出典:wikipedia中国語版
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を日本語訳の上、増補して公開。
国野制
国野制はまたの名を郷遂制といい、西周時代初期、諸侯国を各地に封じるに当たって、統治階級と被統治階級を区分するために設けられた制度である。西周が採用した分封制に淵源を持ち、実際の運用では、貴族と平民が住む場所の区別となって現れた。しかし春秋時代の末期になると、次第に郡県制度に取って代わられた。
語義
- 国:またの名を郷といい、通常の淵源は、周が各地を攻略する際に設けた軍事拠点か、諸侯が建てた政治の策源地である。国の土地と人民を管理する者は、載師と呼ばれた。
『大漢和辞典』クリックで拡大 - 野:またの名を遂といい、各諸侯国の中で、国以外の地域を指す。野を管理する者は、遂人と呼ばれた。
『大漢和辞典』クリックで拡大
居住者
国の中に住む者を国人といい、国の中には、貴族・貴族に奉仕する手工業者・商人などが住んでいた。
野に住む者を野人あるいは庶人といい、野の住人の多くは被統治階級とされ、農業に従事する平民だった。
国と野の関係
国と野の関係は、統治と被統治の関係であり、野は国に所属した。その結果、どちらの住人かによって、義務と権利に大差があった。[1]
国に住む者が上は貴族、下は商人だったことによって、その住人には一定の政治的・経済的権利があった。国内の重大事、および政治的な対立では、国内の住人には均等な発言権があり(→『左伝』定公八年)、加えて、教育を受ける権利もあった。それと引き換えに、国内の住人には国家防衛の義務があり、兵役に服し、税を納める義務があった。
これに対して、野の住人の多くは農民か、周に征服されたもと異民族で、その結果、参政権が無く、軍人になる権利や教育を受ける権利も無かった。その主な義務は、周の征服地の拡大と、農地の拡大に伴って、その農地を耕作し、周王や諸侯に対して、農産物を提供する事だった。
歴史的意味
国野制が成立すると、領民を統治する方法として急速に諸侯国に広まった。ただし貴族も農民も世襲制だったため、宗族を詳細に調べると、貴族と農民の間の流動性は極めて低く、それぞれが無関係に変化していった。
また野人は被征服民とその末裔であり、国内に住む統治者階級と微妙な関係を持った。その結果、春秋時代の階級対立の具体的な原因になった。[2]
消滅
周の宣王(位BC828-BC782)が即位したのち、野人による公田の耕作を廃止し、野人も国人と同様に、田租を納税させることにした。また戸籍の管理は宗族の手を離れ、国家が統一的に人口を調査し、租税を算定することになった。この二つの改革によって、国人と野人の違いが曖昧になり、階級間の権利の区別も、次第に消滅していった。[3]
史書上の国野制
野人
- 晉公子重耳…乞食於野人,野人與之塊,公子怒,欲鞭之,子犯曰,天賜也,稽首受而載之。(左伝・僖公二十三)
- 衛侯為夫人南子召宋朝,會于洮,大子蒯聵獻盂于齊,過宋野,野人歌之曰,既定爾婁豬,盍歸吾艾豭,大子羞之。(左伝・定公十四)
- 景公射鳥,野人駭之。公怒,令吏誅之。晏子曰:「野人不知也。臣聞賞無功謂之亂,罪不知謂之虐。兩者,先王之禁也;以飛鳥犯先王之禁,不可!今君不明先王之制,而無仁義之心,是以從欲而輕誅。夫鳥獸,固人之養也,野人駭之,不亦宜乎!(晏子春秋・景公欲誅駭鳥野人晏子諫)
- 晏子入,呼宰人具盥,御者具巾,刷手溫之,發席傅薦,跪請撫瘍。公曰:「其熱何如?」曰:「如日。」「其色何如?」曰:「如蒼玉。」「大小何如?」曰:「如璧。」「其墮者何如?」曰:「如珪。」晏子出,公曰:「吾不見君子,不知野人之拙也。」(晏子春秋・景公病瘍晏子撫而對之迺知群臣之野)
- 吳使子胥救蔡,誅疆楚,笞平王墓,久而不去,意欲報楚。楚乃購之千金,眾人莫能止之。有野人謂子胥曰:「止!吾是于斧掩壺漿之子,發簞飯於船中者。」子胥乃知是漁者也,引兵而還。故無往不復,何德不報。漁者一言,千金歸焉,因是還去。(絶越書・外傳紀策考)
- 漢陰老父者,不知何許人也。桓帝延熹中,幸竟陵,過雲夢,臨沔水,百姓莫不觀者,有老父獨耕不輟。尚書郎南陽張溫異之,使問曰:「人皆來觀,老父獨不輟,何也?」老父笑而不對。溫下道百步,自與言。老父曰:「我野人耳,不達斯語。請問天下亂而立天子*邪?理而立天子邪?立天子以父天下邪?役天下以奉天子邪?昔聖王宰世,茅茨采椽,而萬人以寧。今子之君,勞人自縱,逸遊無忌。吾為子羞之,子何忍欲人觀之乎!」溫大慚。問其姓名,不告而去。(後漢書・逸民列伝)
- 夫驢乃服重致遠,上下山谷,野人之所用耳,何有帝王君子而驂服之乎!遲鈍之畜,而今貴之。(後漢書・五行志)
- 昔魯有兩曾參,趙有兩毛遂。南曾參殺人見捕,人以告北曾參母。野人毛遂墜井而死,客以告平原君,平原君曰:『嗟乎,天喪予矣!』既而知野人毛遂,非平原君客也。豈得以昔之秋胡失禮,而絕婚今之秋胡哉?物固亦有似之而非者。玉之未理者為璞,死鼠未屠者亦為璞;月之旦為朔,車之輈亦謂之朔,名齊實異,所宜辯也。」(西京雑記・第六)
*「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
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