論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子畏於匡顔淵後子曰吾以女爲死矣曰子在回何敢死
- 「淵」字:拓本では摩滅。他の箇所では最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱。
校訂
武内本
畏、史記拘に作る。汝、唐石経女に作る。
東洋文庫蔵清家本
子畏於𬻻顔淵後/子曰吾以汝爲死矣曰子在回何敢死
- 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子畏於匡,顏淵後。子曰:「吾以女為死矣。」曰:「子在,回何敢290……
標点文
子畏於匡、顏淵後。子曰、「吾以女爲死矣。」曰、「子在、回何敢死。」
復元白文(論語時代での表記)
書き下し
子匡於畏る。顏淵後る。子曰く、吾女を以て死せ矣と爲す。曰く、子在れば、回何ぞ敢て死せむ。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が匡のまちで恐ろしい目に遭った。顔淵が遅れた。先生が言った。「私はお前が死んだかと思った。」顔淵が言った。「先生が生きています。私はわざわざ死ぬようなことはしません。」
意訳
孔子一門が匡で包囲された時のこと。みな散り散りになって逃げ延び、はぐれた顔回が、先生に追いついた。
孔子「おお顔回! 生きておったか!」
顔回「先生が生きておわすうちは、死ぬようなまねは致しません。」
従来訳
先師が匡の難に遭われた時、顔渕は一行におくれて一時消息不明になっていたが、やっと追いつくと、先師はいわれた。――
「私は、お前が死んだのではないかと、気が気でなかったよ。」
すると、顔渕はいった。――
「先生がおいでになるのに、何で私が軽々しく死なれましょう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子被困於匡地,顏淵最後才來。孔子說:「我以為你死了。」顏淵說:「您在,我怎敢死?」
孔子が匡のまちで包囲された。顔淵が最後にやっと追いついた。孔子が言った。「私はお前が死んだものと思っていた。」顔淵が言った。「先生が生きておわすのに、私がどうして死ぬようなことをするでしょうか?」
論語:語釈
子(シ)
「子」(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
畏(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”恐ろしい目に遭う”。初出は甲骨文。字形は頭の大きな化け物が、長柄武器を持って迫ってくる姿。甲骨文では”怖がる”の意が、春秋末期までの金文では”おそれうやまう”・”威力”の意が確認できる。詳細は論語語釈「畏」を参照。
孔子存命中の金文では、”恐れ慎む”の意で用いられた語で、戦国時代でも中期の『孟子』に「就之而不見所畏焉」”会ってみたところでおそれ敬うべき所がぜんぜん無い”(梁恵王)とあり、末期の『荀子』に「晉人欲伐衛,畏子路,不敢過蒲。」”晋国人が衛を攻めようとしたが、子路を怖れてその領地である蒲は避けて通った”(大略)とある。
『大漢和辞典』には”おどす”との訳語もあるが受け身の記号は原文に無いので、”孔子は匡のまちで怖い目に遭った”ということ。結局、包囲されて脅迫されたのである。
しかし介さん格さんならぬ子路がいて立ち回りを演じたのだろうし、子路以外の弟子も君子として武術の心得はあったし、黄門さまに当たる孔子がそもそも、身長2mを超す体躯に武術の達人という怪物だったから、論語の本章のような「ひかえおろう」が言えたわけ。
しかし『史記』によると結局自力では脱出できなかったようで、衛の家老・甯武子の援軍が来たことで抜け出した。ただし甯武子というのは孔子より約一世紀前の人で(論語公冶長篇20)、論語時代にも同名の人がいたのか、その子孫か、司馬遷のうっかりかは分からない。
論拠とは言えないが、中国のドラマでも、孔子が牢に繋がれて、後から顔回がやってくる話に描くものがある。新注で「顔回が自分が身代わりになって孔子を救おうとした」とあるのに合わせた演出だろう。また『学研漢和大字典』には「畏」の単語家族として、以下を挙げる。
威(押さえつける)・隈(ワイ)(押さえくぼんだ所)と同系。また鬱(ウツ)(押さえられた感じ)は畏の語尾がtに転じたことば。
単語家族とは藤堂博士の発案によるもので、漢字には音と意味共に似たまとまりがあるという説。くぼんだところ=牢屋に押さえつけられたなら、”捕らえられる”と解するのには根拠があるが、うるわしい師弟愛を描きすぎる感があるので、とりあえず”包囲される”と訳した。
孔子一行が襲撃され、ちりぢりになって包囲から逃げ延び、顔回がはぐれた、とする方があり得るけしきだからだ。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
匡(キョウ)
(甲骨文)
論語の本章ではまちの名。現・河南省扶溝県とされる。『史記』では放浪の旅で最初に向かった衛でしくじり、そのあとで遭難したとする。
『史記』の記述通りなら、孔子は陽虎と間違われて受難したことになっており、陽虎はかつてこのまちで乱暴を働いたという。陽虎が魯国から逃亡した先は、衛を避けるようにはじめ斉、のちに晋(下の地図で言うと河水=黄河の北)だから、匡を衛国領と考えたくなる。
当時衛国は晋国に、がりがりと領土を削り取られている最中だった。衛がもと都城を置いた朝歌=かつての殷の首都は晋に奪われる寸前で、斉国も取り合っている最中だった。
しかし『春秋左氏伝』には、以下のような記述がある。
『春秋左氏伝』筆者・左丘明
定公六年(BC504)…二月、定公は陽虎に命じて鄭を伐ち匡を取った。晋の指図で、鄭が胥靡を攻めたのに仕返ししたのである。
遠征軍の行きは衛国を通らなかったが、帰りは季氏・孟氏の軍勢は陽虎の指示で、衛の南門から入り、東門から出て行った。そのあと豚沢で陣を張ったが、勝手なことをされた衛の霊公は怒って、お気に入りの弥子瑕に命じて追い討ちしようとした。
この時公叔文子は老いて引退していたが、かごを担がせて霊公の所へ行き、諌めた。
「人をとがめておきながらその真似をするのは、礼に反します。先年魯の昭公さまが亡命なされた時、殿は我が衛国のご先祖・文公のかなえ、成公の亀の甲、定公の飾り帯を、もし昭公が帰国するなら贈ろうとなさいました。
また公子と二三の家老の子を人質に出してまで、諸侯の疑いを晴らし、魯の昭公さまの帰国を実現させようとなさいました。大変ご立派で、これは我ら家臣がしかと聞いたことでございます。今、ささいな怒りに駆られて過去に積んだ善事を台無しにするのは、おやめになるべきではありませんか。
しかも我が衛と魯は兄弟の国でござる。魯の開祖周公さまと、我が衛の開祖康叔さまは、たいそう仲睦まじゅうございました。陽虎ごとき悪党の真似をなさって、衛と魯の親善を台無しにするのは、陽虎にたぶらかされるも同じでございます。
陽虎は悪事を重ねておりますから、いずれ天罰を受けましょう。しばらくお待ちになるのがよいと存じます。」
霊公はこの言葉に従い、兵を引いた。(『春秋左氏伝』定公六年条)
つまり魯の定公六年(BC504)、魯は陽虎に命じて鄭を攻め、匡のまちを奪取した。その帰り、ことわりも無しに衛国を通って魯国に戻った。衛の霊公は怒って追撃しようとしたが、すでに引退していた公叔文子がわざわざ出てきて、「思い上がった陽虎はいずれ失脚します。放っておきなされ」と諌めて中止した、という。
となると上の地図通り、鄭国に赤字で記した場所で確定していいのではないか。なお諌めた公叔文子については、論語憲問篇14に言及がある。
「匡」の初出は甲骨文。字形は「匚」”塀”+「羊」または「牛」。家畜を大事に囲っておくさま。春秋末期までに、地名のほか”四角い青銅器”の意に用いた。詳細は論語語釈「匡」を参照。
顏淵(ガンエン)
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。
『孔子家語』などでも顔回を、わざわざ「顔氏の子」と呼ぶことがある。後世の儒者から評判がよく、孔子に次ぐ尊敬を向けられているが、何をしたのか記録がはっきりしない。おそらく記録に出来ない、孔子一門の政治的謀略を担ったと思われる。孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。詳細は孔子の生涯(1)を参照。
「顏」(金文)
「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。
「淵」(甲骨文)
「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。
「上海博物館蔵戦国楚竹簡」では「淵」を「囦」と記す。上掲「淵」の甲骨文が原字とされる。
後(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では時間的な”遅れる”。「ゴ」は慣用音、呉音は「グ」。初出は甲骨文。その字形は彳を欠く「幺」”ひも”+「夂」”あし”。あしを縛られて歩み遅れるさま。原義は”おくれる”。甲骨文では原義に、春秋時代以前の金文では加えて”うしろ”を意味し、「後人」は”子孫”を意味した。また”終わる”を意味した。人名の用例もあるが年代不詳。詳細は論語語釈「後」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いて”→”~を”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
女(ジョ)
論語の本章では”お前”。「汝」と同義だが、唐石経や定州竹簡論語は「汝」と記さず全て「女」と記す。対して清家本は「汝」と記す。つまり前漢までは二人称では「女」と書いたのに、後漢になってからさんずいが付いたことになる。「汝」は下記するように、もとは川の固有名詞だった。
(甲骨文)
「女」の初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。
「汝」(甲骨文)
「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”作る”→”…であると判断する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
以女爲(なんじをもって…となす)
論語の本章では、”お前が…だと思った”。「以爲」の間に目的語「女」が入った形。「如之何」などと同じ形。
死(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”死去した”。字形は「𣦵」”祭壇上の祈祷文”+「人」で、人の死を弔うさま。原義は”死”。甲骨文では、原義に用いられ、金文では加えて、”消える”・”月齢の名”、”つかさどる”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”死体”の用例がある。詳細は論語語釈「死」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、”すでに…している”。初出は殷代末期の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”健在でいる”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
論語の本章では師に対する弟子の回答なので「います」と敬語で読み下せるが、もとの漢語に敬語の要素は無い。従って「子在」を「しあらば」と読んでもぜんぜん構わないし、むしろその方が原文に忠実ではある。
回(カイ)
「回」(甲骨文)
論語の本章では、顔回子淵のいみ名(本名)。いみ名は自分自身か、同格以上の者が呼ぶ際の呼称。論語の本章の場合、師である孔子に対する次章で、へり下った言い方。
「回」の初出は甲骨文。ただし「亘」と未分化。現行字体の初出は西周早期の金文。字形は渦巻きの象形で、原義は”まわる”。詳細は論語語釈「回」を参照。
何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”どうして”。反語の意。疑問や反語の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
敢(カン)
(甲骨文)
論語の本章では『大漢和辞典』の第一義と同じく”あえて”。初出は甲骨文。字形はさかさの「人」+「丨」”筮竹”+「𠙵」”くち”+「廾」”両手”で、両手で筮竹をあやつり呪文を唱え、特定の人物を呪うさま。原義は”強い意志”。金文では原義に用いた。漢代の金文では”~できる”を意味した。詳細は論語語釈「敢」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあり、それよりやや先行する『史記』孔子世家にほぼ同文が載る。
將適陳,過匡,顏刻為僕,以其策指之曰:「昔吾入此,由彼缺也。」匡人聞之,以為魯之陽虎。陽虎嘗暴匡人,匡人於是遂止孔子。孔子狀類陽虎,拘焉五日,顏淵後,子曰:「吾以汝為死矣。」顏淵曰:「子在,回何敢死!」匡人拘孔子益急,弟子懼。孔子曰:「文王既沒,文不在茲乎?天之將喪斯文也,後死者不得與于斯文也。天之未喪斯文也,匡人其如予何!」孔子使從者為甯武子臣於衛,然後得去。
(孔子一行は)陳へ行こうとして、匡を通り過ぎた。顔刻が孔子の車の手綱を取り、鞭を城壁の崩れに向けて言った。「昔私がこの町に入った時、ここを通りました。」匡の町人がそれを聞き、孔子一行を魯の陽虎(かつての執権)と間違えた。陽虎はかつて匡の町人をいじめたので、匡の町人が陽虎のつもりで孔子一行を通せんぼした。孔子の格好は陽虎に似ていた。五日間監禁された。
顔淵は遅れた。先生が言った。「私は、お前が死んでしまったと思った。」顔淵が言った。「先生が生きている間は、私めは死ぬような真似はしません。」
匡の町人が孔子を監禁したさまは、ますます厳しくなったので、弟子は怖がった。孔子が言った。「文王はすでに世を去った。だが文化はここにありはしないか? 天がこのような文化体系をまさに滅ぼそうとするのなら、今より後に死ぬ者は、この文化体系の恩恵に与る事が出来ないぞ。天がこの文化大系をまさにまだ滅ぼさないのなら、匡の町人ふぜいがなんともはや、わしをどうするだろうか。(どうにもできはすまい。)」
孔子は従者を衛で甯武子の家臣にしていたので、だからその後だったから(匡を)去ることが出来た。
また戦国最末期の『呂氏春秋』にもほぼ同文が載る。文字史的にも春秋時代に遡れ、本章は史実の孔子と顔淵の対話と扱ってよい。
解説
はぐれていた顔回が、どうして孔子の生存を信じられたか、儒者は興味を持って考証したようで、『論語集釋』によれば、『礼記』に名が載る檀弓の言葉として、儒教的価値観では、獄死した者、圧死した者、溺死した者は弔わない、とされる。孔子が畏=囚われたにしても、葬儀を出せないような死に方はしないだろうから、顔回はその生存を信じ得た、という。
礼法に好ましくないと記す死に方を、孔子はしないという前提がなければなり立たない話で、儒者にとって孔子は本尊だから、死に方まで自由に出来る超人だ、と思っていたことになる。確かに孔子は身長2mを超す人間離れした技を持つ超人だが、異教徒にとっては狂信でしかない。
また檀弓が「死而不弔者三,畏、厭、溺」と言ったとされる初出は唐代の『通典』で、大小の『礼記』には記載が無い。儒者は本の読み過ぎで頭がおかしくなり、後世の『通典』も本来の儒教経典も、区別がつかなくなっていたのだ。
しかも『礼記』のほとんども前漢儒者のでっち上げで、檀弓篇も孔子の時代まで遡れるか極めて怪しい。顔回はありもしない教義に凝り固まって信じたのではない。そんなようでは孔門KGB長官は務まらない(孔門十哲の謎)。死んだと聞かないうちは生きていると思っただけだ。
余話
(思案中)
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