略歴
孔子の最も初期の弟子、BC543-BC481。『史記』では姓は仲、名は由、字は子路とされる。春秋時代の命名法として、「仲」は”次男坊”を意味するが、いずれの有力者の次男を発祥とする姓と考える以外に理が立たない。
現伝論語で「季路」とあるのは「子路」の意だとされるが、そう言い出したのは孔子没後967年後に生まれた、古注『論語集解義疏』に「疏」”付け足し”を書き付けた南朝梁の皇侃であり、とうてい信用するに値しない(論語公冶長篇25)。「季路」は顔回子淵の父・顔由季路で、前漢中期当たりから混同されて、こんにちの通説「季路」→「子路」に至った。
論語と同じく定州漢墓竹簡に含まれる『孔子家語』の、現伝の文字列では「仲由,弁人,字子路,一字季路」とあり、あるいは前漢中期にすでに、子路と季路の区別が分からなくなっていたことを示すか。「子路」の名は「上海博物館蔵戦国楚竹簡」から見えるが、「季路」は甲金文・戦国竹簡に見えず、戦国時代の『孟子』現伝文字列にも無く、戦国末期『荀子』現伝文字列に初めて見える。
子路は政治の才を孟子に評価され(孔門十哲の謎)、孔門十哲の一人。魯国の卞(ベン)出身。初めて孔子に会った際は、武装して孔子をおどしたという。しかし会見後は、生涯最も忠実な弟子になった。
訳者としては、「では庭に出なさい」と言われ、ボコボコにされたと想像する。あるいは会ったとたんに孔子の隠然たる武威(=論語に言う「徳」)に撃たれ、「弟子にして下さい!」と願ったのだろう。武道の世界にはよくある話で、訳者にもその経験がある。
それだけに質実剛健で、のち魯国筆頭家老の季氏に仕えるまでは、孔子の相談役も務めたと思われる。孔子の諸国放浪の旅にも同行し、弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い。しかし孔子に先立つこと一年前に、仕えていた衛国の内乱に巻き込まれて死去し、孔子を嘆かせた。その際孔子の教えを守り、「君子は死に当たっても冠を正す」と言い、冠を正して死んだという。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
またいみ名の仲由は、通常は姓が仲で、由が名だと考えるべきだが、「仲」とは次男坊の意であり、本来姓も持たない下層民の出身である可能性がある。またあざ名の内「季路」は、「子」という敬称を伴わず、「末っ子」の意でもある。これは矛盾と言うべきで、「子路」≠「季路」であり、子路はやはり名も無き庶民と見るべきだ。
ただしただの庶民ではなく、義兄は顔氏一族のトップで、国際傭兵団の親玉だった顔濁鄒だった。つまり春秋時代の身分制度的にははなはだ低位の身ながら、当時の社会の中では、コワモテの街のおニイさんとして一目置かれる存在でもあった。
ただし後世の儒者や漢学教授が言い募ったような、武芸自慢の筋肉ダルマではない。子路が孔子の身辺で武辺働きをしたという記録は『史記』に無く、衛国の内乱に巻き込まれた死去の際も、冠をかぶっており武装していたとは書いていない。『孔子家語』には一例だけ、宋国で包囲されて武器を手に取ろうとした記述があるが、孔子に止められ結局戦っていない。
論語での扱い
為政篇では、知ったかぶりを孔子にたしなめられている。
公冶長篇では、孔子に「千乗の国の軍務が務まる」「海外に出ても付いてきてくれる。武勇は私より優れている」「教えを実践できないと次に進みたがらなかった」と評された。
雍也篇では「性格が果断で政治を任せられる」と評され、衛国公夫人の南子との会見を終えた孔子を、疑わしい目つきで見た。
述而篇では、「お前のような乱暴者は戦場に連れて行かない」と評された。また孔子が病気の際に、祝詞を唱えて治そうとした。
子罕篇では、弟子を勝手に孔子の家臣に仕立てて、孔子にたしなめられた。ぼろを着てても心は錦、と評された。
郷党篇では、孔子と共に山遊びをした。
先進篇では、いかつい態度を二度孔子にたしなめられ、琴が下手だとからかわれ、他人の仕事にまで手を出したがる、頭数そろえの人材にはなる、口車、先走りが過ぎると評された。
顔淵篇では、すぱりと判決が出せると評された。
子路篇では、孔子の迂遠さをからかったので、「お前は何もわかっとらん」と評された。
憲問篇では、教えに対して「たったそれだけ?」と漏らしたので、叱られた。
衛靈公篇では、「お前のような奴は行き詰まると何をしでかすか分からない」とたしなめられたが、「徳の本当の意味が分かるのは、私とお前のような武芸者だけだな」とほのめかされた可能性がある。
陽貨篇では、謀反人に手を貸そうとする孔子を二度引き留めた。また「武芸が出来ても人が出来とらんと、乱暴者として嫌われるぞ」とたしなめられた。
微子篇では二度、それぞれ別の隠者との交流が記されている。
他の典籍での扱い
大ものだけに多数あるが、『韓非子』外儲說右上より一つ引く。
「季孫魯に相たりて、子路郈(コウ、叔孫氏の根拠地で、他の史料では季孫子の都城、費だという)の令(代官)たり。魯、五月を以て民衆を集め、長溝(水路)を造る。このとき子路、俸禄をはたいて炊き出しを行い、作業する者に五父の街角で飯を食わせり。孔子これを聞きて、子貢をして往きてその飯を覆し、器を壊さしむ(行ってナベカマを叩き壊してきなさい)。子貢面白がって叩き壊し、子路に曰く、魯の君、民を保てるに、子なんぞめしを食わすやと(民は魯国公の民で、あなたが勝手に飯を食わせる筋合いではない)。子路怒り狂って攘肱(ジョウコウ、ドカドカと)として入りて請うて(孔子の家に押し込んで)曰く、「夫子、由の仁義をなすを憎めるか(先生は私が仁義を行うのを嫌うのですか)。夫子に学べる所は仁義也、仁義は天下とその所を共にする有りて、その利益を共にする也(仁義はみんなで行って、助け合うことのはずです)。今由や俸禄をはたいて民に食わす、不可なるは何ゆえなるかと。孔子曰く、由の野たるや(お前はバカか)。われなんじに教えたるに、なんじいたずらにして未だ及ばざる(教えが無駄になっている)也、なんじかかる故を以て礼を知らずとする也(だからお前は礼儀知らずと言うのだ)。なんじ飯を食わせたるは、勝手な愛をなさんとする也。そもそも礼は、天子が天下を愛し、諸侯が領民を愛し、大夫が部下を愛し、士がその家を愛するものにて、その所を過ぎて愛すは侵す(人をないがしろにする)という。今、魯の君民を保つに、子、ほしいままに之を愛すは、これ子の侵す也、おおいなるあざむきならざるやと。言未だ終わらずして、季孫の使者至る。孔子に礼をして曰く、肥(季孫氏の当主、季孫肥)や民を集めてこれを使うに、先生弟子をして労役せる者に飯を食わす。将に肥の民を奪わんか(季孫の民を横取りするのですか)と。孔子車に乗りて魯を去る。これ孔子の賢明を用い、季孫は魯の君を非難せり(孔子の言い分なら、魯公が民を食わせるべきなのに、それをしないと非難した)。臣下の資を以て君主の術を借り、つとに禁じて未然に終われり(臣下の分際で君主のやり口をまねて黙らせた)。して子路は私の恵みをなすを得ず、害は生ぜざりき、いわんや君主をや。斉の景公、その勢を以て田常(斉国の大夫)の侵すを禁じたらば、則ち必ずやこれを弒すの患い無からん(国を奪われるはめにはならなかったはずだ)。」
韓非に代表される法家の思想では、各身分・各役職は、自分の担当でないことを行ってはならない。この点孔子も同様な思想だったことは、論語の泰伯篇などに記されている。従って法家とは犬猿の仲を自称する儒者が、どんなに嫌がろうと、この話はおおむね事実と言っていい。
なお似たような話が所を変えて、『説苑』にも記されているから、子路の炊き出し話は広く知られていたと見える。
論語での発言
1
友人と持ち物を共有し、壊しても恨みっこなしの友情を結びたい。(公冶長篇)
2
戦場なら顔回より私を連れて行くでしょう。(述而篇)
3
祝詞ならここにあります。えーっと。(述而篇)
4
♪求めませぬ~欲しがりませぬ~。これで生涯安楽じゃあ~。(子罕篇)
5
政治は実地で学べばいいでしょう。本の虫だけが君子じゃありませんよ?(先進篇)
6
千乗の国を大国の狭間で生き延びさせ、軍備を整え、飢饉に備える。三年で成果を出して見せます。(先進篇)
7
これだから先生は回りくどいと言うんです。(子路篇)
8
門番「どなたじゃな?」子路「孔子一門です。」門番「ああ、あの出来ないと知ってやってる先生か。」(憲問篇)
9
季氏がとうとう顓臾に兵を出しました。(季氏篇)
10
公山めは謀反人ですぞ? なんで手を貸しなさる。(陽貨篇)
11
むかし先生は仰いましたね、手ずから悪事を働くような奴のところへ、君子は行かぬものだと。仏肸めは謀反人ですぞ? なぜ行かれるのです。(陽貨篇)
12
君子は武勇を尊ぶものでしょうが?(陽貨篇)
13
子路「孔子先生の弟子です。」長沮「そんなら渡し場ぐらい知ってるだろう。」
子路「孔子先生の弟子です。」桀溺「さっさと隠居すればいいのに。」(微子篇)
14
子路「孔子先生の弟子です。」丈人「穀物の見分けも付かん人の、どこが先生かね。」(微子篇)
論語での記載
- 子曰:「由!誨女知之乎?知之為知之,不知為不知,是知也。」(為政)
- 子曰:「道不行,乘桴浮于海。從我者其由與?」子路聞之喜。子曰:「由也好勇過我,無所取材。」(公冶長)
- 孟武伯問:「子路仁乎?」子曰:「不知也。」又問。子曰:「由也,千乘之國,可使治其賦也,不知其仁也。」「求也何如?」子曰:「求也,千室之邑,百乘之家,可使為之宰也,不知其仁也。」「赤也何如?」子曰:「赤也,束帶立於朝,可使與賓客言也,不知其仁也。」(公冶長)
- 子路有聞,未之能行,唯恐有聞。(公冶長)
- 顏淵、季路侍。子曰:「盍各言爾志?」子路曰:「願車馬、衣輕裘,與朋友共。敝之而無憾。」顏淵曰:「願無伐善,無施勞。」子路曰:「願聞子之志。」子曰:「老者安之,朋友信之,少者懷之。」(公冶長)
- 季康子問:「仲由可使從政也與?」子曰:「由也果,於從政乎何有?」曰:「賜也,可使從政也與?」曰:「賜也達,於從政乎何有?」曰:「求也,可使從政也與?」曰:「求也藝,於從政乎何有?」(雍也)
- 子見南子,子路不說。夫子矢之曰:「予所否者,天厭之!天厭之!」(雍也)
- 子謂顏淵曰:「用之則行,舍之則藏,唯我與爾有是夫!」子路曰:「子行三軍,則誰與?」子曰:「暴虎馮河,死而無悔者,吾不與也。必也臨事而懼,好謀而成者也。」(述而)
- 葉公問孔子於子路,子路不對。子曰:「女奚不曰,其為人也,發憤忘食,樂以忘憂,不知老之將至云爾。」(述而)
- 子疾病,子路請禱。子曰:「有諸?」子路對曰:「有之。誄曰:『禱爾于上下神祇。』」子曰:「丘之禱久矣。」(述而)
- 子疾病,子路使門人為臣。病閒,曰:「久矣哉!由之行詐也,無臣而為有臣。吾誰欺?欺天乎?且予與其死於臣之手也,無寧死於二三子之手乎?且予縱不得大葬,予死於道路乎?」(子罕)
- 子曰:「衣敝縕袍,與衣狐貉者立,而不恥者,其由也與?『不忮不求,何用不臧?』」子路終身誦之。子曰:「是道也,何足以臧?」(子罕)
- 色斯舉矣,翔而後集。曰:「山梁雌雉,時哉!時哉!」子路共之,三嗅而作。(鄉黨)
- 德行:顏淵,閔子騫,冉伯牛,仲弓。言語:宰我,子貢。政事:冉有,季路。文學:子游,子夏。(先進)
- 季路問事鬼神。子曰:「未能事人,焉能事鬼?」敢問死。曰:「未知生,焉知死?」(先進)
- 閔子侍側,誾誾如也;子路,行行如也;冉有、子貢,侃侃如也。子樂。「若由也,不得其死然。」(先進)
- 子曰:「由之瑟奚為於丘之門?」門人不敬子路。子曰:「由也升堂矣,未入於室也。」(先進)
- 柴也愚,參也魯,師也辟,由也喭。(先進)
- 子路問:「聞斯行諸?」子曰:「有父兄在,如之何其聞斯行之?」冉有問:「聞斯行諸?」子曰:「聞斯行之。」公西華曰:「由也問聞斯行諸,子曰『有父兄在』;求也問聞斯行諸,子曰『聞斯行之』。赤也惑,敢問。」子曰:「求也退,故進之;由也兼人,故退之。」(先進)
- 季子然問:「仲由、冉求可謂大臣與?」子曰:「吾以子為異之問,曾由與求之問。所謂大臣者:以道事君,不可則止。今由與求也,可謂具臣矣。」曰:「然則從之者與?」子曰:「弒父與君,亦不從也。」(先進)
- 子路使子羔為費宰。子曰:「賊夫人之子。」子路曰:「有民人焉,有社稷焉。何必讀書,然後為學?」子曰:「是故惡夫佞者。」(先進)
- 子路、曾皙、冉有、公西華侍坐。子曰:「以吾一日長乎爾,毋吾以也。居則曰:「不吾知也!』如或知爾,則何以哉?」子路率爾而對曰:「千乘之國,攝乎大國之間,加之以師旅,因之以饑饉;由也為之,比及三年,可使有勇,且知方也。」夫子哂之。「求!爾何如?」對曰:「方六七十,如五六十,求也為之,比及三年,可使足民。如其禮樂,以俟君子。」「赤!爾何如?」對曰:「非曰能之,願學焉。宗廟之事,如會同,端章甫,願為小相焉。」「點!爾何如?」鼓瑟希,鏗爾,舍瑟而作。對曰:「異乎三子者之撰。」子曰:「何傷乎?亦各言其志也。」曰:「莫春者,春服既成。冠者五六人,童子六七人,浴乎沂,風乎舞雩,詠而歸。」夫子喟然歎曰:「吾與點也!」三子者出,曾皙後。曾皙曰:「夫三子者之言何如?」子曰:「亦各言其志也已矣。」曰:「夫子何哂由也?」曰:「為國以禮,其言不讓,是故哂之。」「唯求則非邦也與?」「安見方六七十如五六十而非邦也者?」「唯赤則非邦也與?」「宗廟會同,非諸侯而何?赤也為之小,孰能為之大?」(先進)
- 子曰:「片言可以折獄者,其由也與?」子路無宿諾。(顏淵)
- 子路問政。子曰:「先之,勞之。」請益。曰:「無倦。」(子路)
- 子路曰:「衛君待子而為政,子將奚先?」子曰:「必也正名乎!」子路曰:「有是哉,子之迂也!奚其正?」子曰:「野哉由也!君子於其所不知,蓋闕如也。名不正,則言不順;言不順,則事不成;事不成,則禮樂不興;禮樂不興,則刑罰不中;刑罰不中,則民無所措手足。故君子名之必可言也,言之必可行也。君子於其言,無所苟而已矣。」(子路)
- 子路問曰:「何如斯可謂之士矣?」子曰:「切切、偲偲、怡怡如也,可謂士矣。朋友切切、偲偲,兄弟怡怡。」(子路)
- 子路問成人。子曰:「若臧武仲之知,公綽之不欲,卞莊子之勇,冉求之藝,文之以禮樂,亦可以為成人矣。」曰:「今之成人者何必然?見利思義,見危授命,久要不忘平生之言,亦可以為成人矣。」(憲問)
- 子路曰:「桓公殺公子糾,召忽死之,管仲不死。」曰:「未仁乎?」子曰:「桓公九合諸侯,不以兵車,管仲之力也。如其仁!如其仁!」(憲問)
- 子路問事君。子曰:「勿欺也,而犯之。」(憲問)
- 公伯寮愬子路於季孫。子服景伯以告,曰:「夫子固有惑志於公伯寮,吾力猶能肆諸市朝。」子曰:「道之將行也與?命也。道之將廢也與?命也。公伯寮其如命何!」(憲問)
- 子路宿於石門。晨門曰:「奚自?」子路曰:「自孔氏。」曰:「是知其不可而為之者與?」(憲問)
- 子路問君子。子曰:「脩己以敬。」曰:「如斯而已乎?」曰:「脩己以安人。」曰:「如斯而已乎?」曰:「脩己以安百姓。脩己以安百姓,堯舜其猶病諸!」(憲問)
- 在陳絕糧,從者病,莫能興。子路慍見曰:「君子亦有窮乎?」子曰:「君子固窮,小人窮斯濫矣。」(衛靈公)
- 子曰:「由!知德者鮮矣。」(衛靈公)
- 季氏將伐顓臾。冉有、季路見於孔子曰:「季氏將有事於顓臾。」孔子曰:「求!無乃爾是過與?夫顓臾,昔者先王以為東蒙主,且在邦域之中矣,是社稷之臣也。何以伐為?」冉有曰:「夫子欲之,吾二臣者皆不欲也。」孔子曰:「求!周任有言曰:『陳力就列,不能者止。』危而不持,顛而不扶,則將焉用彼相矣?且爾言過矣。虎兕出於柙,龜玉毀於櫝中,是誰之過與?」冉有曰:「今夫顓臾,固而近於費。今不取,後世必為子孫憂。」孔子曰:「求!君子疾夫舍曰欲之,而必為之辭。丘也聞有國有家者,不患寡而患不均,不患貧而患不安。蓋均無貧,和無寡,安無傾。夫如是,故遠人不服,則修文德以來之。既來之,則安之。今由與求也,相夫子,遠人不服而不能來也;邦分崩離析而不能守也。而謀動干戈於邦內。吾恐季孫之憂,不在顓臾,而在蕭牆之內也。」(季氏)
- 公山弗擾以費畔,召,子欲往。子路不說,曰:「末之也已,何必公山氏之之也。」子曰:「夫召我者而豈徒哉?如有用我者,吾其為東周乎?」(陽貨)
- 佛肸召,子欲往。子路曰:「昔者由也聞諸夫子曰:『親於其身為不善者,君子不入也。』佛肸以中牟畔,子之往也,如之何!」子曰:「然。有是言也。不曰堅乎,磨而不磷;不曰白乎,涅而不緇。吾豈匏瓜也哉?焉能繫而不食?」(陽貨)
- 子曰:「由也,女聞六言六蔽矣乎?」對曰:「未也。」「居!吾語女。好仁不好學,其蔽也愚;好知不好學,其蔽也蕩;好信不好學,其蔽也賊;好直不好學,其蔽也絞;好勇不好學,其蔽也亂;好剛不好學,其蔽也狂。」(陽貨)
- 子路曰:「君子尚勇乎?」子曰:「君子義以為上。君子有勇而無義為亂,小人有勇而無義為盜。」(陽貨)
- 長沮、桀溺耦而耕,孔子過之,使子路問津焉。長沮曰:「夫執輿者為誰?」子路曰:「為孔丘。」曰:「是魯孔丘與?」曰:「是也。」曰:「是知津矣。」問於桀溺,桀溺曰:「子為誰?」曰:「為仲由。」曰:「是魯孔丘之徒與?」對曰:「然。」曰:「滔滔者天下皆是也,而誰以易之?且而與其從辟人之士也,豈若從辟世之士哉?」耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰:「鳥獸不可與同群,吾非斯人之徒與而誰與?天下有道,丘不與易也。」(微子)
- 子路從而後,遇丈人,以杖荷蓧。子路問曰:「子見夫子乎?」丈人曰:「四體不勤,五穀不分。孰為夫子?」植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿,殺雞為黍而食之,見其二子焉。明日,子路行以告。子曰:「隱者也。」使子路反見之。至則行矣。子路曰:「不仕無義。長幼之節,不可廢也;君臣之義,如之何其廢之?欲潔其身,而亂大倫。君子之仕也,行其義也。道之不行,已知之矣。」(微子)
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