初版は昭和十八年(1943)四月五日で、『論語集釋』とほぼ同時。
戦前の論語研究の第一人者で、東北帝国大学教授・武内義雄による、原文と書き下しと訳注だけの本。現代語訳が無いから、今日的意味では訳本とは言いがたいが、ただしその訳注や、類書である『論語之研究』は論語を研究する者にとっては必読。これらなしでは始まらない。
『定州漢墓竹簡論語』が出た今となっては、その校訂にはあまり意味が無いが、それでも研究者なら一応目を通さないといけない。また同じ著者による『論語之研究』も、あまりに古すぎてこんにち的価値はほとんど無いが、やはり研究者なら一読の必要がある。
ただ気を付けなければいけないのは、世の万事同様鵜呑みにしないことで、世にまれなまじめ漢学教授だった武内博士でも、その断定を今の視点から検証しなければいけないことだ。学びは巨人の肩に乗って世を見ることだが、後世により大きな巨人がいないとは言い切れない。
漢文という、こんにちではほとんど価値が無く、しかも学ぶのに辛気くさいものを読もうとするにあたって、一字一句の解釈を有名人に放り投げてしまいたくはなるが、古来日中ともに漢文業界はうそデタラメが横行しており、21世紀の今、改善されたとはとうてい言い難い。
中国の儒者がウソばかりついていたのは論語をまじめに読めばすぐ知れるし、現代中国は独裁政権下にあって、世に出られるのは御用学者がほとんどだ。その例は漢和辞典ソフト比較#漢語多功能字庫を参照。残念ながらこの事情は、現代日本でも大して変わらない。
だが歎いていてもお腹が減るだけだから、覚悟して自力で調べるしか無い。今ある巨人の肩に乗れるのは、そうやって覚悟した者だけの特権で、登らない山を登ったと言い張るのが今ではすぐバレるように、読めない漢文を読んだと言って信じて貰うのは長続きしない。
なおこの本に言う「清家本」については、凡例にこうある。
清原家本とは仁治中清原教隆が寫定した本で、これを轉寫した古寫本が二部現存してゐる。その一は岩崎氏東洋文庫に祕蔵さるゝ正和年間の鈔寫*にかゝる本で、他の一は宮内省圖書寮尊蔵の嘉暦年中の鈔寫に係るものである。また舊津藩侯の所蔵に係る古寫本一通があつて、昔から菅公の筆と傳へられて居たが、その内容を吟味すると、これ亦教隆本を轉寫したものである。この本は先年東京大震災に烏有に歸した*と聞くが、天保年間これを縮臨*摹刻*した本があり、また嘉永年間北野學堂*でその經文だけを摹刻した本がある。本書の原文はこの北野學堂本を正和鈔本と嘉暦鈔本で校正したものである。但し諸本に異體俗字をかいて居るところは正體の文字に改めた。
*鈔寫=抄写。文章を写し取ること。鈔は拓本のように刷ることで、抄のように”抜き書きする”語義は無い。*烏有に帰す=すっかり消失すること。*縮臨=大漢和にもない漢語だが、どうやら”お手本を誠実に模写する”ことらしい。*摹刻=模刻。そっくりになぞった版木で刷ること。*北野学堂=元禄16年(1703)創建の、京都北野天満宮付属の学校のことか?
京大のアーカイブによると、出版年は天文十九年(1550)という。
論語の各章をいちいち検討すると、この「清家本」は現伝論語の底本になっている唐石経と比べて、前漢宣帝期の定州竹簡論語に近いようである。つまり日本には、AD830年頃の唐石経より以前に論語が伝わっており、それは北条泰時が執権だった仁治年間(AD1240-1243)までは残っていた、ということだ。
この件については、古注『論語義疏』についても参照されたい。
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