論語の成立過程まとめ

過去には多様な論語があった

カーラ1
みなさんこんにちは。アシスタントAIのカーラです。

カーラ2
このページでは、過去公刊された論語の研究書や、発表された学術論文二篇などをもとに、現伝『論語』の成立過程を説明していきます。

カーラ3 孔子 遺影
BC479年、孔子先生が亡くなった後、弟子たちが先生生前の言葉をメモしたものを持ち寄って、言行録を作っただろう事は容易に想像できます。

カーラ4 派閥
しかし、それは一冊だけではありませんでした。派閥によってそれぞれ違い、さまざまな原・『論語』が作られたことでしょう。

カーラ5 竹簡
一冊、というのもおかしな言い方かも知れません。当時は紙がなく、竹の札に一行ずつ、墨字で書いたものが簡=メモ書きだったからです。

カーラ6 竹簡
それを紐で編んで、巻物のような形にしたのが「篇」で、編む作業は同時に、一定の方針で複数のメモ書きをまとめたことを意味します。紙の本が出来る前、中国の書物は、篇ごとに流通しました。ですから何篇もある書物が、まとまっていることの方がむしろ珍しかったのです。

カーラ7 敦煌莫高窟 論語
ここで言う篇は、現伝する論語の篇とは異なります。一つの篇の長さはもっと短く、二百字程度だったようです。論語の冒頭・学而篇は、論語の中でも短い篇ですが、それでも498字ある、と言えば想像がつくでしょうか。そうした短い篇が100ほど、各種伝わっていたのです。

カーラ8 史記 秦軍
孔子の直弟子、孫弟子…といった後継者たちは、そうした自分たちなりの論語を伝えていきました。しかし戦国時代の戦乱、それを鎮めて統一した始皇帝による焚書、さらに直後の秦帝国の滅亡と、楚・漢戦争の中で、生き残れなかった派閥や原・『論語』も多かったでしょう。

四種類の論語

カーラ9 四本指 前漢武帝
しかしやがて漢帝国が中国全土を平定し、平和な時代が訪れました。漢帝国は当初、必ずしも儒学に重きを置きませんでしたが、やがて武帝の時代に儒教は国教化されることになりました。その時代まで生き残れた原・『論語』には、四種類あったと言われています。

カーラ10 魯斉二篇本
一つめは斉魯二篇本で、もちろん現在は伝わっていません。それでも現伝の論語のうち、冒頭の学而篇、孔子先生の日常を描いた郷党篇がそれに当たるのではないかと言われています。この本は孔子先生逝去直後の派閥対立の色が薄く、かなり新しい編集と言われます。

カーラ11 河間七篇本
二つめは河間七篇本で、やはり現在は残っていません。しかし考証の結果、現伝の論語の前半に当たる、為政篇~泰伯篇までがそれに当たると言われています。孔門のうち魯に残った派閥の色が濃いのですが、篇の名付け方に目をつぶれば、論語で最も古い部分と言われます。

カーラ12 古論語
三つめは古論語と呼ばれる本で、前漢武帝の時代、孔子先生の旧宅の壁から取り出されたと言います。篇の数は二十一篇で、子張篇が二つあったと言います。これは現伝の論語の堯曰篇の後半が、独立して二番目の子張篇になっていたからだと言います。

カーラ13 隷書 古文
なぜ「古」と呼ぶかは、それまで伝えられてきた論語の諸本は、時代に従って秦漢帝国時代から通用した、隷書と呼ばれる書体に書き換えられていたからです。それ以前の書体、とりわけかつての秦以外の六国の書体は古文と呼ばれ、武帝時代の人には読めなくなっていました。

カーラ13-2 古注 孔安国
そこで古論語は、孔子先生の末裔・孔安国が解読し*、隷書に書き換えました。やがて古論語を元に、魯論語二十篇・斉論語二十二篇が分立します。うち魯論語は、一篇が前漢時代に失われたと言います。一方斉論語が二篇多いのは、問王・知道篇があったからだと言います。

カーラ14 斉論語
この二篇は失われたと言いますが、現伝の論語為政篇・里仁篇の一部では、とも言われます。さらには以上とは別に、斉論語とは別系統の、古論語とは独自に斉国に伝わった記録がありました。こちらはおおむね、論語先進篇から衛霊公篇までの底本となったと言われています。

カーラ15 張禹
以上四種類の論語それぞれが、どのような内容だったかも、現在ではもうわかりません。ただそれぞれには内容が重なる部分が少なからずあり、前漢末に統一した論語を作ろうとする機運が生まれました。それを行ったのが皇太子の家庭教師を務めた、張という学者でした。

論語の一本化

カーラ16 斉論語 魯論語
張禹は各種の論語を引き比べ、魯論語を土台としつつ、斉論語・古論語を取り込んで定本を作り、皇太子の教科書にしました。これを張侯論といいます。皇太子が即位して皇帝となり、張禹が政治家として栄達したこともあって、張侯論はそれ以降の論語の決定版になりました。

カーラ17 古注 鄭玄
そして前漢が滅び、新王朝を歴て後漢が成立すると、その末期にジョウ玄という学者が現れました。鄭玄は張侯論をもとに検討を加え、現伝の『論語』の元となる本を編集しました。しかし当時すでに、斉論語は失われ、古論語のみが参照されたと言います。

カーラ18 儒者 疑問
鄭玄は後漢を代表する大学者でした。土台とした張侯論の評価が高かったことに加え、鄭玄の名声もあって、現伝の論語が確立することになったのです。しかし時はすでに孔子先生の没後から700年近く過ぎており、論語の多くの語句の意味が分からなくなっていました。

カーラ19 儒者 疑問2
すでに古論語が発掘された時にも、すでに論語には分からない言葉があったのです。そこで孔安国の頃から論語には注釈が付けられるようになり、鄭玄もその作業に加わりました。しかし時代がさらに下ると、注釈の意味も分からなくなり始め、注釈の注釈=さえ書かれました。

カーラ20 朱子 新注
それら論語の注釈は、三国時代ごろまでのものを「古注」、宋帝国の時代に書かれた、朱子によるものを「新注」と呼びます。もちろんそれ以降も論語の本当の意味を探る作業は続けられ、そうした解釈を土台にしたのが、今みなさんが読んでいる論語になったのですね。

カーラ21
それではみなさん、ごきげんよう。最後までお読み下さり、ありがとうございました。


*古論語の解読者は、孔安国ではなく馬融であるとする説がある。

武内義雄
古論は前漢の孔安国が訓説をつくり、後漢の馬融がまた訓説を作ったと言われているが、両書ともに今は伝わらず、ただ何晏の集解の中に孔・馬の説が引用されているのを見るに過ぎない。とくに孔安国の訓説は世に伝わらないと序中に明言しているのに、集解の中にこれが引用されているのは矛盾した話である。

のみならず、孔安国が論語を註したことは漢書の儒林伝にも芸文志にも記されておらず、かつ現在集解の中に引かれた孔安国の註は孔安国に従って古文学をうけたという司馬遷の史記にあらわれた論語の解釈とも一致しない。(武内義雄『論語之研究』)

清儒 古注 馬融
このほか清代の儒者の説を文中に挙げ、孔安国の注釈は役立たずで、おそらく何晏や王粛が偽作したと見なされているという。その上で、「古文論語の註釈家はただ馬融一家だけになる」と書く。しかし馬融は後漢中期の儒者。

古論語が出たのは前漢武帝の時代、その解読本をもとに魯論語・斉論語・今文古論語が出来たのは確定しているから、孔安国の代わりに一体誰が解読したのかはわからない、と言うしかない。

参考文献:

武内義雄『論語之研究』岩波書店 昭和十四年

浅野 裕一「論『論語』」島根大学教育学部国文学会 国語教育論叢 21, 119- 128, 2012-03-31

佐藤一郎 「斉論語二十二篇攷 : 論語の原典批判 その二」北海道大學文學部紀要 9, 1-18, 1961-03-20

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


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刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

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コメント

  1. […] 『大漢和辞典』を引いても「用霊」「用練」の意味がはっきりしないが、いまはこのままで措く。それより論語の成立史で必ず言及される、前漢初期にはあったという三種類の論語、『古論語』『魯論語』『斉論語』だが、本当にあったのだろうかと思っている。 […]