を参照。
斯人也而有斯疾也
「斯の人也、し而斯の疾ある也」と読む。前の「也」は主語の強調で、”よりによって”この人が、の意。「而」はこの場合逆接で、”それなのに”。後ろの「也」は詠嘆で、”~であることよ”の意。也の字を断定に用いるのは、戦国時代以降の語法だからである。
「疾」は急性で致死性の病。詳細は論語語釈「疾」を参照。論語語釈「斯」も参照。
論語:解説・付記
論語の本章の冉伯牛は、孔子に「徳行」を賞賛された弟子の一人(論語先進篇2)。
年齢的にも孔子に近く、7つしか違わない。8つしか違わない子路と並んで、弟子と言うより年下の友人といったところ。子路がその縁戚によって、任侠道の大親分・顔濁鄒と孔子を繋いだと同様、冉伯牛も冉一族の長老として、冉有や冉雍を入門させるきっかけを作った。
”君主に据えてもいい”とまで孔子が言ったのだから(論語雍也篇1)、冉雍もなにがしかの徳=能力に優れていたのだろうが、政戦両略の才があった冉有は、あるいはそれ以上に孔子に貢献した、つまり徳があっただろう。季孫家に仕えた冉有は、斉軍の撃退という自分の武勲をたて、孔子の帰国を認めるよう、魯国筆頭家老の季孫家に訴えたからだ。
論語の時代、「徳」とは人徳を意味しない。人格によって発揮される力を言い、機能や能力と考えた方がいい。その徳を評価されたからには、冉伯牛は何かしら優れた能力を持っていたのだろう。孔子は、友人としてその死が哀しいのはもちろん、冉伯牛の徳を惜しんだ。
だからこそ、「斯人也」=”よりにもよって君ほどの人が”、「而」=”なんでまた”、と言ったわけ。