論語の伝承

みなさんこんにちは。アシスタントAIのカーラです。
現伝の論語は、春秋戦国ではなく漢代の編集物です。論語も中国の文書ならではの、後世の書き換えを免れなかったのですが、その最も古い姿はどのようだったでしょう。論語の成立過程を語る前に、今皆さんが目に出来る論語が、これまでどのように伝えられてきたかをざっとご覧下さい。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
今残っている最古の論語の版本は、前漢中期宣帝の時代(BC74-BC48)に埋蔵されたとされる、定州漢墓竹簡のうちの論語です。ただし盗掘の被害や発掘後の被害によって、全部の章が揃っているわけではありません。加えてそもそも論語には、後漢以降に成立と見られる章さえあります。
この定州竹簡論語より古いと称する、平壌楽浪地区出土の論語もあるようですが、発掘地は中国よりも政治的にうるさく、発掘の経緯や出土物の実体について不審が多すぎるので、このサイトでは扱いかねます。ともかく現存最古の論語の物証は、定州竹簡論語だとしておきましょう。
次いで古いのは、後漢末期の熹平年間(172-178)から石碑に刻まれ始めた漢石経です。しかし漢石経は定州竹簡論語より破損がひどく、今はカケラしか残っていません。従って論語の古い姿を復元するには、情報が足りないのです。次代、三国魏の碑文はそもそも論語を含んでいません。
漢石経が刻まれた頃から南北朝、その主に南朝で、論語の古注が編まれました。文字史から検討して後漢末には、論語は現伝の章が全部揃っていたと考えられますが、三国(220-280)初期に編まれた古注の注、南朝梁の時代(502-557)につけ加えられた疏(注の付け足し)、いずれも当時の版本は残っていません。
現存する最も古い古注本は、おそらく隋代(581-618)の中国で筆写され、日本に輸入された慶大蔵論語疏になります。ただし今見つかっているのは論語の子罕篇と郷党篇だけで、やはり論語の古い姿を復元するには、定州本と慶大本だけでは不十分であるのが分かります。
現伝の論語の全章を、余さず伝える最も古い物証は、唐(618-907)の都・長安に建てられた石碑でした。これを開成石経と呼ぶのですが、高級官僚採用試験=科挙に儒教を科目とした唐の朝廷は、晩唐(836-907)*になって採点のためでしょうか、統一した論語の文字列を決めたのです。
建てられた翌838年、日本の最後の遣唐使が訪れていますから、おそらく書き写して帰ったのでしょう。京大などに写しが保管されています。この文字列がその後、論語の定本となっていくのですが、統一の過程でかなりの書き換えが行われ、定州本や慶大本と異なる箇所は少なくありません。
例えば論語郷党篇19は、孔子先生が野生のニワトリに呼びかけた歌が載っているのですが、唐代の中国語ではヘンに聞こえました。そこで「雉」の字を足し、野良トリのはずがキジに呼びかけたことにして仕舞いました。唐石経にはそれ以外の理由でも、書き換えが少なくないのです。
たかが歌詞じゃないか、とも思えますが、当時の高級官僚や政治家はポエム作りを試験して採用しました。ですから詩の開祖とされた孔子先生が、ヘンな歌を歌っては権威に関わりますし、その権威と儒教を看板にしようとした、唐朝廷の沽券にも深く関わってくるのです。
また20世紀初頭、中国西域の探検が流行り、敦煌などで古文書が発掘されました。論語も含まれていたのですが、漢石経よりひどくないにせよ、断片しか残っていません。しかも埋蔵年や発掘地や発見者がばらばらで、つまり出所が怪しく、もちろん同じ人の手による筆写でもありません。
加えて西域は当時の帝都長安から遠く懸け離れた辺境ですから、人文的教養のしっかりした人が珍しかったようで、筆画を崩したり誤ったりした字で記されている箇所が少なからずあり、『敦煌俗字譜』という研究書が出ている程です。本文の省略もちらほらあるようです。
従って定州本・慶大本に欠けた論語の部分を、唐石経や敦煌本で遡るのは無理です。中国ではその後宋代になって、論語注疏、論語集注(新注)が編まれました。論語注疏は南宋(1127-1279)時代の版本が、日本に輸入され宮内庁が所蔵しています。これが現存最古の論語の完本の紙本です。
ただし経(本文)は唐石経と同じですから、慶大本に欠けた論語の部分を補う役には立ちません。しかし同じ宮内庁の所蔵に、1327と翌年に日本で筆写された古注の巻物で、全章の経と注を伝える清家本があり、その写し元の本は、1240-1243に刊行されたとされています。
写しも元も唐石経より新しいのですが、その代わり経の文字列は古注に従い、唐石経より古い姿を伝えていると言えます。以上から漢代の原型論語の復元は、定州竹簡論語・慶大蔵論語疏・宮内庁蔵清家本によって、かなりつくろい合わせることが出来ると言えるでしょう。
加えて宮内庁本を12年さかのぼる東洋文庫蔵論語集解(清家本)があり、これも完本です。さらに東洋文庫には、清家本と同じく古注の残巻(中原本)があり、文永五年(1268)年の写本です。これは論語衛霊公篇の一部と季氏篇を伝える残巻のみのですが、つくろう当て布にはなります。
日本の論語伝承は、清家本のあとは南北朝から室町時代にかけて正平本→文明本→足利本、江戸時代になって根本本へと受け継がれたのですが、文明本以降の版には注意が必要です。同時代の中国伝承の論語を参照したのはいいのですが、書き手が勝手な改竄を行ってもいるからです。
室町初めごろまでの日本人は、論語を書き換えようとはしませんでしたが、中国と公式の国交が断絶する中で、日本人の自我が昂揚した結果でしょうか。そもそも儲かるなら日本人も中国人と同様、ニセ文書が大好きなのです。実例は論語はどのように作られたかを参照して下さい。
なお論語の古注は本場中国では、新注が出来たあと一冊残らず無くなってしまいました。新注の書かれた次代、モンゴル人が支配した元帝国の時代に、科挙のテキストとして新注が採用されたからで、古注など読んでも役人になれなくなった途端、用済みだと廃棄されてしまったのです。
時代が下って清朝の頃、政治的にアブナくない古典研究が流行り、古注は再注目されました。同時代の江戸期日本に古注があると聞いた清儒が、大喜びで逆輸入しましたが、開いてみると政治的にアブナイ部分があったので真っ青になって書き換え、日本伝承の古注とは若干異なっています。
下はその例(論語八佾篇5)。「清朝はケダモノだ」と読み取れかねない事が書いてありました。

こういう漢籍のドタバタ劇は、論語郷党篇12余話「せいっ、シー」を参照して下さい。
| 名称 | 出現年 | 種別 | 内容 | 備考 |
| 平壌楽浪地区出土論語? | BC1C後半? | 経本? | 経? | 残簡のみ? 20世紀末ごろ出土? 中国以上に政治的にうるさく、正体不明で、本サイトでは取り扱いかねる。 |
| 定州竹簡論語 | 前漢宣帝期 BC74-BC48 |
経本 | 経 | 残簡のみ 非完本 |
| 漢石経 | 後漢熹平四年 175 |
経本 | 経 | 残石のみ 非完本 |
| 慶大蔵論語疏 | 隋代以前 618以前 |
古注 | 経・注・疏 | 巻六のみ 非完本 |
| 唐石経 | 唐開成二年 837 |
経本 | 経 | 完本 原石に摩耗はあるが写本が全文残る |
| 鄭玄注残巻 (敦煌本) |
秦宗権龍紀二年 886まで? |
注本 | 経・注 | 残巻のみ |
| 宮内庁蔵論語注疏 | 南宋時代 1127-1279 |
注疏 | 経・注・疏 | 完本 |
| 四書集注 | 南宋淳熙五年 1178 |
新注 | 経・注 | 完本 |
| 京大蔵清家本 | 徳治三年以前? 1308以前? |
古注 | 経 | 伝・清原良枝筆/天文十九年(1550)版 完本 |
| 東洋文庫蔵清家本 | 正和四年 1315 |
古注 | 経・注 | 原本1242写 完本 |
| 宮内庁蔵清家本 | 嘉暦二年~三年 1327-1328 |
古注 | 経・注 | 原本1242写 完本 |
| 正平本 | 室町時代 1333-1573 |
古注 | 経・注 | 原本1364刊 完本 |
| 龍雩本 | ? | 古注 | 経・注 | 「古寫」と書誌情報にあるのみで年代不明。「龍雩」印あり。内容的に正平本と同等以上に古い。完本 |
| 文明本 | 文明九年 1477 |
古注 | 経・注・疏 | 完本 |
| 足利本 | 室町時代 1500-1578 |
古注 | 経・注 | 完本 |
| 根本本 (鵜飼本) |
寛延三年 1750 |
古注 | 経・注・疏 | 完本 |
| 懐徳堂本 | 大正十三年 1924 |
古注 | 経・注・疏 | 完本 |
過去には多様な論語があった?

以上は21世紀だから分かることで、前世紀まではそうもいきませんでした。儒教は帝政中国・江戸期日本の国教でしたし、国家宗教ですから宣伝や捏造がどうしても入り込みます。それに始まる論語についての勘違いは、今なお世間に広まって疑いもしない「専門家」も少なくありません。
そうした雑味の取りのけは本サイトの詳解に譲るとして、ここでは論語の成立過程に関して、重大なうそデタラメを取り挙げましょう。20世紀の日本の漢学者は、過去の中国儒者が書き付けた、相互に矛盾する論語成立史にどうにか辻褄を付けました。
武内義雄『論語之研究』その他が主張したところをまとめます。
- 論語はもと四種類あった。
- 一・二つめは斉魯二篇本で、現伝の論語のうち、冒頭の学而篇、孔子の日常を描いた郷党篇がそれに当たる。またかなり新しい編集である。
- 三つめは河間七篇本で、現伝の論語の前半に当たる、為政篇~泰伯篇までがそれに当たる。論語で最も古い部分である。
- 四つめは古論語と呼ばれる本で、前漢武帝の時代、孔子先生の旧宅の壁から取り出された。篇の数は二十一篇で、子張篇が二つあった。これは現伝の論語の堯曰篇の後半が、独立して二番目の子張篇になっていたからだ。
- 古論語をなぜ「古」と呼ぶかは、それまで伝えられてきた論語の諸本は、時代に従って秦漢帝国時代から通用した、隷書と呼ばれる書体に書き換えられていたから。それ以前の書体、とりわけかつての秦以外の六国の書体は古文と呼ばれ、武帝時代の人には読めなくなっていた。そこで古論語は、孔子の末裔・孔安国が解読し、隷書に書き換えた。
- やがて古論語を元に、魯論語二十篇・斉論語二十二篇が分立した。うち魯論語は、一篇が前漢時代に失われた。一方斉論語が二篇多いのは、問王・知道篇があったから。だがこの二篇は失われた。ただし現伝の論語為政篇・里仁篇の一部になった。また古論語→斉論語とは別系統の、斉国に伝わった記録があった。こちらはおおむね、論語先進篇から衛霊公篇までの底本となった。
- 以上四種類の論語をまとめ、前漢末に統一した論語を作ろうとする機運が生まれた。それを行ったのが皇太子の家庭教師を務めた、張禹という学者だった。張禹は各種の論語を引き比べ、魯論語を土台としつつ、斉論語・古論語を取り込んで定本を作り、皇太子の教科書にした。これを張侯論という。皇太子が即位して皇帝となり、張禹が政治家として栄達したこともあって、張侯論はそれ以降の論語の決定版になった。
- そして前漢が滅び、新王朝を歴て後漢が成立すると、その末期に鄭玄という学者が現れた。鄭玄は張侯論をもと、現伝の『論語』の元となる本を編集した。しかし当時すでに、斉論語は失われ、古論語のみが参照された。鄭玄は後漢を代表する学者で、土台とした張侯論の評価が高かったこともあって、現伝の論語が鄭玄の手で確立した。しかし時はすでに孔子没後から700年近く過ぎており、論語の多くの語句の意味が分からなくなっていた。
- すでに古論語が発掘された時にも、すでに論語には分からない言葉があった。そこで孔安国の頃から論語には注釈が付けられるようになり、鄭玄もその作業に加わった。しかし時代がさらに下って南北朝になると、注釈の意味も分からなくなり、注釈の注釈=疏さえ書かれた。
と前世紀の漢学教授は言ったのです。

しかし現在ではこの説をまるごと信用するわけにはいきません。漢学教授の論拠は後漢の王充ほか儒者の著作ですが、物証の裏付けが無いからです。そもそも「百年前に滅びた」と自分で記した古論語魯論語斉論語を、見てきたようにペラペラ語る王充を信用できるでしょうか。

また古論語を解釈した孔安国は、漢の高祖劉邦の名前を避諱(名前をはばかって同じ漢字を使わない)しないなど、実在の人物とは思えない行動をとっています。おそらく孔安国は、三国時代に古注を編む過程で、前後の漢儒を代表するために作られた、架空の人物と考えた方が筋が通ります。
前漢の朝廷人は、互いに相手を隙あらば落とし入れリアルに首をちょん切ってやろうとした、殺伐とした人々でした(論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」)。そんな中でボンヤリと避諱しない孔安国の、首が胴体と繋がったままだったとは信じられない話です。
古注『論語集解義疏』

また年代が近い『史記』に孔安国の伝記が無く、「申公という引き籠もりのおじいさんから儒学を習い、博士・知事まで出世した」「弟子がいた」「語学の達者で古文を読めた」とそれぞれ他のついでに書いているだけです。しかも『史記』は後世いじくられましたから、この記述も不審です。

その孔安国を創作したとおぼしき何晏は、曹操の娘を嫁に貰いながら、魏が落ち目になると帝室を司馬懿に売り渡した無節操オトコで、だからといって論語にニセを書いたとは言えませんが、信用できるとも言えません。現伝論語の全部が全部、孔子と直弟子の史実でないのはこれらゆえです。
何晏が漢儒の注釈を元にして、古注の原本『論語集解』を編んだこと、それに三国以降の注の付け足しを書き加えて、南朝梁の皇侃が『論語(集解)義疏』を編んだのは事実でしょう。ですがその過程で、彼らが好き勝手な書き換えや捏造を行わなかったと信じるのはあまりに間抜けです。
上記の通り唐石経ですら、好き勝手な書き換えを加えているのです。時代が下る北宋の論語注疏、さらに南宋の論語集注=新注にも、根拠の無い書き換えはちらほら見られます。編者の自己宣伝やなにがしかの政治的意図があったのでしょうが、論語をまじめに伝承したわけではありません。
ちなみに中国正史のトップを飾る『史記』でさえ、中国人はいったん一冊残らず焼いて無くしてしまいました。今目に出来る『史記』の祖先は、日本の戦国武将・直江兼続が所蔵していた本です。こんな扱いの本ですから、いくらでも後世の書き換えがあったと言い切って差し支えありません。
事情は『論語』も同じです。
論語は「最古の古典」か

長い間論語は、「中国最古の古典」と言われてきました。しかし論語の当時に通用した金文で、論語を記した出土物は一点も見つかっていません。戦国時代の孟子も荀子も、「孔子曰く」と言いはしても、「論語」という言葉は使っていませんし、戦国の竹簡からも論語は見つかっていません。
『老子道徳経』は見つかっているのに、論語は断片らしきものしか見つかっていないのです。以上の事実は史実を考えれば当たり前で、孔子先生生前の儒家が春秋の思想界を制覇したわけでも、帝政時代のような特権的地位にあったわけでもありません。そればかりか一度滅びました。

だから再興した孟子が好き勝手を申したのですが、事情は帝政期の儒者も同じです。21世紀初頭のいま現在、最古の論語は上記したように、前漢中期までしか遡れません。言い換えると、それから遠くない過去に『論語』は作られたのです。もちろん材料はありました。
戦国の竹簡に僅かながら断片が残っているように、儒家の間で孔子先生の言葉や日常が、メモ書きのようにして伝わっていたのでしょう。その原形はおそらく、孔子先生の直弟子が、教えを受けるたびに記したメモ書きで、もちろん全くの私人が記したわけですから雑多でばらばらです。
材料も安い木や竹のふだ、布の類に書いたのでしょう。直弟子の一人である子張が、教えられてとっさに自分の帯にメモ書きした、と論語衛霊公篇6にあります。そうした直弟子のメモは、こんにちただの一件も見つかっていませんが、論語の原形はそうだったと想像するしかありません。
孔子先生と直弟子達の物語は、そうした雑多な状態で戦国時代を伝わり伸びて、秦帝国の時代を迎えます。基本はまじめ人間だった始皇帝は、ウソには本気で怒る性格で、それが現在「焚書坑儒」として伝わっています。ですから儒者は始皇帝が怖くて、まだ『論語』を作れませんでした。
現在、大小の『礼記』と呼ばれる儒家の礼法書があり、論語とも似通った記述も見られるのですが、この本は周代や春秋戦国に編まれたにしては言葉が新しすぎ、前漢の編と見なすべきです。実際『史記』は、「孔子の礼法は綺麗さっぱり消えて無くなった」と書いています。
況中庸以下,漸漬於失教,被服於成俗乎?孔子曰「必也正名」,於衛所居不合。仲尼沒後,受業之徒沈湮而不舉,或適齊、楚,或入河海,豈不痛哉!

中庸編に始まる作法が、時と共に失われたのは言うまでもない。こうやって、周の着付け作法は、今見るようなだらしない着付けに取って代わってしまったのかも知れない。
孔子は言った。「必ず、中華人には中華人と名乗るにふさわしい実体が伴っていなければならない」(論語子路篇3)と。孔子の在世中、中原の衛国でも風俗が乱れていたからこう言わざるを得なかった。
孔子没後は、礼法を習った弟子は世間に知られないままに埋もれてしまい、あるものは東のはて斉国へ、あるものは南の果て楚国まで行ったが、ぜんぜん出世出来ないので絶望して川や海に身投げしてしまった。ああ、悲しまないでいられようか。(『史記』礼書3)
そして漢が秦に取って代わって65年、武帝が即位します。武帝はおそらく常人未満の知性しかなかった上に、幼少期には道家好みの帝室の女性達にいじくり回され、すっかり道家嫌いになっていました。そこへやって来たのが儒者の董仲舒で、あることないこと吹き込みました。

その結果がいわゆる儒教の国教化ですが、事実上武帝のあとを継いだ宣帝は、「儒者という役立たず」と平気で言ってのけていますし、道家が弾圧されたという史実も伝わりません。前漢の間は、儒家は諸学派のうちの有力な学派に過ぎず、国教と言えるまでになったのは後漢からです。
ともあれ現伝の論語を作る動機と能力があった最初は、董仲舒だったと言ってよいでしょう。さらに前後の漢帝国の間には、短い新帝国の時代がありました。その皇帝だった王莽は儒家マニアで、文字史の検討や他の伝承との比較から、論語にもいくつか偽作をねじ込んだ疑いがあります。

王莽をおいやって後漢を建てた光武帝も儒家マニアで、その上たちの悪い偽善者でしたから(後漢というふざけた帝国)、王莽と同程度には論語をいじくり、あるいは新作を加えた可能性があります。論語には文字史や言語史から見て、前漢成立と言うにもまだ無理な章があるからです。
以上を踏まえると論語は、後漢が滅んで三国時代になって、何晏が古注をまとめることで、やっと現在の章が全て揃ったとみるべきでしょう。かけらしか残っていない後漢末期の漢石経に、現伝の章全てが記してあったかは分からないからです。しかも三国時代は近い未来でした。
現伝『論語』は、
- 孔子先生の直弟子達がメモを取り
- メモに孟子が三百代言で伝説を付け加え
- 伝説にでっち上げをつけ加えて董仲舒がこしらえ
- こしらえ物に王莽や光武帝がさらに好き勝手なことを書き加え
- 好き勝手の過ぎた後漢が滅びて、何晏がやりたい放題に足したり削ったりした
- その後も中国人や日本人が自分の都合で書き換えた
…そういう本です。水臭い酒と言うより、酒臭い水なんですね。
有以淡水酒飲客者。客甞之。極譽其烹庖之妙。主人曰。粗殽尚未設。何以知之。荅曰。勿論其他。只這一味酒煮白滾湯。已好喫矣。
ある人が来客に出す酒にインチキをして、水をたっぷり加えてかさ増しした。食前にお客が一口飲んで、さかんに料理の腕前を誉める。
主人「まだ料理は出していませんが? 何で誉めなさる?」
お客「言うまでもありません。このお酒で香りを付けた白湯の美味いこと。お料理もきっと美味しいに違いありますまい。」(『笑府』巻十二・淡酒)

以上がこんにち分かる論語の成立過程です。本稿をお読み下さり、ありがとうございました。
参考文献
武内義雄『論語之研究』岩波書店 昭和十四年
浅野 裕一「論『論語』」島根大学教育学部国文学会 国語教育論叢 21, 119- 128, 2012-03-31
佐藤一郎 「斉論語二十二篇攷 : 論語の原典批判 その二」北海道大學文學部紀要 9, 1-18, 1961-03-20







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