論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子華使於齊冉子爲其母請粟子曰與之釜請益曰與之庾冉子與之粟五秉子曰赤之適齊也乗肥馬衣輕裘吾聞之也君子周急不繼富
- 「華」字:〔艹〕→〔十十〕。
校訂
諸本
- 論語集釋:史記弟子傳「冉子」作「冉有」。
東洋文庫蔵清家本
子華使於齊冉子爲其母請粟子曰與之釜/請益曰與之庾/冉子與之粟五秉/子曰赤之適齊也乗肥馬衣輕裘吾聞之也君子周急不継富
- 「華」字:〔艹〕→〔十十〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……冉子與之粟五秉。子曰:「赤之適齊也,乘肥馬,112……[不]繼富。」113
標点文
子華使於齊、冉子爲其母請粟。子曰、「與之釜。」請益、曰、「與之庾。」冉子與之粟五秉。子曰、「赤之適齊也、乘肥馬、衣輕裘。吾聞之也、君子周急不繼富。」
復元白文(論語時代での表記)
庾 輕 急
※釜→缶・粟→米(甲骨文)・請→靑・肥→(金文大篆)・富→(甲骨文)。論語の本章は「釜」「庾」「輕」「急」の字が論語の時代に存在しない。「爲」「其」「之」「秉」「適」「周」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降、恐らくは漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
子華齊於使す。冉子其の母の爲に粟を請ふ。子曰く、之に釜を與へよ。益すを請ふ。曰く、之に庾を與へよ。冉子之に粟五の秉を與ふ。子曰く、赤之齊に適く也、肥え馬に乘り、輕き裘を衣たり。吾之を聞く也、君子は急るを周ひて、富めるに繼が不と。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子華が斉国へ使いに出た。冉子が子華の母のためにアワを求めた。先生が言った。「彼女に六斗四升与えなさい。」もっと下さいと言った。先生が言った。「十六斗与えなさい。」冉子は八百斗を与えた。先生が言った。「赤が斉に行く時まさに、肥えた馬に乗り、軽い皮衣を着た。私はまさにこう聞いている。身分ある情け深い教養人は(他人の)急場を救うが、富んだ者には足さないと。」
意訳
公西赤が斉国へ使いに出ることになった。冉有が留守宅手当にアワを下さいと言った。
孔子「釜一杯分やりなさい。」「少ないですよ。」「俵一つ分やりなさい。」
冉有は独断で大俵五つ分、二十俵ほど与えた。
孔子「これ冉有や。公西赤めは立派な馬にまたがって、上等な毛皮羽織を着て出て行ったぞ。昔から言うだろう、紳士は困っている者は助けるが、金持ちに追い銭はしてやらないと。」
従来訳
子華が先師の使者として斉に行った。彼の友人の冉先生が、留守居の母のために飯米を先師に乞うた。先師はいわれた。――
「五六升もやれば結構だ。」
冉先生はそれではあんまりだと思ったので、もう少し増してもらうようにお願いした。すると、先師はいわれた。――
「では、一斗四五升もやったらいいだろう。」
冉先生は、それでも少いと思ったのか、自分のはからいで七石あまりもやってしまった。
先師はそれを知るといわれた。――
「赤は斉に行くのに、肥馬に乗り軽い毛衣を着ていたくらいだ。まさか留守宅が飯米にこまることもあるまい。私のきいているところでは、君子は貧しい者にはその不足を補ってやるが、富める者にその富のつぎ足しをしてやるようなことはしないものだそうだ。少し考えるがいい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
子華出國當大使,冉子請孔子拿點米給子華的母親。孔子說:「給一百斤。」冉子說:「給多點吧。「加四十斤。」冉子給了兩千斤。孔子說:「子華在齊國,坐豪華車,穿名牌衣,我已聽說了。君子君子衹救濟窮人,不添加財富給富人。」
子華が国外に出て大使になった。冉子が孔子に、子華の母親にいくらか穀物を与えて下さいと頼んだ。孔子が言った。「百斤(50kg)与えよ。」冉子が言った。「もう少し多く与えて下さい。」「四十斤(20kg)増やせ。」冉子は二千斤(1t)与えた。孔子が言った。「子華は斉国で、豪華な車に乗り、ブランドものの服を着ていたと私は聞いた。君子はただ困窮している人を救うのみで、富んだ者に富を加えはしない。」
※君子君子→ママ
論語:語釈
子 華 使 於 齊、冉 子 爲 其 母 請 粟。子 曰、「與 之 釜 。」請 益、曰、「與 之 庾 。」冉 子 與 之 粟 五 秉。子 曰、「赤 之 適 齊 也、乘 肥 馬、衣 輕 裘。吾 聞 之 也、君 子 周 急 不 繼 富。」
子華
BC509?ー?。孔子の弟子。姓は公西、名は赤、字は子華。見た目が立派で外交官に向いていると孔子に評された。詳細は論語の人物:公西赤子華を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
「華」(金文)
「華」の初出は西周早期の金文。字形は満開に咲いた花を横から描いた象形で、原義は”花”。金文では地名・国名・氏族名・人名に用いた。詳細は論語語釈「華」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”使者として出向く”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
齊(セイ)
(甲骨文)
論語の本章では”斉国”。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。
冉子(ゼンシ)
「冉」(甲骨文)
孔子の弟子、冉求子有のこと。ここでは冉子=冉先生と敬称になっている。それを含め冉有について詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。
『論語集釋』が指摘する通り、『史記』弟子伝では「冉子」の表記にゆれがある。
欽定四庫全書本 | 冉有爲其母請粟 | 冉子與之粟五秉 |
武英殿二十四史本 | 〃 | 〃 |
南宋本(現存最古の『史記』) | 〃 | 〃 |
「冉子爲其母請粟」の部分は定州竹簡論語から欠損している。ただし隋末には日本に伝わったと見られる古注は「冉子爲其母請粟」「冉子與之粟五秉」とどちらも「冉子」と記しているので、校訂しなかった。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のために”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という指示詞。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
母(ボウ)
(甲骨文)
論語の本章では”母”。初出は甲骨文。「ボ」は慣用音。「モ」「ム」は呉音。字形は乳首をつけた女性の象形。甲骨文から金文の時代にかけて、「毋」”するな”の字として代用もされた。詳細は論語語釈「母」を参照。
請(セイ)
(戦国金文)
論語の本章では”もとめる”。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「靑」(青)。字形は「言」+「靑」で、「靑」はさらに「生」+「丹」(古代では青色を意味した)に分解できる。「靑」は草木の生長する様で、また青色を意味した。「請」では音符としての役割のみを持つ。詳細は論語語釈「請」を参照。
粟*(ショク)
(燕系戦国文字)
論語の本章では”穀物”または”アワ”。初出は燕系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「米」。「ゾク」は慣用音、「ソク」は呉音。同音は存在しない。字形は「果」+「米」で、イネ科の穀物が実ったさま。原義は”穀物”。「粟」にも「米」にも、ともに”麦以外の穀物一般”の意がある。詳細は論語語釈「粟」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では”与える”。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、「赤之」では”…の”、それ以外では”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
釜*(フ)・庾*(ユ)・秉*(ヘイ)
三つとも論語では本章だけで使用。穀物の量の単位。それぞれの量は本によって異なる。
「釜」(戦国金文)
「釜」は論語の本章では”酒瓶一瓶分”。初出は戦国時代の金文。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「缶」。論語では本章のみに登場。字形は「缶」”液体の容器”+「戈」”ほこ”または「又」”手”。字形からの語義は未詳。原義はおそらく量をはかる”ます”。「漢語多功能字庫」によると、戦国の竹簡では「斧」の意に用いた。詳細は論語語釈「釜」を参照。
「庾」(隷書)
「庾」は論語の本章では”俵一つ分”。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。論語では本章のみに登場。同音は「臾」「俞」など多数。字形は「广」”屋根”+「臾」”人を両手で抱える”で、「臾」は音符。原義は不明。『大漢和辞典』で音ユ訓くらに「㔱」があるが、初出は不明。同音「臾」に”あじか”の語義を『大漢和辞典』が載せるが、春秋時代に確認できない。詳細は論語語釈「庾」を参照。
「秉」(甲骨文)
「秉」は論語の本章ではよく分からないが単位の一つ。『大漢和辞典』は「庾」の十倍という。初出は甲骨文。量の単位としての語義は、春秋時代では確認できない。論語では本章のみに登場。字形は「又」”手”+「禾」”イネ科の穀物”で、原義は”手に取る”。金文では原義で(虢弔鐘・年代不詳/弔向父簋・西周末期)、”管轄する”(班簋・西周早期)、氏族名(秉觚・殷代末期)の意に用いた。詳細は論語語釈「秉」を参照。
益(エキ)
(甲骨文)
論語の本章では”つけ加える”。初出は甲骨文。字形は「水」+「皿」で、容器に溢れるほど水を注ぎ入れるさま。原義は”増やす”。甲骨文では”利益”と解せる例がある。春秋時代までの金文では、地名人名、「諡」”おくり名を付ける”の意に用いられ、戦国の金文では「鎰」(上古音不明)”重量の単位”(春成侯壺・戦国)に用いられた。詳細は論語語釈「益」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
五(ゴ)
(甲骨文)
論語の本種では数字の”ご”。初出は甲骨文。字形は五本線のものと、線の交差のものとがある。前者は単純に「5」を示し、後者はおそらく片手の指いっぱいを示したと思われる。甲骨文の時代から数字の「5」を意味した。詳細は論語語釈「五」を参照。
赤(セキ)
(甲骨文)
論語の本章では、孔子の弟子、公西赤子華のこと。「赤」の初出は甲骨文。字形は「大」”身分ある者”を火あぶりにするさまで、おそらく原義は”火祭り”。甲骨文では人名、または”あか色”の意に用い、金文でも”あか色”に用いた。詳細は論語語釈「赤」を参照。
適(テキ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”行く”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周の金文。ただし字形は「啻」。現行字形の初出は戦国文字。同音は存在しない。字形は〔辶〕+「啇」。「啇」の古形は「啻」で、「啻」は天の神を祭る禘祭を意味した。おそらく神意にかなうことから、「適」の原義は”かなう”。詳細は論語語釈「適」を参照。
乘(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”乗る”。初出は甲骨文。新字体は「乗」。「ジョウ」は呉音。甲骨文の字形は人が木に登ったさまで、原義は”のぼる”。甲骨文では原義に加えて人名に、金文では”乗る”、馬車の数量詞、数字の”四”に用いられた。詳細は論語語釈「乗」を参照。
論語の時代には騎馬の技術も習慣も無く、「肥馬に乗る」とは”肥えた馬に引かせた車に乗る”の意。ただし本章が戦国中期以降の偽作となると、騎馬と解するのにも理屈が付く。
中国人が騎馬を始めるのは、戦国時代の趙の武霊王(?-295)からとされる。一度滅びた儒家を復興した、戦国時代の孟子は、諸侯に取り入るためにうそデタラメを論語に書き加えたが、武霊王と同時代人であり、「馬に乗る」という作文を書いたかどうか。
肥(ヒ)
(晋系戦国文字)
論語の本章では”太った”。論語では本章だけで使用。初出は晋系戦国文字。ただし孔子と同時代の季孫家当主に季孫肥=季康子がおり、論語の時代に存在しないとは断定できない。カールグレン上古音はbʰi̯wər(平)。同音に非を部品とする漢字群など。字形は「月」”にく”+「㔾」で、太いもも肉のこと。原義は”(動物が)太った”。同音に語義を共有する文字は無い。『大漢和辞典』で音ヒ訓こえるは他に存在しない。詳細は論語語釈「肥」を参照。
馬(バ)
(甲骨文)
論語の本章では馬車を引く”馬”。初出は甲骨文。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。
衣(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”着る”。初出は甲骨文。ただし「卒」と未分化。金文から分化する。字形は衣類の襟を描いた象形。原義は「裳」”もすそ”に対する”上着”の意。甲骨文では地名・人名・祭礼名に用いた。金文では祭礼の名に、”終わる”、原義に用いた。詳細は論語語釈「衣」を参照。
輕(ケイ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”軽い”。新字体は「軽」。初出は楚系戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。同音に傾など。語義を共有する文字は無い。字形は「車」+「巠」”たていと”で、「巠」は音符。原義は”軽い”。『大漢和辞典』で音ケイ訓かるいは他に存在しない。詳細は論語語釈「軽」を参照。
裘(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”かわごろも”。初出は甲骨文。「求」と同音。甲骨文の字形はかわごろもの襟元で、原義は”毛皮の服”。「求」は後に音を表すため付けられたと見える。甲骨文では地名に用い、金文では氏族名、また原義で用いた。詳細は論語語釈「裘」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたしの”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
君子(クンシ)
論語の本章では”情け深く教養を身につけた人徳のある人”。論語の本章は用いた文字の怪しさから見て、戦国時代以降の成立が確実なので、孔子生前の意味”貴族”ではなく、孟子が商売の都合ででっち上げた意味で解すべき。詳細は論語における「君子」を参照。
周(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”不足を補う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。『大漢和辞典』の第一義は”いきとどく”。『大漢和辞典』でこの語義を持つ字は他に存在しない。初出は甲骨文。極近音に「彫」など。甲骨文の字形は彫刻のさま。原義は”彫刻”。金文の字形には下に「𠙵」”くち”があるものと、ないものが西周早期から混在している。甲骨文では”周の国”を意味し、金文では加えて原義に、人名・器名に、また”周の宗室”・”周の都”・”玉を刻む”を意味した。それ以外の語義は、出土物からは確認できない。ただし同音から、”おわる”、”掃く・ほうき”、”奴隷・人々”、”祈る(人)”、”捕らえる”の語義はありうる。初出は甲骨文。極近音に「彫」など。甲骨文の字形は彫刻のさま。原義は”彫刻”。金文の字形には下に「𠙵」”くち”があるものと、ないものが西周早期から混在している。甲骨文では”周の国”を意味し、金文では加えて原義に、人名・器名に、また”周の宗室”・”周の都”・”玉を刻む”を意味した。それ以外の語義は、出土物からは確認できない。ただし同音から、”おわる”、”掃く・ほうき”、”奴隷・人々”、”祈る(人)”、”捕らえる”の語義はありうる。詳細は論語語釈「周」を参照。
急(キュウ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”危機”・”苦境”。論語では本章だけに登場。初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。上古音の同音に「彶」”急いで行く”・”あわただしい”があり、甲骨文から存在するが、”危機”の語義は春秋末期までに確認できない。初出の字形は「又」”手”の変形+「心」で、「又」の変形はおそらく右手。上側の一画は親指。原義はおそらく”動悸”。詳細は論語語釈「急」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~でない”。漢文で最も多用される否定辞。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。初出は甲骨文。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義。詳細は論語語釈「不」を参照。現代中国語では主に「没」(méi)が使われる。
繼(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”継ぎ足す”。新字体は「継」。初出は甲骨文。但し字形はいとへんを欠く「㡭」。現行字体の初出は前漢の隷書。甲骨文の字形は繋がった「糸」二つで、原義は”続ける・続く”。金文では原義で用いられた。詳細は論語語釈「継」を参照。
富(フウ)
(甲骨文)
論語の本章では”富んでいる者”。初出は甲骨文。字形は「冖」+「酉」”酒壺”で、屋根の下に酒をたくわえたさま。「厚」と同じく「酉」は潤沢の象徴で(→論語語釈「厚」)、原義は”ゆたか”。詳細は論語語釈「富」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は定州竹簡論語に含まれ、全文が『史記』弟子伝に再録されている。それ以外は先秦両漢の誰一人引用も再録もしていない。話そのものは孔子生前にありそうだが、論語の時代に存在しない字があることから、本章は後世、それも文字史から前漢儒の創作と断じるしかない。
ただし偽作の動機が分からない。考えられるのは一つだけで、冉有がダメ男と世間に思わせることだ。冉有は子貢と並んで弟子の中では行政の才に長けた人物で、かつ弟子を取って学派を開くようなことをしなかった。従って後世に派閥を残していない。
ゆえに前漢儒はいくら冉有の悪口を書いても、どこからも文句が来ない。いわゆる儒教の国教化を図った董仲舒は、むやみに顔淵を持ち上げて神格化したから、顔淵を目立たせるため、冉有や子貢や、同じく政才に長け派閥を残さなかった子路をおとしめる動機は十分にある。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
解説
古代中国の単位について、紀元前後に一升=約200cm3とwikipediaはいう。『大漢和辞典』のリットル換算はこれに従った。
宮崎本による一日分は1.28リットルになるが、三食に分けてもこんなには食べられない。精白した場合、アワはコメの倍近いカロリーがあるからで(論語雍也篇5語釈)、これは食費以外の費用を含んだ一日分の生活費だろう。
これを365倍し、さらに2018年の日本の平均年収で換算すると、アワ1リットルは約1万円の価値になる。つまり公西赤が受け取った留守手当はwikipedia換算で約1,600万円。これなら新品の馬や服が買えそうである。
『学研漢和大字典』換算では、孔子ははじめ一釜=12L与えよと言い、次に一庾=31.04L与えよと言ったが、冉有は五秉=1,552L与えた計算になる。こちらも金額に直せば約1,552万円。やはり「金持ちに追銭」と言えるだろう。
大漢和辞典 | 宮崎本 | 学研漢和大字典 | |
秉 | 百六十斗(320L) | 二百日分 | 十六斛 |
庾 | 十六斗(32L) | 二十日分 | 一六斗 |
斛・石 | 十斗(石の音はセキ) | 十斗19.4L(石の音はコク) | |
釜 | 六斗四升(12.8L) | 十日分 | 六斗四升約12L |
区 | 十六升 | 四豆=十六升 | |
斗 | 十升 | 十升1.94L | |
豆 | 四升 | 四掬0.8L | |
升 | 十合 | 十合0.194L | |
掬 | 五合 | 0.2L | |
合 | 二龠/十龠 | 0.019L | |
龠 | 黍粒千二百 | 黍1,200粒 |
余話
算数は苦手でござる
ついでながら吉川本は、荻生徂徠の計算をコピペしており、以下の通り。
釜=日本の升目で五升七合五勺弱
庾=日本の升目で一斗四升三合七勺強
秉=日本の升目で七石一斗八升五合九勺強
再びwikipediaによると、日本の
1石 = 10斗 ≒180.390 684 L
1斗 = 10升 ≒ 18.039 068 L
1升 = 10合 ≒ 1.803 906 837 L
1合 = 10勺 ≒ 0.180 390 684 L
したがってすなわち
釜=6.23リットル弱
庾=25.92リットル強
秉=1296.27リットル強
アワはググり切れなかったが、コメ1合は150gとwikipediaにあるから、暇つぶしついでに計算してみる。
150g≒0.180 390 684 L → 1リットル≒815.63g
さらにwikipediaによると、コメ1俵は60kg、軽トラックの最大積載量は350kgだそうである。
『大漢和辞典』換算
釜=12.8リットル≒10.44kg
庾=32リットル≒26.10kg
五秉=1600リットル≒1305.00kg≒21.75俵 軽トラック3.73台分
荻生徂徠換算
釜≒6.23リットル≒5.08kg
庾≒25.92リットル≒21.14kg
秉≒1296.27リットル≒1057.28kg≒17.62俵 軽トラック3.02台分
儒者の書いたお芝居では、20俵前後もドカドカと、公西赤の留守宅に俵が積み上がることになる。さぞ豪儀なけしきだったろう。
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