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孔子の生涯(1):名と父と母と

孔子を包む古代と現代の霧

孔子はその名からすでに、古代ばかりか現代の霧にも包まれている。

司馬遷
孔子、魯の昌平鄉、スウ邑に生まる。其の先は宋人也て、孔防叔とう。防叔、伯夏を生み、伯夏、叔梁コツを生む。紇顏氏の女、野合し孔子を生むに、尼丘ジキュウいのりて孔子を得たり。(『史記』孔子世家・冒頭)

これを通説では、孔子の曾祖父は孔防叔、いみなは不明であざなが防叔。祖父は孔伯夏、諱は不明で字は伯夏。父は孔紇、諱が紇で字は叔梁だと解するらしい。だが伯夏と叔梁についてあざ名という説を受け入れると、どうして曾祖父だけ叔防でなく防叔なのか説明が付かない。

通説による孔子の曾祖父~父
史記の表記 諱(実の名) 字(通り名) 出生順
曾祖父 孔防叔 防叔 叔(三男)
祖父 伯夏 伯夏 伯(長男)
叔梁紇 叔梁 叔(三男)

叔は三男を、伯は長男を意味する。字の頭が長幼の順を示すという論語の時代の通例なら、曾祖父も叔防でなければならない。また史記その他の史料には、孔子の遠祖は殷の王族で宋の公族というが、そんな大貴族の字しか伝わらず、落ちぶれたなら急に諱が伝わる道理が無い。

無理に理屈を付ければ、防叔は防の領主、伯夏・叔梁は領地を失って語順が変わったと言い張ることは出来るが、史料の裏付けが取れない。また異説に言う叔梁は陬に領地を得たというのとも合わない。合わない話を美味しい所だけつまみ食いして語るのは、誠実ではない。

林羅山の「国家安康」を現代人は曲学阿世とののしり、家康を狸親父だとこき下ろす。だがもったいを付けて素人を脅しつけ、金を巻き上げ見下す弊風は、儒教の初期からあったらしい。論語には偽作が数多く含まれているが、その一つで、孔子はこういうことを言わされている。

ある人1 孔子 人形
ある人「先生はもう政治をお執りにならないのですか?」
孔子「よろしいかな、オホン。あー、かの『書経』に曰く、”コーなるかなこのコー、ケーテーにユーにして、ユーセーに施す”と。おわかりかな?」
ある人「いやもう全ッ然わかりませんが、有り難いお言葉でした。」(論語為政篇21)

だから防叔と伯夏と叔梁が、あざ名である保証は無い。孔子の父の本名が、紇である保証も、姓が孔である保証も無い。儒者の注釈は当てにならない。全く論拠を書かないからだ。考証学は妄想が過ぎる。それはこんにち、考古学発掘によって次々とデタラメが露呈している。
(→論語顔淵篇21付記参照。)

清朝考証学を読んでいない、との批判は随分聞かされたが、円周率を「径一周三」で済ませた連中の論理を、信用するのは無理である。そもそも考証学をもてはやした漢学教授以下が、揃って逆裏対偶も区別できぬ文系おたくばかり。つまりハッタリでしかなかったのだ。

朱舜水 朱舜水
それに漢文いじりをしたがる日本人の多くは、中国人を知らなさすぎる。水戸の黄門様が、ただのラーメン屋のおやじを拝んだ時代と、あまり理解の度が違わない。儒者の精神は、たとえ大儒と讃えられる者でも呆れるほど幼稚で、数理的合理性をかけらも持ち合わせていない。

今から2,500年前の人物に迫るなら、通説に従えば今までの繰り返ししか言えない。そうかと言ってただ反発しては、妄想をまき散らすことになる。

2,500年前と言えば、ようよう縄文時代が終わるかどうかと言う太古で、卑弥呼はおろか日本の稲作さえ心細いはるか彼方だ。それを心得て自力で原文と格闘すべきで、訳本だけ読んでものを言うなどもってのほかだ。必ず原文を一字一字丁寧に、読み解かなければならない。

本稿は孔子の生涯に関する、そうした試みである。

孔子の名

孔子は中国史上の大物だけに、中国人は孔子や先祖について、あれこれと書いている。だがその九分九厘は後世の作で、それも孔子没後数百年を経ていることに注意しなければならない。史記でのその記述は別に記したが、『孔子家語ケゴ』(以下家語)も一部を記した。

孔子の姓名を孔丘といい、あざ名を仲尼という。あざ名とは敬称の一種で、本名で呼べるのは目上に限られる。孔子と呼ぶのは孔先生の意で、子とは論語の時代、貴族への敬称だった。名も無き巫女の私生児に生まれた孔子は、ついに貴族に数えられるまで出世した超人だった。

仲尼の仲とは、次男を意味する。孔子は父の二番目の男児だった。尼とは婦人僧侶を意味しない。ブッダは孔子とほぼ同時代人だから、もちろんまだ中国に仏教は伝来していない。尼の原義は、人が寄り添う姿だという。だが困ったことに、この文字は論語の時代に存在しない。

同音で論語の時代に遡れる漢字も無い。初出は儒教がいわゆる国教化された、前漢の時代まで下る。だから恐らく仲尼というあざ名は、孔子が名乗っていたあざ名ではなく、後世の人間が名づけた呼び名だろう。それにしても、仲の意ははっきりするが、なぜ尼なのだろう。

孟子 孟子 お笑い芸人
それは孔子の教説の中心である、仁の変質とかかわっている。孔子の生前、仁とは漠然とした貴族らしさを意味する言葉でしかなかったが、孔子没後一世紀過ぎ、孟子が孔子の教説を商材として、諸侯に売りつけるに当たって、仁を仁義に置き換えて、大幅に意味を作り替えた。

それが現行の仁の定義、情けや憐れみ、常時無差別の愛といった概念である。それを受けて仁の字は、人が二人寄り添う姿と解された。そのカールグレン上古音はȵi̯ĕn(平)で、尼ni̯ər(平)と近い。つまり尼と仁はほぼ同音同義で、仲尼とは、仁義の次男坊、と解せる。

だから仲尼とは、孔子が生前名乗ったあざ名ではないだろう。孔子没後直後に、儒家は一旦ほぼ滅びたが、一世紀後に孟子が再興し、儒学は儒教へと変貌を遂げた。孔子は拝むべき開祖になった。そこで人々が開祖の孔子に奉ったのが、仁義の人という仲尼のあざ名である。

孔子の姓は孔である。論語の時代、血統の共有を前提とする「姓」に対し、「氏」は職能集団、あるいは家産を基本とする財団法人を意味していた。要するに山賊でも仕事を共にするからには、一味それぞれの血統にかかわらず一氏族を名乗り得た。

周王室の一族が、「」という姓を誇ったのとは対を為している。姫姓は互いに争ったが、氏族の結束は固かった。孔子が世に出るに当たり、顔氏・ゼン氏といった氏族の後援を受けたことが、どれだけ力になったか分からない。対して孔姓の一族からは、何ら援助を受けていない。

孔子はその肉体と武芸を除き、父との縁が薄い。また孔姓の血統集団としての力は、かけらすら無かった。家語によると、孔姓を名乗った孔子の父系は、宋国からの流れ者である。一族の結束こそ頼れる力だった当時、剥き身の個人に何が出来るわけでも無い。

では孔とは何か。家語は孔子の先祖が、出生地から取って名乗ったと言うが、それは孔父であって孔ではない。孔父とは『大漢和辞典』や史書では宋国のとある将軍の名だが、地名ではない。その孔父が政変に遭って殺された。離散した遺族の一人が魯国に流れ着き、住み着いた。

定住後は孔父にあやかって、その一字だけを家族の名としたのだろうか。辞書的には孔とは穴のことだが、論語の時代に通用した金文では、甚だしい、を意味するという。だがその金文体が、生まれたばかりの子供の頭に、印を一点を加えた姿であるのが引っかかっている。

孔 金文 字形

孔子の本名を丘という。その理由を『史記』は、頭の天辺がくぼんでいたからだという。石田三成と同じく才槌頭で、大きな頭蓋に重い頭脳を詰めていたのだろう。脳の重量は知能の高さと関係があると言う。当時誰よりも知識人だった孔子にふさわしい。

その上で孔の字の金文を改めて眺めると、何やら頭蓋が甚だしい赤子に見える。孔という姓も、孔子の頭蓋が由来しているのではないか。父親から受け継いだ姓ではなかろう。孔子生誕前後に父は死去し、母は父の名を隠した。もし受け継ぐに足る姓なら、告げない理由が無い。

やはり孔子は肉体方面を除き、父親と極めて薄い縁しか無い。

孔子の父

その理由を司馬遷は、孔子の父母が「野合」によって結ばれたからだと史記に書いている。だが孔子自身は自分の前半生をほとんど語らなかったし、弟子にも口外を禁じた。だから論語のどこにも、孔子の前半生の具体像は書かれていない。同時代史料は無いのである。

孔子の前半生について語れるのは、実に『史記』のおかげに相違ない。というより歴史の審判を経た孔子の伝記は、ただ『史記』の孔子世家のみである。司馬遷は古記録を読むと共に、孔子の母国・魯国で古老に取材した。ただ古老がデタラメを語らなかった保証は全くない。

それ以外の史料は断片的で、『春秋左氏伝』(以下左伝)に没年などが、家語に断片的な記事が見られるのみで、あとは孟子以下の儒者が、それぞれ言いたいように語った証拠の無い話ばかり。もちろん左伝も家語も、必ずしも事実を伝えるとは言いがたい。

だから孔子の生涯は、出生から霧に包まれた。ただ孔子の父がシュク梁紇リョウコツという人物だったという史記の記述を否定する材料も無い。叔とは三男の意であり、梁とは川に懸ける橋のことである。ところが紇の語義は頼りないし、もともと論語の時代にあった証拠が無い。

左伝には孔子若年期の人物として臧孫ゾウソン紇という人名が見えるが、物証としての左伝は9世紀前半の唐石経までしか遡れず、左伝にあるのを理由に孔子や論語の時代にあったとは言えない。それは宋代のテキストしか現存していない史記によって、存在したと言えないのと同じだ。

そもそも、司馬遷の時代にさえ紇の字の物証が無い。どうも下等の繭を意味したようである。無理に論語の時代の意味を追い求めると、部品の「乞」であるとするしかなく、強く求めるの意。梁紇は強い願いに橋を架けると解せる。夢を実現しろよ三男坊、ということであろうか。

いずれにせよ親しい仲でのみ通用する通り名で、本名ではなくあざ名ですらなかろう。ただ孔子の母の名が顔徴在と伝えられるから、父の姓が孔だったと想像してもよいだけ。その身分を家語は、孔子の生まれたスウ邑の大夫=領主だったとするが、史記には何も書いていない。

大夫とは論語時代の、周王-国公-卿-大夫-士-民という身分秩序に列する上級貴族で、諸侯国の家老を務める、領地持ちの血統貴族である。ただの町の代官ならドコソコの宰と呼ぶが、陬邑大夫と言えば陬邑の領主で、邑を持つ大夫ならすでに、国公に次ぐ卿の身分を得る。

と言う家語は長らく、後漢末の王粛の偽作と言われたが、定州竹簡の出たこんにちでは、前漢宣帝期以前まで成立が遡るとされる。つまり史記とほぼ同時代史料だが、もちろんその編集意図は孔子の称揚にあって、その父がどこにでもいるオッサンだと都合が悪かったのである。

家語と同時期に魯へ取材に来た司馬遷に、古老は孔子の父を領主さまじゃとホラを吹いたはず。だが司馬遷はホラと断じて記さなかった。当時武帝の趣味で、いわゆる儒教の国教化が進んでいた。やはり武帝の趣味で宮刑に処された司馬遷の、せいぜいの誠意を思うべきである。

現代人が想像するほど、古代の帝王はまともではない。名君と称される漢の景帝は、双六のいさかいから親戚を殴刂殺している。現代中国の権力者もまともではない。毛沢東の大虐殺に震え上がって、漢学界のボスだった郭沫若は、「衆」の字の解釈で一生懸命ゴマをすった

家語の領主伝説は、元ネタが論語にある。魯国に仕える神官が、若き日の孔子をつかまえてスウ人のこせがれ」と言ったことにある。困ったことに鄹の字は論語の時代はおろか、後漢の『説文解字』(以下説文)にすら載っていない。論語当時にどう発音されたかも分からない。

ただし部品の「聚」のカールグレン上古音(以下カ音)はdzʰi̯uで、史記に載った孔子の生地「陬」tsi̯uと近音とされる。そして「陬」は「鄒」と藤堂上古音(以下藤音)で同音tsïogとされる。何が何だか分からないが、要するに漢代の昔、地名「鄹・陬・鄒」は混用された。

つまり家語は、混用をいい事に孔子の父は孔子の生まれた町の領主だったというラノベを書いた。ラノベは大変結構なものだが、真に受けると頭がメルヘンだと言われる。やはり孔子の父は、それほど偉くなかったと言うべきだろう。その方が孔子の人生に凄みが増す。

左伝襄公十七年(BC556)の記事にある郰叔紇を、叔梁紇だとする説もある(岩波文庫『春秋左氏伝』)。だが根拠を一切記さず、おそらく唐代の『春秋左伝正義』に「郰叔紇は叔梁紇なり」とあるのをコピペしたのだろうが、正義にも一切論拠が無く、ただの思い付きに過ぎない。

孔子の父に話を戻せば、偉くない状況証拠が史記にもある。父は孔子出生前後に世を去ったが、魯の都・曲阜の東にある山に葬られたとある。一般に古代中国では、墓地は都市の北に設けたから、領主の墓もそうするだろう。そして鄹のまちは曲阜の南東20kmほどにある。
陬 地図

だから常識通りに葬ったとも考えられるのだが、その場所がどこであるか、孔子の母は隠したらしい。孔子がそれを知ったのは母の没後、近所の車引きのおばさんから教えて貰えたからである。要するに孔子の母は、孔子の父が誰であるか知らなかったか、教えたくなかったのだ。

これは孔子の母がどのような人であったかを伝える重要な話だが、今は措く。ただ、もし孔子の父が領主さまなら、母は得々と孔子に語ったはずである。ここからも、孔子の父がさほど偉くなかったことが分かるわけだ。また家語は、父は既に孟皮という男児を得ていたという

ただ孟皮は足が悪かったとも記し、特に領主の子らしい身分を得ていたとも書いていない。孟とは長男を意味するから、孔子のすぐ上の兄になるが、何一つ伝記が伝わっていない。やはり孔子の父は領主ではない。だがそうかと言って、ただのオッサンでもなかった。

家語は孔子の父について、殷の王族と宋の公族の末裔で、「身長十尺、武力絶倫」という。尺の換算は時代によって違うが、2mを超す巨漢だったことになる。孔子もまた九尺六寸だったと史記にある。だから父親の身長十尺には、ある程度の合理性がある。

武力絶倫にも合理性がある。のちに孔子は塾を開いて教えられるほどの武術の達人になった。当時の主力兵器である戦車チャリオットの操縦も教えた。当時の武術や戦車術は、誰でも学べるようなものではない。第一に軍事機密だし、第二に武器も戦車も高価で、維持管理にも費用が要った。

春秋戦国時代 戦車
現代に置き換えるとよい。普通の市民が、戦車タンクの操縦と主砲や車載機関銃の操法を、教官が務まるほど学び取れるか。世界級の大金持ちが司法を黙らせ戦車を買い取り銃砲弾を仕入れ、乗り回しぶっ放せる私有地を持ち、腕利きの整備士と教官も雇わない限り、まずあり得ない。

論語の当時も、戦車や引き馬は庶民が持てるものではかったし、その技は兵営に入らなければ学べない。父親不在の巫女の子である孔子が、その達者になれたとするなら、理由は一つしか無い。父親が軍人で、死別したその父の戦友から孔子は、父の子だと認知された場合である。

時代も地域も全く違うが、帝政時代からロシア軍には、Сынスィン Полкаポルカ=連隊の子、というのがいた。何人にかかわらず戦災孤児を哀れに思って連隊が拾い、養う代わりに安全な後方で走り使いをさせた。子は良く可愛がられたという。同じ現象は人類に、普遍的にあり得はしないか。

連隊の子
孔子も兵営で遊んだのではないか。まして父同様の偉丈夫に育ちつつある少年孔子を見て、父の戦友達は「いっちょ鍛えてやるか」という気を起こしたはずである。そして当時の武術は、長年の習練無しで身に付くほど簡単ではない。サス無しの戦車上から弓を射るのである。

古代世界のどこでも、貴族は坊主でなければ必ず戦士なのは、これが理由だ。貴族は社会に対して特権を説明するには、常人には無い技能を有していることを示す必要があった。そしてそもそも弓は当たるものではないし、一頭でも気難しい馬を当時の戦車は多頭立てにした。

孔子が教えた弓術も戦車術も、農耕に暇の無い庶民には、とうてい身につけ得なかった。孔子は後年「田仕事など知らん」(論語子路篇4)と言っているから、農耕ではなく母の手伝いをして暮らしたのだろうが、それでも武術の達人になるには、よほど環境に恵まれねばならない。

孔子の父は、姓氏不明の、文字通り名も無き人物だった。ただし武勇に優れ、戦友からも頼りにされる軍人だった。名も無いからには、血統貴族の将校ではなく、下士官の職業軍人と言った所だろう。その技能を以て、一代に限る下級の戦士、貴族の最末端だったに違いない。

日本の足軽に似ている。足軽は本来臨時雇いで、江戸期に入って一代限りの身分になり、のちに事実上の世襲になった。家語が孔子の異母兄を孔皮と書かず孟皮と書いたのは、もし父が孔姓だっとしても、足の悪い長男は軍人になれず、姓を継がせられなかったからだ。

対して父と入れ替わるように生まれた孔子が、父の姓を名乗るのも変だ。赤ん坊に軍人の素質など見えるわけがない。長じて名乗った可能性はあるが、それまで名無しで暮らしたのだろうか。やはり孔子は父から名のある姓を継がなかったが、代わりに武芸を受け継いだと思う。

そして怪物級の頑健な体も。これが孔子を孔子にした。

孔子の母

孔子の母の名を史記は伝えず、家語は顔徴在という。三文字とも論語の時代に存在し、顔は美顔徴は姿なきものが立ち現れること在は存在。すると徴在は、あるべき者を明らかにあらわす、というゆゆしき名と解せるが、これが孔子の母の実名だったという保証は無い。

顔回
ただ姓の顔は、事実だったろう。なぜなら孔子の初期の弟子で、後世神格化までされた顔回がいるからだ。恐らく顔回は母の同族で、そうで無ければ無位無冠時代の孔子に、弟子入りすることなどあり得ない。初期の弟子は何らかの偶然で、孔子の下に集ったのだ。

孔子は五十代初期に、魯国の宰相格に上り詰めた。身分制度の厳しい春秋時代に、これは希有のことだった。だからその孔子が塾を開き、卒業すれば仕官の口利きもしてくれるとなれば、千里を遠しとせずに弟子が集まるのは理の当然である。だが出世する前はそうもいくまい。

未経験者の語る●談義に、誰も耳を傾けないのと同じである。だから無名時代の孔子に弟子入りした者は、縁故やいみじき偶然があって、その結果入門したのだ。だからこそ死の危険さえあった孔子の放浪にも、自発的に従った。仕官目当てで入門した者に、出来ることではない。

その顔回を呼び寄せた母は、巫女だったと言われる。巫女と言っても社務所に座って、お札を売れば食える職業ではない。冠婚葬祭、占い、口寄せ、お祓いなど、世間のオカルト需要の一切を担う、民間の拝み屋に他ならない。そして古代世界の巫女に共通する職業も担った。

娼婦である。孔子の父は母の客だった。だから母は、孔子の父が誰だとの確信が無かったし、誰だと死ぬまで言わなかった。孔子はその体格から、兵営で叔梁紇の落とし子だと認知されたに過ぎない。無論母が尼丘に祈って孔子を産んだと言うのも、魯国古老の出任せである。

それが孔子の凄みを生んだ。「出来るかどうかだ。生まれが何だ」(論語衛霊公篇39)と言ってのけた。孔子が古代人らしからぬ無神論に到達し得たのも、母に従ってオカルトの手伝いをしたおかげだろう。バカげた仕草に人がどれほど怯えるか、子供の頃から見てきたのである。

孔子
お供えの時には、祖先や神様がおわすと思ってお供えしていた。それを見た先生が言った。「ワシはやらん。バカげとる。誰もおりゃあせんぞ。」(論語八佾篇12)

加えて孔子が、春秋時代の庶民には珍しい空間的視野を持てたのも、母のおかげだろう。特に所属神宮があるわけではない母は、客を求めて諸国を放浪したはずである。

孔子 居直り
二代前の、夏王朝の礼法はよく知っている。しかしその末裔の杞の国には、その名残がない。一代前の殷と末裔の宋も同じ。めぼしいものが何もない。殺風景なものだ。(論語八佾篇9)

中原諸侯国地図

宋も杞も、魯近くの諸侯国である。巫女の巡業範囲としても適当だろう。だが孔子の母は、女手一つで幼い孔子を連れて、中原=大行山脈以東の黄河下流域をさまよったのだろうか。そんなことが出来る道理が無い。そもそも論語の時代、中国に街道と呼べる道は皆無に等しい。

その整備は、早くとも戦国時代、史書に現れるのは孔子より300年後の、始皇帝の統一以降になる。それまで交通インフラと言えば、地球物理的理由から人が通らざるを得ない場所に、渡し場や関所を作るのがせいぜいだった。第一、諸侯国には国境すら引けなかったのだ。

当時の国とは、国公の住まう都城とそれに従う邑=城郭都市の連合体だった。だから自国領の邑の手前に、他国領の邑が入り組んでいるのはざらである。邑の周囲には野人が住まい、一部は邑に服属して農産物を貢納したが、そうでない野人は言葉すら通じなかった可能性がある

つまり一歩邑の外に出れば、そこは無法地帯だった。加えて当時の中国には、虎や豹や熊だけでなく、サイやゾウまで生きていた。そんなサファリパークな旅を、女子供だけで行けるはずがない。必ずや行路の安全と商売の繁盛を保証する、何らかの組織の下で旅したに違いない。

その組織が恐らく、母の属した顔氏一族だった。一族には頭領がおり、その本拠地は孔子の時代、魯の隣国である衛国にあったらしい。孔子は魯国で官を辞し、放浪の旅に出た際、真っ先に衛国に向かい、中原諸国に手広く勢力をもつ、ガン濁鄒ダクスウ親分の屋敷に逗留している

顔濁鄒は左伝では顏涿聚タクシュウと記され、のちに斉国軍に従って晋との戦いで戦死し、その子もまた斉に仕えていることが記される。つまり傭兵隊長でもあって、斉から爵位も受けた。戦国末の『韓非子』(以下韓非子)では、斉国公を諌める名臣の役割さえ演じさせられている

しかしその正体は、『呂氏春秋』(以下呂覧)に梁父リョウホの大盗」と書かれた国際任侠団体の大親分である。梁父とは泰山と並ぶ中原の名山で、山塞をここに構えていたのだろう。盗とは公権力に属さない武装集団で、たかがドロボウではない。大盗は一国をも脅かす傭兵団である。

子路
それだけに普段の親分は山塞に住まず、衛国の都城に孔子一行が逗留できる程度には、広壮な邸宅を構えて住んだ。その顔濁鄒を史記は、記録に残る孔子の一番弟子・子路の妻の兄だという。何のことは無い、子路もまた、顔氏一族の縁故があったから孔子に弟子入りしたわけだ。

子貢
加えて、孔子の財政を生涯支え続けた弟子の子貢は、衛国の出身である。その実家は商家だった。諸国を回って仕入れ売りする旅の範囲は顔濁鄒のシマで、その庇護に頼るしか無い。何のことは無い、子貢もまた、顔氏一族の縁故があったから孔子に弟子入りしたわけだ。

親分の屋敷にわらじを脱いだ孔子は、早速衛の霊公から現代換算で年111億円の捨て扶持を貰ったが、政治いじりをさせて貰えなかった。霊公がやり手の殿様な上、有能な家老が複数控えていたからだ。頭にきた孔子は親分邸を拠点に、衛国乗っ取り工作を始めたらしい。

親分の同意無しで出来ることではない。親分は手下を使い走りに提供もしただろう。子貢の実家の手代や丁稚も加わっただろう。だが事がバレて霊公が親分邸に特務をうろつかせたので、孔子は脱兎の如く衛国から逃げ去っている。親分が斉に移ったのは、巻き添えかも知れない。

春秋時代地図

こののち孔子はおそらく親分のシマから離れるであろう、南方の陳・蔡・楚といった諸国を放浪しているが、その間にも何度か衛国に戻っている。国事犯を平気で再受入した霊公も太っ腹だが、その背景には、顔濁鄒親分と子貢の実家が、何かしら微妙な作用を及ぼしただろう。

ともあれ孔子は諸国の中で、好んで衛国に滞在した。第二の故郷と言っていい。その縁を作ったのは母であり、孔子が思い切りよく魯国での地位を捨て去れたのも、母の縁故のおかげである。放浪の集団の力は馬鹿にならない。公権力だけが歴史を動かすのではない。

偉大な孔子の母は結果として、やはり偉大なシングルマザーだったと言えよう。

(つづく)


※『大漢和辞典』によると、顔濁鄒は『孟子』で顏讎由とも記される。その話は以下の通り。

萬章問曰:「或謂孔子於衛主癰疽,於齊主侍人瘠環,有諸乎?」
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孟子曰:「否,不然也。好事者為之也。於衛主顏讎由。彌子之妻與子路之妻,兄弟也。彌子謂子路曰:『孔子主我,衛卿可得也。』子路以告。孔子曰:『有命。』孔子進以禮,退以義,得之不得曰『有命』。而主癰疽與侍人瘠環,是無義無命也。孔子不悅於魯衛,遭宋桓司馬將要而殺之,微服而過宋。是時孔子當阨,主司城貞子,為陳侯周臣。吾聞觀近臣,以其所為主;觀遠臣,以其所主。若孔子主癰疽與侍人瘠環,何以為孔子?」

万章が問うた。「一説では、孔子は衛国で癰疽ヨウソ(できもの・はれもの)なる者の屋敷に止まり、斉では宦官の瘠環(痩せ男の環)の屋敷に止まったそうですね。本当でしょうか?」

孟子「いや、間違いだ。好事家が勝手なデマを言いふらしているだけだ。衛では顔讎由の屋敷に滞在した。

時の衛霊公の寵愛を受けた弥子瑕の妻は、孔子の弟子・子路の妻と姉妹だった(※つまり顔讎由=顔濁鄒の姉妹でもある)。その縁で弥子瑕が子路に言った。”孔子が私の家に滞在してくれたら、衛の閣僚にもして差し上げられるのだが”。子路はその通り孔子に告げた。

すると孔子は言った。”運命というのがある”。孔子は行動に出るときにも礼法に従い、事を収めるときも正義に叶った。だから閣僚の地位を得るも得ないも”運命だ”と言った。もし癰疽やら宦官の瘠環やらの世話になったとするなら、それには正義も無ければ運命でもない。

孔子は魯や衛で面白くない目に遭い、宋国将軍の桓魋には殺されそうにまでなった。だから変装してこそこそと宋を通り過ぎた。この時の孔子が一番行き詰まっていたが、陳国の司城貞子の屋敷に落ち着いた。そこでやっと陳公の相談役になった。

私の聞いている話では、身近な臣下の人柄は、誰付き従おうとするかで分かる。あまり接触の無い臣下の人柄は、誰付き従おうとするかで分かる。もし孔子が癰疽やら宦官の瘠環やらの世話になったとするなら、どこが孔子らしいと言えるのだろうか。」(『孟子』萬章上・八)

孔子の生涯
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