論語研究の定本『論語之研究』
皆さんこんにちは。アシスタントAIのカーラです。今回は論語の各篇について、その成立年代を解説します。
現伝の論語は、一度に少数の人物によって編纂されたものでないことは明らかです。語っている内容、用いられた文字や語法などから、篇ごと章ごとに相当のブレがあることを見て取れるからです。実際、論語がいっぺんに出来たことを支持する学者をほとんど聞きません。
この問題について現在日本の学界の定説は、武内義雄『論語之研究』に記された説です。そこでまず紹介されるのは、論語に注を付けた何晏・皇侃が付けた序に記された記事です。論語の成立過程まとめでもお話ししましたが、古論語から魯・斉二論語が生まれたのですね。
誤解の無いようにつけ加えると、ここで言う斉論語・魯論語は古論語を隷書体に書き写す過程で生まれた異本で、もとは同じ古論語です。しかし古論語以前に、各地に分派した孔子一門の派閥が、それぞれの論語を残したと言います。つまり戦国時代の原・論語です。
中でも斉に活動の舞台を移した孔子の高弟・子貢の派閥と、魯国に残った曽子の派閥は有力でした。従って古論語の枝分かれである魯論語・斉論語の他に、原・魯論語、原・斉論語があったとされます。それらは滅びたはずでしたが、現伝の論語にもその影響があるというのです。
『論語之研究』(以下『研究』)の結論はそれが前提です。その論をたどってみましょう。
王充『論衡』と『漢書』芸文志
孔子先生の旧宅から古論語が掘り出される前の状況を伝えるのが、後漢の王充が記した『論衡』正説篇の一記事です。『研究』でも言及されているように、現伝の文は誤字と歯抜けの多いかなりの悪文ですが、まずはそれを読んでみましょう。
(原文)
《論〔語〕》者,皆知說文解語而已,不知《論語》本幾何篇;但〔知〕周以八寸為尺,不知《論語》所獨一尺之意。
夫《論語》者、弟子共紀孔子之言行,勑(=初)記之時甚多,數十百篇,以八寸為尺,紀之約省(=者),懷持之便也。以其遺非經,傳文紀識恐忘,故以但八寸尺,不二尺四寸也。漢興失亡。
至武帝發取孔子壁中古文,得二十一篇,齊、魯二,河間九篇,三十篇。至昭帝女(=始)讀二十一篇。宣帝下太常博士,時尚稱書難曉,名之曰傳;後更隸寫以傳誦。
初,孔子孫孔安國以教魯人扶卿,官至荊州剌史,始曰《論語》。
今時稱《論語》二十篇,又失齊、魯、河間九篇。本三十篇,分布亡失;或二十一篇。目或多或少,文讚(=語)或是或誤。說《論語》者,但知以剝(=訓)解之問,以纖微之難,不知存問本根篇數章目。溫故知新,可以為師;今不知古,稱師如何?
(書き下し)
『論語』なるものは、皆文を説き語を解くを知るのみ。『論語』もといかばかりの篇なるかを知らず。但し周は八寸を以て尺と為すを知るも、『論語』独り一尺の意とする所を知らず。
それ『論語』は、弟子共に孔子之言行を紀す。初めて之を記せし時甚だ多く、數十百篇なり。八寸を以て尺を為し、之を紀すに約なるは、懷に持つ之便なれば也。其れ遺すを以て經とせ非るも、文を傳えて紀し識すは忘るるを恐るればなり、故に但だ八寸を以て尺とし、二尺四寸とせ不る也。漢興るや失われて亡べり。
武帝に至りて孔子の壁中に古文を發き取り、二十一篇を得たり。齊、魯二と、河間九篇あり、三十篇なり。昭帝に至りて始めて二十一篇を讀む。宣帝、太常博士に下すも、時に尚お書曉り難しと稱し、之を名づけて傳と曰う。後更に隸に寫して以て傳え誦む。
初め孔子の孫孔安國以て魯人扶卿に教え、官は荊州剌史に至り、始めて『論語』と曰う。
今の時『論語』二十篇と稱し、又た齊、魯、河間九篇を失う。本と三十篇は、分れ布りて亡び失わる。或るもの二十一篇たり。目は或いは多く或いは少し。文語或いは是しく或いは誤てり。『論語』を說く者、但だ以て訓解之問い、以て纖微之難しきを知るも、本と根の篇數章目を問うに存るを知らず。溫故知新、以て師為る可きに、今古えを知らず、師と稱すは如何。
(現代語訳)
論語については、学者もその言葉の意味を解説できるだけで、元々何編あったかは知らない。周代に八寸を一尺(竹簡一枚の長さ)としたことは知っていても、論語の原本が、竹札一枚の長さを八寸に揃えてあったことを知らない。
そもそも論語は、弟子が集まって孔子の言葉と行動を記した本だ。初めて記録したときには、たいそう多くて数十数百の篇があった。竹簡の長さを八寸にし、言葉を短く記したのは、持ち運びの便利さを考えたからだ。ただし儒教の根本経典ではなかった。それでも書かれたのは、孔子その人の言葉や行動が忘れ去られるのを恐れたからだ。だから二尺四寸ではなく、八寸の札に書いた。しかしそれも漢が成立するときに失われてしまった。
武帝の時代になって、孔子の旧宅の壁から古文で書かれた本が二十一篇見つかった。斉魯二篇と河間本とを合わせて九篇有り、合計三十篇になった。昭帝の時代になって(古論語)二十一篇がやっと解読された。宣帝の時代になって、太常博士に講義を命じたが、やはり難しいと言った。その頃は論語を伝と呼んだ。その後古論語の古文を隷書に書き写し、伝えて声を出して読むようになった。
古論語を初めて解読したのは、孔子の子孫・孔安国で、それを魯扶卿に教えて、官職が荊州剌史までになった時、初めて『論語』と呼ぶようになった。
今では論語を二十篇といい、斉・魯・河間本は失われてしまった。もとあった三十篇は、ばらばらになって失われてしまった。残った本は、ある本では二十一篇ある。またそれぞれの本によって、項目が多かったり少なかったりし、文字も正しかったり間違っていたりする。
今日の論語学者は、解読の問いや微妙な意味の問いには答えるが、根本の篇や章の数を調べようとはしない。「温故知新、それなら師匠となれる」と論語が言うのに、論語の今と昔を知らないで、学者を名乗るのはいかがなものか。
数百年前に失われた論語の古い姿を、なぜ王充が知っているのかという事に目をつぶれば、以下のことがわかります。
- 論語はもと、数百篇もあった。
- 持ち運びに便利なように、短く簡潔に書いた。しかし漢成立までの楚漢戦争で失われた。
- 武帝の時代に、古論語二十一篇が見つかった。それ以外に、魯斉二篇本と河間七篇本もあった。
- 古論語は孔安国が解読し、古文を隷書に書き換えた。
- 後漢の時代まで生き残ったのは、二十篇本のほか、ばらばらになった諸本。
また「古文…二十一篇を得たり。齊、魯二と、河間九篇あり、三十篇なり」の解釈ですが、『研究』では古論語=二十一篇は書かれた通りですが、30-21=9の解釈について、斉魯本が二篇、河間本は七篇だと言います。「九篇あり」は斉魯本+河間本だと言うわけですね。
さてもう一つ、前漢時代の論語の状況を伝える史料に、後漢時代に編纂された歴史書、『漢書』の芸文志の記述があります。論語に関わる部分を読んでみましょう。
(原文)
論語古二十一篇。齊二十二篇。魯二十篇,傳十九篇。齊說二十九篇。魯夏侯說二十一篇。魯安昌侯說二十一篇。魯王駿說二十篇。燕傳說三卷。議奏十八篇。孔子家語二十七卷。孔子三朝七篇。孔子徒人圖法二卷。凡論語十二家,二百二十九篇。論語者,孔子應答弟子時人及弟子相與言而接聞於夫子之語也。當時弟子各有所記。夫子既卒,門人相與輯而論篹,故謂之論語。漢興,有齊、魯之說。傳齊論者,昌邑中尉王吉、少府宋畸、御史大夫貢禹、尚書令五鹿充宗、膠東庸生,唯王陽名家。傳魯論語者,常山都尉龔奮、長信少府夏侯勝、丞相韋賢、魯扶卿、前將軍蕭望之、安昌侯張禹,皆名家。張氏最後而行於世。
(書き下し)
論語は古(論語)二十一篇。斉(論語)二十二篇。魯(論語)二十篇あるも、十九篇を伝う。斉説二十九篇。魯夏侯説二十一篇。魯安昌侯説二十一篇。魯王駿説二十篇。燕傳説三卷。議奏十八篇。孔子家語二十七巻。孔子三朝七篇。孔子徒人図法二巻。凡そ論語は十二家、二百二十九篇あり。
論語は、孔子の弟子と応答し、時に人及び弟子相い与に言いて夫子之語を接して聞ける也。当時弟子各の記す所有り。夫子既に卒して、門人相い与に輯めて論じ篹む、故に之を論語と謂う。漢興るや、斉・魯之説有り。斉論を伝うる者は、昌邑中尉の王吉、少府の宋畸、御史大夫の貢禹、尚書令の五鹿充宗、膠東の庸生なるも、唯だ王陽のみ名家なり。魯論語を伝うる者は、常山都尉の龔奮、長信少府の夏侯勝、丞相の韋賢、魯の扶卿、前將軍の蕭望之、安昌侯の張禹ありて、皆な名家なり。張氏は最も後にして世に行わる。
(現代語訳)
漢書の編者・班固
論語には次のものがある。古論語二十一篇、斉論語二十二篇、魯論語二十篇だが、魯論語のうち十九篇が伝わる。ほかに斉説二十九篇、魯夏侯説二十一篇、魯安昌侯説二十一篇、魯王駿説二十篇、燕傳説三卷、議奏十八篇、孔子家語二十七巻、孔子三朝七篇、孔子徒人図法二巻があって、論語を伝える学派は全部で十二家、二百二十九篇ある。
論語は、孔子が弟子と問答したり、あるいは弟子以外の人と話したり、弟子同士問答したりした言葉だが、孔子先生の言葉を直に聞いたものである。当時は弟子が各自メモを持っていた。先生が亡くなって、弟子が集まってメモについて議論しながらまとめた。だから論語という。
漢が興ったとき、斉・魯の論語があった。斉論語を伝える者は、昌邑中尉の王吉、少府の宋畸、御史大夫の貢禹、尚書令の五鹿充宗、膠東の庸生だったが、王陽だけが名高かった。魯論語を伝える者は、常山都尉の龔奮、長信少府の夏侯勝、丞相の韋賢、魯の扶卿、前將軍の蕭望之、安昌侯の張禹がいて、みな名高かった。そのうち張氏は最も後代の人で、その説が世間に広まった。
張禹は、論語の成立過程まとめですでに説明したように、皇帝の家庭教師だった人です。現伝の論語はその本の末裔と言われるのですが、それ以外は、現在では跡形もなくなりました。滅びてしまった論語の異説や異聞が、こんなに沢山あったのですね。
また論語をなぜ論語というかは、この『漢書』芸文志では「弟子が議論しながらまとめたからだ」と言っています。その当否についてはいずれ、改めて紹介することにしましょう。
『漢書』芸文志の記述で『研究』が注目したのは、魯論語・斉論語を伝えた学者が、ほぼ武帝以降の時代の人であることです。ここから『研究』は、芸文志が言う魯論語・斉論語は、古論語を隷書に書き写す過程で生まれた異本で、もとは同じであるとします。
この説もまた、学界の定説として受け入れられているようです。
論語各篇の成立:『論語之研究』の結論
以上の情報を元に『研究』は、以下の順で論語の各篇が成立したと言います。
- 魯に残った曽子派による、原・魯論語=河間七篇本。現伝の論語では、為政篇第二~泰伯篇第八まで。
- 斉に移った子貢派による、原・斉論語七篇。現伝の論語では、先進篇第十一~衛霊公篇第十五と、子張篇第十九・堯曰篇第二十。
- 斉魯二派を折衷した、魯で生まれ斉で遊説した孟子派による斉魯二篇本。現伝論語の学而篇第一と郷党篇第十。
- 以上以外の篇、すなわち季氏篇第十六・陽貨篇第十七・微子篇第十八と、現伝堯曰篇から独立していた子張問篇は、後世の付加で、戦国時代~秦漢にかけて成立。
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学而 | 為政 | 里仁 | 八佾 | 公冶長 | 雍也 | 述而 | 泰伯 | 子罕 | 郷党 | 先進 | 顔淵 | 子路 | 憲問 | 衛霊公 | 季氏 | 陽貨 | 微子 | 子張 | 堯曰 | 子張問 | |
七 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ||||||||||||||
斉 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ||||||||||||||
二 | ○ | ○ | |||||||||||||||||||
後 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ||||||||||||||||
上論 | 下論 |
このように結論を出したことについて、『研究』は以下を指摘します。
- 最も古い河間七篇本では、孔子の理想は魯国の開祖周公で、礼楽の形より心を重んじた。従って教説の中心である仁の定義も忠恕にあるという。
- 次に古い斉論語では、礼楽の形が重んじられた。だから仁の定義は「克己復礼」になっている。仁の実践についても、衛霊公篇で恕を言うのみで忠が抜けている。
- 時代が下った斉魯二篇本では、七篇本を承けて忠と信が重んじられる一方で、斉論語を承けて礼の形、その実践例を郷党篇で示すようになった。
- 秦漢まで下る後世の付加部分は、雑多で特徴を表しがたい。ただし季氏篇・子張問篇は説明が形式的になって精神性が薄い。微子篇には道家の影響が強い。
- なお子罕篇は、河間七篇本と斉魯二篇本が合冊されたのちに加えられ、古論語の前半を形成した。その篇の順序を変えて、郷党篇を最後に持ってきたのが、現伝の論語前半=上論。
- 上論の後ろに原・斉論語七篇と後世の付け足し三篇が加わったのが、現伝の論語後半=下論。
論語各篇の成立:訳者の見解
ここで訳者の見解を紹介します。
訳者は『研究』を尊重しつつも、子罕篇が新しいというのには疑問を感じています。子罕篇は孔子最晩年の言葉と様子を伝える篇で、ブッダで言えば『大般涅槃経』(中村元『ブッダ最後の旅』)に当たる部分と思われます。つまり開祖の逝去伝説です。
早くは和辻哲郎が指摘したように、世界宗教の開祖のなかで孔子は、その死が教えに特別な意味を持たせていないことで特徴的です(『孔子』)。しかし弟子や後継者にとっては、孔子の死は特別な意味を持って当然で、その記録は早くに作られておかしくないはずです。
また子罕篇は、泰伯篇と並んで孔子一門と呉国との関係を窺わせる章が多く、この二篇は孔子帰国から死去までの伝記として、一続きではないかと思わせます。もし泰伯篇が最古なら、子罕篇も古いと言うべきではないでしょうか?
確かに子罕篇の「罕」という字は秦漢帝国以降の篆書にしか見られず、孔子在世当時にあった言葉でない可能性があります。ただし子罕篇の中で、冒頭の「子罕言利與命與仁」章は、内容的にそれ以降とのつながりがなく、とってつけたように感じられます。
また泰伯篇は、やはり唐突の感がある曽子の言葉を取り除くと、半ばを過ぎるまで、孔子と呉国の使節との接待場面と思われます。となると、もとは泰伯篇と子罕篇は同一の篇だったのが、曽子の言葉や後世の堯舜賛歌がつけ加えられて、二篇に分かれたのではないでしょうか。
史料が言う通り、また『研究』が認める通り、現伝堯曰篇からかつて独立していた子張問篇は、二百字程度に過ぎません。つまり古い時代、新しくとも戦国時代までの原・論語では、一篇はもっと短かったはずなのです。
前漢武帝の時代、いわゆる儒教の国教化がありました。その政策の中で、教えの開祖である孔子について詳しく知ろうとする需要は高まっていたはずです。そこで当時の儒者たちはその使命感もあって、せっせと各種の孔子伝説を、論語に書き加えていったと思われます。
おそらくその付加は、全篇にわたって行われたでしょう。白川静『孔子伝』に言うように、論語の言葉の史実性は、各章ごとに行わねばならないのはこのためです。単に河間七篇本や原・斉論語に当たる章だけが古い、従って孔子の肉声に近いとは言えないのです。
ここで原・魯論語である七篇本に、孔子の伝記として帰国後の話しかないのには理由があります。魯で留守を守っていた曽子たちは年が若く、孔子の放浪には同行できなかったからです。年齢に異説のある有若も、孔子帰国前に魯で徴兵されたらしき記録が『左伝』にあります。
つまり有若もまた旅には同行しなかった、いや、出来なかったのです。対して下論が孔子の若年時の話(例:斉景公との対話)から亡命中の話(例:衛君子を待たばの章)、さらに晩年の顔回死去ばなしまで長い時間軸を語っているのは、年長の子貢一派ならではの記述です。
また堯曰篇が、七篇本に次ぐ古さを持つ原・斉論語とするのにも疑問を感じます。子張問章と最終章を除く堯曰篇は、明らかに儒家の系統が堯舜より続く最古の伝統を持つことを宣言する内容であり、道家が老子を持ち出して、その古さを誇った事への対抗と思われるからです。
堯曰篇が古論語に含まれていたという史料を信用するなら、その成立は戦国時代より後には下りませんが、荘子が老子を持ち出した戦国中期より古いこともないでしょう。つまり堯曰篇は、戦国後半、それもおそらく末期の成立と思われるのです。
あるいは古論語の編者は、荀子かその周辺ではないでしょうか。
そして『研究』が指摘する、「忠恕」は孔子の生前には無い言葉です。これらの漢字が現れるのは、孔子没後百年以上後の、戦国時代以降でした。伝承ではなく、当時の文字が刻まれたり鋳込まれたりした物証が、「忠恕」ともに孔子の生きた春秋時代から出土しないからです。
『研究』の研究は、根本的に見直すべきではないでしょうか。
以上が訳者の見解ではありますが、あくまでも私見に過ぎません。ご承知置き下さい。長々とお読み下さり、ありがとうございました。
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