論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子見南子子路不說夫子矢之曰予所否者天厭之天厭之
- 「說」字:つくりは〔兊〕。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子見南子〻路不說夫子矢之曰予所否者天厭之天厭之
- 「說」字:つくりは〔兊〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
[孔]a子見南子,子路不說。夫子矢[之曰:「予所否者,天厭之!天厭之]!」134
- 孔、今本無。
標点文
孔子見南子。子路不說。夫子矢之曰、「予所否者、天厭之。天厭之。」
復元白文(論語時代での表記)
※說→兌・予→余。論語の本章は、「否」の用法に疑問がある。
書き下し
孔子南子に見ゆ。子路說ば不。夫子之に矢うて曰く、予の否める所の者は、天之を厭はん、天之を厭はん。
論語:現代日本語訳
逐語訳
孔子が南子に会った。子路は喜ばなかった。先生がこれに誓って言った。「私が否定する者は、天が嫌うだろう、嫌うだろう。」
意訳
先生が衛国滞在中、殿様の奥方の南子さまに会いに行った。終えて出てきた先生を、子路さんが疑いの目つきででジロジロ眺めるから、先生は言った。
「いかんか? なら誓ってもいいが、ワシが嫌うような人物なら、天罰が下るに違いない。」
従来訳
先師が南子に謁見された。子路がそのことについて遺憾の意を表した。先師は、すると、誓言するようにいわれた。――
「私のやったことが、もし道にかなわなかったとしたら、天がゆるしてはおかれない。天がゆるしてはおかれない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子會見了風流大美人南子,子路不高興。夫子發誓說:「若我有歪心,老天討厭我吧!老天討厭我吧!」
孔子が浮名の高い大美人の南子と会見したが、子路が喜ばなかった。先生は誓いを掛けて言った。「もし私にやましい心があるなら、お天道様が嫌うだろう!お天道様が嫌うだろう!」
論語:語釈
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。文字的には論語語釈「孔」・論語語釈「子」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”→”会う”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”、”…される”の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
南子(ダンシ)
春秋の世で、これほど儒者による濡れ衣を着せられた女性も珍しい(ex.→wikipedia)。
?-BC480?。宋公室出身の女性で、衛霊公の後妻。おそらく子が出来なかったらしく、霊公も認めた上で宋公室の子朝(宋朝)を衛国に呼び愛人とした(論語雍也篇16)。霊公には先妻との子に太子蒯聵がおり、廃嫡を恐れた蒯聵は南子殺害を企てたが寸前で失敗した。
(蒯聵が所用で宋国を通りがかると、宋の百姓が歌っていた。”南子のメス豚を受け取ったのに、なんでオス豚宋朝を帰さないのか”。蒯聵は恥じて南子殺害を決意した。)
帰国した蒯聵が南子に目通りを願い、受けた南子が御簾を上げた。蒯聵は三度振り返って「殺せ」と合図したが、戯陽速は動かなかった。焦った蒯聵の顔色を、ただ事ではないと南子は見て取り、「蒯聵が殺しに来た」と叫んで走り逃げた。夫の霊公が南子の手を取って物見櫓に上がると、失敗を悟った蒯聵は宋国へ逃げた。(『春秋左氏伝』定公十四年2)
蒯聵が暗殺を決意した理由を、通説では上掲の「ブタの歌を恥じた」からだとする。これを理由に、当時の世論は南子の淫乱を非難したと儒者は書いたが、拡大解釈にも程がある。貴族の下半身をからかうのは民の常だし、外国人のからかいの歌が、国内世論とは言いがたい。
失敗した蒯聵は宋→晋国に逃亡、その後やり手の国君だった霊公が死去すると、蒯聵の子が即位したが、陰謀を逞しくした蒯聵は密かに帰国してクーデターを敢行、自分の子を追って国公に即位した。この時衛国に仕えていた子路は命を落としている(『史記』衛世家・出公)。
即位した蒯聵はのちに荘公と呼ばれたが、即位すると南子を殺してしまったという。しかしそれを記しているのは、事件から四世紀半も後の漢儒・劉向が、儒教道徳を説教するために書いた『列女伝』がはじめで、信用できない。そして荘公は即位後たった三年で追放された。
要らぬ紛争を起こすなど、君主としての器量を欠いたからで(『史記』衛世家・荘公)、蒯聵が南子暗殺を企てたのも、器量を危ぶんだ父の霊公と関係がよくなかったからだ。もし霊公に将来を期待されていたなら、南子暗殺未遂事件の際、即座に霊公に追われた理由が立たない。
霊公は大国晋に領土を削り取られつつも、よく家臣をまとめ(論語憲問篇20)、領民の支持も厚く、ただの助平で南子をかばったわけではない。この南子は、愛人を囲ったことから後世の儒者から淫乱呼ばわりされたが、春秋の王侯にとっての道徳は、儒者の道徳とはまるで違った。
春秋の貴族は、威張れば務まる気楽な身の上ではなかった。大貴族の家は現代で言う財団法人で、領地領民家臣家職を含めた家産を守るのが、当主に求められた役割で、それが果たせない当主は、必ず地位を追われ多くは殺された。例えば姜氏斉国の国公は4割が殺されている。
戦国の初めごろまで、貴族の勢力は一族の男子の数により、実子であるかは問われなかった。斉国を半ば乗っ取った田恒は、国中から体力に優れた大女を集めて後宮を作り、家臣の出入り自由にして子を生ませ、死ぬ頃には田氏の男子は七十人を超えた(『史記』田敬仲完世家)。
後に田氏は実際に斉国を奪い取るのだから、田恒の策は成功した。衛の霊公も蒯聵に見切りを付けた上で、南子に出来のよい男子を産ませたかったに違いない。南子暗殺騒ぎのおり、即座に南子をその手でかばい、蒯聵の言い分には耳を貸さなかったことが証拠となろう。
春秋時代の血統概念については、論語雍也篇16余話を参照。
なお南子暗殺騒ぎの前後、孔子は衛国に亡命していた。本章が事件の前後いずれかは決めがたいが、孔子もまた南子の住まう後宮に「出入り自由」であったことを見て取れる。もちろん霊公の公認あってのことだろう。孔子はタ○馬を期待したり、されたりした可能性がある。
それは春秋の王侯の価値観に沿うもので、本章を現代の価値観や、後世の儒教道徳で判断すべきではない。儒教道徳そのものが、ほとんど史実の孔子とは何の関係も無い。閲覧者諸賢におかれては、余計なウロコを落として明らかな目で論語や本章を解釈されるとよろしいと思う。
「南」(甲骨文)
「南」の初出は甲骨文。「ナン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は南中を知る日時計の姿。甲骨文の字形の多くが、「日」を記して南中のさまを示す。原義は”南”。甲骨文では原義に用い、金文でも原義に用いた。詳細は論語語釈「南」を参照。
「子」
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。一門の長老として、弟子と言うより年下の友人で、節操のない孔子がふらふらと謀反人のところに出掛けたりすると、どやしつける気概を持っていた。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
說(エツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。原義は”言葉で解き明かす”こと。戦国時代の用例に、すでに”喜ぶ”がある。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
「悦」(楚系戦国文字)
古注の「悅」の初出は戦国時代の竹簡。新字体は「悦」。語義は出現当初から”よろこぶ”。論語時代の置換候補は部品の「兌」。詳細は論語語釈「悦」を参照。
夫子(フウシ)
(甲骨文)
論語の本章では”孔子先生”。従来「夫子」は「かの人」と訓読され、「夫」は指示詞とされてきた。しかし論語の時代、「夫」に指示詞の語義は無い。同音「父」は甲骨文より存在し、血統・姓氏上の”ちちおや”のみならず、父親と同年代の男性を意味した。従って論語における「夫子」がもし当時の言葉なら、”父の如き人”の意味での敬称。詳細は論語語釈「夫」を参照。
矢(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”誓う”。初出は甲骨文。字形は矢の象形。原義は”矢”。甲骨文では原義で、また”並べる”の意に用いた。金文では原義のほか国名に用いた。戦国の竹簡では「屎」にも通じてその意に用いた。「矢」を”誓う”と読める例は、甲骨文から存在する。詳細は論語語釈「矢」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”。「矢之」では子路を、「天厭之」では南子を指す。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
予(ヨ)
(金文)
論語の本章では”わたし”。初出は西周末期の金文で、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいうが、春秋末期までに一人称の用例がある。”あたえる”の語義では、現伝の論語で「與」となっているのを、定州竹簡論語で「予」と書いている。字形の由来は不明。金文では氏族名・官名・”わたし”の意に用い、戦国の竹簡では”与える”の意に用いた。詳細は論語語釈「予」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの…”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
否(フウ/ヒ)
(金文)
論語の本章では”非難する”。現伝論語では本章だけに登場(古注系論語では論語顔淵篇23に用例有り)。初出は西周末期の金文。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「フウ」で”いな”を、「ヒ」で”わるい”を意味する。金文では「不」と同じ”…でない”・”否定する”の意に用いた。詳細は論語語釈「否」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
予所否者
ここでは二つの解がありうる。常識的な漢語の解なら、主語が「予」で、「予所否者」は”私が否定(非難)する者”。”ワシが非難するような者(南子が悪党のはずがない)”と開き直ったわけ。
下掲『史記』では孔子は南子に会見を強要されたことになっているが、筆写の司馬遷は出来事から四世紀後の人物で、根拠があってそう書いたのか疑わしい。
また司馬遷にとって孔子は、主君の武帝がお気に入りの董仲舒が持ち上げる人物だったから、儒教道徳に抵触するようには書けなかった。仮に書いてしまえば、今度はナニではなく首をちょん切られただろう。武帝はその程度には暴君だったし、司馬遷はそう書けるほど偉くない。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
もう一つは「予」を修飾語、「所否者」をその修飾対象として、”私の否定されるところ”。伝統的にはそう解するが、「否」に受身の記号が無いから無理がある。
ここを「予を否める所の者」と読むのは徹底的に語順的に無茶で、「予」は目的語ではないから、「を」には従いがたい。
天(テン)
(甲骨文)
論語の本章では漠然とした”摂理”。初出は甲骨文。字形は人の正面形「大」の頭部を強調した姿で、原義は”脳天”。高いことから派生して”てん”を意味するようになった。甲骨文では”あたま”、地名・人名に用い、金文では”天の神”を意味し、また「天室」”天の祭祀場”の用例がある。詳細は論語語釈「天」を参照。
最高神、天の神と解してもよいが、それには別に「帝」の字がある。孔子は「怪力乱神を語らず」(論語述而篇20)と言われるとおり、古代にあっては例外的に無神論的人物で、極めて明るい視野を持っていた。それゆえに、大自然の猛威に対しては敬虔で、人格神ではない抽象的な摂理を「天」と呼んで恐れたと思われる。詳細は孔子はなぜ偉大なのかを参照。
なお殷代まで「申」と書かれた”天神”を、西周になったとたんに「神」と書き始めたのは、殷王朝を滅ぼして国盗りをした周王朝が、「天命」に従ったのだと言い張るためで、文字を複雑化させたのはもったいを付けるため。「天子」の言葉が中国語に現れるのも西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
厭(エン/オウ)
(金文)
論語の本章では”嫌う”。初出は西周早期の金文。漢音「エン」で”あきる”、「オウ」で”押さえる”の意を示す。字形は「𠙵」”くち→あたま”+「月」”からだ”+「犬」で、脂の強い犬肉に人が飽き足りるさま。原義は”あきる”。金文では”満ち足りる”の意に用いた。異体字の「猒」を含めて、”厭う”の意は確認できないが、”満ち足りる”の派生義としては妥当と判断する。詳細は論語語釈「厭」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語に残り、「否」を「不」に変えて『史記』孔子世家が再録している。文字史的に論語の時代に遡りうることから、本章は史実と断じてよい。
解説
ただし『史記』では、会う気が無い孔子に南子が無理やり会見を申し込んだとする。
靈公夫人有南子者、使人謂孔子曰「四方之君子不辱欲與寡君爲兄弟者、必見寡小君。寡小君願見。」孔子辭謝、不得已而見之。夫人在絺帷中。孔子入門、北面稽首。夫人自帷中再拜、環佩玉聲璆然。孔子曰「吾鄉爲弗見、見之禮答焉。」子路不說。孔子矢之曰「予所不者、天厭之!天厭之!」
衛霊公の夫人に南子という者がいて、人をつかわして孔子に言った。「四方の君子で、我が殿と兄弟になってもおかしくないと思う者は、必ず私とも会見します。私は会見を願います。」
孔子は辞退したが、やむを得ず南子と会った。南子は薄い葛布のとばりの中にいた。孔子は門より入り、北面して頭を地に付けて挨拶した。夫人はとばりの中から挨拶を返し、身につけた宝石の音がコロコロと鳴った。
孔子が言った。「私は今までお会いしませんでしたが、今お目にかかって挨拶を申し上げます。」会見を終えて出たが、子路は不満顔だった。孔子が天に誓って言った。「私が否定する者は、天が嫌うだろう。嫌うだろう。」
このもようを、藤堂明保博士はこう書いている。
昔、孔子が衛の国を訪れたことがある。衛の王室には南子という絶世の美人がいた。孔子が参内すると、南子が腰元たちを連れてしずしずと現われ、この哲人に向かって嫣然と笑いかけたからたまらない。さすがの孔子も、心中少しは嬉しかったであろう。(藤堂明保『漢文概説』)
だが藤堂先生の筆達者は賞賛すべきながら、史実の孔子はそれほど「嬉し」がらなかった。孔子は当時の貴族には珍しく、実の息子が孔鯉の一人しか居ない。当時の常識としてはあり得ないことで、それだけ孔子が女色に対して、淡泊だったことを示すものに他ならない。
管仲は奥さんを三人娶った程度で、女色にかまけて政務を放り出した。器の小さいお人だ。(論語八佾篇22)
そう言い切った孔子には、それだけ色事に関して本能を統御できる自信があったのだ。おそらく霊公・南子夫妻には、○ネ馬を期待されて呼ばれたのだろうが、孔子にその気があったとは思えない。ただ庶民出の子路にとっては、間男にみえる所業を不満に思ったのだろう。
子路はその程度には潔癖な男だったし、それゆえに衛国のクーデターで節を曲げずに命を落とした。子路に限って言うならば、後世の儒者が言うように、南子を淫乱だと見た可能性がある。対して孔子は、”ワシが淫婦に会いに行くもんか”と軽くいなしたのだろう。
また南子の立場から見れば、世継ぎを産んでいない外国出身の身の上で、身を守る手段は夫の霊公の寵愛しかない。春秋の政界では貴族の殺し合いは日常茶飯事で、国内の権門出身の女性なら、いざとなれば近所の実家に逃げ帰れば助かるが、遠国出身の南子はそうもいかない。
心細かったに決まっている。そこへ春秋政界に名の知れた孔子が、物騒な弟子を引き連れて、衛都に屋敷を構える傭兵団の棟梁、顔濁鄒の屋敷に亡命してきた。南子は身を守るために、孔子の歓心を買っておきたかったはずだ。それに限るなら、間男嫌疑はゲスの勘ぐりとなる。
司馬遼太郎の作品に、鍋島閑叟が「儒者とは好色なものだ」と嫌悪する場面があったと記憶する。また江戸の川柳に、儒者の好色をからかうものがあるという。南子を淫乱呼ばわりした後世の儒者の方が、存外ムッツリ助平と言うべきでなかろうか。
司馬遷の言う通り、南子の側から孔子に会いたがったのはおそらく事実だろう。受けた孔子は、当然自分がタ○馬を期待されていると知っていた。それが孔子生前の「礼」の一部だった。それは礼儀作法を含めた貴族界の常識を意味し、現伝儒学経典のいう「礼」ではない。
孔子もまた亡命の身で、滞在国の国公夫人の好意は買いたかったはず。また滞在先の顔濁鄒や、弟子の子貢の実家から、南子がどのような人物か、宋国の百姓以上に聞き知っていたはずだ。それでも会ったのは、自分を制御し切り、穏やかに事を済ませる自信があったからだ。
現伝儒学経典の言う「礼」のほぼ全ては、春秋の「礼」が廃れて以降、儒者がでっち上げにでっち上げを重ねた煩瑣極まるもので、「礼儀三百、威儀(細則)三千」と呼ばれている(『礼記』中庸28)。その虚構の巨大建造物を叩き壊さねば、論語に何が書いてあるかは分からない。
余話
天がうんざりするか
竹を割ったような性格の子路を黙らせるのに、孔子は天を持ち出した。だが孔子は天体の運動や自然現象はあるがままに認めたが、道徳的な良い悪いを決める機能のある天を信じなかった。言い換えると神のたぐいはいないと思っており、思っている子路を他章でもたしなめた。
孔子「なんぞ霊験あらたかな祝詞でもあるのか。」
子路「ここにあります。えーと、病魔退散~かしこみ~祈りまほ~す~。」
孔子「欺された事が無いのかお前。その程度の祈りなら、私もさんざんやったよ。そしてついにこのざまだ。」(論語述而篇34)
子路はこの点で普通の古代人で、同時代のブッダも死の寸前まで、発光した梵天に頼まれただの、天から琵琶弾きが下りて来るだの、沙羅双樹が咲くだのと、絵空事を弟子に語り続けた。孔子の無神論の方が古代人として飛び抜けている。詳細は孔子はなぜ偉大なのかを参照。
論語の本章には「吾の否めるもの」と言う。「否」は「不」+「𠙵」”くち”だから、口に出して「それは違う」と言うことで、暗示的に示唆するわけではない。「𠙵」の上には出てきたものを記す。だから”言う”を「曰」と書き、含んでしゃぶるさまを「甘」と記す。
そして「厭」は脂っこい食べ物にあきることで、「天が厭う」とは、子路の信じる天神が「もううんざり」と言い出すこと。
孔子は南子の宮殿から出てきて、南子を肯定も否定もしていないのだから、南子は「否めるもの」でなく、でありもしない。従って天がうんざりするかどうか、孔子にとってはどうでもいいことで、つまりは孔子ほど頭の回らない子路を、うまくたぶらかして誤魔化したわけ。
確かに子路は孔子よりはおつむの血の巡りが良くなかったが、後世の儒者が口を揃えて言うような乱暴者ではなく、武芸の達者だったかどうかも疑わしい。春秋の貴族として、素手で人を殴刂殺せる程度のえげつない暴カは身につけていただろうが、それは他の高弟も同じ事。
詳細は論語における「君子」を参照。
子路が達者だったのは、武芸よりむしろ政治の才で、だから孔子没後一世紀に生まれた孟子は、論語先進篇2に書き加えて子路を「政事」の達者とした。子路は衛国から面倒くさいまちを押し付けられ、孔子の入れ知恵を用いはしたが、領主としてみごとに治めきっている。
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)
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