(金文)
”人格高潔な人”とか”教養人”とかいった、面倒くさい意味を孟子がなすりつけるまで、「君子」とは単に”貴族”を意味した。「君」の原義は君主やそれを兼ねる大神官で、「子」の原義は王子、のちに貴族への敬称へ転じた。「君子」は春秋時代には珍しい熟語だが、もともと”ご主君”+”様”という二語だから、文法的にそう珍しい言葉ではない。
『左伝』では当時の出来事につき、「君子」があれこれ評する記述がある。これも政治的発言権がある貴族を意味し、”高潔な教養人が”と読むとわけが分からなくなる。伝統的には孔子のことだと解されてきたが、それには何ら根拠が無い。デタラメを盲信するのはもう止めよう。
君子=貴族=戦士
孔子の生前、君子=貴族=国人のことだった。孔子の弟子は司馬牛のような例外を除けば、全て平民の出で、周の古い制度では野人と言われる存在だった。野人は元来国権に従わず、『史記』に秦の穆公(位BC659-BC651)が、馬を奪われても手を出せなかった故事が載る。
ただし『史記』の話は出来すぎており、辺境の秦と中原の魯を同一視することも出来ないが、『左伝』に記された曹劌の故事によれば、魯の荘公(位BC706-BC662)の時代、平民=野人は徴兵されず、もっぱらいくさは戦車戦で、従って武術と戦車術を心得た貴族の仕事だった。
世の東西を問わず、貴族は坊主でなければ戦士である。周代の貴族には領地を持った卿・大夫ばかりでなく、商工業に携わる都市民、つまり士族をも含んでいる。士族は国公位の継承などの重大事に発言権がある代わりに、戦時には最下層の戦士として従軍の義務を負った。
戦車の乗員には階級差があった。武芸に励む余裕のあった卿大夫は、揺れる車上で射撃と打撃を担った。御者は士族が担当した。「執鞭の士」が、偉くない職業として論語に載るのはそれゆえだ。商人は普段荷馬車を扱っただろうし、職人も馬車の扱いに慣れていて不思議は無い。
だが次第にいくさのやり方は変わり、主力が戦車ではなく歩兵になってくる。
孔子の生前、哀公十一年(BC484)魯は斉と戦ったが、総大将を務めた孔子の弟子、冉有は、防衛戦から突破線に移る際、兵に武器を持ち替えさせ、戈ではなく矛で突撃させて戦勝を得ている。戈はもと戦車の装備品で、敵兵を戦車から引きずり下ろすのに適した形をしている。
その戦車が突破線を戦うなら、これまた装備品である矢を射かければ良い。つまり矛に持ち替えたという事は、主力が戦車ではなく歩兵だったことを意味する。そしてその戦術を冉有に授けたのは孔子だった。戦車は戦闘車両というより指揮車か、偵察用の兵器になっていた。
また哀公八年(BC487)、攻め寄せた呉軍を迎え撃つのに、魯は「卒三百人」を動員して夜襲を掛けようとしている。卒とは雑兵のことで、もちろん戦車の乗員ではないし、士族を含む貴族でもない。国が用意した弩などの武器を持たされ、徴兵されて戦う平民の歩兵である。
学研漢和大字典
「卒」(多友鼎・西周末期)
会意。「衣+十」で、はっぴのような上着を着て、十人ごと一隊になって引率される雑兵や小者をあらわす。小さいものという意を含む。「にわか」の意は猝(ソツ)に当てたもの。また、小さくまとめて引き締める意から、最後に締めくくる意となり、「おわり」の意を派生した。碎(=砕。小さくくだいた石)また、引率の率(引き締めてまとめる)と同系のことば。
経験のある方はご存じだろうが、弓は当たるものではないし、引き絞るには膂力も要る。だが弩(クロスボウ)なら素人でも当たるし、弦を一度引くだけの力で済む。弩は『論語』と同時代の『孫子』が初出で、弩の登場によって戦のやり方と、社会構造まで変わることになった。
ギリシアで重装歩兵の出現と共に貴族制がくずれ、ローマでエクイテス(騎士)の没落とケントゥリア(兵員会)の発言権向上が同時に進んだように、古代の軍は人を平等にする。中国も同様で、それまで都市の住人=貴族=戦士だったのが、平民に政治的発言権が生じるようになる。
社会の底辺出身の孔子が、魯国の宰相格になったのはまさにその象徴で、孔子塾は当時の身分制を乗り越えたい平民が、貴族に必要な教養と、武芸・書記・算術などの技能を習う場だった。従って君子とは、塾生が目指す貴族のことで、今日の予備校で大学生と言うのに等しい。
つまりその程度の存在で、哲学的意味など全く無い。下世話な言い方をすれば、基本は素手で人を殴り殺せることで、あとは読み書きと四則演算が出来ればとりあえず貴族が務まった。古代での知識の重大さが分かるというものだ。そして、素手で人を殴り殺せない者は小人だ。
読み書きや多少の金に拘わらず、たかがナイフに逃げ散る存在でしかない。
孔子の弟子たちが目指した最下級の貴族=士を、あまりに古代で想像しがたいと感じるかも知れない。だがそれに近い存在を、現代では映像化している。2015年のロシアでドラマ化された『静かなドン』に、主人公たちコサックが第一次世界大戦勃発を迎えるシーンがある。
コサックは騎兵として従軍の義務がある代わり、土地所有と自治が認められた。家族総出で刈り取りの最中、伝令が走ってくる。「Ахой! Казаки, Война!」(おーいコサックたち、戦争だ!)。男たちはその場で馬に乗って前線に向かい、女たちがそれを見送る(→youtube)。
貴族と言っても、自宅と家族が食べるだけの土地と、軍馬を持つに過ぎない。だがロシア帝国にとって貴重な突破戦力であり、ウクライナ人や中国人(当時もいたらしい)の小作よりは身分が高かった。決定的な違いは、自治に伴う参政権があったことで、資産の多寡ではない。
なおモルトケの生家もユンカーだが、その程度の家産だったという(『ドイツ参謀本部』)。
希代の世間師・孟子のうそデタラメ
その君子という言葉にもったいを付け、教養人とか人格者とか、面倒くさい語義をなすりつけたのは、孔子没後約一世紀のちの孟子である。孟子は希代の世間師で、当時ほぼ滅びていた儒家に目を付け、自分の商材として売り出した。売り出し先は戦国の諸侯たちである。
つまり世は戦国である。平民は徴兵されるのが当たり前になっていた。それと同時に君子もコモディティ化されて、すでにあこがれるべき身分ではなくなっていた。秦の商鞅による爵の制度とはそういうことである。だがそれでは、世間師として孟子は困った。売れないからだ。
だから売るために、君子という言葉にもったいを付けた。骨董屋にだまされて、くだらない土のかけらに、千万の金を出す小金持ちがいるのと同じ理屈である。だから君子のみならず、論語のあちこちを書き換え、でっち上げをねじ込んで、まるで違うものにした。
こうして孔子の儒学は儒教になった。イエスの教えがパウロによってキリスト教になったのとよく似ている。こんにち、君子という言葉が分かりにくくなったのは、孟子が買い手によってコロコロと意味を変えたからである。売れればいいのであって、内容などどうでも良かった。
まさに土くれと同じ扱いだから、現代の論語読者が、いかがわしい世間師の思惑に乗る必要は無い。論語の言葉のうち、本物は君子を”貴族”または孔子による呼びかけ”諸君”と読み替え、ニセモノは”教養人・人格者”など、適当にありがたそうな人格と読み替えればいいのである。
何せ元が口先のデタラメなのだ。真面目に取り合ってどうなろうか。
論語での語義
- 貴族の男子。
- 教養人。
- 人格者。
- 「諸君」という二人称。
- 「そのようであれ」と要求される姿。
現代中国での解釈(漢語網)
簡體拼音: | [jūn zǐ] |
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反義詞: | 小人,強盜 |
近義詞: | 正人 |
基本釋義: |
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詳細釋義: |
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百科解釋: | “君子”觀念在中國各家中,“君子”一語,廣見于先秦典籍,在先秦典籍中多指“君王之子”,著重強調政治地位的崇高。而后孔子為“君子”一詞賦予了道德的含義,自此,“君子”一詞有了德性。《易經》《詩經》《尚書》廣泛使用。《周易·乾》:“九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。”《詩經·周南·關雎》:“窈窕淑女,君子好逑。”《尚書·虞書·大禹謨》:“君子在野,小人在位。” |
網路解釋: |
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宮崎市定『論語の新研究』
結論から言うと論語の君子には、四種類の意味、乃至はニュアンスがあるのである。第一は原義であって、君子とは身分ある男子、為政者、指導者の階層の者をさす。そしてこの場合、屢々被治者、下層の者の小人と相対して用いられる。…
そこで君子をジェントルマンと英訳することが行われるが、確かに上流階級のジェントルマンに相違なく、同時にそれが教養ある紳士でもあった。そこで君子もまた有徳者として、無徳者の小人に対比される。これが第二の用法である。…
論語の中には有徳者の呼称として、他に聖人、仁者、仁人など多くの名が現れるが、どうもその間に格差がつけられているらしい。聖人は超人的な存在で、遠い過去には存在したが当世においては殆んど見当たらぬもの。仁者、仁人は精進の窮極において到達し得る理想的存在であるが、これも容易に発見することの出来ぬもの。但し単なる仁という形容ならば、孔子はあまり拘泥せずに用いた場合もあるのでは無いかと思われる。これに反して君子は修養によって到達し得る人格者で、現に孔子の周囲にも君子と呼ばれた人が存在した。…
そこで孔子の弟子たちに対する教育にあっては、最後の理想は仁者になることであったが、当面の目標としては君子になることを勧めた。そこから第三の用法が生ずるのであって、論語の中において君子云云という句が現れるとき多くの場合、その真意は対話者に対する希望、乃至は婉曲なる指示であるらしい。従ってこれに対比される小人云云は、禁止を意味するのである。
子曰く、君子は義に喩り、小人は利に喩る。(論語里仁篇16)
これを有徳者は正義に敏感であり、無徳者は利に敏感である、と訳しても意味は通ずる。但しこの場合、孔子の発言の目的は決して、君子と小人とに定義を与えるにあるのではない。孔子の教育は飽迄、実践にある。故にこの意味は、望ましい人間のあり方は、正義に敏感なことである、と言うのである。更に一層直接的に言えば、諸君は正義に敏感であって欲しい、利益には鈍感な方がよい、と弟子たちに注文を発したと見るべきである。
こういう要求の方法は、現在でも小児に対して用いられることがある。子供のいたずらを止めようとする時に、好い児はいたずらしません、と言う。これは別に好い児の定義を与えているのではない。この言葉の裏には三段論法が含まれている。好い児はいたずらしない。お前は好い児である。故にお前がいたずらするのは相応しくない。結局、いたずらするな、という禁止の要求を婉曲に表現したものに他ならない。
君子云云、小人云云という表現は論語の至る所に見出される。私の翻訳はそういう際には成るべく直接的な効果を覘って、諸君は云云して欲しい、と訳するのが常例である。その方が孔子発言の趣旨に叶っていると信じたのであるが、同時にそれは君子という言葉の持つ第四の意味に連絡させる目的をも蔵しているのである。
君子という言葉が対話者に対する要求を含んで発せられる事実から、更に進んで、別に要求することなくして対話者を指すに用いられることがある。言いかえれば第二人称として用いられるのである。こういう点について、漢文を自国語とする中国人は、或いはニュアンスとして無自覚のうちに理解しているのかも知れないが、併し意識してそのように説明されたのに出会ったことはない。また日本人の解釈でも、はっきりそう指摘した例を私は知らない。ところが論語の中では、君子という言葉を二人称に訳さないと意味の通らない場合が実際にあるのである。
子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なる、これを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋なることかこれあらん。(論語子罕篇14)
この君子を以て、古来文字通りに有徳者と訳そうとするので、それならいったいそれは誰かという問題が生ずる。古注に引かれた馬融の言では、
君子は居る所の者皆化するなり。
とあるから、君子を以て孔子と解しているに違いない。併し孔子が自ら君子を以て任ずることは、どう考えても不自然である。そこでこの場合の君子とは、九夷、すなわち東夷の国の土着人をさすので、東夷はいわゆる君子国であるから、陋とは言えないという解釈である。これは清人の翟灝に発し、伊藤仁斎が力説した所であるが、中国人の言う君子は、中国的教養を治めた文化人のことであるから、質朴を尊ぶ異国人はそれが如何に紳士的であっても孔子から君子と言われることは考えられない。
このところ、文中の君子は単なる二人称に過ぎないのである。君子これに居らば、諸君が行ってくれるなら、諸君と一緒ならば、の意であり、事実孔子は諸国を遍歴するに、常に弟子等を伴ったのであって、孔子が東夷の国に移住しようというのは、もちろん戯言であるには違いないが、行くならば諸君と一緒だ、と言ったのは当然である。諸君と苦楽を共にするならば、何の陋かこれあらん、で立派に意味が通ずる。いな、ここは諸君云云と訳さなければ意味が通じないのである。
『学研漢和大字典』
- 徳の高いりっぱな人。《対語》小人。「子曰君子周而不比、小人比而不周=子曰はく君子は周して比せず、小人は比して周せず」〔論語・為政〕
- 位・官職の高い人。「君子終日乾乾」〔易経・乾〕
- 「君主①」と同じ。国をおさめる長。天子。〔論語・顔淵〕
- 妻が夫を呼ぶことば。「未見君子憂心獣獣=いまだ君子を見ざれば憂ひの心の獣獣たり」〔詩経・召南・草虫〕
- 君主・主君のそばに仕える人。
- 学問や修養にこころざす人。
- 梅・竹・蘭(ラン)・菊・蓮(ハス)など、気品のある植物のこと。
『字通』
「君子」はもと貴族の男子を言う。のち才徳ある人をいう。〔論語、述而〕聖人は吾得て之れを見ざるも、君子者を見るを得ば、斯ち可なり。
『大漢和辞典』
- 徳の高いりっぱな人。《対語》小人。「子曰君子周而不比、小人比而不周=子曰はく君子は周して比せず、小人は比して周せず」〔論語・為政〕
- 位・官職の高い人。「君子終日乾乾」〔易経・乾〕
- 「君主」と同じ。〔論語・顔淵〕
- 妻が夫を呼ぶことば。「未見君子憂心獣獣=いまだ君子を見ざれば憂ひの心の獣獣たり」〔詩経・召南・草虫〕
- 君主・主君のそばに仕える人。
- 学問や修養にこころざす人。
- 梅・竹・蘭(ラン)・菊・蓮(ハス)など、気品のある植物のこと。
参考文献:高橋均”論語にみえる「君子」について”1969-09-20、漢文學會々報28、p13-21。
コメント
[…] https://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/kunsi.html […]
[…] 何せ三人とも、春秋時代の君子である。子路にぶちのめされ、冉有にふん縛られ、公西華に「こいつはバカです」と首に立て札を懸けられて、盛り場のさらし者にされただろう。 […]
[…] 論語を誤読しないための心得として、まず自分が論語の時代に言う「君子」の資格が有るかどうか、を以前指摘した。そうでないと、上掲宋儒のような、とんでもない高慢ちきに陥ることになる。だがそうかと言って、孔子を庶民である自分に都合よく解釈するのも誤りだ。 […]
[…] これでは君子として、戦場働きが出来ない役立たずになるから、無論孔子の教説ではない。 […]