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論語詳解255先進篇第十一(2)我に陳蔡に従いし’

論語先進篇(2)要約:私と放浪の苦労を共にした弟子は、みんなもういなくなってしまった。そうつぶやく孔子先生のため息。そこに付けられた注が、いつの間にか本文と取り違えられ、動かしがたい聖人の「お言葉」になってしまいました。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰從我於陳蔡者皆不及門也德行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓言語宰我子貢政事冉有季路文學子游子夏

  • 「蔡」字:〔艹〕→〔十十〕。
  • 「淵」字:最後の一画〔丨〕を欠く。唐高祖李淵の避諱

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰從我於陳蔡者皆不及門者也/德行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓言語宰我子貢政事冉有季路文學子游子复

  • 「蔡」字:〔艹〕→〔十十〕。
  • 「淵」字:〔氵丿丰丰丨〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……淵、閔子騫、冉伯261……、子a路。文學:子[游、子夏]。262

  1. 子、今本作”季”。

標点文

子曰、「從我於陳蔡者、皆不及門者也。」德行、顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語、宰我、子貢。政事、冉有、子路。文學、子游、子夏。

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 従 金文我 金文於 金文陳 金文蔡 金文者 金文 皆 金文不 金文及 金文門 金文者 金文也 金文 徳 金文行 金文 顔 金文淵 金文 閔 金文子 金文馬 金文 冉 金文伯 金文牛 金文 仲 金文弓 金文 言 金文語 金文 宰 金文我 金文 子 金文貢 甲骨文 政 金文事 金文 冉 金文有 金文 子 金文路 金文 文 金文学 學 金文 子 金文游 金文 子 金文夏 金文

※騫→馬・貢→(甲骨文)。論語の本章は、「行」「也」の用法に疑問がある。また弟子をあざ名で呼んでいることから、後半は明確に後世の注釈。

書き下し

いはく、われ陳蔡ちんさいしたがひしものは、みなかどともにせざるものかな德行とくかうには顔淵がんえん閔子騫びんしけん冉伯牛ぜんはくぎう仲弓ちうきう言語げんごには宰我さいが子貢しこう政事せいじには冉有ぜんいう子路しろ文學ぶんがくには子游しいう子夏しか

論語:現代日本語訳

逐語訳

先生が言った。「私と共に陳・蔡へと旅した者は、いまはもう門下にいなくなってしまったよ。」

(注釈)人格力の養成と実践(徳行)では顔淵(顔回)ビン子騫シケン(閔損)ゼン伯牛(冉耕)仲弓チュウキュウ(冉雍ゼンヨウ)が優れ、弁舌の才(言語)では宰我(宰予)子貢(端木賜)が優れ、政治では冉有(冉求)子路が優れ、古典研究(文学)ではユウ(言エン)子夏(ボク商)

意訳

孔子 ぼんやり
私と革命を共に戦った同志諸君は、もうこの世にいないか仕官したか、あるいは外国に行ってしまった。

(後世の儒者)それはすなわち徳行では顔回、閔子騫、冉伯牛、冉雍が優れ、弁舌の才では宰我と子貢が優れ、政治では冉有と子路が優れ、古典研究では子游と子夏が優れていた。

従来訳

下村湖人

先師がいわれた。――
「私について陳(ちん)・蔡(さい)を旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない。」
先師に従って陳・蔡におもむいた門人の中で、徳行にすぐれたのが顔渕・閔子騫(びんしけん)・冉伯牛・仲弓、言論に秀でたのが宰我・子夏、政治的才能できこえたのが冉有・季路、文学に長じたのが子游・子夏であった。

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「跟我在陳、蔡受苦的人,都不在身邊了。」

孔子的學生中,品德高尚的有:顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓;善於言談的有:宰我、子貢;善於政事的有:冉有、季路;精通文學的有:子游、子夏。

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「私と一緒に陳や蔡で苦難に遭った旅に出た弟子は、全て私の周りからいなくなってしまった。」

孔子の弟子の中で、品性高潔だった者には、顔淵と閔子騫、冉伯牛、仲弓がいた。談論の達者には、際我と子貢がいた。政治の達者には、冉有と季路がいた。文学に精通した者には、子游と子夏がいた。

論語:語釈

、「 。」 ()


子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

從(ショウ)

従 甲骨文 従 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”つき従う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。

我(ガ)

我 甲骨文 我 字解
(甲骨文)

論語の本章では”わたし(の家)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。

春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”…での”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

陳(チン)・蔡(サイ)

論語の本章では、いずれも華中の諸侯国名。

陳 金文 不明 字解
九年衛鼎・西周中期

「陳」の初出は西周中期の金文。字形は〔阝〕”はしご”+〔東〕で、原義は不明。春秋末期までに確認できる語義は、国名や人名のみ。うち国名の「陳」は、「曹」と並んで孔子存命中に滅亡した諸侯でもある。詳細は論語語釈「陳」を参照。

蔡 甲骨文 蔡 字解
(甲骨文)

「蔡」の初出は甲骨文。字形は甲骨の裂け目の象形で、原義は”天啓”。春秋諸侯国では諸侯の名に用い、戦国初期の金文で”刻む”を意味した。詳細は論語語釈「蔡」を参照。

論語 春秋時代地図

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者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”~した者”。この語義は春秋時代では確認できない。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

皆(カイ)

皆 甲骨文 皆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”どれもすべて”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。上古音の同音は存在しない。字形は「虎」+「𠙵」”口”で、虎の数が一頭の字形と二頭の字形がある。後者の字形が現行字体に繋がる。原義は不明。金文からは虎が人に置き換わる。「ジュウ」”人々”+「𠙵」”口”で、やはり原義は不明。甲骨文・金文から”みな”の用例がある。詳細は論語語釈「皆」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

及(キュウ)

及 甲骨文 及 字解
(甲骨文)

論語の本章では”関わる”→”出入りする”。初出は甲骨文。字形は「人」+「又」”手”で、手で人を捕まえるさま。原義は”手が届く”。甲骨文では”捕らえる”、”の時期に至る”の意で用い、金文では”至る”、”~と”の意に、戦国の金文では”~に”の意に用いた。詳細は論語語釈「及」を参照。

門(ボン)

門 甲骨文 門 字解
(甲骨文)

論語の本章では”孔子塾”。初出は甲骨文。字形はもんを描いた象形。甲骨文では原義で、金文では加えて”門を破る”(庚壺・春秋末期)の意に、戦国の竹簡では地名に用いた。詳細は論語語釈「門」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、”…だよ”。「かな」と読んで詠嘆の意。「なり」と読む断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

德行(トクコウ)

論語の本章では”実践力”。孔子塾で教わったことを実際にやってのける能力。

徳 金文 徳 字解
(金文)

論語の本章では”能力”。初出は甲骨文。新字体は「徳」。甲骨文の字形は、〔行〕”みち”+〔コン〕”進む”+〔目〕であり、見張りながら道を進むこと。甲骨文で”進む”の用例があり、金文になると”道徳”と解せなくもない用例が出るが、その解釈には根拠が無い。前後の漢帝国時代の漢語もそれを反映して、サンスクリット語puṇyaを「功徳」”行動によって得られる利益”と訳した。孔子生前の語義は、”能力”・”機能”、またはそれによって得られる”利得”。詳細は論語における「徳」を参照。文字的には論語語釈「徳」を参照。

論語に言う「徳」とは、道徳とか人徳ではない。体力・気力・暴カ・学力・智力・能力を背景にした、潜在的な人格的迫力を言う。その人格力で、他人を圧倒したのが顔回ほか三人だったのである。

ここで暴カという言葉にビックリしてはいけない。顔回ですら孔子塾の必須科目である六芸に通じていたのだから、戦車の乗りこなしや弓術は人並み以上に達者だったはず。おそらくは当時の主兵器である戈の扱いにも長けていただろう。訳者は長柄武器の有段者だが、顔回相手に立ち回る気にはなれない。

行 甲骨文 行 字解
(甲骨文)

論語の本章では”進む”。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。

顏淵(ガンエン)

論語 顔回
孔子の弟子、顏回子淵。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語の人物:顔回子淵を参照。

顔淵
『孔子家語』などでも顔回を、わざわざ「顔氏の子」と呼ぶことがある。後世の儒者から評判がよく、孔子に次ぐ尊敬を向けられているが、何をしたのか記録がはっきりしない。おそらく記録に出来ない、孔子一門の政治的謀略を担ったと思われる。孔子の母親は顔徴在といい、子路の義兄は顔濁鄒(ガンダクスウ)という。顔濁鄒は魯の隣国衛の人で、孔子は放浪中に顔濁鄒を頼っている。しかも一説には、顔濁鄒は当時有力な任侠道の親分だった(『呂氏春秋』)。詳細は孔子の生涯(1)を参照。

以降、論語の本章で挙げられた弟子は全て敬称で呼ばれており、孔子の発言ではない。後世の注釈が本文に紛れ入ったか、儒者が勝手に書き付けた。

顔 金文 顔 字解
「顏」(金文)

「顏」の新字体は「顔」だが、定州竹簡論語も唐石経も清家本も新字体と同じく「顔」と記している。ただし文字史からは「顏」を正字とするのに理がある。初出は西周中期の金文。字形は「文」”ひと”+「厂」”最前線”+「弓」+「目」で、最前線で弓の達者とされた者の姿。「漢語多功能字庫」によると、金文では氏族名に用い、戦国の竹簡では”表情”の意に用いた。詳細は論語語釈「顔」を参照。

淵 甲骨文 淵 字解
「淵」(甲骨文)

「淵」の初出は甲骨文。「渕」は異体字。字形は深い水たまりのさま。甲骨文では地名に、また”底の深い沼”を意味し、金文では同義に(沈子它簋・西周早期)に用いた。詳細は論語語釈「淵」を参照。

閔子騫(ビンシケン)

閔子騫
生没はBC536ーBC487とされ、孔子没後一世紀に生まれた孟子のうっかりにより、孔子の弟子にされてしまった人物。姓は閔、いみ名は損、あざ名は子騫。『史記』によれば孔子より15年少。徳行を子に評価され、孔門十哲の一人。

閔子騫
だがおそらく孔子の弟子だというのはウソで、孔子が生まれた翌年に、すでに「閔子馬」の名で、門閥の季孫家のお家争いを未然に防いだ賢者として登場する。架空の人物でないなら、「騫」は論語の当時「馬」または「黽」(ビン)と書かれた。詳細は論語の人物:閔損子騫を参照。

閔 金文 閔 字解
「閔」(金文)

「閔」の初出は西周の金文。字形は「門」+「文」で、「文」はおそらく”文様”ではなく”人”の変形。「大」と同じく”身分ある者”の意。閉じられた門に身分ある者が訪れるさまで、原義はおそらく”弔問”。日本語では「あわれむ」と訓読する。金文では人名に用い、戦国の金文では、中山国・燕国の方言として”門”の意に用いた。戦国の竹簡では姓氏名に用いた。詳細は論語語釈「閔」を参照。

騫 篆書 錯 字解
「騫」(篆書)

「騫」の初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。字形の由来・原義共に明瞭でない。固有名詞のため、置換候補は特定できず、かつ後世の捏造とは断定できない。架空の人物でないなら、論語の時代では部品の「馬」と表記されたと考える以外に方法が無い。詳細は論語語釈「騫」を参照。

冉伯牛(ゼンハクギュウ)

論語 冉伯牛
孔子の最も初期の弟子とされた人物。生年をBC544、つまり孔子より7年少とwikipediaが言うが論拠不明。『史記』弟子伝・『孔子家語』七十二弟子解には年齢についての記事が無い。後世、徳行を子に評価された、孔門十哲の一人。冉雍・冉求はその一族。「伯」は長男を意味し、おそらく冉氏の長老だったと思われる。詳細は論語の人物:冉耕伯牛参照。

弟子ということになっているが、論語に孔子との問答が一つも無く、むしろ孔子の援助者だったろう。孔子に関係のありそうな者を、片端から弟子に仕立てて仕舞うのは、儒者の抜きがたいゴマスリで、漢文の本質的な虚偽の悪臭元になっている。詳細は論語雍也篇9余話「漢文の本質的虚偽」を参照。

おそらく冉伯牛は、冉一族の長老として、まず孔子の人物を見極め、その上で族内で将来を嘱望されていた若者、冉雍仲弓と冉求子有を弟子入りさせた。下っ端役人に過ぎない孔子にとって、例えば教習用戦車や引き馬の提供などは、有りがたかったはずである。

詳細は孔門十哲の謎を参照。新興氏族である冉氏は、冉雍が孔子に”身分の低さを悩む必要は無い”と慰められているように(論語雍也篇6)、封建的身分は低かったのだろう。だがすでに、魯国の門閥に兵力を提供する侮れない氏族で、身分向上のための、教養面での教師を欲していた。それがまさに孔子だったわけ。

冉 甲骨文 冉 字解
「冉」(甲骨文)

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

白 甲骨文 百 字解
「白」(甲骨文)

「伯」の字は論語の時代、「白」と書き分けられていない。初出は甲骨文。字形の由来は蚕の繭。原義は色の”しろ”。甲骨文から原義のほか地名・”(諸侯の)かしら”の意で用いられ、また数字の”ひゃく”を意味した。金文では兄弟姉妹の”年長”を意味し、また甲骨文同様諸侯のかしらを意味し、五等爵の第三位と位置づけた。戦国の竹簡では以上のほか、「柏」に当てた。詳細は論語語釈「伯」を参照。

牛 甲骨文 牛 金文
「牛」甲骨文/牛鼎・西周早期

「牛」の初出は甲骨文。字形は牛の象形。原義は”うし”。西周初期まで象形的な金文と、簡略化した金文が併存していた。甲骨文では原義に、金文でも原義に、また人名に用いた。詳細は論語語釈「牛」を参照。

仲弓(チュウキュウ)

論語 冉雍
孔子の弟子、孔門十哲の一人、冉雍仲弓のこと。年齢不詳。詳細は論語の人物:冉雍仲弓を参照。『史記』弟子伝には「仲弓父,賤人」とあり、父親の身分が低かったという。ただし孔子も「吾少也賤」”私も若い頃は身分が低かった”と言った事に論語子罕篇6ではなっている。

「君主に据えてもいいほどだ」と孔子は論語の雍也篇で褒めちぎったが、一説には冉伯牛・冉有と同族で、そうなると一族の結束が固い中国社会で、冉氏は顔氏と共に孔子を支える一グループだったと見える。

仲 金文 中 甲骨文
「仲」(金文)/「中」(甲骨文)

「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。「丨」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では、兄弟の真ん中、次男を意味したという。詳細は論語語釈「仲」を参照。

弓 甲骨文 カーラ 弓
(甲骨文)

「弓」の初出は甲骨文。字形は弓の象形。弓弦を外した字形は甲骨文からある。原義は”弓”。同音は無い。論語語釈「弓」を参照。

言語(ゲンギョ)

論語の本章では”ことば”。「言」が独り言を含むことば、「語」が他者と交わすことば。「語」に”ことば”の語義は春秋時代では確認できない。

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

「言」の初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

語 字解
(金文)

「語」の初出は春秋末期の金文。「ゴ」は呉音。字形は「言」+「吾」で、初出の字形では「吾」は「五」二つ。「音」または「言」”ことば”を互いに交わし喜ぶさま。春秋末期以前の用例は1つしかなく、「娯」”楽しむ”と解せられている。詳細は論語語釈「語」を参照。また語釈については論語子罕篇20余話「消えて無くならない」も参照。

宰我(サイガ)

論語 宰我 宰予
論語では、孔子の弟子。生没年、孔子との年齢差未詳。姓氏は宰、名は予、字は子我。姓氏が宰であったことは、あるいは宰我の出身が他の孔子塾生と異なり、庶民ではなく士分以上の貴族だった可能性を示している。詳細は論語の人物:宰予子我を参照。

宰我
後世の儒者に評判が悪く、昼寝をして孔子に叱られた作り話が論語公冶長篇9にある。

宰 甲骨文 宰 字解
「宰」甲骨文

「宰」の初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「ケン」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。論語時代では一家を治める”執事”や、都市の”代官”を意味した。孔子が初めて就いた行政職も、「中都宰」だった。また大きな行事の取り仕切り役も「宰」と呼ばれた。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。

子貢(シコウ)

論語 子貢
BC520ごろ-BC446ごろ 。孔子の弟子。姓は端木、名は賜。衛国出身。論語では弁舌の才を子に評価された、孔門十哲の一人(孔門十哲の謎)。孔子より31歳年少。春秋時代末期から戦国時代にかけて、外交官、内政官、大商人として活躍した。

論語 子貢 遊説
『史記』によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したともされる。さらに「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ。子禽だけでなく、斉の景公や魯の大夫たちからも、孔子以上の才があると評されたが、子貢はそのたびに否定している。

孔子没後、弟子たちを取りまとめ葬儀を担った。唐の時代に黎侯に封じられた。孔子一門の財政を担っていたと思われる。また孔子没後、礼法の倍の6年間墓のそばで喪に服した。斉における孔子一門のとりまとめ役になったと言われる。

詳細は論語の人物:端木賜子貢参照。

貢 甲骨文 貢 字解
(甲骨文)

子貢の「貢」は、文字通り”みつぐ”ことであり、本姓名の端木と呼応したあざ名と思われる。所出は甲骨文。『史記』貨殖列伝では「子コウ」と記し、「贛」”賜う”の初出は楚系戦国文字だが、殷墟第三期の甲骨文に「章ケキ」とあり、「贛」の意だとされている。詳細は論語語釈「貢」を参照。

『論語集釋』によれば、漢石経では全て「子贛」と記すという。定州竹簡論語でも、多く「貢 外字」と記す。本章はその例外。

政事(セイジ)

論語の本章では”行政能力”。

政 甲骨文 政 字解
(甲骨文)

「政」の初出は甲骨文。ただし字形は「足」+「コン」”筋道”+「又」”手”。人の行き来する道を制限するさま。現行字体の初出は西周早期の金文で、目標を定めいきさつを記すさま。原義は”兵站の管理”。論語の時代までに、”征伐”、”政治”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「政」を参照。

正 甲骨文 論語 始皇帝
「正」(甲骨文)

定州竹簡論語では通常「正」と記す。文字的には論語語釈「正」を参照。理由は恐らく秦の始皇帝のいみ名「政」を避けたため(避諱ヒキ)。『史記』で項羽を本紀に記し、正式の中華皇帝として扱ったのと理由は同じで、前漢の認識では漢帝国は秦帝国に反乱を起こして取って代わったのではなく、正統な後継者と位置づけていた。

つまり秦帝国を不当に乗っ取った暴君項羽を、倒して創業した正義の味方が漢王朝、というわけである。だから項羽は実情以上に暴君に描かれ、秦の二世皇帝は実情以上のあほたれ君主に描かれると共に、寵臣の趙高は言語道断の卑劣で残忍な宦官として描かれた。

事 甲骨文 事 字解
(甲骨文)

「事」の初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。

冉有(ゼンユウ)

論語 冉求 冉有 論語 冉有2
孔子の弟子。 姓は冉、いみ名は求、あざ名は子有。本章ではあざ名で呼んでおり敬称。『史記』によれば孔子より29年少。政治の才を後世に認められ、孔門十哲の一人。

孔子一門の軍事力・政治力を代表する人物で、個人武で目立つ樊須子遅に対し、武将として名をはせた。また放浪中の孔子より一歩先に魯国に帰国、あるいは放浪せず魯国に留まり、筆頭家老家である季孫家の執事を務め、孔子の帰国工作をした。

季孫家の政策に伴い、税制改革の実務を担当し、孔子から反対されたことが『春秋左氏伝』哀公十一年の記事にある(論語先進篇16解説参照)。政界を引退した孔子との関係は多少ぎくしゃくしたようで、孔子は一人前の君子として冉有を丁重に扱いつつもイヤミを言ったという伝説が論語子路篇14にある。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

「有」の初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

季路(キロ)→子路(シロ)

論語 子路 怒り
論語の本章では、名の伝わる中で最も早く入門した孔子の弟子、子路のこと。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。

唐石経・清家本では「季路」”末っ子の路さん”と書き、定州竹簡論語では「子路」”学者の路さん”と書く。「季路」とは顔回子淵の父親で、仲由子路とは全くの別人。普段想像上のデタラメばかり論語に書き付けている、孔子没後967年後に生まれた、古注『論語集解義疏』の編者皇侃も、「季路」→「子路」だと、ここだけは「疏」”付け足し”に、「結果として」事実の当たりを書いている。

「季路」の何者たるかは、論語公冶長篇25語釈「季路」条論語先進篇24余話も参照。

本章は前漢中期以降にもと「子路」とあったのを混同して「季路」と書いた結果。「季路」は顔回子淵の父親のあざ名。『史記』弟子伝ではいみ名(本名)は無繇、あざ名は「路」とあるが、いみ名が二文字なのは春秋時代の漢語としておかしい。

『史記』よりやや時代が下り、論語と同様定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』では、いみ名は「由」、あざ名は「季路」と記す。春秋時代の名乗りとしてはむしろこちらの方が理にかなう。また「繇」のカールグレン上古音は”る”の意味ではdi̯oɡ (平)で、「由」はd(平)。顔回子淵の父親のいみ名が、「顔由」であった理由を補強する。

季 甲骨文 季 字解
「季」(甲骨文)

「季」の初出は甲骨文。同音は存在しない。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。甲骨文では人名に用いた。金文でも人名に用いたほか、”末子”を意味した。詳細は論語語釈「季」を参照。

路 金文 路 字解
「路」(金文)

「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”あし𠙵くち”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した詳細は論語語釈「路」を参照。

文學(ブンガク)

論語の本章では”古典の研究”。「文」に”文章”の語義は春秋時代では確認できない。孔子没後一世紀に生まれた孟子は、「文とは史=記録だ」(『孟子』離婁下)と言っており、孟子の時代では”古い文章”の意があったと知れる。

文 甲骨文 文 字解
(甲骨文)

「文」の初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。

学 學 金文 学
(金文)

「學」の初出は甲骨文。新字体は「学」。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。

子游(シユウ)

論語 子游
孔子の弟子。子によって文学の才と礼法の実践を評価され、孔門十哲に加えられた一人(孔門十哲の謎)。

論語 子游
その実、師の孔子が来ると知って住民にヤラセをやらせ、孔子没後は金儲けに開き直って冠婚葬祭業界の親玉になるなど、如何わしい男だった。詳細は論語の人物:「言偃子游」を参照。

游 甲骨文 游 字解
「斿」(甲骨文)

「游」は”水の上にプカプカ浮かんで遊ぶ”・”どこかへ行く”こと。初出は甲骨文。ただし字形は「ユウ」で、「遊」と共有。子が旗を立てて道を行くさまで、原義は”遊びに出ること”。現行字体の初出は春秋早期の金文。さんずいが加わって、”水で遊ぶ”こと、すなわち”水泳”を意味した。上古音の同音は「」。金文では”遊ぶ”を意味し、戦国の竹簡では原義で用いられ、漢代の帛書では「流」の字で”泳ぐ”を意味したという。詳細は論語語釈「游」を参照。

子夏(シカ)

論語 子夏
孔子の弟子。文学に優れると子に評された(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。主要弟子の中では若年組に属する。

論語 子夏
本の虫、カタブツとして知られる。論語八佾篇8で、下○タの歌をわざわざ曲解して行儀のよい解釈をし、孔子がうんざりして口先で誤魔化した、と作り話が書かれている。詳細は論語の人物:卜商子夏を参照。

夏 甲骨文
(甲骨文)

「夏」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「日」”太陽”の下に目を見開いてひざまずく人「頁」で、おそらくは太陽神を祭る神殿に属する神官。甲骨文では占い師の名に用いられ、金文では人名のほか、”中華文明圏”を意味した。また川の名に用いた。詳細は論語語釈「夏」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語にあり、文字史的にも論語の時代に遡れる。だが春秋戦国を含めて、『史記』の若干違った記述を除き、誰一人引用も再録もしていない。

孔子曰「受業身通者七十有七人」,皆異能之士也。德行:顏淵,閔子騫,冉伯牛,仲弓。政事:冉有,季路。言語:宰我,子貢。文學:子游,子夏。(『史記』仲尼弟子伝)

また弟子の名を列挙した後半は、あざ名を用い敬称で呼んでいるから、孔子の発言ではないことは明らかで、後世の儒者による注が本文に紛れ込んだか、儒者が勝手に書き付けた。列挙したのは早くて孔子没後一世紀の『孟子』(孔門十哲のなぞについて)。

ただし子路を「季路」と書くのは、論語のほかは戦国最末期の『荀子』からで、上掲『史記』もそれに従っているから、列挙者は荀子、あるいは司馬遷と同時代の董仲舒の可能性もある。

解説

古注では、「不及門者也」で一旦章を分けている。

古注『論語集解義疏』

子曰從我於陳蔡者皆不及門者也註鄭𤣥曰言弟子之從我而厄於陳蔡者皆不反仕進之門而失其所也


本文「子曰從我於陳蔡者皆不及門者也」。
注釈。鄭玄「弟子のうち自分に付き従って陳蔡で難儀した者は、みな帰国後仕官せずに無職になってしまった。

鄭玄は論語をまともに読まなかったか、記憶で適当なことを書いている。顔淵が仕官しなかったのは記録がそうなっているが、論語の本章に取り挙げられた他の弟子は、論語そのものか『孟子』や『史記』に仕官の記録がある。それらが一斉に、後漢の時代には記述が無かった・違ったとは考えづらい。鄭玄は一杯機嫌で法螺を吹いているのである。

後半の弟子の名を列挙した部分については、後漢儒は何も書かず、三国から南北朝の儒者が、尻拭いで一生懸命理屈を付けている。

古注『論語集解義疏』

徳行顏淵閔子騫冉伯牛仲弓言語宰我子貢政事冉有季路文學子游子夏疏徳行至子夏徳行至子夏此章初無子曰者是記者所書竝從孔子印可而録在論中也云徳行云云者孔子門徒三千而唯有此以下十人名為四科四科者徳行也言語也政事也文學也徳行為人生之本故為第一以冠初也而顔閔及二冉合其名矣王弼曰此四科者各舉其才長也顔淵徳行之俊尤兼之矣范甯曰徳行謂百行之美也四子俱雖在徳行之目而顔子為其冠云言語宰我子貢者第二科也宰我及端木二人合其目也范甯曰言語謂賓主相對之辭也云政事冉有季路者第三科也冉仲二人合其目也范甯曰政事謂治國之政也云文學子游子夏者第四科也言偃及卜商二人合其目也范甯曰文學謂善先王典文王弼曰弟子才不徒十蓋舉其美者以表業分名其餘則各以所長從四科之品也侃案四科次第立徳行為首乃為可解而言語為次者言語君子樞機為徳行之急故次徳行也而政事是人事之别比言語為緩故次言語也文學指博學古文故比三事為泰故最後也


「本文徳行顏淵閔子騫冉伯牛仲弓言語宰我子貢政事冉有季路文學子游子夏」。
付け足し。徳行は子夏で至りになる。この部分は始めは「子曰く」とセットではなかった。原本を書き記した者が(注釈として)書いたのである。それによって孔子から免許皆伝を受けた者を論語の中に記したのである。

孔子の弟子は三千人だった。だがここに名が見える十人が、四つの分野の達者とされた。四つとは、徳の行い、弁舌、政治、文学である。

徳の行いは人間の基本である。だから最初に記したのである。顔と閔と二人の冉氏がその名を記された。王粛は言う。「この四分野は、それぞれの弟子の得意分野を挙げたのである。顔淵は徳の行いに優れ、一番その積み重ねが高かった。」范寧は言う。「徳の行いは、全ての行いの精華である。四人のお弟子は、誰もが徳に優れていたけれども、やはり顔先生が一番だった。」

「言語は宰我と子貢」とあり、二つ目の分野である。宰我と端木(=子貢)は二人とも弁舌に優れていた。范寧は言う。「言語は、客あしらいの口車を指す。」

「政事は冉有と季路」とあり、三つ目の分野である。冉(=冉求)と仲(=子路)がこの分野に優れた。范寧は言う。「政事とは、国を治めることをいう。」

「文学は子游と子夏」とあり、四番目の分野である。言(=子游)卜章(=子夏)がこの分野に優れた。范寧は言う。「文学とは、昔の聖王の書き残した文章をよく読めることをいう。」

王弼は言った。「ただ者ではない弟子は十人、たぶんその得意分野を挙げてその名を讃えた。それ以外の弟子が優れていた点も、かならずこの四つの内のどれかだろう。」

わたくし皇侃は思う。四分野の順序で、徳の行いを先頭に立てたわけはよく理解できる。弁舌を次に置いたのは、君子にとって徳の習得がまず必須だから、徳の次に置いたのだ。そして政治とは結局人の扱いだから、弁舌よりは後回しになる。文学は古典の研究だから、三分野よりは必要性が薄く、だから最後に置いたのだ。

なお新注は本サイトと同じ章分けをしている。

新注『論語集注』

弟子因孔子之言,記此十人,而并目其所長,分為四科。孔子教人各因其材,於此可見。程子曰:「四科乃從夫子於陳、蔡者爾,門人之賢者固不止此。曾子傳道而不與焉,故知十哲世俗論也。」

弟子は孔子の発言によって、この十人が記された。同時にその得意分野を分類して、四つの分野に分けた。孔子は弟子の素質に合わせて教えたことが、ここに見て取れる。

程頤「四分野の弟子とは、まことに先生の陳・蔡での苦難を共にした者のみで、弟子のうちの賢者が、たったこれだけではなかった。例えば曽子は、孝行の道を伝えたのに記されていない。だからいわゆる孔門十哲とは、アホウどもの物言いである。」

新注を書いた宋儒は、知能指数こそ古注の儒者より、少しはましだったかもしれないが、揃って理気学というオカルトに走った狂信者であり、読むに値することを言っていない。曽子は孔子の弟子ですからなかったし、本章の後半が注釈とも気付いていない。

余話

忘れることは出来ない

ヤ ザポーンニチ”忘れることは出来ない”

論語の本章に見られるように、孔子没後一世紀に生まれた孟子は、確かに捏造もしたしデタラメも言った。引き連れた弟子はコソ泥のような連中だった(論語学而篇6解説「スリッパ泥棒」)。だが何事も程度の問題で、世間が大迷惑するほどのうそデタラメはしなかった。

人によって思いはそれぞれだろうが、2022年の戦争が始まるまで、ロシアは中国よりはましな国に見えていた。メディアもおおむね当時の大統領を好意的に報じていた。だが開戦後は世界中から、諸悪の根源のように言われており、その分だけ中国の悪事がかすんで見える。

どちらがより悪か、は数字に出来ないから、個人の感想の域を出ない。痛みは数値化できないと聞くがそれと同じで、「痛い痛い」と泣く人は本当に痛がっているのだが、似たような人のどちらが痛いか、他人には知れかねる。正義は人の数だけあるから、悪も比較は難しい。

事を「自国民に対する暴虐」に限っても同様で、今世紀のロシアは沈没潜水艦乗組員の家族に、後ろから毒物を注射するような個別テロはやったが、中国のように少数民族を消し去ろうとはしていない。だが前世紀にはさんざんやったから、もうやり尽くしただけだとも言える。

だが漢文読みとして、そしてか細いロシア語読みとして、訳者は個人的感想なら言える。ロシア人の我慢強さは他に類を見ないほどで、対して中国人の忍耐力の無さは、これも他の例を求めがたいほどすさまじい。まこと、ひたすら福禄寿を追求する生き物にふさわしい。

両国人とも、自身に対するゆるぎない信仰が見て取れるのだが、重く深い冬を毎年乗り切った上で、今なお他者への献身が見られるロシア人に対して、中国人は自分以外の一切を、我欲達成の手段としか見ていない(論語為政篇24余話「中国人と科学」)。人生観が違うのだ。

宗教観の違いといってもよい。正教会がローマ教会同様に、神への献身を賛美するのに対して、中国人の宗教は一つの例外もなく現世利益を追求し、多くは他人をクルクルパーにして食い物にするための道具でしかない。だから弱者を平気で足で踏みつける。

ドストエフスキーの出世作、『死の家の記録』では、流刑囚に対して「気の毒な人」として、まちの人々から寄付が絶えなかったことを記している。対して『水滸伝』では、流刑にされた武松に一服盛り、生きギモを酒屋のおかみが食おうとする。弱者への憐れみは見られない。

前者は作者のほぼ実体験で、後者は芝居の台本という架空だが、作中きっての「白臉」(パイリェン。正義の味方)である武松が、食われる芝居を観ても観客は「それはおかしい」と怒らなかった。中国で蟹○゛リズムが当たり前だったからだが、弱者踏みつけの程度が甚だしい。

だからといってロシア人が乱暴でないことにはならない。訳者のじいさんの世代は、満洲でロシア人の、およそ人界であり得る限りの凶行にさらされた。独ソ戦の地獄で人格が荒みきっていたからだ、との言い訳もあるが、凶行される側がそれで納得できるはずもない。

だが、ロシア人が独ソ戦を戦い抜いた事実は変わらない。蒋介石がさっさと重慶の山奥に逃げたのに対して、スターリンは包囲が確実視される中、モスクワに踏みとどまった。結果を知っている現代人は忘れがちだが、ドイツ軍はものすごく強く、ソ連は負けるとみな思っていた。

だが最終的にロシア人は勝ってみせた。簡単に勝ったのではない。武器弾薬も食料も、ロシアの冬に燃料も兵員も欠乏する中、血だらけになって戦い抜いた。兵士のコートにウールが足りず、麻を混ぜた。1日コップ1杯のウォトカと、干魚と豆の水煮しか糧食が無かった。

この稿を書いている2022年9月末、前線でのロシアの敗北が伝えられる。このまま負けを認めて手を上げるだろうか。未来を語れば鬼が笑うが、この程度の退却なら独ソ戦にいくらでもあった。想像を絶して我慢強いロシア人が、この程度で負けを認めるとは思えない。

しかもロシアには核がある。かつてキューバ危機の際、アルヒーポフ中佐は命がけで核発射命令を阻止し、ソ連の警戒システムが故障した時、ペトロフ中佐は命がけで核報復攻撃を阻止した。だが今核のボタンを握っている者は、握ったままでいる。それを忘れることは出来ない。

一次大戦と同じで、戦争は存外長引いてしまうのかも知れない。本当に、心が重い。

参考動画

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