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論語における「禮(礼)」

歴代の儒者も日中の漢学教授も、「礼」を礼儀作法や、冠婚葬祭の式次第の範疇と決めて疑わない。だが孔子生前の「礼」とはもっと幅広く、当時の君子=貴族の一般常識を指した。孔子塾で「礼」を教えたのは、それが仕官するための必須教養だったからに他ならない。

現在の「礼」の理解

漢和辞典のたぐいで「礼」を引くと、次のように書いている。

『学研漢和大字典』

藤堂明保 藤堂明保 学研漢和大字典
形よくととのえた作法・儀式。昔は六芸(リクゲイ)(礼・楽・射・御・書・数)の一つ。教養の筆頭と考えられた。また、五常(仁・義・礼・智・信)の一つ。人の守るべきかどめが正しい行い。

『字通』

白川静 白川静 字通
旧字は禮に作り、豊(れい)声。豊は醴(れい)。その醴酒を用いて行う饗醴などの儀礼をいう。〔説文〕一上に「履(り)なり」と畳韻の字を以て訓し、「神に事(つか)へて福を致す所以なり」とし、豊の亦声とする。卜文・金文の字形には、豊の上部を玨(かく)の形、また二丰(ほう)の形に従うものがあり、玉や禾穀の類を豆に加えて薦めた。古文として礼の字をあげており、漢碑にもその字がみえている。〔中庸、二十七〕に「禮儀三百、威儀三千」とあり、中国の古代文化は礼教的文化であった。

『大漢和辞典』

諸橋轍次 諸橋轍次 大漢和辞典
ふみ行うべきのり。我が身を修め、人と交わり、世と接し、鬼神につかへて、理にかなひ、生を遂げるために守るべき儀法。情にもとづいて敬を主とし、過ぎたるを節し、足らぬをかざり、つとめて中正に合致させるのが其の目的で、外形を修めて内心を正すのが其の特色である。

人によるのだろうが、訳者には『大漢和辞典』が何を言っているのかさっぱり分からない。『字通』からはどぶろく祭であろうという事以外、「礼」がどのようなものか分からない。だが『学研漢和大字典』の語釈だけではこころもとないので、もう少し調べてみる。

「国学大師」禮条

  1. 「礼」の繁体字。
  2. 人類の行為規範。
  3. 作法に従った恭しい態度や行為。
  4. 儀式。
  5. 敬意を示すための贈答品。
  6. 儒家の経典の一つ。
  7. 姓。
  8. 祭礼。
  9. 尊敬。

現在中国での理解もこんなもので、要するに現在の日中の漢学教授は、「礼」を礼儀作法のたぐいと考えているらしい。だがそれでは論語をはじめ、中国の古典を解読できない場合がある。有り体に言えば「礼」とは単なる礼儀作法や冠婚葬祭の式次第ではなく、孔子在世当時の君子=貴族(論語における「君子」)の一般常識を指した。

孔子生前の「礼」

「礼」を通説の範囲で考えている限り、論語の第二章でもう分けが分からなくなる。

有子いうしいはく、ゐやもつたふとしとすは、先王せんわうみちにして、よしす。小大せうだいこれるも、おこなはれところり。すれども、ゐやもつこれただらば、あるいはおこなはるからなり。(論語学而篇2)

これを通説では次のように解釈する。

論語 下村湖人 下村湖人 論語
ゆう先生がいわれた。――
「礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、本質的には厳しい性質のものである。しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りで行こうとすると、うまく行かないことがある。調和は大切であり、それを忘れてはならないが、礼を以てそれに節度を加えないと、生活にしまりがなくなるのである。」(下村湖人『現代訳論語』)

訳者は下村先生の誠実も学識も疑わないが、この訳文から「礼とは何か」を読み取るのは極めて困難で、『大漢和辞典』の語釈の不可解とそんなに変わらない。だが「礼」=貴族の常識と理解すれば、この章の解釈はまるで変わってくる。

有先生のお説教。「貴族の常識が調和を重んじるのは、いにしえの聖王にならったもので、まことに結構なことだ。だから何事も調和が取れるように行動する。ただし、調和ばかり気にすると、行き詰まることがある。その時は貴族の常識に立ち返って行動を決める。」(拙訳)

「礼」とは文字に記されて固定化された規範ではなく、時宜に応じて判断を変えるべき性格の規範だった。それがなぜ春秋の君子に当てはまるかと言えば、彼らがほぼ例外なく戦士だからで、固定化された規範通りに戦っていては負けてしまう。時代が下るがその例がある。

後四年,趙惠文王卒,子孝成王立。七年,秦與趙兵相距長平,時趙奢已死,而藺相如病甐,趙使廉頗將攻秦,秦數敗趙軍,趙軍固壁不戰。秦數挑戰,廉頗不肯。趙王信秦之閒。秦之閒言曰:「秦之所惡,獨畏馬服君趙奢之子趙括為將耳。」趙王因以括為將,代廉頗。藺相如曰:「王以名使括,若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳,不知合變也。」趙王不聽,遂將之。


それから四年過ぎ、(BC266年に)趙の恵文王が世を去り、子の孝成王が即位した。その七年、秦と趙の軍が長平の地で対戦したが、その時趙の将軍の趙奢はすでに世を去っており、(名宰相の)藺相如は死の床にあった。

趙は廉頗将軍に命じて秦を攻めることにしたが、それまでに秦はたびたび趙を負かしていたので、廉頗は堅固な要塞を築いて立てこもり、正面から戦わなかった。秦軍は挑発を繰り返したが、廉頗は相手にしなかった。

そこで秦は趙に間者を送り、趙王は間者の言うことを信じた。間者曰く、「秦が恐れるのは、ただ馬服君趙奢の子、趙括が趙軍を率いることである。」こうして趙王は趙括を司令官とし、廉頗と交替させようとした。

それを聞いて死の床から体を引きずって藺相如が朝廷に来て、趙王をいさめた。「王殿下は趙括を司令官に任じられたが、あの者のいくさは、琴柱に膠を塗って弾いているようなものです。あの者は父親の書いた戦史を読んで暗記しているに過ぎません。臨機応変に戦えるわけがありません。」

だが趙王は言うことを聞かず、とうとう司令官に任じてしまった。(『史記』廉頗藺相如伝14)

この結果趙軍は破れ、45万人もの犠牲者を出し、秦の天下統一がほぼ確定した。それはともかく、従軍する者の行動規範が固定のしようなどないことを、この歴史が示している。そしてそんなことは、当時の君子にもよく分かっていた。

襄王…十七年…王曰:「利何如而內,何如而外?」對曰:「尊貴、明賢、庸勛、長老、愛親、禮新、親舊。」


東周の襄王…の十七年(BC635)…王が問うた。「利益が国内から生じるとはどういうことだ? 国外に流出するとはどういうことだ?」富辰「高位の人を貴び、賢者の存在を明らかにし、功績の有る者を用い、老人を敬い、親族を愛し、前代未聞の事柄には常識で対応し、昔なじみと仲良くすることです。」(『国語』周語中15)

原文中の「禮(礼)新」を「礼を新たにする」と読み下すのは全く賛成できない。挙げられている事例が全て「AB」で「BをAする」と読まれている以上、「礼新」も「新を礼する」と読むべきだ。”新しいもの”に「礼」するとは? ”礼=常識で判断する”ことに他ならない。

論語における「礼」

「礼」を”礼儀作法”と捉えている限り、永遠に文意が分からない論語の章は他にもある。

いはく、かみゐやこのまば、すなはたみ使つかやすかな。(論語憲問篇44)

この章は、漢字の用例に若干の疑問はあるものの、文字史的に史実の孔子の発言と判断して構わない。その通説的解釈は次の通り。

先師がいわれた。――
「為政者が礼を好むと、人民は快く義務をつくすようになる。」(下村湖人『現代訳論語』)

孔子說:「領導尊崇道德規範,群衆就樂意聽指揮。」
孔子が言った。「指導者が道徳や社会規範を尊重して従えば、群衆は必ず喜んで命令を聞く。」(「中国哲学書電子化計画」所収現代中国語訳)

んなわきゃねえだろ、と誰もが思うだろう。お偉方がチンチンドンドンの儀式をどんなに盛大にやったところで、では訳者はじめ下々しもじもがそのいう事を聞く気になるだろうか。こういう絵空事を真に受けないで、「礼」=”貴族の常識”と解すれば一発で分けが分かるようになる。

為政者が普段から貴族の常識通りに行動する、つまり戦場では勇敢に戦い、饑饉には率先して節約に努めて農業を発展させ、それで民を守ってやれば、民はちゃんと見ていて、言う通りに働いてくれるものだ。(拙訳)

人類社会には、その時々の上下関係はあり得るが、一方的な搾取や差別が、いつまでも通用しはしない。人と人とは対等で、関係は双務的であるべきだ、と実は孔子も気付いていた(論語学而篇11)。もしそうでないのなら、論語など現代人が読むに値しないに違いない。

「礼」は孔子塾の必須科目(リク芸)の一つだっただけに、論語には「礼」に言及した章が43章もある。全部で約500章ある論語の、9%近くは礼の話だということになる。その「礼」を”貴族の常識”と解せない章はただの一つも無い。そうでないと解せない例は、あまたあるのだが。

事を日本史で考えてみよう。江戸幕府はなぜ滅んだのか。庶民にはどうしようもない「夷狄」を、「征」してくれなったからだ。お武家様が貴ばれたのは、普段の立ち居振る舞いが立派だったからかもしれないが、自分を守ってもくれない存在に、社会は特権を許さない。

征夷大将軍ではない。辞めて貰おう。人類に普遍的な判断ではなかろうか。

現伝の「礼」はでっち上げ

最後に、現伝の「礼」がいつ創作されたか史料を見よう。

仲尼沒後,受業之徒沈湮而不舉,或適齊、楚,或入河海,豈不痛哉!

至秦有天下,悉內六國禮儀,采擇其善,雖不合聖制,其尊君抑臣,朝廷濟濟,依古以來。

至于高祖,光有四海,叔孫通頗有所增益減損,大抵皆襲秦故。自天子稱號下至佐僚及宮室官名,少所變改。

孝文即位,有司議欲定儀禮,孝文好道家之學,以為繁禮飾貌,無益於治,躬化謂何耳,故罷去之。

孝景時,御史大夫晁錯明於世務刑名,數干諫孝景曰:「諸侯藩輔,臣子一例,古今之制也。今大國專治異政,不稟京師,恐不可傳後。」

孝景用其計,而六國畔逆,以錯首名,天子誅錯以解難。事在袁盎語中。是後官者養交安祿而已,莫敢復議。

今上即位,招致儒術之士,令共定儀,十餘年不就。或言古者太平,萬民和喜,瑞應辨至,乃采風俗,定制作。

上聞之,制詔御史曰:「蓋受命而王,各有所由興,殊路而同歸,謂因民而作,追俗為制也。議者咸稱太古,百姓何望?

漢亦一家之事,典法不傳,謂子孫何?化隆者閎博,治淺者褊狹,可不勉與!」乃以太初之元改正朔,易服色,封太山,定宗廟百官之儀,以為典常,垂之於後云。


孔子が没したあと、その教えを受け継いだ者は不遇のまま出世出来ず、ある者は斉へ、楚へと流れ、海を渡って海外に出てしまった者もいた。何と痛ましいことだろう。

秦が天下を統一し、併合した六国の礼儀作法のうち、よいものを選んで採用した。聖王の教えとは合わないが、主君を貴び家臣に分をわきまえさせ、朝廷の雰囲気が整ったのは、昔通りに保たれた。

漢の高祖が国を興し、中華全土を従えると、叔孫通が秦の礼儀作法の細部は大幅に変更したが、おおまかにはそのまま踏襲した。天子から文武百官の称号、宮殿の名や官名については、わずかにしか変更しなかった。

文帝の時になって、所轄の役人が礼儀作法を定めたいと奏上した。しかし文帝は道家の教えを好んでいたから、ややこしい作法や飾りは、政治に無益だと思い、その前に役人が自分で世間の模範となるようにすべきだと言い切り、意見を採り上げなかった。

景帝の時、監察総監の晁錯が、行政手腕や司法の正確さで名を挙げ、それを背景にたびたび景帝に意見した。「諸侯や旗本は、ただ臣下であり天子の子分に過ぎないこと、古来明らかです。ところが今は大諸侯が好き勝手に領地を治め、帝都に税も届けません。これをそのまま放置してはいけません。」

景帝はこの意見を採り上げ、呉楚七国の乱が起きたが、どの諸侯も「悪党の晁錯を取り除く」のを挙兵の口実としたので、景帝は恐れて晁錯を殺してしまった。それでも乱は収まらず、袁盎を派遣してなだめたが止まなかった。それからというもの、役人は事なかれ主義で自分の縁故や俸禄だけを気にかけたので、大諸侯の横暴を言う者はいなくなった。

今上陛下(武帝)が即位し、儒者を集めて礼儀作法を作ろうとしたが、どの儒者も勝手なことを言い張り、十年過ぎても決まらなかった。そこである者が武帝に奏上した。「昔は天下太平で、万民は生活を楽しみ、めでたいしるしがはっきりと現れましたので、その普段の習慣をまとめて、礼法として定めました。」

武帝はこれを聞いて、監察院に命じた。「いにしえの王が天の命を受けて天下の王となったからには、それぞれに理由があるはずだ。だがそのやり方は違っても、同じように太平の世を実現させたからには、民の生活に基づいて礼法を定め、習慣に基づいて制度を定めたという。いま礼法制度を審議させていると、どいつも昔がよかったという。これでは今ある民は置いてけ堀ではないか。

それに我が漢帝室にはまだ定まった礼法制度が無い。これでは子孫に言い訳が立たない。礼儀作法のウンチクがくどすぎる者は、あまりにくどくてついて行けないし、大して勉強して居ない者は、ナントカの一つ覚えばかり言い張っている。どうにかせねばいけないぞ。」

こうして太初元年に暦を改め、官服の色を変え、泰山で祭を行い、祖先祭殿や文武百官の制度を定め、これを漢帝国の礼法制度と決め、後世に残すことにした。(『史記』礼書)

周代の礼法など、孔子没後にはすっかり消えて無くなったと司馬遷が明瞭に書いている。現伝の大小『礼記』、『儀礼』、『周礼』も文字史上から漢代以降の偽作は明らかで、後漢初期の『漢書』芸文志が、『礼記』らしき書物の名を載せているに過ぎない。

つまり現伝の儒教の礼法は、どうやりくりしても前漢武帝期より前には遡れない。ただし、当時のいわゆる儒教の国教化を進めるに当たって、董仲舒とその一党だけでここまで煩瑣な礼法を造れなかったのも明らかだ。上掲『史記』の言う通り、前漢儒は一枚岩ではない。

詳細は論語公冶長篇24余話「人でなしの主君とろくでなしの家臣」を参照。

論語解説
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