論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「溫故而知新、可以爲師矣。」
校訂
定州竹簡論語
……「溫故而智a新,可以為師矣。」16
- 智、今本作「知」。古「知」、「智」通。
→子曰、「溫故而智新、可以為師矣。」
復元白文
※溫→(甲骨文)・矣→已。
書き下し
子曰く、故きを溫し而新しきを智らば、以て師爲る可き矣。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
先生が言った。古い常識を風呂に入るようにすっかり洗い落とし、新しい情報を知っているなら、それでやっと教師稼業が務まる。
意訳
古い常識を、綺麗さっぱり捨て去った上で、新しい学問に通じるなら、それでやっと教師稼業が務まる。
従来訳
先師がいわれた。――
「古きものを愛護しつつ新しき知識を求める人であれば、人を導く資格がある。」
現代中国での解釈例
孔子說:「溫習舊知識時,能有新收穫,就可以做老師了。」」
孔子が言った。「古い知識を実践する時に、新しい発見ができるなら、それでもう教師になってしまえる。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
溫(温)
(甲骨文)
論語の本章では”洗い落とす”。カールグレン上古音はʔwən。同音に𥁕(カールグレン上古音不明)を部品とする文字群。
従来の解釈では”習熟する”。従って「たずねる」という読みが出来る。『大漢和辞典』の第一義は”温める・暖まる”。じわじわと温めること。この文字は論語時代に通用した金文では見つかっていないが、それより古い甲骨文が発掘されているので、孔子在世当時に存在した。
「水」「人」「皿」(甲骨文)
藤堂・白川両博士もこの漢字を、鍋に蓋をして下からゆるゆる温める姿とみるが、平明に見ればそれは間違いで、この甲骨文は人を火あぶりにする姿で無ければ、水+人+皿(平らな風呂桶)の”風呂”の象形。それゆえ『大漢和辞典』にも、「温」に”いでゆ”の語釈を載せる。
両博士の誤読の理由は、甲骨文が入手できなかったからだろう。その証拠に『学研漢和大字典』も『字通』も、篆書しか参照していない。
「温」は『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、𥁕(オン)は、ふたをうつぶせて皿の中に物を入れたさまを描いた象形文字。熱が発散せぬよう、中に熱気をこもらせること。溫は「水+〔音符〕掬」で、水気が中にこもって、むっとあたたかいこと。
蘊(ウン)(こもる)・煴(くすべてあたためる)と同系のことば。また鬱(ウツ)(中にこもる)はその語尾がtに転じたことば、という。詳細は論語語釈「温」を参照。なお武内本は「温は習熟の意」という。
故
(金文)
論語の本章では、”旧来の学問”。『大漢和辞典』の第一義は”もと・むかし”。攵(のぶん)は”行為”を意味する。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、古は、かたくなった頭骨、またはかたいかぶとを描いた象形文字。故は「攴(動詞の記号)+〔音符〕古」で、かたまって固定した事実になること。
また、すでにかたまって確立した前提をふまえて、「そのことから」とつなげるので「ゆえに」という意の接続詞となる。固(かたい)・個(かたまった物体)などと同系のことば、という。詳細は論語語釈「故」を参照。
以(イ)
論語の本章では、前句を受ける接続詞。漢文では、通常「以」の指示する内容は後ろに来るが、論語の本章のように前の句を丸ごと受けることがある。
溫故而知新、可以爲師矣。
(温故知新ならば)以て師となることが出来るのだ。
この場合は接続詞と解し、”だから・それで・そして”などの意。
『学研漢和大字典』によると「以」は会意兼形声文字で、「手または人+(音符)耜(シ)(すき)の略体」。手で道具を用いて仕事をするの意を示す。何かを用いて工作をやるの意を含む、…を、…で、…でもってなどの意を示す前置詞となった、という。詳細は論語語釈「以」を参照。
矣(イ)
(金文)
論語の本章では、人の振り返った姿の象形で、断定を意味する。孔子在世当時に無い字だが、恐らく当時は「已」と書かれていただろう。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、何よりまず革命家だった孔子の、面目躍如たる発言。社会の底辺、それも孤児の身の上から宰相格まで上り詰めた孔子は、当時の秩序の破壊者だった。だからこそ故国を追われ、諸国でもつまはじきされて、放浪するハメになった。ここを見逃すと論語は読めない。
論語の本章の「温」を”旧来の学問を究める”と解したのは漢代の儒者だが、それは彼らの金儲けのためだった。旧来の学問に誰より通じていたのは、他ならぬ儒者だったからだ。古い情報を偽造までして独占した儒者は、自分らの宣伝に余念が無かった。その必要があったからだ。
前漢では武帝の時代にいわゆる儒教の国教化が行われたが、まだ他学派も力を持っていた。武帝没後に重臣の霍光は、独裁権を握るため、後世の文革のようなことをやらかした。ハナタレ坊主に過ぎない若い儒者を、帝国全土から呼び寄せて気勢を上げたのだ。
だが儒家に属さない重臣の桑弘羊に、ハナタレどもは一喝されてしまった。これが『塩鉄論』である。その様子を、のちの宣帝はじっと見ていた。だから即位後、儒者を「古証文を真理であるかのように言いふらしているうつけ者」(『漢書』元帝紀)と罵倒した。
既存の論語本では吉川本に、「歴史に習熟し、そこから煮詰めたスープのように智恵をまず獲得する。そうしてかく歴史による知恵を持っているばかりでなく、あるいは持っていることによって、新しきを知る、現実の問題を認識する、それでこそ人の教師となれる」とある。
また王充の『論衡』はさらに意味を広げて、「古きを知りて今を知らざる、これを陸沈という、歴史を知って現実を知らない者は、陸上での沈没だ。今を知りて古きを知らざる、これを盲瞽という。現実を知って歴史を知らない者は、盲だ。故きを温ねて新しきを知りてこそ、以て師とたるべし。古きも今も知らずして、師と称するは何ぞや」とあるという。
その『論衡』正論篇全文の原文・書き下し・現代語訳は、論語各篇の成立年代に掲載したので、興味のある方は参照して頂きたい。ただ希代のうつけだった吉川の見解は、例によって儒者のコピペに過ぎず、自分の考えを言っていない。おそらくは何も考えていないのだろう。
古注『論語集解義疏』
此章明為師之難也溫温燖也故謂所學已得之事也所學已得者則溫燖之不使忘失此是月無忘其所能也新謂即時所學新得者也知新謂日知其所亡也若學能日知所亡月無忘所能此乃可為人師也
この章は、教師に相応しい人間であることの困難を言っている。温とは温め直すことである。一度学んだ知識を、温め直すように常に復習して手入れすれば、忘れるという事が無い。これを”月ごとに身につけた知識を忘れない”というのである。新とは新たに得た知識のことである。知新とは、日々の記憶喪失を取り戻す行為である。毎日これに努めて、毎月忘れるという事から逃れ得たら、他人の教師になれるのである。
新注『論語集注』
言學能時習舊聞,而每有新得,則所學在我,而其應不窮,故可以為人師。若夫記問之學,則無得於心,而所知有限,故學記譏其「不足以為人師」,正與此意互相發也。
朱子「学習に当たって、時々過去の情報を習い覚え、そのたびごとに新しい発見があるなら、それは自分を教師に学んでいるということに他ならず、それゆえに行き詰まることが無いから、他人の教師になれるのである。ただチクチクと暗記に励むだけでは、心に気付きという事が無い。だから知識に限りが出来てしまうので、『学記』はそれをたしなめて、”他人の教師になる資格が無い”と言ったのだ。このこころに同意する者なら、互いに啓発し合えることだろう。
その儒者も、古注については論語子張篇5で石頭の子夏が言ったとされる説教、「日に其の亡き所を知り」の尻馬に乗っているだけ。こういうのを何というのだろうか。いわゆる「キ○タマを握り合っている」というやつではなかろうか。
今はどうか知らないが、訳者の学生時代までは、何十年前作かと思われる講義ノートを、ただ音読するだけで学生の眠気を誘う教授はむしろ普通だった。それなりに意気ごんで上京してきた学生は、こんな下らない学校に試験受けてまで入るんじゃなかった、と思ったものだ。
対して孔子は論語のあちこちに見られるように、当時の平均寿命である三十代を超え四十代になっても、新しい知識を貪欲に学ぶ人だった(論語述而篇16など)。孔子の見聞範囲は論語時代の貴族としては広い方だが、中国全土を股に掛けた弟子の子貢ほどではなかったはず。
しかしその子貢が、孔子没後に至るまで師を敬い、くさす人物には食ってかかったのが論語から分かる(論語顔淵篇8など)。子貢の言では、孔子は日月ほども高い存在で、その学識は自分には到底及ばないという。そう言わせるだけの勉強を、孔子が止めなかったからだろう。
論語を読んでいると、礼法や古典など、孔子がいわゆる文系知識だけを教えたように思いがちだが、同時代史料にまで視野を及ぼすと、論語時代としては文理両方に通じた教養人であり、その博物学的知識は外国使節をも驚かせている(『史記』)。専門バカではなかったのだ。
実際孔子は、自分が多芸なのを半ばさげすみつつも、専門バカにはならないと明言している(論語憲問篇34)。弟子に厳しい要求をするからには、自分にもまた厳しくなければならないと思っていただろうし、そうでなければドライな中国人のことだから、弟子は逃げただろう。