論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
季子然問仲由冉求可謂大臣與子曰吾以子爲異之問曽由與求之問所謂大臣者以道事君不可則止今由與求也可謂具臣矣曰然則從之者與子曰弒父與君亦不從也
- 「曽」字:〔八田日〕。:
校訂
東洋文庫蔵清家本
季子然問仲由冉求可謂大臣與/子曰吾以子爲異之問曽由與求之問/所謂大臣者以道事君不可則止今由與求也可謂具臣矣/曰然則從之者與/子曰弒父與君亦不從也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
季子然問:「仲由、冉求可謂[大臣]與?」曰a:「吾以子為異291之問,增b由與求○之問。所謂大臣c○,以道[事君,不可]292[則]止。曰與求也d,可[謂具臣]e○。」○「然則從之者與?」子[曰:「殺f]293[父與君],弗從也g。」294
- 曰、於前空一格、脱”子”字、今本有”子”字。
- 增、今本作”曾”。
- 今本”臣”下有”者”字。此”臣”下原刳去一字、有一空格脱字。
- 曰與求也、今本作”今由與求也”。”曰”為”由”之誤。
- 今本”臣”下有”矣曰”二字。簡於此二字處空二格、似刳去二字。
- 殺、今本作”弒”。
- 弗從也、今本作”亦不從也”。
標点文
季子然問、「仲由冉求可謂大臣與。」子曰、「吾以子爲異之問、增由與求之問。所謂大臣、以道事君、不可則止。由與求也、可謂具臣。」「然則從之者與。」子曰、「殺父與君、弗從也。」
復元白文(論語時代での表記)
※論語の本章は、「問」「與」「之」「道」「也」の用法に疑問がある。
書き下し
季子然問ふ、仲由冉求は大じき臣と謂ふ可き與。子曰く、吾、子を以て異しく之問ふと爲せり、由與求とを增ねて之問ふか。所謂大じき臣は、道を以て君に事へ、可か不れば則ち止む。由與求也、具への臣と謂ふ可し。然らば則ち之從ふ者與。子曰く、父與君とを殺さむには、從は弗る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
(魯国門閥筆頭家老家の一員、)季子然が問うた。「仲由(子路)と冉求は有能な家臣と言えるか。」先生が言った。「私は、あなたが疑いを抱いて質問すると感じました。由と求について、重ねて問いただすのですか。いわゆる立派な家臣とは、道徳に基づいて主君に仕え、受け容れられなければ辞職します。由と求は、頭数そろえの家臣とは言えます。」
(季子然が言った。)「では主君に従う者どもか。」先生が言った。「父や主君を殺すようなことには、従わないでしょうねえ。」
意訳
筆頭家老家の一人、季子然がやってきた。
季子然「子路と冉有は、有能な家臣ですかな。」
孔子「わざわざ念を押しに来るとは、あの二人を疑っておいでですな。有能な家臣は、道徳に従って主君を補佐しますが、言うことを聞いて貰えないとさっさと辞めてしまいます。あのふたりはまあ、頭数そろえ程度の、並みの人材でしょうな。」
季子然「ほう。ではよく言うことを聞いてくれましょうな。」
孔子「いや、謀反をたくらめば従いませんぞ。」
従来訳
季子然がたずねた。――
「仲由と冉求とは大臣(たいしん)といってもいい人物でございましょうね。」
先師がこたえられた。――
「私はまた誰かもつと非凡な人物についてのおたずねかと思っておりましたが、由や求のことでございましたか。お言葉にありました大臣と申しますのは、道をもって君に仕え、道が行われなければ直ちに身を退くような人をいうのでありまして、由や求にはまだ及びもつかないことでございます。二人はせいぜい忠実に政務を執るぐらいの、いわば具臣とでも申すべき人物でございましょう。」
季子然がまたたずねた。――
「では、二人は主命には絶対に従うでしょうね。」
すると、先師はこたえられた。――
「彼等といえども、まさか君父を弑するような命令には従いますまい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
季子然問:「仲由、冉求可算大臣嗎?」孔子說:「我以為您問別人,哪知道您問此二人。所謂大臣,應以仁道輔佐君主,不行就不乾。現在他二人,可算充數的臣子了。」說:「那麽他們是否絕對聽話?」孔子說:「弒父和弒君,他們也不會服從。」
季子然が問うた。「仲由と冉求は大臣と言えますか?」孔子が言った。「私はあなたが別人について聞くものと思っていました。思わぬ事にこの二人ですか。いわゆる大臣とは、必ず仁道に従って君主を補佐し、うまくいかなければ辞めます。今あの二人は、頭数揃えの家臣であるに過ぎません。」言った。「それなら彼らは、必ず言うことを聞きますか?」孔子が言った。「父や主君を殺すようなら、彼らは絶対言うことを聞きません。」
論語:語釈
季 子 然 問、「仲 由、冉 求 可 謂 大 臣 與。」(子) 曰、「吾 以 子 爲 異 之 問、增(曾) 由 與 求 之 問。所 謂 大 臣 (者)、以 道 事 君、不 可 則 止。(今) 由 與 求 也、可 謂 具 臣 (矣)。」(曰、)「然 則 從 之 者 與。」子 曰、「殺(弒) 父 與 君、(亦) 弗(不) 從 也。」
季子然(キシゼン)
論語の本章では、”季氏一族の然というあざ名を持つ人”。孔子のような学派の開祖や、門閥の当主はあざ名(敬称)を「○子」と呼ぶが、弟子や一般貴族は「子○」と呼ぶ。従って李子然とは、季孫家の一員で男性、ただし当主ではない一般貴族という事になる。
具体的に何をした人かは、古来誰だか分からない。『論語集釋』は、『春秋世族譜』に「子然、平子、意如之子」とあるというが、『春秋世族譜』そのものが清代の撰だから、どこまで当てになるか分からない。
『春秋世族譜』の言う平子とは季平子で、すなわち季孫意如。孔子より一世代上の季孫家当主で、魯の昭公に粛清されかけたが、返り討って斉へ追い出した(『左伝』昭公二十五年)。次期当主が季桓子=季孫斯で、孔子と同世代。その宰相在任時に孔子が亡命したが、季桓子が追い出したというのは儒者のでっち上げ。その次の当主が季康子=季孫肥で、孔子を呼び戻し、その後冷や飯を食らわせた。
以上『春秋世族譜』が正しいとするなら、季子然とは孔子と同世代で、季孫家の重鎮の一人。これ以外にも『論語集釋』には儒者の御託がわんさか書いてあるのだが、九分九厘が後世のゴマスリで、記すに値しない。
(甲骨文)
「季」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「禾」”イネ科の植物”+「子」で、字形によっては「禾」に穂が付いている。字形の由来は不明。同音は存在しない。甲骨文の用例は、地名なのか、人名なのか、末子を意味するのか分からない。金文も同様。詳細は論語語釈「季」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語の本章では、「子曰」で”先生”、「猶子也」で”息子”、「二三子」で”諸君”の意。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。詳細は論語語釈「子」を参照。
(金文)
「然」は論語の本章では、季子然の名と、「然則」として”それならば”の意に用いる。後者の語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ネン」は呉音。初出の字形は「黄」+「火」+「隹」で、黄色い炎でヤキトリを焼くさま。現伝の字形は「月」”にく”+「犬」+「灬」”ほのお”で、犬肉を焼くさま。原義は”焼く”。”~であるさま”の語義は戦国末期まで時代が下る。詳細は論語語釈「然」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”質問する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
仲由(チュウユウ)
論語の本章では、孔子の弟子、子路の実名(いみ名)。質問者は門閥の一員である季子然で、しかも子路は季孫家の執事を務めていたから、呼び捨てに当たるいみ名で呼んだ。同格の孟孫家当主・孟武伯が、子路を「子路は仁なるか」”子路さんは貴族としてどうですかね”と問うた論語公冶長篇7との対比は明らかで、同じ魯国門閥家老=三桓でも、孔門との間に親しさの差があったように儒者が表現した。論語の人物・仲由子路も参照。
「仲」「中」(西周末期金文)
論語雍也篇8の定州竹簡論語は「中由」と記しているが、意味は変わらない。金文まで、「中」と「仲」の書き分けは微妙だった。西周末期だと、同じ字形で両方を表している場合がある。詳細は論語語釈「仲」・論語語釈「中」を参照。
「由」(甲骨文)
「由」の初出は甲骨文。上古音は「油」と同じ。字形はともし火の象形だが、甲骨文では”疾病”の意で、また地名・人名に用いた。金文では人名に用いた。”よって”・”なお”・”すじみち”の意は、戦国時代の竹簡から。平芯の石油ランプが出来るまで、人間界では陽が落ちると事実上闇夜だったから、たしかに灯火に”たよる・したがう”しかなかっただろう。詳細は論語語釈「由」を参照。
冉求(ゼンキュウ)
孔子の弟子、冉求子有のこと。子路が孔子の亡命前に季孫家の執事を務めたのと同様、孔子放浪中に帰国して季孫家の執事として仕え、孔子の帰国工作を行った。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく孟子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
「冉」(甲骨文)
「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。
「求」(甲骨文)
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”言うことを聞く”。家臣の進言に対し、主君が「よし」と従うこと。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
謂(イ)
(金文)
論語の本章では”…であると評価する”。本来、ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。
大臣(タイシン)
論語の本章では、”他の家臣をたばねるような上位の家臣”。家臣団を統率できるような力量のある者の意。現代日本語のような閣僚のことではない。「臣」”家臣”のうち「大」いなるもので、論語微子篇13に「不使大臣怨乎不以」とあり、”主だった家臣に、重用されないことを恨みに思わせない”の意。『学研漢和大字典』に「すぐれた政治的手腕を持つ士・大夫」と語釈がある。
(甲骨文)
「大」の初出は甲骨文。字形は人の正面形で、原義は”成人”。甲骨文から”大きい”・”成人”の意に用いた。「ダイ」は呉音。詳細は論語語釈「大」を参照。
(甲骨文)
「臣」の初出は甲骨文。「ジン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形には、瞳の中の一画を欠くもの、向きが左右反対や下向きのものがある。字形は頭を下げた人のまなこで、原義は”奴隷”。甲骨文では原義のほか”家臣”の意に、金文では加えて氏族名や人名に用いた。詳細は論語語釈「臣」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章、「大臣與」「從之者與」では”…か”。疑問の意。この語義は春秋時代では確認できない。「由與求」では”~と”。並列の意。新字体は「与」。初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」の初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”用いて”→”~を”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”作る”→”…であると判断する”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
以子爲(しをもって…となす)
論語の本章では、”あなたを…だと思う”。「以爲」=「おもえらく」の間に目的語「子」が入った形。「如之何」などと同じ形。「しをおもえらく」と訓読してもかまわない。下記「異之問」に記す通り、これは南方の楚国の方言である可能性がある。
異(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”不審がって”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は頭の大きな人が両腕を広げたさまで、甲骨文では”事故”と解読されている。災いをもたらす化け物の意だろう。金文では西周時代に、”紆余曲折あってやっと”・”気を付ける”・”補佐する”の意で用いられている。”ことなる”の語義の初出は、戦国時代の竹簡。詳細は論語語釈「異」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章、「異之問」では”これ”。子路と冉有を指す。「由與求之問」では”…の”。「從之者」では直前が動詞であることを示す記号で、あえて訳せば”まさに…(する)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
異之問(あやしくこれとう)
論語の本章では、”これを不審に思って問いただす”。修飾語→被修飾語が原則である漢語での「異問」は、”異である問い”、つまり対象に「異」=不審を感じて問いただすこと。春秋時代以前の漢語には原則として熟語が無く、動詞を熟語的に運用する場合、おそらく間に目的語を挟む。「如何」の間にしばしば「之」をはさんで「これをいかん」と読み下すのと同様の例。従って「あやしくこれをとう」と訓読してもかまわない。本章の場合「異之問」とは、「之」=子路と冉有に不審を感じて問いただす、の意。
「おそらく」と記したのは、春秋時代以前の物的文字資料である金文や玉石文に、熟語や「如何」「何如」が見られないからで、「如何」は「女可」として楚系戦国文字から見られるようになる。楚は長江文明を代表する勢力で、黄河文明を代表する殷・周ともとは対等な関係にあり、言語もかなり異なったはず。従って「異之問」「如之何」は楚の方言である可能性がある。
対して秦系戦国文字には「異之問」は無論、「如之何」の例は見られない。「可如」は見られるが、間に目的語を挟む用例は無い。この用例が漢以降にも受け継がれたのは、あるいは漢帝国を立てた劉邦が楚の出身であるのが関係しているかも知れない。劉邦が生まれた沛県は現在の江蘇省蘇州市に属し、春秋時代は呉の領域で、のち越、さらに楚の一部となった。
曾→增
(甲骨文)
論語の本章では”繰り返して”。新字体は「曽」。初出は甲骨文。字形は蒸し器のせいろうの象形で、だから”かさねる”の意味がある。「かつて」・「すなはち」など副詞的に用いるのは仮借で、西周の金文以降、その意味が現れたため、「甑」”こしき”の字が作られた。「甑」の初出は前漢の隷書。詳細は論語語釈「曽」を参照。
(楚系戦国文字)
定州竹簡論語では「增」と記す。事実上の初出は戦国文字から。それまでは「曾」と書き分けられていない。字形は「土」+「曾」”かさねる”。新字体は「増」。西周末期の「輔師𠭰𣪕」に「今余曾乃命。」とあるのは「增」と釈文されており、”かさねて”と解せる。春秋末期まではこの一例しか無い。戦国の竹簡では、”増築する”の意に用いた。詳細は論語語釈「増」を参照。
由與求之問
論語の本章では”子路と冉有についての質問”。上記の通り、季孫家の当主が孔子と同世代の季孫斯(季桓子)だった時代には、子路が執事として仕えており、次代季孫肥(季康子)の時代には、冉有が執事として仕えた。季子然がその二人について、「増」=重ねて問いただす、の意。
重ねて問いただしたからには、二人が仕えてよりのちだったはずだが、冉有が仕えたときには、子路は衛国で蒲の領主になっており、これから雇おうとして問うたのではなく、”あれで執事が務まったと言えますかね”と文句をつけたことになる。子路が季孫家の執事としてしくじった記録としては、季孫家の根城である費邑の城壁を破壊しようとして、代官だった公山不狃と叔孫輒が反乱を起こし、魯の都城だった曲阜まで攻め込んだことが『史記』孔子世家に記される。
この破壊は領主である季孫家の同意を得ており、理由は恐らく城壁の維持に費用がかかりすぎたからで、『史記』に言う「礼法の規定にそむくから」ではない。そもそもそんな規定が春秋時代にあったか極めて怪しいし、季孫家が賛成するはずもない。詳細は論語先進篇12余話「カネの切れ目は城の切れ目」を参照。
対して冉有が執事としてしくじった話は残っていない。ただ当主の季康子に協力して、税制改革の実務にあたり、孔子と意見が対立したとされる。詳細は論語先進篇16「季氏周公より富めり」を参照。
所謂(ソイ)(いわゆる)
論語の本章では”いわゆる”。そうあって当然だ、と評価できるの意。
(金文)
「所」の初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”儒教的道徳”。この語義は春秋時代では確認できない。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”臣従する”→”奉仕する”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
君(クン)
(甲骨文)
論語の本章では”主君”。春秋諸侯国の国公。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「丨」”通路”+「又」”手”+「口」で、人間の言うことを天界と取り持つ聖職者。春秋末期までに、官職名・称号・人名に用い、また”君臨する”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「君」を参照。
以道事君
論語の本章が史実とするなら、”技術を身につけてそれを発揮して主君に仕える”。ただし論語の本章は、季子然がすでに衛国の一領主に収まっている子路について孔子に再評価を求めるなど不自然な点があり、後世の創作だとすると、”儒教的な道徳に従って主君に仕える”の意。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”…すれば必ず…”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
止(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”辞任する”。初出は甲骨文。字形は足の象形。甲骨文から原義のほか、”やむ”・”とどまる”と解しうる用例がある。また祭りの名の例も見られる。詳細は論語語釈「止」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「由與求也」では主格の強調、”…はまさに”。「亦不從也」は「かな」と読んで詠嘆”…ですぞ”の意か、「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
具*臣(クシン)
論語の本章では、この文が史実とすると”仕事の出来る家臣”。通説では”頭数そろえの、まあ普通の家臣”と解する例があるが、それでは春秋時代の語義とそぐわない。
この部分が後世の創作とすると、”頭数そろえの、ほどほどの能を持った家臣”。
(甲骨文)
「具」の初出は甲骨文。論語では本章のみに登場。字形は「鼎」を両手で捧げるさま。「グ」は呉音。文として判読しうる甲骨文の用例は1例しかないが、”供え物をする”と解せなくもない。以降春秋末期までに、”一そろい”・人名・”道具”・”つぶさに”・”すべて”の意に用いた。詳細は論語語釈「具」を参照。
從之者(ショウシシャ)(これしたがうもの)
論語の本章では”まさに従う者”→”実に仕事の出来る者”。ここでの「之」は直前の動詞を強調する語で、目的語ではない。従って「これしたがうもの」と読み、「これにしたがうもの」と助詞を付けない。
”何でもはいはいと言うことを聞く者”と解せなくはないが、論語の本章が史実とすると、「從」は”道理に従う”ことであり”人の言うことに従う”ではない。
(甲骨文)
「從」の初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
(金文)
「者」の旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
弒(シ)→殺(サツ)
論語の本章では”殺す”。
(篆書)
「弒」の初出は後漢の『説文解字』で、戦国時代の竹簡に「式」を「弑」と釈文した例がある。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「𣏂」”殺の略体”+「式」。「式」に”する”の意があり、『学研漢和大字典』によると、下が上を殺すというのを避けて、「する、やった」といった一種の忌みことば、という。詳細は論語語釈「弑」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語では「殺」と記す。新字体は「殺」。一説に初出は甲骨文。その字形は「戈」”カマ状のほこ”+斬首した髪。西周中期まではこの字形で、西周末期より髪に「人」形を加えた「𣏂」の形に、「殳」”撃つ”を加えた形に記された。漢音では”ころす”の意では「サツ」と読み、”削ぐ”の意では「サイ」と読む。甲骨文から”ころす”の意に用いたが、”削ぐ”の意は戦国末期まで確認できない。詳細は論語語釈「殺」を参照。
父(フ)
(甲骨文)
論語の本章では「父」。初出は甲骨文。手に石斧を持った姿で、それが父親を意味するというのは直感的に納得できる。金文の時代までは父のほか父の兄弟も意味し得たが、戦国時代の竹簡になると、父親専用の呼称となった。詳細は論語語釈「父」を参照。
亦(エキ)
(金文)
論語の本章では”その場合はまあ”。定州竹簡論語では欠く。初出は甲骨文。字形は人間の両脇で、派生して”…もまた”の意に用いた。”おおいに”の意は甲骨文・春秋時代までの金文では確認できず、初出は戦国早期の金文。のちその意専用に「奕」の字が派生した。詳細は論語語釈「亦」を参照。
不(フウ)→弗(フツ)
定州竹簡論語では現伝論語の「亦不從也」を「弗從也」と記す。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「弗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は前漢中期の定州竹簡論語に載り、それよりやや先行する『史記』弟子伝に、子路についてのみ「季孫」がこのような問答を孔子と交わしたもようが記される。
子路為季氏宰,季孫問曰:「子路可謂大臣與?」孔子曰:「可謂具臣矣。」
子路が季氏の執事になった。季孫が問うて言った。「子路くんは家臣の統率が出来るような人材かね?」孔子が答えた。「能のある家臣と言い切ってよろしいですよ。」
ここで「季孫」が「子路」と子路をあざ名=敬語で呼んでいること、孔子が「謂…矣」”断言してよい”と太鼓判を押しているのに注目。論語の本章はおそらくこれが原形で、原稿の文字列は『史記』の時代=前漢武帝期から、宣帝期までの僅かな間に、儒者によっていじくられ書き換えられたと思われる。
つまり質問者は季子然という伝承不明人物ではなく孔子と同世代の季孫家の当主、季桓子(季孫斯)であり、子路が季桓子に執事として仕える前に、”仕事が勤まるんだろうね”と季桓子が孔子に聞くことは十分あり得る。
孔子が世に出るまで、公職や大貴族の執事職は、家職として貴族階級が世襲するものだった。そこへ、官吏としての技能教養を身につけた孔子の弟子が進出していったのだが、子路はその先頭を切った弟子で、季桓子が不安を感じて問いただすのは理の当然と言える。
だが論語の本章は、子路と冉有を一緒にして問うているが、冉有部分は後世の引用や再録が無く、「以道事君」などという嘘くさい説教も、後漢初期の王充が記すまで引用・再録が無い。
冉有の人材うんぬんについては、『史記』弟子伝に次の通りある。
季康子問孔子曰:「冉求仁乎?」曰:「千室之邑,百乘之家,求也可使治其賦。仁則吾不知也。」復問:「子路仁乎?」孔子對曰:「如求。」
(季桓子の次代)季康子が孔子に問うた。「冉求は貴族として一人前か?」
孔子「戸数千のまちや、戦車百乗を擁する家なら、冉求はその税務を担当させることができます。貴族として一人前かどうかは知りません。」
季康子「子路さんはどうだったのか?」孔子「冉求と同じです。」
※「仁」→”貴族らしさ”の解釈については、論語における「仁」を参照。
同じ質問をやや文体を変えて、論語公冶長篇7にも載せているが、そこでの質問者は季康子と同世代の孟孫家の当主、孟武伯になっている。『史記』も公冶長篇も同様な点は、子路は「子路」と敬称で呼びながら、冉有は「冉求」と呼び捨てにしている点。
いずれにせよ、すでに衛国で領主に収まっている子路について、人材目当てで季康子や孟武伯が問うのは動機が無く、国外亡命中の孔子に季康子が問うのもおかしい。元ネタは『史記』にある季桓子と孔子の問答と、論語の本章の冉有ばなしだけで、それ以外の似た話は、後世の改編によって生み出されたと考えてよい。
冉有が季康子の執事になった当時、孔子は亡命中でおそらく衛国に滞在していたから、季康子は一族の季子然を孔子の下へ使いにやって、冉有の人材について問いただしたと解釈出来る。
子路が仕えた季桓子の先代、季平子は、主君である魯の昭公に討伐軍を送りつけられ、返り討ちにして亡命させたと『史記』孔子世家が記す。昭公の亡命に孔子も付き合っているのだが、後世の儒者が本章を合成するにあたり、この記事を当然踏まえているだろう。ゆえに「弒父與君、亦不從也」と記した。
従って論語の本章は、文字史的には全て春秋時代にまで遡れるのだが、子路についての孔子と季桓子の問答部分だけが史実で、あとは後世の儒者によって付け足されたと断じてよい。
元ネタ | 派生話 |
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解説
論語の本章を正確に読み解く鍵は、頭がおおざっぱに出来ている儒者を超える時系列の整理と、孔子生前までとそれより後の漢語を判別することにある。出来事の時系列は次の通り。
BC517:魯の昭公が季平子の返り討ちに遭って国外逃亡
BC498ごろ:子路、執事として季桓子に仕える
BC497:孔子、宰相代行を辞任し国外へ亡命
BC491:冉有、執事として季康子に仕える
BC488ごろまで:子路、衛国・蒲の領主になる
BC484:孔子帰国
また「以道事君」というインチキくさい説教が漢語に見られるのは、定州竹簡論語よりやや先行する「塩鉄論」からで、政敵を蹴落とすために権臣の霍光が集めた全国のはな垂れ儒者が、口先で次のように言っている。
杜周、咸宣之屬,以峻文決理貴,而王溫舒之徒以鷹隼擊殺顯。其欲據仁義以道事君者寡,偷合取容者眾。獨以一公孫弘,如之何?
判事の杜周や咸宣のやからは、わざと厳しく法を運用して国家の大事を好き勝手に振り回し、検事の王温舒のやからはハゲタカのように人の弱みを見つけては牢にぶち込んでいます。仁義に寄り添い、道徳に従って主君を補佐しようとする者は実に少なく、職権を私物化しワイロを取る者ばかりです。(武帝時代の儒家で宰相)公孫弘ばかりではありません。(『塩鉄論』刺復5)
仁義も道徳も、イデオロギー=権力が決めた正義の一つに過ぎず、通用するのはそれを看板に掲げた権力者がいる間だけで、春秋の世にこんな馬鹿げた主張を権力の背景無しで言い回っても、誰も相手にしない。戦国中期の孟子が、「仁義」を言い回ってほぼ誰にも相手にされなかったのと同様。
余話
(思案中)
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