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論語詳解128雍也篇第六(11)賢なる哉回や*

論語雍也篇(11)要約:後世の創作。顔回はスラム街に住み、貧乏も気にせず、人生を楽しんでいました。先生はそれを見て、とてもかなわない、年下の弟子であろうと顔回には、自分にも及ばないところがあると畏敬した、という作り話。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰賢哉回也一簞食一瓢飲在陋巷人不堪其憂回也不改其樂賢哉回也

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰賢哉回也一簞食一瓢飲/在陋巷人不堪其憂回也不改其樂賢哉回也

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

曰:「賢哉,回也!一單a食,一120……

  1. 單、今本作「簞」。單借為簞。

標点文

子曰、「賢哉回也。一單食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其樂。賢哉回也。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 賢 金文哉 金文回 金文也 金文 一 金文単 金文食 金文 一 金文飲 金文 在 金文巷 金文 人 金文不 金文其 金文憂 金文 回 金文也 金文不 金文改 金文其 金文楽 金文 賢 金文哉 金文回 金文也 金文

※論語の本章は上記の赤字が論語の時代に存在しない。「單」「巷」の用法に疑問がある。本章は漢帝国の儒者による創作である。

書き下し

いはく、かしこしきかなくわいひとまりいひひとふくべくみあやしきちまたり。ひとうれひくわいたのしみあらたかしこしきかなくわい

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 顔回
先生が言った。「えらいなあ、回は。竹茶碗一杯の飯に、ふくべ一つの飲み物で、いやしい横町に住んでいる。人はその不自由に我慢できないが、まことに回はそれを楽しんで止めない。賢いなあ、回は。」

意訳

孔子 人形 顔回大明神
顔回は大したものだ。一膳めしに茶碗一杯の水を飲み、スリや刃傷沙汰が絶えない貧民街に住んでいるのに、朗らかに生活している。全く大したものだ。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
(かい)は何という賢者だろう。一膳飯に一杯酒で、裏店(うらだな)住居といったような生活をしておれば、たいていの人は取りみだしてしまうところだが、囘は一向平気で、ただ道を楽み、道にひたりきっている。囘は何という賢者だろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「顏回真賢德!一籃飯,一瓢水,在陋巷,人人都愁悶,他卻樂在其中。顏回真賢德!

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「顔回はまことに賢者の徳を備えている。ひとかごの飯、ひとふくべの水を飲み食いし、貧民街に住んでいる。人々はその苦痛に耐えられないが、彼は却ってそれを楽しんでいる。顔回はまことに賢者の徳を備えている。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

賢(ケン)

賢 金文 賢 字解
(金文)

論語の本章では”偉い”。”知能が優れている”のみを示さないので、「かしこし」と訓読した。初出は西周早期の金文。字形は「臣」+「又」+「貝」で、「臣」は弓で的の中心を射貫いたさま、「又」は弓弦を引く右手、「貝」は射礼の優勝者に与えられる褒美。原義は”(弓に)優れる”。詳細は論語語釈「賢」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

回(カイ)

顔回

論語の本章では、孔子の弟子、顔回子淵のこと。BC521ごろ – BC481ごろ。いみなは回、あざなは子エン。顔淵ともいう。詳細は論語の人物・顔回子淵を参照。またもっと侮れない顔氏一族も参照。

亘 回 甲骨文 回 字解
「亘」(甲骨文)

「回」の初出は甲骨文。ただし「セン」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調に用いている。訳は”こそは”・”なんと”。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

本来は「回也賢哉」と言うべき所、「賢哉回也」と倒置して「賢」を強調している。

一(イツ)

一 甲骨文 一 字解
(甲骨文)

論語の本章では、数字の”いち”。「イチ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。

簞(タン)→單(タン/セン)

簞 隷書 簞 字解
(前漢隷書)

論語の本章では、”小さな弁当箱”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。同音に「單」(単)とそれを部品とする漢字群など。初出の字形はたけかんむりではなく「艹」+「單」で、草で編んだ「タン」と呼ばれる小さなはこを意味する。同音の「單」(単)は甲骨文から存在する。「単」に食器を意味する語釈は『大漢和辞典』に無いが、”かさなる・うすい”などの語釈があり、簞は草で作った重ねおきできる弁当箱のようなものを指すか。詳細は論語語釈「簞」を参照。

単 甲骨文 単 字解
「單」(甲骨文)

「單」の初出は甲骨文。「タン」の音で”一つ”、「セン」の音で”平らげる”を意味する。”はこ”の語義は春秋時代では確認できない。字形は猟具の一種とも言われるが詳細不明。甲骨文では氏族名・地名に用い、金文では国名に用いた。戦国の竹簡では”はばかる”、地名の「邯鄲」、”攻撃”の意に用いた。”ひとつ”の意が明記されるのは、後漢の『釈名』からになる。詳細は論語語釈「単」を参照。

食(ショク)

食 甲骨文 食 字解
(甲骨文)

論語の本章では”食べもの”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「シュウ」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。

瓢(ヒョウ)

瓢 篆書 瓢 字解
(篆書)

論語の本章では”ひょうたん”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音は「飄」”つむじかぜ”と「摽」”叩く”。字形は「票」+「瓜」で、「票」は音符。原義は”ヒョウタン”。部品の「瓜」の初出は戦国早期の金文で、論語の時代にギリギリあったかどうかというところ。「票」の初出は戦国文字で、”ひょうたん”の語義は『大漢和辞典』に無い。詳細は論語語釈「瓢」を参照。

飮(イン)

飲 甲骨文 飲 字解
(甲骨文)

論語の本章では”飲みもの”。初出は甲骨文。新字体は「飲」。初出は甲骨文。字形は「酉」”さかがめ”+「人」で、人が酒を飲むさま。原義は”飲む”。甲骨文から戦国の竹簡に至るまで、原義で用いられた。詳細は論語語釈「飲」を参照。

在(サイ)

才 在 甲骨文 在 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…に居る”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。

陋*(ロウ)

陋 篆書 陋 字解
(篆書)

論語の本章では”いやしい”。初出は論語子罕篇14の定州竹簡論語。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。中国と台湾では、コード上「陋」を正字として扱っている。阝=𨸏(フ)は丸太を刻んで階段にした形、丙は祭壇などの台座、匚は箱などに入れて隠すこと。従ってたかどのに据えられた台座を隠すことで、取るべきではないいみじきものを隠し盗むこと。原義は”いやしい”。詳細は論語語釈「陋」を参照。

巷(コウ)

巷 金文 巷 字解
コウ 外字」(金文)

論語の本章では”横丁”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は戦国晩期の金文。ただし『字通』によれば、「コウ 外字」と書いて西周初期の金文にある。同音は「鬨」”たたかう”・「項」”うなじ”・「鬨」”戦う”。字形は「人」二人の間に「土」で、原義は”境界”。日本語で同音同訓の字には、論語の時代の文字が見つからない。詳細は論語語釈「巷」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(世間の)ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。

堪(カン)

堪 秦系戦国文字 堪 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”我慢する”。論語では本章のみに登場。初出は戦国文字。論語の時代には存在しない。論語時代の置換候補もない。「タン」は慣用音。同音は「甚」を部品とする漢字群・「坎」”あな”など。部品の「甚」は”はげしい”の意で、”堪える”は『大漢和辞典』に見られない。字形は「土」+「甚」で、土の盛り上がったさま。原義は”土盛り”。詳細は論語語釈「堪」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

憂(ユウ)

憂 金文 憂 字解
(金文)

論語の本章では”うれい”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。

改(カイ)

改 甲骨文 改 字解
(甲骨文)

論語の本章では”あらためる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「巳」”へび”+「ホク」”叩く”。蛇を叩くさまだが、甲骨文から”改める”の意だと解釈されており、なぜそのような語釈になったのか明らかでない。詳細は論語語釈「改」を参照。

樂(ラク)

楽 甲骨文 楽 字解
(甲骨文)

論語の本章では”楽しみ”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章はほぼ全文が前漢中期成立の『史記』弟子伝に再録されている。またほぼ同文を、孔子没後一世紀に生まれた孟子が記している。

顏子當亂世,居於陋巷。一簞食,一瓢飲。人不堪其憂,顏子不改其樂,孔子賢之。


顔淵先生は乱世に生きたから、狭苦しい横丁に住み、茶碗一杯のご飯とふくべ一杯の飲み物で済ませ、人はその苦しみに耐えられないのに、顔淵先生はそれを楽しいと感じて変えなかった。孔子先生は「えらい」と言った。(『孟子』離婁下57)

定州竹簡論語にもあることから、前漢前半には成立していた。だが文字史では論語の時代に遡れず、後世の儒者による創作は確実。上掲『孟子』も本当に孟子の筆によるのか疑問がある。孟子は顔淵を「顔回」と呼び捨てにもしているからで、ここだけ「顔子」と記し”顔淵先生”と媚びへつらった表現をしているのはいかがわしい。後世の儒者、おそらくは宋儒による『孟子』書き換えが疑われる。

解説

顔淵称揚運動を行ったのは、前漢中期の董仲舒で、いわゆる儒教の国教化と共に、顔淵を崇拝対象として重要人物に据えた。董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。また董仲舒による顔淵神格化の詳細は、論語先進篇3解説を参照。

顔淵が孔子の愛弟子だったことは史実だろうが、論語を始め儒教経典で、繰り返し「偉かった。偉かった。」と讃えられるほどの人物とは考えがたい。どう偉かったか、何も伝わっていないからだ。仕官もせず没した顔淵は、何一つ表立った社会的な業績を残せなかった。

だからせめて、本章のような、「何もしなかったこと」を、後世の儒者は顕彰せざるを得なかったのだろう。そうなると、本当に顔回が貧乏暮らしをしたのかということまで、疑わしくなってくる。後世の外国人である訳者さえそう思うからには、中国の知識人はなおさらだ。

ある人「顔回先生は、城壁近くの肥えた畑を三十ケイも持っていたのに、どうして窮死しちゃったんだろう?」
別の人「財産があるのに、これ見よがしに簞食瓢飲(タンシヒョウイン)=粗食を見せびらかしたからさ。」(『笑府』巻二、徳行

実際には顔淵が何もせずに孔子に評価されたわけがなく、おそらく顔回は孔子一門の諜報部門を担い、一門の政治活動には不可欠だった(孔門十哲の謎)。それだけに大っぴらに業績を誉めることも出来なかった。それに気付かないのは、儒者は狂信を装うのがメシの種だからだ。

中国人に限ると、狂信は理性の一つでありうる。というのも、現世利益が無ければ決して狂信が起きないからだ。儒者は儒教の「センセイ」だから世間から金を吸い取れたわけで、顔淵を狂信するふりをする動機は十分にあった。

話はこれで終わりだが、「陋巷」を”スリや刃傷沙汰の絶えない貧民窟”と訳したところで、とある伝説を思い出した。本章が創作された前漢帝国での話だが、道ばたで大げんかがあって、人死にが出ているというのに、宰相から気にされなかった、という話。

吉又嘗出,逢清道群鬥者,死傷橫道,吉過之不問,掾史獨怪之。吉前行,逢人逐牛,牛喘吐舌。吉止駐,使騎吏問:「逐牛行幾里矣?」掾史獨謂丞相前後失問,或以譏吉,吉曰:「民鬥相殺傷,長安令、京兆尹職所當禁備逐捕,歲竟丞相課其殿最,奏行賞罰而已。宰相不親小事,非所當於道路問也。方春少陽用事,未可大熱,恐牛近行用暑故喘,此時氣失節,恐有所傷害也。三公典調和陰陽,職所當憂,是以問之。」掾史乃服,以吉知大體。

漢書
宰相の丙吉があるとき外出すると、貴人の露払いの者が互いに道を譲らず、大げんかになっており、道ばたで人死にが横になっている始末。ところが丙吉はそ知らぬ顔をして通り過ぎたので、お付きの者が首をかしげた。

さらに丙吉が車を進めると、牛を牽いた者に出会い、牛はあえぎながら舌を出していた。「オイ牛飼い!」と丙吉は呼び止めた。護衛の騎兵をやって、「ここまで南里連れてきた?」と問わせた。

お付き「閣下、何かお間違えではございませんか?」
丙吉「いや、まちごうておらん。民の者がケンカしているのは、町奉行が取り締まるべきで、宰相のワシは年末になってから、その裁きの善し悪しで点を付けるのが仕事じゃ。こんな道ばたのチマチマしたことに、いちいち関わってはおられん。」

お付き「ははあ、そんなものですか。」
丙吉「それより今はまだ早春で、牛があえぐほどの陽気ではあるまいし、大して道のりを行ったわけでもないのに、ああなっていたのは変事の発端とみるべきで、こよみが狂っておるのかもしれん。宰相格の者はそういう天下の大きな陰陽を司る身であるから、牛飼いを呼び止めた。」

お付き「恐れ入りましてございます。さすがは閣下でございます。」(『漢書』丙吉伝14)

余話

生涯現役幼児の天子

前漢武帝
上掲『漢書』は武帝以降の前漢の政治的雰囲気を伝える話で、対して漢初の宰相は実際に行政を指揮する実務担当だった。だがおそらく常人未満の知能しか持たない武帝が、幼児がおもちゃをいじり壊すように政治制度をいじくった挙げ句、宰相はこのような虚業になり果てた。

漢初の制度では、帝室(内朝)と政府(外朝)は厳密に区分され、行政を司る丞相(宰相)、軍事を司る太尉(軍務大臣兼参謀総長)、監察を司る御史大夫(監察総監)で外朝を構成し、皇帝の私情と国政は一線を引いていた。だが武帝は内朝を中朝と言い換えて、政府を帝室に接収した。

つまり全権を皇帝の気分次第で振り回すと同時に、東方朔のようなお笑い芸人を相談役として中朝に配置、中朝にはさらに大将軍の職をおいて、気に入りの者を任じて軍を動かした。その結果漢の軍権を皇帝が掌握したのはいいが、その代わり軍事費は皇帝の持ち出しになった。

つまり漢には皇帝の私兵だけが残り、国軍が存在しなくなった。だが皇帝の御用聞きに成り下がった宰相の代わりに、誰かが行政の面倒を見ねばならず、本来監察の長だった御史大夫が宰相役を果たすようになり、監察次官だった御史中丞が、監察の長を務めるようになった。

中朝の人事は皇帝の気分次第だったから、どんな人物を任じたかで皇帝の器量が分かる。武帝は東方朔のようなお笑い芸人、霍去病のような認知障害、司馬相如のようなメルヘンおたくしか任命しなかった。自分未満の者しか使えなかったわけで、帝王の器でないと言って良い。

漢高祖劉邦 張良
高祖劉邦と比較すればよく分かる。田舎ヤクザに過ぎなかった劉邦は、行政万能の蕭何、百戦百勝の韓信、悪だくみ天下一品の陳平、そして韓の王族で得体の知れない謀略を次々に考え出した張良を従え、最初に秦を滅ぼし、次いで武勇絶倫の項羽に打ち勝って漢帝国を興した。

『資治通鑑』を編んだ司馬光は、武帝の政治をこう要約している。

漢武取高帝約束紛更,盜賊半天下。


漢の武帝は高祖の定めた制度を叩き壊し、その結果臣民の半分は盗賊になるしかなかった。(『宋史』司馬光伝)

日本でのみ有名な歴史物語『十八史略』はこう記す。

所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰:「卿、除吏盡未。吾亦欲除吏。」後皆充位而已。公孫弘後、國事多事、丞相連以誅死。公孫賀拜相、至涕泣肯不拜。亦卒以罪死。


(武帝が)任命した宰相では、初期には田蚡が宰相らしい裁決をしたものの、武帝は気に入らずにイヤミを言った。「そちはもう、部下どもを気が済むまで任命し終えたか? ならワシにも好きな者を任命させよ。」この挙げ句、宰相はただその椅子に座っているだけの虚業になった。

公孫弘が宰相になって以降、内外の政治課題が積み上がって政治運営が難しくなったが、肝心の宰相が次から次へと、武帝の気分次第で殺されてしまった。理の当然で誰もが宰相になるのを嫌がった。

ある時武帝が公孫賀を宰相に任じようとすると、泣いて嫌がってなりたがらなかった。武帝は許さず無理やり宰相に据えたが、結局は気に入らなくて殺してしまった。(『十八史略』西漢・武帝)

『十八史略』を史料として扱うことは出来ないが、『漢書』の記録と矛盾はない。

  • 建元…二年冬十月,御史大夫趙綰坐請毋奏事太皇太后,及郎中令王臧皆下獄,自殺。丞相嬰、太尉蚡免。
  • 元光…三年…春三月乙卯,丞相蚡薨。
  • 元狩…二年…春三月戊寅,丞相弘薨。
  • 五年春三月甲午,丞相李蔡有罪,自殺。
  • 元鼎…二年冬十一月,御史大夫張湯有罪,自殺。十二月,丞相青翟下獄死。
  • 五年…九月,列侯坐獻黃金酎祭宗廟不如法奪爵者百六人,丞相趙周下獄死。
  • 太初…二年春正月戊申,丞相慶薨。
  • 征和…二年春正月,丞相賀下獄死。
  • 三年…六月,丞相屈氂下獄要斬,妻子梟首。(『漢書』武帝紀)

『漢書』は武帝の次代昭帝の、即位7年後の模様を記すことで、武帝の知能を伝えている。

明旦,光聞之,止畫室中不入。上問「大將軍安在?」左將軍桀對曰:「以燕王告其罪,故不敢入。」有詔召大將軍。光入,免冠頓首謝,上曰:「將軍冠。朕知是書詐也,將軍亡罪。」光曰:「陛下何以知之?」上曰:「將軍之廣明,都郎屬耳。調校尉以來未能十日,燕王何以得知之?且將軍為非,不須校尉。」是時帝年十四,尚書左右皆驚。


(摂政の霍光を怨む者と、その一味で遠隔地の燕王が共謀して、昭帝に霍光の告発書を、霍光の休日を狙って奏上した。いわく、軍の演習の際、まるで皇帝のように大官を先発させて出迎えさせた。参謀本部の人員を勝手に任命した。謀反のきざしである、と。)

翌日霍光は事を知り、宮廷の控え室に控えたまま御前に出なかった。
昭帝「大将軍(霍光)はどこにいる?」
(霍光を怨む一味の)左将軍上官桀「燕王様に罪を告発されたので、控えております。」

昭帝は霍光を呼び入れるよう命じた。霍光が冠を脱いで土下座したので、昭帝は言った。「冠をかぶれ、将軍。私はこの告発が偽りであると見抜いている。将軍に罪は無い。」
霍光「陛下はどうして偽りとご存じなのですか?」

昭帝「将軍が広明の地へ演習に連れていったのは、全員が部下だけだった。しかも参謀本部の人事を発令してから、まだ十日もたっていない。遠隔地の燕王がどうしてそれを知れる? それにもし将軍が悪事を働くなら、人事をいじるまでもあるまい。」

この時(は元鳳元年・BC80で)、帝は数えで十四歳でしかなかった。秘書官や侍従は、その聡明に驚いた。(『漢書』霍光伝7)

閲覧者諸賢はこれを読み、昭帝が聡明だと思われるか。十四にもなってこんな足し算も出来ないようでは、むしろ知能障害を疑う。この時、武帝以来の皇帝側近が交替した史料は無いから、こんな簡単な理屈すら先代の武帝には分からなかった、と側近が白状しているようなものだ。

批判者を持たないから専制君主なのだが、同時に皇帝や太子の誤りを指摘する人物がいない事にもなる。家臣にとっては皇帝は暗愚な方が、好き勝手がやりやすい。仮に生まれつきは常人並みでも、皇帝に仕上がる頃には、家臣がよってたかってアホウに育てるのである。

そのアホウが帝国の主となるのが常例化する。重複をおそれず記せば、名君として知られた清の康煕帝に、カトリックの宣教師が鍵盤楽器を献上したところ、帝が指先で鍵盤一つを「ポン」と押して音が出るたび、周囲の宦官が「陛下すごいすごい!」と拍手喝采した。

「こういう環境で常人並みの知性を保つのは奇跡に近い」と宣教師が書いている。

前漢年表

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武帝が常人未満だった史料は他にもある。武帝は晩年、気まぐれから皇后と皇太子を殺した。太子の孫だったのちの宣帝は赤ん坊だったが、父と共に牢に入れられたので、看守だった丙吉が憐れんだ。だがゴマすり男が武帝に「牢から次の皇帝が出る風味がします」と言った。

武帝は怒り狂ってあらゆる囚人を殺せと命じたが、その勅命を伝える使者が牢獄に来たと知り、丙吉は門を閉じてこう言った。「陛下の曽孫さまが牢にはおわす。庶民でも罪なき者を殺してはならぬのに、まして曽孫さまならなおさらだ。」追い返された使者は武帝に報告した。

「丙吉めが従いません。罰するべきです。」しかし武帝は答えた。「天が殺すなと言っておわすのじゃ。ワシにはどうにも出来ぬ」(『漢書』丙吉伝)。常人未満だからこその情緒不安定で、相手がたとえ小役人でも、開き直って反抗されると怖くて仕方が無かったのだ。

この丙吉が上掲の通り、のちに宰相になるのである。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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