孔子は「恕」を説けなかった
現伝『論語』では、「恕」は”思いやり”→”仁愛”の意だと解されている。
『学研漢和大字典』恕条
会意兼形声。如は、汝(ジョ)(自分とペアをなす相手)と同系のことば。自分と同じような対者という意味を含む。恕は「心+(音符)如(ジョ)」で、相手を自分と同じように見る心のこと。類義語に許。
- {動詞・名詞}自分を思うのと同じように相手を思いやる。思いやり。「其恕乎、己所不欲勿施於人=其れ恕か、己の欲せざる所は人に施すこと勿かれ」〔論語・衛霊公〕
- {動詞}ゆるす。自分に引き比べてみて、他人を寛大に扱う。また、同情して相手をとがめずにおく。「寛恕(カンジョ)」「宥恕(ユウジョ)」。
『字通』恕条
[形声]声符は如(じょ)。〔説文〕十下に「仁なり」とし、如声とする。如は女巫がお祈りしてエクスタシーの状態となり、神意をうかがい、はかる意。他の心意をうかがいはかることを、恕という。〔論語、里仁〕に「夫子(ふうし)の道は忠恕のみ」とあり、それが仁への道とされた。
『大漢和辞典』恕条
- おもひやり。仁愛。
- おもひやる。いつくしむ。あはれむ。
- ゆるす。
- さとる。
- 姓。
だが”おもいや”って相手の気持を自分同様に推し量ることと、知った上で”情けをかける”ことの間には、深くて暗い川がある。エンヤコラとそこを乗り越えるには、性根が情け深くなければならない。それは人類の普遍現象、と言い張るとメルヘンがハンダ付けになってしまう。
そのうえ孔子が、現伝儒教の「恕」を説いたわけでもない。
2011年、中国でテレビドラマとして「論語」が作られた。孔子や論語はたびたび映画やテレビドラマになっており、本作はその一つであることから、日本で売り出される際には「恕の人 孔子伝」とタイトルが改められた。担当者も客も、「恕」を知らないからに違いない。
知らないから有り難い。これは読経に代表される、人間を洗脳する技術の一つ。経に何が書いているかは、多少漢文が読めれば分かるが、分かってしまうとアホらしくて付き合っていられない。だが分かろうとする者は常に少数で、多数は拝むか分かった振りをする。
だからショービジネスはそれでいい。どんなに汚いことをしても、興行成績のみが尺度だからだ。中国では政治もショーに他ならず、屈指の名君と言われた清の康煕帝は、金と名誉で隠者を山から誘い出し、如何わしい男でさえ「賢者」として世に売り出した。動機はただ一つ。
「不遇な賢者を厚遇した」という評判を世間から取り、清朝に対する「権力盗っ人」「野蛮人」という悪評を封じるためである。ともあれ日本で売り出されたテレビドラマは、それほど聞かない程度には興行に失敗したのだが、同じ事を漢学教授が言い出したら勉強の程を疑う。
なぜなら「恕」の字は、戦国時代にならないと現れないからだ。
「妾子𧊒壺」戦国末期・「荊門郭店楚墓竹簡‧語叢2.26」戦国後期
年代を絞れる荊門郭店楚墓竹簡でも、早くとも紀元前4世紀半ばで、BC479年に世を去った孔子から一世紀半近くが過ぎている。遅い見積もりではBC278だから、201年後の出土品だ。だから孔子の生前に「恕」という言葉も、概念も無い。孔子は説きたくても恕を説けない。
もっとも漢文には音通という現象があって、その文字が無くとも、音が近くて同じ意味の漢字が発言者の時代に存在すれば、そのように発言した可能性はある。「恕」の音通に当たるのは、「心」が付く前の「如」だろうが、その音は似ているとも違うとも言いがたい。
恕 | ɕ | i̯ | o | (去) |
如 | ȵ | i̯ | o | (平) |
ここに示したのはカールグレン上古音という、中国語の再建古代音では世界で最もよく知られた例だが、ɕはシュに近いシを、◌̯は音節副音(弱い音)を、◌̥は無声音(喉を震わせない)を示す。音素の共通率は66.7%で、音通でないと断言できないが、であるとも断言できない。
韻母(母音部分)が同じでも、声母(子音部分)が違いすぎるからだ。
シュとひそひそ声のンを聞き間違えるだろうか。千駄木Sendagiと千駄ヶ谷Sendagayaは似ているが別の場所だ。五反野駅で降りても五反田には行けない。また声調も違う。少しでも中国語を習った者なら、声調の違いがいかに意味の違いに反映するか、思い知っているだろう。
しかも「如」に”…のように”の意が現れるのは戦国時代で、春秋末期までの「如」は人名でなければ、全て”行く”と解せる例しか無い(語釈)。孔子と直弟子たちが活躍したのは春秋時代後半だから、「如」も”行く”の意しか無かった。だが恕には音通候補がもう一つある。
それは上掲『学研』の言う「許」だ。カールグレン上古音はxi̯o(上)で、やはり声調は違うものの、ȵよりはx(痰を吐き出す音に近い)の方がɕに近い。だが許の字には『学研漢和大字典』はおろか、『大漢和辞典』にも”おもいやる”の語釈が載っていない。音通とするには無理がある。
なお『学研漢和大字典』に言う「汝」のカールグレン上古音はȵi̯o(上)で、声調を除けば「如」と同じ。さらに「女」は有声音のnio(上)である。
以上から、「孔子が如と言ったのを、後世の儒者が勝手に恕だと言った」可能性も乏しく、「恕は論語の時代如と書いて同じ意味を表したのだ」とは言いかねる。それゆえ論語の中に二箇所ある、恕を説いた部分は後世の捏造であり、決して孔子や直弟子の生の声ではない。
曾子曰、「夫子之道、忠恕而已矣。」
曽子「有り難くわが言葉を拝聴するが良い。先生の道は、忠義と思いやりなのであるぞよ。」(論語里仁篇15)
子貢問曰、「有一言而可以終身行之者乎。」子曰、「其恕乎。己所不欲、勿施於人。」
子貢「一生守り続けられる教えってありますかね?」
孔子「そりゃあ思いやりだろうな。他人を自分と思え。要するに、されたくないことは、人にするな。」(論語衛霊公篇24)
誰が「恕」を言い出したか
孔子が恕を説かなかったとすると、恕は後世の発明となる。論語に次いで恕の字を記したのは、孔子と入れ替わるように春秋末から戦国初期の世を生きた墨子で、その言行録『墨子』は清末まで儒者に無視されたことで、却って改竄を免れたと言われる。
恕明也。
恕也者,以其知論物而其知之也著。若明。
恕とは、はっきり分かるという事だ。
注釈「恕というのは、知力で物事を考え、推論させることだ。はっきり分かることに近い。」(『墨子』巻十6)
恕を”さとる”の意で用いている。ただし墨子の時代から恕の字の発掘が無く、とりあえず参考に止めるべきだろう。それでも留意すべきは、恕の原義は”さとる・わかる”ことではなかったか、という点だ。前漢武帝期になるまでの恕の語釈が、おおむねこれで通るからでもある。
次に孔子没後一世紀に生まれた孟子は、ほぼ滅んでいた儒家を再興すると同時に、自分の発明品を数多く論語にねじ込み、ニセ孔子に言わせて権威化した。だが恕に限っては、『孟子』にたった一字しか出てこない。これが本物とするなら、もっとあちこちで言ったはずなのだが。
孟子曰:「萬物皆備於我矣。反身而誠,樂莫大焉。強恕而行,求仁莫近焉。」
孟子が申しました。「全てのものがこの身に備わっている。自分自身を反省して誠実を尽くせば、人生を大いに楽しめる。出来る限り人を思いやるよう努めるなら、仁=常時無差別の愛を実現するのに、これほど適した道は無い。」(『孟子』盡心上4)
孟子は現伝儒教では「亜聖」と呼ばれ、孔子に次ぐ尊崇を受けているが、史実の孟子は希代の世間師で、それも決して成功した世間師とは言えなかった。言うことが余りにメルヘンなため、生き馬の目を抜かざるを得ない戦国の諸侯から、あまり信用されなかったからである。
それゆえに孟子は、自分の教説をわあわあと口うるさく説くのを通例とした。人の言うことは一切聞かない代わりに、自分の言い分だけ言い立てたのである。こういう無茶をしないと食いはぐれたからであり、口車だけが能だから、餓死が怖くて仕方がない、と白状もしている。
ただし孟子の無茶は、それなりに芸にはなっている。『孟子』滕文公下4現代語訳を参照。
ともあれ仮に孟子が恕の発明者だったら、もっと激しく恕を言い立てて不思議は無い。だがたったの一文字しか無いとなると、『孟子』のこの部分そのものが、後世の捏造と疑われる。孟子の生没もBC372-BC289だから、恕の字がその生前に、必ずしもあった証拠も無い。
孟子に次ぐ大物儒者は、孟子より60ほど年下の荀子で、孟子と同じ世間師には違いないが、その興行ははるかに成功した。大国斉の筆頭家老を務めた上に、学士院のボスとして君臨したから、孟子ほどわあわあと自説を言い回る動機が無かった。恕についても一箇所で言っただけ。
孔子曰:「君子有三恕:有君不能事,有臣而求其使,非恕也;有親不能報,有子而求其孝,非恕也;有兄不能敬,有弟而求其聽令,非恕也。士明於此三恕,則可以端身矣。」
孔子「君子は三種類の”恕”を身につけねばならぬ。
仕える気になれないバカ殿が、”ワシに仕えよ”と求めるのは、恕ではない。
恩を感じられないバカ親が、”親孝行しろ”と子に求めるのは、恕ではない。
尊敬できないバカ兄が、”俺の言う通りにしろ”と弟に言うのは、恕ではない。
君子たる者この三つをわきまえて、やっと身持ちをすがすがしく出来るのだ。」(『荀子』法行7。ほぼ同文が『孔子家語』三恕1にある)
荀子の生没年はBC313-BC238以降とされるから、恕の字は確実にその生前にあった。上掲部分は孔子に言わせている点ではニセモノだが、恕の概念を荀子は知っていたとは言えるだろう。ただしその語義は現伝儒教と違い、むしろ墨子に近い、”お互い様”の意味でしかない。
だから荀子は恕を儒教に持ち込んだかもしれないが、相手を自分と同じように深く愛する、という奴隷奉公的意味では用いていない。それどころか、それは恕ではないと言い切っているのだ。だから現伝儒教の恕=”おもいやり”の概念は、荀子の発明であるとは言えなくなる。
荀子の没後、BC221年に秦が天下を統一する。中国史上初の統一国家で、以前の殷と周は、毛の生えた都市国家か、殿様連合の盟主に過ぎない。ゆえに秦は古代帝国と呼ばれるが、帝国の理念は領内の全てを統制する。儒教もその一つとして、親玉衆は博士官に取り立てられた。
俸禄をやるから言うことを聞け、というわけである。自分から巡業の旅に出なければならなかった戦国の儒者と違い、博士官は喜んだはずだ。黙ってさえいれば、結構な俸禄とそれなりの尊敬を社会から受けたからだ。後世「焚書坑儒」と言われた暴政の、その後半はウソである。
始皇帝が希代の暴君と言われたのは、儒教を他学派と同格にしか扱わなかったからで、双六のいさかいから親戚を殴刂殺した前漢の景帝や、気分次第で家臣やその家族を皆殺しにした次代武帝がそう言われないのは、とりあえず漢帝国は儒教を他学派の一段上に置いたからだ。
- 論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」
また司馬遷のように、本当の事を言うとナニをちょん切られたからでもある。
もう一つは漢帝国の儒者が、漢の帝室にゴマをすり、秦帝国を悪逆無比として書き記したからだ。漢の高祖劉邦は秦帝国の役人でありながら、反乱を起こし秦の都咸陽を攻め落とし皇帝を捕虜にして国を建てた。それを正当化するには秦を悪役に仕立てねばならない。
その秦の統一の少し前、もと大商人で宰相の呂不韋は、金と権力にものを言わせて、あらゆる学派の学者を集め、この世の全てを網羅すると気負った百科全書『呂氏春秋』を作らせた。「間違いが一字でもあれば、指摘した者に大金をやる」とまで豪語したものである。
だがその『呂氏春秋』に、恕の字はただの一字しか出てこない。
鄭公子歸生率師伐宋。宋華元率師應之大棘,羊斟御。明日將戰,華元殺羊饗士,羊斟不與焉。明日戰,恕謂華元曰:「昨日之事,子為制;今日之事,我為制。」遂驅入於鄭師。宋師敗績,華元虜。
春秋時代中期(魯宣公二年・BC607)、鄭の公子帰生が宋に攻め込み、宋の華元が軍を率いて大棘の地で迎え撃とうとした。華元の乗る車の御者の名は、今では羊斟=”羊にありつく”と伝わっている。戦いの前日、華元は士気を上げようと、高価な羊のスープを作らせて将兵に振る舞った。「うまいうまい」と早い者勝ちでみなが食い尽くしてしまい、羊斟はお預けを食らわされた。
翌日戦いが始まると、羊斟は華元に怒りをぶちまけた。「昨日の振る舞いは閣下の思い通りになったが、今日の戦いは私の好きなようにさせて貰う。」そう言ってビシバシと馬に鞭打って車を走らせ、味方を振り切ってどんどん進んだばかりか、勢いのまま鄭の陣のまっただ中に突っ込んだ。指揮官を失って宋軍は大敗、華元はそのまま捕虜になった。(戦国末期・『呂氏春秋』察微4)
日本では羊羹と言えばお菓子だが、漢文で羊羹といえば羊のスープ。そして遺跡から発掘された戦国の「恕」の字は現在、全て「怒」だと語釈されている。だから秦儒は現伝儒教の「恕」の発明者ではない。秦儒は始皇帝が怖くて、偽作に励めなかったのだ。
まじめな始皇帝は、まがい物には本気で怒った。それが「坑儒」と誤伝されたのである。
「恕」を言い出した連中
秦が15年ほどであっけなく滅び、楚漢戦争を経てBC206に創業の、漢帝国の世となった。ただし高校世界史教科書の言う「儒教の国教化」は、半ば嘘と言っていい。武帝の治世になるまでは、むしろ道家の方が強勢だったし、武帝になってからの儒教も、皇帝の趣味に止まった。
だが漢の皇帝は始皇帝ほど嘘に厳しくなかったので、前漢儒者は安心してでっち上げをこしらえた。とりわけ武帝の幼少期トラウマに付け込んだ董仲舒は、儒家の発展のためとは言いながら、孟子もやらなかったような嘘でっち上げを大量に作り、孔子の教えだと言いふらした。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。だから董仲舒に先立つ賈誼の『新書』では、恕を現伝儒教のようには使っていない。
梁大夫宋就者為邊縣令,與楚鄰界。梁之邊亭與楚之邊亭皆種瓜,各有數。梁之邊亭劬力而數灌,其瓜美。楚窳而希灌,其瓜惡。
楚令固以梁瓜之美怒其亭瓜之惡也,楚亭惡梁瓜之賢己,因夜往竊搔梁亭之瓜,皆有死焦者矣。梁亭覺之,因請其尉,亦欲竊往報搔楚亭之瓜。尉以請,宋就曰:
「惡,是何言也!是講怨分禍之道也。惡,何稱之甚也!若我教子,必誨莫令人往,竊為楚亭夜善灌其瓜,令勿知也。」
於是梁亭乃每夜往竊灌楚亭之瓜,楚亭旦而行瓜,則此已灌矣。瓜日以美,楚亭怪而察之,則乃梁亭也。
楚令聞之,大悅,具以聞。楚王聞之,恕然醜以志自惛也。告吏曰:「微搔瓜,得無他罪乎?」說梁之陰讓也,乃謝以重幣,而請交於梁王。
楚王時則稱說梁王,以為信,故梁楚之驩由宋就始。語曰:「轉敗而為功,因禍而為福。」老子曰:「報怨以德。」此之謂乎!夫人既不善,胡足效哉。
梁(=魏国)の家老で宋就という者が左遷され、楚国との境にある辺境の代官に赴任した。梁と楚の国境警備隊では、瓜をたくさん植えて食料の足しにしていた。梁の警備隊は精出して瓜に水をやり、そのため美味い瓜が採れた。ところが楚の警備隊はサボったので、瓜はとても不味かった。
楚の代官はもともと、自領の瓜が不味く、梁の瓜が美味いことを妬んでいた。そこである日夜陰に乗じて梁の瓜畑を荒らしたので、梁の瓜がみなダメになってしまった。翌朝、気付いた梁の兵士はいきり立った。
「楚の奴らが、俺らのウリをダメにしたのだ。謝罪と賠償を要求するのだ!」隊長は「いや仕返しだ!」と息巻いた。伝統的に中国では、武官より文官の方が格が高い。隊長は楚の瓜畑を荒らす許可を代官の宋就に求めたが、宋就は言った。
「下らんことを言うな。やられたらやり返せ、を繰り返していたら、そのうちとんでもない騒動になるぞ。バカのやることにいちいち相手になるな。それより君自身が楚の畑に出向いて、夜中にこっそり水をやってこい。知られないようにな。」
格上の宋就に命じられて、しぶしぶ隊長は兵士を率い、毎晩夜中にこっそり楚の瓜畑に水をやった。朝になって楚の警備隊が瓜畑に行くと、上る朝日に瓜がつややかに光っている。こうして日に日に楚の瓜も美味くなっていった。大喜びした楚の代官は、ヘンだなとは思いつつ、梁のしわざは明らかなので、瓜を梁の屯所に届けさせた。
そしていきさつを詳しく楚王に報告した。聞いた楚王は自国の蛮行を悟ってひどく恥じ入り、側近に「むこうの瓜畑さえ荒らさなければ、こちらが悪党になることもなかったのじゃ」とつぶやいた。そして梁の隠れた善行に感謝し、多大な返礼を贈り物とし、さらには梁王によしみを求めた。
楚王はその後も梁の陰徳をたびたび讃え、梁王に書き送って謝意を示した。楚と梁の通好は、この代官宋就の一件から始まったのである。だから昔から「災い転じて福と成す」と言い、老子は「恨みには恩恵で答えよ」と教えた。まことに至言で、人が善くなければ、讃えられるほどの仕事は出来ない道理だ。(前漢初期・『新書』退譲1)
ここでの恕は、自分が相手だったら、と思考して、その結果相手の真意を”悟る”意味で使われている。つまり荀子の用法からさほど隔たった解釈ではない。だが賈誼に次ぎ、董仲舒の先輩格の儒者・韓嬰が著した『韓詩外伝』では、恕の用法は現伝儒教に近づいている。
昔者、不出戶而知天下,不窺牖而見天道,非目能視乎千里之前,非耳能聞乎千里之外,以己之情量之也。己惡飢寒焉,則知天下之欲衣食也;己惡勞苦焉,則知天下之欲安佚也;己惡衰乏焉,則知天下之欲富足也。知此三者、聖王之所以不降席而匡天下。故君子之道,忠恕而已矣。夫處飢渴,苦血氣,困寒暑,動肌膚,此四者,民之大害也,害不除,未可教御也。四體不掩,則鮮仁人;五藏空虛,則無立士。故先王之法,天子親耕,后妃親蠶,先天下憂衣與食也。《詩》曰:「父母何嘗?心之憂矣,之子無裳。」
昔は、外に出なくても天下の情勢を知り、窓から眺めなくても天の定めを悟れたという。だが生身の目が千里の遠くを見られたわけではなく、耳が千里の遠くを聞けたわけではない。自分の知恵を発揮したから、ものごとが分かったのである。
例えば自分の衣類や食事の質が落ちたら、天下の衣食が不足していると知り、身の回りの災いに忙殺されたら、天下の治安が悪くなっていると知り、自分の貧乏がひどくなったら、天下の景気が悪いと知ったのだ。この三つの推察があったから、聖王は玉座に座ったまま天下の間違いを修正できた。
だから君子は、ひたすら忠実と推察に努めるのだ。飢えと渇きに苦しみ、血なまぐささに目を覆い、寒さ暑さに身を痛め、ガタガタと肌が震える。この四つが、民にとっての大災害だ。この害を除かないのに、どうして道徳を教えられるか。両手両足を寒空にさらして、どうして人情のある者が出よう。国庫が空っぽになったら、まともなサムライは出ようも無い。
だから先王の定めでは、天子自らが田仕事を行い、妃は自分で蚕を飼って民百姓の苦労を為利、その衣食の心配が無いようにと心掛けた。だから詩経に次のように言う。「父母は美味そうに飯を食えない。心に憂いが在るからだ。憂いとは何か、それは子の衣類にも事欠くからだ。」(前漢初期・『韓詩外伝』巻三37)
恕を”推察”の意味で使っている。上掲論語里仁篇15、曽子の発言の元ネタは、多分これ。そもそも「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
漢儒が言い出した「忠恕」を、論語の時代に遡らせて、しかも孔子の弟子ではなく家事使用人だった曽子の言葉として語らせた。それはともかく、韓嬰は董仲舒より30年ほど年長だが、推察の対象が民であることから、恕が”おもいやる”に近づいた。では本命の董仲舒を見よう。
董仲舒の作は死後に散逸し、のちに佚文が『春秋繁露』にまとめられた。
然而人事之宜行者,無所鬱滯,且恕於人,順於天,天人之道兼舉,此謂執其中。
だから人間界の運営に差し障りを出したくないなら、何事にも滞りが無いように努める。同時に人を思いやり、天に従い、天道と人道を共に盛んにするのであり、これを「まことに片寄り無く釣り合った運営」(論語堯曰篇1)と言うのだ。(前漢中期・『春秋繁露』如天之為1)
『春秋繁露』が董仲舒の作という物証は何も無いが、伝承としてそう言われるのが『春秋繁露』だけであり、しかもその中に恕の時は一字しか出てこない(後世の序文を除く)。だからあまり当てにはならないが、とりあえず董仲舒が恕を”思いやり”と言い出したらしいと知れる。
その後の「恕」
董仲舒の後は、恕=”思いやり”の語義が定着した。
是故君子有諸己而後求諸人,無諸己而後非諸人。所藏乎身不恕,而能喻諸人者,未之有也。
だから君子たる者、まず自分で出来るようになってから他人にも出来るようになる事を求める。自分が出来もしないことは、他人にも求めない。性根の内に思いやりを持たない者が、他人を正しく評論できることなど、今までにあったためしがない。(『礼記』大学11)
夫仁者,必恕然後行,行一不義,殺一無罪,雖以得高官大位,仁者不為也。
そもそも常時無差別の愛とは、まず思いやりがあってから実現できるものだ。ただ一つでも悪事を働き、罪の無い者を死に追いやったら、それで高位高官を得られると分かっていても、仁者はやらない。(前漢末期・『説苑』貴徳4)
聖王之政,普覆兼愛,不私近密,不忽踈遠,吉凶禍福,與民共之,哀樂之情,恕以及人,視民如赤子,救禍如引手爛。是以四海歡悅,俱相得用。
聖王の政治とは、あまねく民百姓を愛し、身内に依怙贔屓をせず、縁遠い者もぞんざいに扱わず、善いことも悪いことも民と共有し、哀しいことも嬉しいことも、思いやりをもって他人と分かち合い、民を自分の赤子のように慈しみ、民の苦しみを、まるで炎から手を引っ込めるように急いで救う。こうすることで諸外国もみな喜び、互いに利益を与え合うのだ。(後漢中期・『潜夫論』救辺1)
もちろん恕に”さとる”の意があることが忘れられたわけではない。上掲の例も、”さとる”と”おもいやる”の間ははなはだ曖昧だ。
”さとる”と”おもいやる”の曖昧を反映してか、論語における恕も、後漢から南北朝にかけては、”さとる”と解された。
曾子荅弟子釋於孔子之道也忠謂盡中心也恕謂忖我以度於人也
恕謂內忖己心外以處物言人
忠とは自分の真心を尽くすことだ。恕とは自分と同じように考えて、他人の立場を知ることだ。
恕とは、心の中で自分と引き比べ、自分以外の立場を知り、ものを言うことだ。(『論語義疏集解』)
宋儒である朱子の解釈も、これに沿っている。
盡己之謂忠,推己之謂恕。…或曰:「中心為忠,如心為恕。」於義亦通。
推己及物,其施不窮,故可以終身行之。
自分で精一杯やりきることを忠と言い、自分に引き比べて考えるのを恕という。ただし一説に、「真心を忠と言い、偽りの無い心を恕という」ともいう。これもまた話しが通る。
自分に引き比べて物事を考えれば、判断を誤ることが無い。だから終生これに従えと孔子は教えたのだ。(『論語集注』)
話を論語の本文に戻せば、弟子でもなかった曽子が恕を説いたというのは全き捏造と思えるが、孔子が子貢に説教した衛霊公篇の話に関しては、”自分に引き比べて相手の立場を悟る”の意で、「恕」ではなく「如」を用いて言った可能性はある。
だが上記の通り二つの漢字は音通とは言いがたく、「如」と記してあったのを後世の儒者が、勝手に「恕」と書き換えたと考える以外に、衛霊公篇の章を史実に分類する手立てが無い。ただその程度の改変は平気でやるのが儒者であり、一々詮索する意味が無いかも知れない。
とある保育士の先生によると、自他を等しく想像する行為はかなり高度で、小学校高学年から中学生にかけてやっと出来るようになることだという(→youtube)。それが出来ない発達障害の大人はいくらでもいるが、「如」はあるいはヒトにとって不要の機能かも知れない。
- 発達障害の例。論語泰伯編4余話「地位は人を愚かにする」
史上の偉人の多くは、この想像機能を欠いたサイコパスである。淘汰の時代にはサイコパスの方が強盛種だからだ。孔子の後半生は気温の低下期で、サイコパス強盛の時代だった可能性がある。その中でもし史実の孔子が説いたとするなら、必ず「恕」ではなく「如」だったろう。
憐れむ必要は無いが、自分同様に察しろとは、個人の生存確率を上げる技術でもあるからだ。
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