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論語詳解261先進篇第十一(8)ああ、天われを*

論語先進篇(8)要約:後世の創作。弟子の顔回が亡くなって、「天は私を滅ぼした」と孔子先生が歎きます。古代人には珍しく天を当てにしなかった先生が、この時ばかりは歎いたと漢儒は言うのですが、都合がよすぎはしませんか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

顔淵死子曰噫天喪予天喪予

  • 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

顔淵死子曰噫/天䘮予天䘮予

  • 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。

後漢熹平石経

…死子曰…

定州竹簡論語

(なし)

標点文

顏淵死。子曰、噫、天喪予。天喪予。

復元白文(論語時代での表記)

顔 金文淵 金文死 金文 子 金文曰 金文   天 金文喪 金文予 金文 天 金文喪 金文予 金文

※論語の本章は「噫」の字が論語の時代に存在しない。本章は漢儒による創作である。

書き下し

顏淵がんえんぬ。いはく、あああめわれほろぼせり、あめわれほろぼせり。

論語:現代日本語訳

逐語訳

顔回 孔子 哀
顔淵が死んだ。先生が言った。「ああ、天は私を滅ぼした。滅ぼした。」

意訳

顔回に先立たれるとは…私はもうおしまいだな。天に見放された。

従来訳

下村湖人

顔渕が死んだ。先師がいわれた。――
「ああ、天は私の希望を奪った。天は私の希望を奪った。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

顏淵死,孔子說:「哎!老天要我的命啊!老天要我的命啊!」

中国哲学書電子化計画

顔淵が死んで孔子が言った。「ああ! 天は私の命をお召しだ! 天は私の命をお召しだ!」

論語:語釈

、「 。」


顏淵(ガンエン)

論語 顔回
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。

顔淵
『孔子家語』などでも顔回を、わざわざ「顔氏の子」と呼ぶことがある。後世の儒者から評判がよく、孔子に次ぐ尊敬を向けられているが、何をしたのか記録がはっきりしない。おそらく記録に出来ない、孔子一門の政治的謀略を担ったと思われる。孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。詳細は孔子の生涯(1)を参照。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

淵 甲骨文 淵 字解
「淵」(甲骨文)

「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。

「上海博物館蔵戦国楚竹簡」では「淵」を「囦」と記す。上掲「淵」の甲骨文が原字とされる。

死(シ)

死 甲骨文 死 字解
(甲骨文)

論語の本章では”死去した”。字形は「𣦵ガツ」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

噫*(イ)

噫 篆書 噫 字解
(篆書)

論語の本章では”ああ”という嘆きの声。初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「口」+音符「意」。由来ははっきりしない。同音に「醫」「醷」”梅酢”、「意」「鷾」”ツバメ”。漢音「アイ」の音は”げっぷ”の意。文献上の初出は本章など論語。戦国中期の『荘子』には用例があるが他の諸子百家に用例が見られない。詳細は論語語釈「噫」を参照。

天(テン)

天 甲骨文 天 字解
(甲骨文)

論語の本章では”天の神”。宇宙の主催者を意味する。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。

喪(ソウ)

喪 甲骨文 喪 字解
(甲骨文)

論語の本章では”失う”→”失わせる”→”滅ぼす”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。

予(ヨ)

予 金文 予 字解
(金文)

論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。

天喪予(あめわれをほろぼせり)

この句の解釈について、古注は「まるで自分を滅ぼすようだ」としか記していない。「後継者である顔淵が死んだから自分を滅ぼすも同然だと言った」と言い出したのは新注を書いた朱子で、それよりやや先行する北宋邢昺の『論語注疏』は古注と言っていることが違わない。

朱子
ここから、通説の言う「孔子は顔淵を後継者と考えていた」というのは実は朱子の嘘っぱちで、「子路が武勇を発揮した」というデタラメ同様に、儒者も漢学教授も千年以上、デタラメを担ぎ回って喜んでいたことになる。

論語の本章を偽作した董仲舒の心象風景は推し量るしか無いが、「顔淵の死をまるで自分の滅亡のように感じて歎いた」とまでは言えても、後継者うんぬんまでは言い過ぎというものだ。まして、「孔子にとって天とは何ぞや」などという、デタラメ話の上にハッタリの楼閣をこしらえて説教するに至っては、間抜けとしか言いようが無い。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

「天喪予」と中国史上で初めて言いだしたのは、前漢武帝時代にいわゆる儒教の国教化を進めた董仲舒。

顏淵死,子曰:「天喪予。」(『春秋繁露』隨本消息)

董仲舒
この男が論語にもさまざまな偽作を押し込んできたことは、これまでたびたび記したとおり。それを受けて董仲舒の弟子筋である司馬遷は、『史記』孔子世家に本章をほぼそのまま書き写した。

顔淵死、孔子曰「天喪予!」(『史記』孔子世家)

また董仲舒は、史書『春秋』をいじくり回して『春秋公羊伝』をでっち上げ、次のように書き加えた。

顏淵死,子曰:「噫!天喪予。」(『春秋公羊伝』哀公十四年)

論語の半分以上は偽作なのだが、こうもはっきり証拠が残っているのも珍しい。ただ董仲舒よりやや時代が下る定州竹簡論語に本章が含まれていないことから、董仲舒自身は論語に本章を押し込まず、前漢末から後漢初期にかけて儒者が押し込んだと考えるのに理がある。


例えば前漢初期の王充は、自分が生まれるより100年以上昔に失われたと自分で言っている『古論語』『斉論語』『魯論語』を、見てきたようにペラペラ語って後世を大いに迷わせたのだが、その『論衡』の中でしつこく三度も「天喪予」の顔淵ばなしにもったいを付けている。論語の本章の偽作者はこの男かも知れない。

包咸
ただし古注に新代~後漢初期の儒者である包咸が注を付けているから、前漢末に王莽一党の手によって押し込まれたと考えるのも、また筋が通る。包咸は儒者には珍しいまじめ人間だたっとの伝説があり、比較的言い分を真に受けてもよさそうに思える。

解説

論語の本章、新古の注は次の通り。

古注『論語集解義疏』

顔淵死子曰噫註苞氏曰噫痛傷之聲也天喪予天喪予註天喪予者若喪已再言之者痛惜之甚也


本文「顔淵死子曰噫」。
注釈。包咸「噫は痛切な嘆きの声である。」

本文「天喪予天喪予」。
注釈。天喪予とは、自分を滅ぼすようだ、の意である。二度言ったのは、嘆き惜しむ感情が余りに深かったからである。

後半の注が無記名であることから、書き付けたのは三国魏の何晏ということになるのだが、「天喪予」について前後の漢儒が何も思わなかったわけがなく、注を書かなかったのは本文が無かったからだと推測できる。つまり前半「子曰噫」までは前漢末期までに論語に書き加えられていたが、後半「天喪予」は後漢滅亡後に書き加えられた可能性がある。

後漢年表

後漢年表 クリックで拡大

古注儒者でたびたび名が出る鄭玄は、後漢霊帝期に名を挙げた人物で、晩年は献帝時代で事実上三国時代に入っていた。没後20年で形式的にも後漢は滅ぶが、古注にしつこく書き付けた鄭玄が、儒者の喜びそうな天ばなしが論語の本文に入っていたら、何も書かないわけが無い。

新注『論語集注』顏淵死。子曰:「噫!天喪予!天喪予!」喪,去聲。噫,傷痛聲。悼道無傳,若天喪己也。


本文「顏淵死。子曰:噫!天喪予!天喪予!」
喪の字は尻下がりに読む。噫は痛切な悲嘆の声である。自分の教説を伝えるべき者が居なくなったのを惜しみ、まるで天が自分を滅ぼしたようだと言ったのである。

「自分の教説を伝えるべき者が居なくなった」と断じたのが朱子から始まることは、上記語釈の通り。火の無いところへ黒煙を上げたがる儒者の習性で、そんな回りくどい理屈をこしらえなくとも、「天はひどいことをする」程度の嘆声と解釈してぜんぜんかまわない。

余話

花咲か爺さん

「退屈しのぎなら付き合ってやらんでもないがどうする」

論語の本章に古注を書き付けた包咸を、「儒者には珍しいまじめ人間の伝説がある」と書いた元ネタ、『後漢書』包咸伝の現代語訳は次の通り。

包咸字子良,會稽曲阿人也。少為諸生,受業長安,師事博士右師細君,習魯詩、論語。王莽末,去歸鄉里,於東海界為赤眉賊所得,遂見拘執。十餘日,咸晨夜誦經自若,賊異而遣之。因住東海,立精舍講授。光武即位,乃歸鄉里。太守黃讜署戶曹史,欲召咸入授其子。咸曰:「禮有來學,而無往教。」讜遂遣子師之。


包咸、あざ字は子良、会稽郡曲阿(浙江省紹興市南部)の出身である。まだ若いうちから儒者になり、帝都長安で教育を受けた。博士の右師細君(不詳)に入門し、魯の詩と論語を習った。王莽時代の末に(世が乱れたので)、都を去って郷里に帰ろうとした。

ところが郷里に近いシナ海の沿岸部は、すでに王莽に反乱を起こした赤眉軍が暴れ回っており、そこをノコノコ通りがかった包咸はあっさり捕まって、牢に放り込まれた。そのまま十日あまりも放置されたが、包咸は日夜儒教経典を口ずさんで平気な顔をしていたので、赤眉軍も「このお人はさわらん方がええじゃろ」と言って牢から出した。

そういうわけで浜辺に住んで塾を開き、儒学を教授した。光武帝が即位して世の中が静かになったので、塾を閉じて郷里に帰った。郷里の知事を務めていた黃トウが役所の戸籍係長の職を用意して、”息子の家庭教師になって欲しい”と申し出た。ところが包咸はムッとして、「儒学は教わりに行くもので、教師を呼びつけて教わるものではありません」と断った。黃讜は素直に「すみません」と謝って、息子を包咸宅に行かせ、住み込み弟子として勉強させた。


舉孝廉,除郎中。建武中,入授皇太子論語,又為其章句。拜諫議大夫、侍中、右中郎將。永平五年,遷大鴻臚。每進見,錫以几杖,入屏不趨,贊事不名。經傳有疑,輒遣小黃門就舍即問。


それで名が挙がって、郷里の「孝行者で寡欲者」に認定されて、その結果宮内官に任じられた。光武帝の建武年間、皇太子(のちの明帝)に論語を講義し、論語の注釈も書いた。それが評価されて政務議官に昇進し、合わせて皇帝の側近・近衛隊の隊長も兼任した。二代明帝の永平五年(AD62)には、外務大臣に転任した。

明帝は包咸の功績と高齢を重んじて、御前に進み出るときには、肘掛けと杖を用いるのを許し、殿上で小走りすべき規則を免除し、勲功を讃えて「包子良どの」と呼び、「包咸」と呼び捨てにしなかった。また儒教経典に分からないところがあると、近侍を包咸の屋敷に遣わして教えを乞うた。


顯宗以咸有師傅恩,而素清苦,常特賞賜珍玩束帛,奉祿增於諸卿,咸皆散與諸生之貧者。病篤,帝親輦駕臨視。八年,年七十二,卒於官。


明帝は包咸の教えをいたく感謝し、清貧に暮らすのを奇特と評価し、引見するごとに宝物や絹巻物を贈り、諸閣僚より俸給を多くした。しかし包咸はこうした下され物を、全部貧しい弟子の奨学金に充てて配ってしまった。

やがて病の床に伏したが、明帝は屋敷に駆けつけて見舞った。永平八年(AD65)、72歳で現職のまま世を去った。(『後漢書』儒林伝・包咸条)

包咸が平気な顔をした王莽の末年は、蟹歯リズムが記されるほどの地獄絵図だった。

赤眉遂燒長安宮室市里,害更始。民飢餓相食,死者數十萬,長安為虛,城中無人行。


赤眉軍はそのまま長安の宮殿と市街を焼き払い、更始帝を殺した。民は飢えて互いに食い合い、死者は数十万に上った。長安市内は人影が絶え、道を行くものもいなくなった。(『漢書』王莽伝)

書き手が王莽以来の内乱に勝ち残った光武帝の、その家臣である班固であることから、若干割り引く必要はあるが、まるまる否定できる根拠も無い。そういう世の中で生き延びるだけでも大したものだが、殺人と略奪しかしない反乱軍を儒学で圧倒したのだから包咸はすごい。

日本人は百年以上内乱を経験していないし、満洲や沖縄などを除いて民間人が敵地上軍の蹂躙にさらされた事が無いから、飢えた暴徒の恐ろしさを想像しがたい。訳者もその一人だが、食うに困れば人間もイナゴも同じで、食える物は食い尽くすし持てる者からは殺して奪う。

だが暴徒は元は気が弱く運の悪い、どこにでもいる百姓でもある。たぶん世界のどこでも同じだろうが、図々しくないから暴徒に身を落としたのである。群れて気が大きくなっているだけで、生きるためなら蚊を叩くように人の頭をプチプチ切るが、恐怖心も人並み以上に強い。

日本人の少なからぬご先祖も、明代の中国人からはそんな恐れを知る者に見えた。

一士遇倭。避土穴中。為倭所覺。自稱道學。求免。倭曰。既道學先生。出來作揖。士曰。畏將軍之刀。請衘之。已又曰。畏將軍之刀鋒。請內衘之。倭信為寔然。如其言。士乃出。方揖。遽以手拍刀背。刀䧟其頰。倭衘刀謂士曰。好箇道學。


ある儒者が出掛けて、運悪く倭寇が海から上がってくるのに出くわしてしまった。だが運良く近くに洞穴があったので逃げ込んだが、やはり運悪く倭寇に見つかってしまった。

倭寇「出てこいこの野郎。」
儒者「私はただの儒者です。金目の物は何も持っていませんから見逃して下さい。」

倭寇「ほう、儒者だというなら、出てきてお辞儀の作法をしてみろ。」
儒者「ぶるぶる。将軍の刀が怖うございます。さやにしまって下さい。」

倭寇「よかろう。しゃき。…ほれ、出てこい。」
儒者「ぶるぶる。さや越しにも怖うございます。さやでなく口に咥えて下さい。」

倭寇「よかろう。はむっ。…ほへ、へへほひ。」
儒者は出て来るとお辞儀の真似をし、起き上がるついでに手で刀の峰を叩いて、倭寇の頬にめり込ませた。

めり込んだままの倭寇「はふほほハオカふっふぁふぁふひゃひゃタオシュエ(なるほど、立派な儒者だ)。」(『笑府』巻二・倭子作揖)

それでも気の大きくなった暴徒を学問で退けたのだから包咸はすごいのだが、さらに知事にけんつくを食わせたのもすごい。中国で官僚制を始めたのは他ならぬ孔子だが、以降役人と庶民との間には天地ほどの身分差があって、町方のおまわりですら威張り返って庶民を苦しめた。

雷橫大怒,指著劉唐大罵道:「辱門敗戶的謊賊!怎敢無禮!」
劉唐道:「你那詐害百姓的醃潑才!怎敢罵我!」


(警官隊長の雷横と浪人の劉唐が喧嘩をした。)

雷横「なんだ貴様? 一族の恥さらしの穀潰しが。無礼にもほどがある!」
劉唐「手前ェのような奴を、庶民いじめの悪たれと言うんだ。大きな口をききやがって!」(『水滸伝』第十三回・赤發鬼醉臥靈官殿 晁天王認義東溪村)

『水滸伝』は史料に分類されないが、史料以上に中国社会の実態を示している。500年以上も庶民が拍手喝采して見た芝居の台本であるからには、社会を絵空事には描けない。庶民から見た中国社会を正史よりよく反映して当たり前の道理だ(論語郷党篇12余話「せいっ、シー」)。

ゆえに無位無冠から見た知事ドノは、神にも等しい存在だったはず。だがかつて帝都で帝大生だったという誇りが、包咸の言動を決めたのだろう。同時に地獄絵図を体験したからこそ、明帝の下され物を弟子一同に全部撒いてしまったわけだが、理由はそれだけだろうか。

同世代の儒者や役人は普通にワイロ取りだったから、むしろ包咸の個性ゆえの行動と言うべきだ。「掃きだめの鶴」と日本で言うが、歴史を読む面白さは時代背景とぜんぜん違う人格がたまに世に出ることで、そういう偶然が偶然を呼び合って思わぬ歴史の歩みがあったりする。

宇宙が人間の生存にあまりに都合が良すぎることを不思議がる人がいる。不思議がって当然の、数無量の偶然の積み重ねでこの宇宙があるのだが、人間に都合良すぎる宇宙に生まれた人間は、都合良くない宇宙を知らないだけで、何やかや色々重なって、どの人間も生きている。

そのような何やかやの例は、誰の人生にもあるだろう。自分が今あるのは偶然の繰り返しで、その今を良きものと感じられるのを幸せと言うのだろう。あるいはよしと思えない人も少なくないだろう。だが不幸をかこって余生を生きるのは、あまりにもったいなさすぎる。

不幸を、他人のせいにしたらどうだろう。自分で招いた不幸でない。知ったことか。流行りの「自己責任」に背を向ける考えだが、何でも自分のせいにするのは立派かも知れないが、こうも世の中が揺れ動くのでは、時々の自分の判断に、自信の持ちようがないではないか。

さらに不幸を感じるたいがいは、他人と自分を比べるからそう思うので、この宇宙に誰一人他人がいないとするなら、そういう不幸は起こりようがない。孔子が庶民にも官途への道を開いた春秋時代後半、理の当然で貴族からこぼれ落ちて零落し、そう考える人々もいた。

論語微子篇6から始まる一連の章、あるいは論語微子篇9・10に描かれる隠者はそのような人と、孔子との接触を伝えている。孔子が「そういうのの仲間には入らん」ときっぱり言ってのけたのは、成り上がり指導者としての、孔子の立場を明らかにしている。

孔子が宰相格の職を捨ててまで、諸国を放浪して歩いたのは、故国の魯で成り上がりすぎて、庶民からも貴族からも反発を喰らったからだが、孔子個人のことなら、ただ隠居すればそれで済んだ。それでも生死の危険がある放浪に出たのは、弟子の仕官先を求めたからだ。

通説に、孔子は理想の政治を実現する場を求めて放浪したという。半ば当たっているが、理想の政治とは孔子と弟子がともに庶民の出でありながら、能力によって役人になれる世のことで、何かの道徳を実現させようと思ったわけではない。そう説く論語の章はニセモノだ。

そうだと言い募った後世の儒者も、道徳を知っているオレを美味しい官職にありつかせろと言っているだけで、実は孔子の主張と変わらない。その意味でデタラメ儒者も孔子の正当な後継者なのだが、我が身の利得を削ってまで弟子の行く先を心配した儒者の話はめったに見ない。

包咸はそんな儒者の中にあって、弟子にゼニを播く珍無類の花咲か爺さんだったわけ。

参考動画

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