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論語における「君子」

君 金文 子 金文
(金文)

論語では三種類の使い方をされる。

  1. 訓「もののふ」/訳”貴族”・”さむらい”。
  2. 訓「きんだち」/訳”君たち”・”諸君”。
  3. 訓「よきひと」/訳”身分と教養のある仁格者”。

”人格高潔な人”とか”教養人”とかいった、面倒くさい意味を孟子がなすりつけるまで、「君子」とは単に”貴族”を意味した。「君」の原義は君主やそれを兼ねる大神官で、「子」の原義は王子、のちに貴族への敬称へ転じた。「君子」は春秋時代には珍しい熟語だが、もともと”君主”+”貴族”という二語の集合名詞だから、春秋時代の文法的に珍しい言葉ではない。

ところが現代の日本人が、「君子」の意味を知ろうとすると大変なことになる。辞書によって言っていることが全然違うか、あれもこれもと用例を挙げて、どれが本当の「君子」か書いていないからだ。真面目な漢学教授だった魚返善雄先生ですら、次のように書いている。

「君子」といのは、「よく腹のできた人」「心の練れた人」「エチケットを身につけた人」などの意味です。(『漢文入門』)

現代中国語と漢文はおろか、英独仏語やラテン語にまで通じた碩学が、あれこれ並べた上に「など」などと書かねばならなかった。こうなった理由はただ一つで、儒者どもがその時の都合でデタラメに君子君子と言い募ったから、誰にも収拾がつかなくなってしまったわけ。

例えば『左伝』では当時の出来事を、「君子」があれこれ評する記述がある。これも政治的発言権がある貴族を意味し、”当時の政界で噂になった”と解すべきで、”高潔な教養人が”と読むとわけが分からなくなる。伝統的には孔子のことだと解されてきたが、何ら根拠が無い。

デタラメを盲信するのはもう止めよう。

君子=貴族=戦士

「君子」の語が漢語に現れるのは、西周末期の金文からになる。

「交君子鼎」『殷周金文集成』02572

交君子鼎 殷周金文集成 02572
交君子叕肈乍寶鼎。其󱱉壽。萬年永寶用。

「叕肈乍寶鼎」は「つづりてはじめて寶鼎をつくる」と読めるが、「交君子」が「君子と交わる」のか、「交君子」という称号なのか判然としない。明確に一般名詞としての「君子」が確認できるのは、春秋早期の金文になる。

「晉姜鼎」『殷周金文集成』02826

晉姜鼎 殷周金文集成 02826

隹王九月乙亥。晉姜曰。余隹司朕先姑君晉邦。余不叚妄寧。巠雍明德。宣𠨘我猷。用󱞟匹辝辟。每揚厥光剌。虔不彖。魯覃京𠂤。󱴅我萬民。嘉遣我。易鹵責千兩。勿灋文𥎦󱮰令。卑貫通弘。征緐湯󱮱。取厥吉金用乍寶󰓼鼎。用康柔妥懷遠邇君子。晉姜用𣄨綽綰。󱱉壽。乍󱤘為極。萬年無彊。用亯用德。㽙保其孫子。三壽是利。

って康らぎ柔らげ遠くちかき君子をやすらぎなつけん」と読める。論語の主役である孔子は春秋時代が後半になったBC551ごろ生まれた。つまり論語の時代、すでに「君子」という言葉は存在したが、ざっと言えば従軍義務を負う代わりに、参政権を持つ都市住民を意味した。

春秋戦国時代 戦車
つまり孔子の生前、君子=貴族=国人。孔子の弟子は司馬牛のような例外を除けば、全て平民の出で、周の古い制度では野人と言われる存在だった。野人は元来国権に従わず、『史記』に秦の穆公(位BC659-BC651)が、馬を奪われても手を出せなかった故事が載る。

ただし『史記』の話は出来すぎており、辺境の秦と中原の魯を同一視することも出来ないが、『左伝』に記されたカイの故事によれば、魯の荘公(位BC706-BC662)の時代、平民=野人は徴兵されず、もっぱらいくさは戦車戦で、従って武術と戦車術を心得た貴族の仕事だった。

十年,春,齊師伐我,公將戰,曹劌請見。其鄉人曰,肉食者謀之,又何間焉,劌曰,肉食者鄙,未能遠謀,


荘公十年(BC684)の春、斉軍が攻め寄せてきた。荘公が迎撃の軍を興すと、曹劌が謁見を願い出た。それより少し前、曹劌は地元の村を出るときに、村人に言われた。

村人「オイ、百姓のお前が、何だって普段から肉を食っているお貴族様のいくさに、口を出しに行くんだ?」

曹劌「だからだよ。お貴族様は肉ばかり食っているから、頭が悪くてはかりごとが出来ない。ちょっとものを教えてやるつもりさ。」(『春秋左氏伝』荘公十年)

世の東西を問わず、古代貴族は坊主でなければ戦士である。周代の貴族には領地を持った卿・大夫ばかりでなく、商工業に携わる都市民、つまり士族をも含んでいる。士族は国公位の継承などの重大事に発言権がある代わりに、戦時には最下層の戦士として従軍の義務を負った。

戦車の乗員には階級差があった。武芸に励む余裕のあった卿大夫は、揺れる車上で射撃と打撃を担った。御者は士族が担当した。「執鞭の士」が、偉くない職業として論語に載るのはそれゆえだ。商人は普段荷馬車を扱っただろうし、職人も馬車の扱いに慣れていて不思議は無い。

だが次第にいくさのやり方は変わり、主力が戦車ではなく歩兵になってくる。

戈 矛
孔子の晩年、哀公十一年(BC484)魯は斉と戦ったが、部将を務めた孔子の弟子、冉有は、防衛戦から突破線に移る際、兵に武器を持ち替えさせ、ではなくボウで突撃させて戦勝を得ている。戈はもと戦車の装備品で、敵兵を戦車から引きずり下ろすのに適した形をしている。

その戦車が突破線を戦うなら、これまた装備品である矢を射かければ良い。つまり矛に持ち替えたという事は、主力が戦車ではなく歩兵だったことを意味する。そしてその戦術を冉有に授けたのは孔子だった。戦車は戦闘車両というより指揮車か、偵察用の兵器になっていた。

十一年春…冉有用矛於齊師,故能入其軍,孔子曰,義也。

冉有2 孔子 褒める
十一年春…冉有は斉軍に矛を用いた。だから突入に成功した。隣国の衛に滞在中の孔子が伝え聞いて言った。「それで正解。」(『春秋左氏伝』哀公十一年2)

また哀公八年(BC487)、攻め寄せた呉軍を迎え撃つのに、魯は「卒三百人」を動員して夜襲を掛けようとしている。卒とは雑兵のことで、もちろん戦車の乗員ではないし、士族を含む貴族でもない。国が用意したなどの武器を持たされ、徴兵されて戦う平民の歩兵である。

クレシーの戦い
これは社会を変えることになった。クレシーの戦いで長弓を持つ庶民兵が、突撃する貴族の重装騎兵を潰滅させたように、弩=クロスボウを持つ庶民出の歩兵集団が、それまでの貴族が操る戦車部隊を圧倒できるようになった。つまり時代は、質より量へと移り変わっていった。

学研漢和大字典

卒 金文
「卒」(多友鼎・西周末期)

会意。「衣+十」で、はっぴのような上着を着て、十人ごと一隊になって引率される雑兵や小者をあらわす。小さいものという意を含む。「にわか」の意は猝(ソツ)に当てたもの。また、小さくまとめて引き締める意から、最後に締めくくる意となり、「おわり」の意を派生した。碎(=砕。小さくくだいた石)また、引率の率(引き締めてまとめる)と同系のことば。弩 戦車戦

経験のある方はご存じだろうが、弓は当たるものではないし、引き絞るには膂力も要る。だが弩(クロスボウ)なら素人でも当たるし、弦を一度引くだけの力で済む。弩は『論語』と同時代の『孫子』が初出で、弩の登場によって戦のやり方と、社会構造まで変わることになった。

ギリシアで重装歩兵の出現と共に貴族制がくずれ、ローマでエクイテス(騎士)の没落とケントゥリア(百人隊戦友会)の発言権向上が同時に進んだように、古代の軍は人を平等にする。中国もそれまで都市の住人=貴族=戦士だったのが、平民に政治的発言権が生じるようになる。

社会の底辺出身の孔子が、魯国の宰相格になったのはまさにその象徴で、孔子塾は当時の身分制を乗り越えたい平民が、貴族に必要な教養と、武芸・書記・算術などの技能を習う場だった。従って君子とは、塾生が目指す貴族のことで、今日の予備校で大学生と言うのに等しい。

つまりその程度の存在で、哲学的意味など全く無い。下世話な言い方をすれば、基本は素手で人を殴刂殺せるえげつない暴カで、あとは読み書きと四則演算が出来ればとりあえず貴族が務まった。古代での知識の重大さが分かるというものだ。孔子自身もそう説教している。

孔子 不愉快
せっかく聞いた話を、すぐぺちゃくちゃと人にしゃべるんじゃない。せっかくの情報が台無しになってしまうだろうが。(論語陽貨篇14)

原文「道聴塗説」=”道で聞いた話を道でする”は古くからそう書かれていたが、下の句の「徳之棄」は後漢儒のでっち上げで、もとは「得之棄」と書かれていた。今様に言うなら、「金をドブに捨てるようなもんだ」といったわけ。加えて暴カの必要があるのは従軍のため。

従軍しないと「小人」が大多数の社会に対して、特権を説明できないからだ。類人猿での実験によると、エサの絶対量の不足より、差別の方により怒るという。人類も類人猿の一種であるからには、身分差別のある社会を維持していくのはそう簡単なことではない。

「君子」は命がけで国防を担うから、社会から特権を容認されていた。その上「小人」も孔子の生前は、あっても単に貴族に対する庶民を意味しただけで、”くだらない人間”という、軽蔑の意味は持っていない。でなければ三千にも及ぶ「小人」が、孔子の弟子になりはしない。

「小人」の物証は戦国時代の竹簡からで、「上海博物館蔵戦国楚竹簡」緇衣21に「小人敳(豈)能󱩾(好)丌(其)庀(匹)」とあるなどが初出。文献上は『論語』にあまたの例があるが、史実は「君子」の価値が暴落した戦国以降の語と断じてよい。

その孔子の弟子たちが目指した最下級の貴族=士を、あまりに古代で想像しがたいと感じるかも知れない。だがそれに近い存在を、現代では映像化している。2015年のロシアでドラマ化された『静かなドン』に、主人公たちコサックが第一次世界大戦勃発を迎えるシーンがある。

コサックは騎兵として従軍の義務がある代わり、土地所有と自治が認められた。家族総出で刈り取りの最中、伝令が走ってくる。「Ахойアホーイ! Казакиカザキー, войнаワイナー!」(おーいコサックたち、戦争だ!)。男たちはその場で馬に乗って前線に向かい、女たちがそれを見送る(→youtube)。

貴族と言っても、自宅と家族が食べるだけの土地と、軍馬を持つに過ぎない。だがロシア帝国にとって貴重な突破戦力であり、ウクライナ人や中国人(当時もいたらしい)の小作よりは身分が高かった。決定的な違いは、自治に伴う参政権があったことで、資産の多寡ではない。

なおモルトケの生家もユンカーだが、その程度の家産だったという(『ドイツ参謀本部』)。
モルトケ

希代の世間師・孟子のうそデタラメ

孟子 孟子 お笑い芸人
その君子という言葉にもったいを付け、教養人とか人格者とか、面倒くさい語義をなすりつけたのは、孔子没後約一世紀のちの孟子である。孟子は希代の世間師で、当時ほぼ滅びていた儒家に目を付け、自分の商材として売り出した。売り出し先は戦国の諸侯たちである。

つまり世は戦国である。平民は徴兵されるのが当たり前になっていた。それと同時に君子もコモディティ化されて、すでにあこがれるべき身分ではなくなっていた。秦の商鞅による爵の制度とはそういうことである。だがそれでは、世間師として孟子は困った。売れないからだ。

だから売るために、君子という言葉にもったいを付けた。骨董屋にだまされて、くだらない土のかけらに、千万の金を出す小金持ちがいるのと同じ理屈である。だから君子のみならず、論語のあちこちを書き換え、でっち上げをねじ込んで、まるで違うものにした。

こうして孔子の儒学は儒教になった。イエスの教えがパウロによってキリスト教になったのとよく似ている。こんにち、君子という言葉が分かりにくくなったのは、孟子が買い手によってコロコロと意味を変えたからである。売れればいいのであって、内容などどうでも良かった。

まさに土くれと同じ扱いだから、現代の論語読者が、いかがわしい世間師の思惑に乗る必要は無い。論語の言葉のうち、本物は君子を”貴族”または孔子による呼びかけ”諸君”と読み替え、ニセモノは”教養人・人格者”など、適当にありがたそうな人格と読み替えればいいのである。

何せ元が口先のデタラメなのだ。真面目に取り合ってどうなろうか。

ただし孟子については、付け足して言わねばならないことがある。それは君子の対語である小人について、差別や蔑視をしていないことだ(論語憲問篇7付記参照)。小人の差別を言い出したのは、戦国末期の荀子からで、しつこくバカにし始めたのは、漢代の帝国儒者からになる。

「小人」との言葉が漢語に現れるのは、出土史料としては戦国の簡書(竹簡や木簡)からになる。その中で謙遜の語としての「小人」(わたくしめ)ではなく、”くだらない奴”の用例は、例えば次の通り。

子曰:唯君子能好其駜(匹),小人剴(豈)能好亓(其)駜(匹)。古(故)君子之友也


子曰く、唯だ君子のみ好く其のともたるを能う。小人豈に好く其の匹たるを能うや。故に君子の友也。(『郭店楚簡』緇衣42・戦国中期或いは末期)

小人閑居して不善を為す」(『大学』)と言い出したのは漢儒で、権力を手にするまで大人しくしていたのが、手にしたとたん人を差別して、自分のつまらない自我を満足させるようになった。対して孔子にはそんな必要が無く、孟子は自分の教説を売り出すのに忙しかった。

そして孔子はこう言っている。

揚人之惡,斯為小人。

孔子 居直り
人の欠点をあげつらう奴、それを小人と言うのだ。(『孔子家語』弁政8)

君子は自分のわざを磨くのに忙しく、他人をどうこう言っているヒマは無いのだった。

通説

現代中国での解釈(漢語網)

簡體拼音: [jūn zǐ]
反義詞: 小人,強盜
近義詞: 正人
基本釋義:
  1. [gentleman]∶對統治者和貴族男子的通稱 彼君子兮。–《詩.魏風.伐檀》 君子不齒。–唐. 韓愈《師說》 君子寡欲。–司馬光《訓儉示康》 君子多欲。
  2. [a man of noble character]∶古代指地位高的人,后來指人格高尚的人 不亦君子乎。–《論語》 君子有不戰。–《孟子.公孫丑下》 君子博學。–《荀子.勸學》 花之君子。–清. 周容《芋老人傳》
  3. 對別人的尊稱 [honorific title to thers] 君子書敘。–唐. 李朝威《柳毅傳》 君子登山。–明. 顧炎武《復庵記》 同社諸君子。–明. 張溥《五人墓碑記》 君子之后。–清. 梁啟超《譚嗣同傳》
詳細釋義:
  1. 對統治者和貴族男子的通稱。常與“小人”或“野人”對舉。 《詩·魏風·伐檀》:“彼君子兮,不素餐兮!”《孟子·滕文公上》:“無君子莫治野人,無野人莫養君子。”《淮南子·說林訓》:“農夫勞而君子養焉。” 高誘 注:“君子,國君。”
  2. 泛指才德出眾的人。 《易·乾》:“九三,君子終日乾乾。” 漢 班固 《白虎通·號》:“或稱君子何?道德之稱也。君之為言羣也;子者丈夫之通稱也。” 宋 王安石 《君子齋記》:“故天下之有德,通謂之君子。” 清 方文 《石橋懷與治》詩:“昔年居南邨,卜隣近君子。” 洪深 《少奶奶的扇子》第四幕:“我想世界上的人,也不能就分做兩群:說這群是好,那群是壞;這群君子,那群小人。”
  3. 舊時妻對夫之稱。 《詩·召南·草蟲》:“未見君子,憂心忡忡。”《后漢書·列女傳·曹世叔妻》:“進增父母之羞,退益君子之累。” 李賢 注:“君子,謂夫也。” 唐 李白 《古風》之二七:“焉得偶君子,共乘雙飛鸞。” 清 孫枝蔚 《采蓮曲》之一:“妾采蓮,采蓮寄君子。”
  4. 指 春秋 越國 的君子軍。 《國語·吳語》:“﹝ 越王 ﹞以其私卒君子六千人為中軍。” 韋昭 注:“私卒君子,王所親近有志行者,猶 吳 所謂賢良, 齊 所謂士。” 明 梁辰魚 《浣紗記·被擒》:“ 越王 親率兕甲十萬,君子六千,直渡 太湖 。”參見“ 君子軍 ”。
  5. 對人的尊稱。猶言先生。 《太平廣記》卷四一九引 唐 李朝威 《異聞錄·柳毅》:“夫人泣謂 毅 曰:‘骨肉受君子深恩,恨不得展媿戴,遂至睽別。’”《武王伐紂平話》卷中:“ 姜尚 問曰:‘君子,爾何姓?’” 元 李壽卿 《伍員吹簫》第三折:“君子,你這等一個人,可被那廝欺負,我好是不平也。” 清 李漁 《蜃中樓·雙訂》:“我姊妹出來已久,恐家慈見疑,如今要返深閨,君子,請回去罷。”
  6. 美酒。 《類說》卷四三引 唐 皇甫松 《醉鄉日月》:“凡酒……以家醪糯觴醉人者為君子。”
  7. 竹之雅號。 宋 蘇轍 《林筍復生》詩:“偶然雷雨一尺深,知為南園眾君子。”參見“ 君子竹 ”。
百科解釋: “君子”觀念在中國各家中,“君子”一語,廣見于先秦典籍,在先秦典籍中多指“君王之子”,著重強調政治地位的崇高。而后孔子為“君子”一詞賦予了道德的含義,自此,“君子”一詞有了德性。《易經》《詩經》《尚書》廣泛使用。《周易·乾》:“九三,君子終日乾乾,夕惕若,厲無咎。”《詩經·周南·關雎》:“窈窕淑女,君子好逑。”《尚書·虞書·大禹謨》:“君子在野,小人在位。”
網路解釋:
  1. noble man

宮崎市定『論語の新研究』

宮崎市定
論語には非常に屢々、君子という言葉が出てくる。ところが従来の解釈では、これがあまりにも意味が明白と思われたせいか、殆んど意に介されず、全書を通じて同じ訳語で押通されているようである。ここで我々にとって問題なのは、中国の学者が果たしてどこまで同じ君子という言葉について、多用のニュアンスを感知しているのだろうか、という疑問である。なまじいに同種同文などと言われ、本当はそうでなくても、兎も角も同じ漢字を共通に使用し、漢語はそのままである程度までは日本語としても通用しているため、我々はこういう問題になると反って戸惑いを感じざるを得ない。私がこれから問題にしようとする君子という言葉のニュアンスについて、或いは中国人ならば、言うを要せずに自明の理であるかも知れない。併し日本人の読者にとっては、矢張り分析的に順序を追って説明しなければ、論語の親切な解釈とは言えぬであろう。…

結論から言うと論語の君子には、四種類の意味、乃至はニュアンスがあるのである。第一は原義であって、君子とは身分ある男子、為政者、指導者の階層の者をさす。そしてこの場合、屢々被治者、下層の者の小人と相対して用いられる。…

そこで君子をジェントルマンと英訳することが行われるが、確かに上流階級のジェントルマンに相違なく、同時にそれが教養ある紳士でもあった。そこで君子もまた有徳者として、無徳者の小人に対比される。これが第二の用法である。…

論語の中には有徳者の呼称として、他に聖人、仁者、仁人など多くの名が現れるが、どうもその間に格差がつけられているらしい。聖人は超人的な存在で、遠い過去には存在したが当世においては殆んど見当たらぬもの。仁者、仁人は精進の窮極において到達し得る理想的存在であるが、これも容易に発見することの出来ぬもの。但し単なる仁という形容ならば、孔子はあまり拘泥せずに用いた場合もあるのではないかと思われる。これに反して君子は修養によって到達し得る人格者で、現に孔子の周囲にも君子と呼ばれた人が存在した。…

そこで孔子の弟子たちに対する教育にあっては、最後の理想は仁者になることであったが、当面の目標としては君子になることを勧めた。そこから第三の用法が生ずるのであって、論語の中において君子云云という句が現れるとき多くの場合、その真意は対話者に対する希望、乃至は婉曲なる指示であるらしい。従ってこれに対比される小人云云は、禁止を意味するのである。

子曰く、君子は義にさとり、小人は利に喩る。(論語里仁篇16

これを有徳者は正義に敏感であり、無徳者は利に敏感である、と訳しても意味は通ずる。但しこの場合、孔子の発言の目的は決して、君子と小人とに定義を与えるにあるのではない。孔子の教育は飽迄、実践にある。故にこの意味は、望ましい人間のあり方は、正義に敏感なことである、と言うのである。更に一層直接的に言えば、諸君は正義に敏感であって欲しい、利益には鈍感な方がよい、と弟子たちに注文を発したと見るべきである。

こういう要求の方法は、現在でも小児に対して用いられることがある。子供のいたずらを止めようとする時に、好い児はいたずらしません、と言う。これは別に好い児の定義を与えているのではない。この言葉の裏には三段論法が含まれている。好い児はいたずらしない。お前は好い児である。故にお前がいたずらするのは相応しくない。結局、いたずらするな、という禁止の要求を婉曲に表現したものに他ならない。

君子云云、小人云云という表現は論語の至る所に見出される。私の翻訳はそういう際には成るべく直接的な効果を覘って、諸君は云云して欲しい、と訳するのが常例である。その方が孔子発言の趣旨に叶っていると信じたのであるが、同時にそれは君子という言葉の持つ第四の意味に連絡させる目的をも蔵しているのである。

君子という言葉が対話者に対する要求を含んで発せられる事実から、更に進んで、別に要求することなくして対話者を指すに用いられることがある。言いかえれば第二人称として用いられるのである。こういう点について、漢文を自国語とする中国人は、或いはニュアンスとして無自覚のうちに理解しているのかも知れないが、併し意識してそのように説明されたのに出会ったことはない。また日本人の解釈でも、はっきりそう指摘した例を私は知らない。ところが論語の中では、君子という言葉を二人称に訳さないと意味の通らない場合が実際にあるのである。

子、九夷に居らんと欲す。或るひと曰く、陋なる、これを如何せん。子曰く、君子これに居らば、何の陋なることかこれあらん。(論語子罕篇14

この君子を以て、古来文字通りに有徳者と訳そうとするので、それならいったいそれは誰かという問題が生ずる。古注に引かれた馬融の言では、

君子は居る所の者皆化するなり。

とあるから、君子を以て孔子と解しているに違いない。併し孔子が自ら君子を以て任ずることは、どう考えても不自然である。そこでこの場合の君子とは、九夷、すなわち東夷の国の土着人をさすので、東夷はいわゆる君子国であるから、陋とは言えないという解釈である。これは清人の翟灝てきこうに発し、伊藤仁斎が力説した所であるが、中国人の言う君子は、中国的教養を治めた文化人のことであるから、質朴を尊ぶ異国人はそれが如何に紳士的であっても孔子から君子と言われることは考えられない。

このところ、文中の君子は単なる二人称に過ぎないのである。君子これに居らば、諸君が行ってくれるなら、諸君と一緒ならば、の意であり、事実孔子は諸国を遍歴するに、常に弟子等を伴ったのであって、孔子が東夷の国に移住しようというのは、もちろん戯言であるには違いないが、行くならば諸君と一緒だ、と言ったのは当然である。諸君と苦楽を共にするならば、何の陋かこれあらん、で立派に意味が通ずる。いな、ここは諸君云云と訳さなければ意味が通じないのである。

『学研漢和大字典』

  1. 徳の高いりっぱな人。《対語》小人。「子曰君子周而不比、小人比而不周=子曰はく君子は周して比せず、小人は比して周せず」〔論語・為政〕
  2. 位・官職の高い人。「君子終日乾乾」〔易経・乾〕
  3. 「君主①」と同じ。国をおさめる長。天子*。〔論語・顔淵〕
  4. 妻が夫を呼ぶことば。「未見君子憂心獣獣=いまだ君子を見ざれば憂ひの心の獣獣たり」〔詩経・召南・草虫〕
  5. 君主・主君のそばに仕える人。
  6. 学問や修養にこころざす人。
  7. 梅・竹・蘭(ラン)・菊・蓮(ハス)など、気品のある植物のこと。

*「天子」の言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。

『字通』

「君子」はもと貴族の男子を言う。のち才徳ある人をいう。〔論語、述而〕聖人は吾得て之れを見ざるも、君子者を見るを得ば、斯ち可なり。

『大漢和辞典』

  1. 徳の高いりっぱな人。《対語》小人。「子曰君子周而不比、小人比而不周=子曰はく君子は周して比せず、小人は比して周せず」〔論語・為政〕
  2. 位・官職の高い人。「君子終日乾乾」〔易経・乾〕
  3. 「君主」と同じ。〔論語・顔淵〕
  4. 妻が夫を呼ぶことば。「未見君子憂心獣獣=いまだ君子を見ざれば憂ひの心の獣獣たり」〔詩経・召南・草虫〕
  5. 君主・主君のそばに仕える人。
  6. 学問や修養にこころざす人。
  7. 梅・竹・蘭(ラン)・菊・蓮(ハス)など、気品のある植物のこと。

君子 大漢和辞典
君子 大漢和辞典
君子 大漢和辞典
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君子 大漢和辞典
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君子 大漢和辞典
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君子 大漢和辞典
君子 大漢和辞典
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君子 大漢和辞典 君子 大漢和辞典

参考文献

高橋均”論語にみえる「君子」について”1969-09-20、漢文學會々報28、p13-21。

論語解説
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