PRあり

論語詳解023為政篇第二(7)子游孝を問う’

論語為政篇(7)要約:子游シユウはのちに冠婚葬祭業者の大親分になった、孔子先生の若い弟子。親孝行を問われた先生は、カタチも大事だがココロも大事じゃよと、本当に愛情の通い合う孝行の道を、分かりやすいたとえで説いたのでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子游問孝子曰今之孝者是謂能養至於犬馬皆能有養不敬何以別乎

※「敬」のへんは「茍」、くさかんむりの中央が途切れ「卝」形。

校訂

東洋文庫蔵清家本

子游問孝/子曰今之孝者是謂能養至於犬馬皆能有養不敬何以別

後漢熹平石経

…㕥別

定州竹簡論語

游問[孝。子曰:「今之孝者],是謂能養。至於犬馬,皆10[養。不敬,何以?a」11

  1. 阮本「別」下有「乎」字、漢石経無「乎」字、与此同。

標点文

子游問孝。子曰、「今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文游 金文問 金文孝 金文 子 金文曰 金文 今 金文之 金文孝 金文者 金文 是 金文謂 金文能 金文養 金文 至 金文於 金文犬 金文馬 金文 皆 金文能 金文有 金文養 金文 不 金文敬 金文 何 金文以 金文𠔁 甲骨文

※別→𠔁(甲骨文)。論語の本章は、「問」「養」「何」の用法に疑問がある。

書き下し

子游しいうこのゐやふ。いはく、いまこのゐややしなふにあたふをふ。いぬむまいたるまで、みなやしなるにあたふ。ゐやまらば、なんもっわかたんや。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
子游シユウが孝を問うた。先生が言った。「今の孝行は親を養う能があることを言う。犬や馬に至るまで、みな養えるのがいるだろう。敬わなければ何がそれで区別するだろうか。」

意訳

子游 孔子 ぼんやり
今日びの孝行は、老いた親を養えばそれでいいと思っている。犬や馬でもやりそうなことだ。敬意がこもっていなければ、区別がつかんじゃないか。

従来訳

下村湖人
子游(しゆう)が孝の道を先師にたずねた。先師がこたえられた。――
「現今では、親に衣食の不自由をさせなければ、それが孝行だとされているようだが、それだけのことなら、犬や馬を飼う場合にもやることだ。もし敬うということがなかつたら、両者に何の区別があろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子游問孝,孔子說:「現在的孝順,衹是能贍養老人。即使是犬馬,都會得到飼養。不敬重,有何區別?」

中国哲学書電子化計画

子游が孝を問うた。孔子が言った。「現在の孝行は、ただ老人を養えることでしかない。たとえ犬や馬だろうが、どれも飼い養うことはやれる。尊敬しなければ、何の区別があるだろうか?」

論語:語釈


子游(シユウ)

子游
BC506 – BC443?。孔子の弟子。姓は言、名はエン。文学(古典研究)の才を孔子に評価された。孔門十哲のひとりだが、ヤラセも辞さない、やや如何わしい弟子で、孔子没後は葬祭業のボスになったらしい。

子游の「游」は”水にプカプカ浮かぶ”で、本名の「偃」に”水を防ぎ止める”の意味があるので、それに呼応したあざ名だが、名乗りはお堅いがやることはちゃらんぽらんだ、という隠された意味を想像させる。中国儒者は、「游」の略体「斿」が、「偃」と同音だというが、真に受けない方がよさそうだ。詳細は論語の人物:言偃子游を参照。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」の初出は甲骨文。原義は産まれたばかりの子供の姿。詳細は論語語釈「子」を参照。

游 甲骨文 游 字解
「斿」(甲骨文)

「游」は”水の上にプカプカ浮かんで遊ぶ”・”どこかへ行く”こと。初出は甲骨文。ただし字形は「ユウ」で、「遊」と共有。子が旗を立てて道を行くさまで、原義は”遊びに出ること”。現行字体の初出は春秋早期の金文。さんずいが加わって、”水で遊ぶ”こと、すなわち”水泳”を意味した。上古音の同音は「」。金文では”遊ぶ”を意味し、戦国の竹簡では原義で用いられ、漢代の帛書では「流」の字で”泳ぐ”を意味したという。詳細は論語語釈「游」を参照。

問(ブン)

問 甲骨文 問 字解
(甲骨文)

論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。

孝(コウ)

孝 甲骨文 孝 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”年下の年上に向けた付き合い方”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。

子曰(シエツ)(し、いわく)

君子 諸君 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いまどきの”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味したという(訓匜・西周末期/集成10285)。詳細は論語語釈「今」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では、助詞のような働きをし”…は”。上の文句を「それは」と、特に提示することば。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では「~これ…」と読み、”~は…だ”と訳す。認定の意を示す。英語のbe動詞にあたる。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”そう思う・こう考える”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。『学研漢和大字典』によると、胃は、「まるい胃袋の中に食べたものが点々と入っているさま+肉」で、まるい胃袋のこと。謂は、「言+〔音符〕胃」の会意兼形声文字で、何かをめぐって、ものをいうこと、という。詳細は論語語釈「謂」を参照。

能(ドウ)

能 甲骨文 能 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。

座敷わらし おじゃる公家
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。

「是謂能養」句では「養」が「能」なのだから、「よくやしなう」”養う事が出来る”。「皆能有養」句では、「有」が「能」なのだから、「有る(こと)あたう」”存在or事実があり得る”。「皆よく養う有らん」のたぐいの訓読は誤り。

養(ヨウ)

養 甲骨文 養 字解
(甲骨文・金文)

論語の本章では、”やしなう”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「羊」+「コン」”つえ”+「又」”手”で、羊を放牧して養うこと。原義は”牧羊”。現行字体の初出は秦系戦国文字。字形は「𦍌」”ヒツジ”+「食」で、ヒツジを飼って暮らすこと。詳細は論語語釈「養」を参照。

善 字解
論語時代の中国王朝、周の王室は、もと西の辺境で羊を飼って暮らしていた部族と言われ、このため漢字には「美」や「善」のように、羊を好ましいものとして扱った文字が多い。

至(シ)

至 金文 至 字解
(金文)

論語の本章では接続詞の”いたるまで”。初出は甲骨文。字形は「矢」+「一」で、矢が到達した位置を示し、原義は”いたる”。甲骨文では原義の他、祭礼の名を意味した。金文では「致」の字が派生し、原義のほか人名、伝達、また武勇を意味した。ただし「致」の字は「至」とは別の字体で、すでに甲骨文が比定されている。詳細は論語語釈「至」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

犬馬(ケンバ)

論語の本章では”犬や馬”。

犬も馬も論語の時代、主要な役畜・食用畜産動物として、牛・羊・豚・鶏と共に六畜の中に入っている。犬は猟犬・番犬としての利用の他に、さかんに食用にも供せられ、祭祀の際には天を感応させることの出来る、重要な家畜として扱われた。

犬 甲骨文 犬 字解
「犬」(甲骨文)

「犬」の初出は甲骨文。字形はいぬの姿を描いた象形で、原義は動物の”いぬ”。「漢語多功能字庫」によると、甲骨文では原義のほか諸侯国の名、また「多犬」は狩りの勢子を意味した。金文では原義に用いた。詳細は論語語釈「犬」を参照。

馬 甲骨文 馬 字解
「馬」(甲骨文)

「馬」の初出は甲骨文。初出は甲骨文。「メ」は呉音。「マ」は唐音。字形はうまを描いた象形で、原義は動物の”うま”。甲骨文では原義のほか、諸侯国の名に、また「多馬」は厩役人を意味した。金文では原義のほか、「馬乘」で四頭立ての戦車を意味し、「司馬」の語も見られるが、”厩役人”なのか”将軍”なのか明確でない。戦国の竹簡での「司馬」は、”将軍”と解してよい。詳細は論語語釈「馬」を参照。

皆(カイ)

皆 甲骨文 皆 字解
(甲骨文)

論語の本章では”どれもすべて”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。上古音の同音は存在しない。字形は「虎」+「𠙵」”口”で、虎の数が一頭の字形と二頭の字形がある。後者の字形が現行字体に繋がる。原義は不明。金文からは虎が人に置き換わる。「ジュウ」”人々”+「𠙵」”口”で、やはり原義は不明。甲骨文・金文から”みな”の用例がある。詳細は論語語釈「皆」を参照。

有(ユウ)

有 甲骨文 有 字解
(甲骨文)

論語の本章では、「或」と同様、”~するものがある”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。金文以降、「月」”にく”を手に取った形に描かれた。原義は”手にする”。原義は腕で”抱える”さま。甲骨文から”ある”・”手に入れる”の語義を、春秋末期までの金文に”存在する”・”所有する”の語義を確認できる。詳細は論語語釈「有」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

敬(ケイ)

敬 甲骨文 敬 字解
(甲骨文)

論語の本章では”敬う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。

何(カ)

何 甲骨文 何 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。

以(イ)

以 甲骨文 以 字解
(甲骨文)

論語の本章では”用いる”→”~で”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

別*(ヘツ)

別 秦系戦国文字 別 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”区別する”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文とされるが現行字形と共通するのは「刀」=「刂」のみ。金文は未発掘で、事実上の初出は戦国末期の秦系戦国文字。甲骨文とされる字形は左右逆Z字形+「刂」”かたな”で、逆Z字形を中国の漢学界では「冎」”ほね”だとする。根拠は不明。甲骨文の逆Z字形は2例あるが、どちらも断片で文として解釈出来ず、「国学大師」では釈文していない。秦系戦国文字の字形は農具のスキ+「刀」で、スキで地面を切り分けるさま。「ベツ」は慣用音、「ベチ」は呉音。戦国の竹簡では”分ける”・”分かれる”の意に用いた。論語時代の置換候補は漢音で同音同訓の「𠔁」。詳細は論語語釈「別」を参照。

乎(コ)

現伝論語とその祖本である唐石経は「乎」字を記すが、日本伝承の清家本、唐石経に先行する漢石経・定州竹簡論語は記さない。これに従って無いものとして校訂した。詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

句の先頭に疑問辞「何」があるので、疑問の意を表すためなら「乎」を必要としない。唐代の中国語では四言絶句が流行ったように、「何以別」の三字句では収まりが悪く感じたらしい。

乎 甲骨文 乎 字解
(甲骨文)

「乎」は論語の本章では、”~じゃないか”と訳し、「はぁ」という詠歎を示す。文末・句末におかれる。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

検証

論語の本章は、よく似た話が曽子の言葉として前漢ごろ成立の『小載礼記』に出てくる。

曾子曰:「孝子之養老也,樂其心不違其志,樂其耳目,安其寢處,以其飲食忠養之孝子之身終,終身也者,非終父母之身,終其身也;是故父母之所愛亦愛之,父母之所敬亦敬之,至於犬馬盡然,而況於人乎!」

曽子
曽子が言った。「孝行者が親を養うにあたっては、親の願いを何でも叶え、見たいものを見せ聞きたいことを聞かせ、心地よい寝床をしつらえて、飲み食いを整えて孝行者としての道を全うする。生涯をそうして送るのは、父母の死去で終わるのではなく、没後も自分が死ぬまで続けるのである。だから父母が好むものは自分も好み、父母が敬うものは自分も敬う。犬や馬だってそうするのだから、人間ならなおさらだ。」(『小載礼記』内則48)

恐るべき奴隷根性といってよい。孔子の弟子としての曽子はニセモノだから(論語の人物・曾参子輿を参照)、この言葉そのものが前漢あたりの儒者の贋作だが、実は論語の本章とどちらが古いのか、断定することは難しい。この『礼記』が元ネタかも知れないでのある。

だが論語の本章に出てきたブツとしての文字は、一応春秋時代まで遡れるから、ひとまずホンモノとして取り扱う。ただし訳者の心証としては、金文「別」の字の不在や、用例に如何わしいところがボコボコある本章が、孔子と子游の実の対話だったとは疑わしい。

解説

宮崎市定
従来訳のような「人が家畜を飼うのと同じだ」について、既存の論語本では宮崎本に、動物がその親を養うことを「妖怪話めいている」と言う。しかしそれなら記述は「皆能養」で済むはずで、「皆能有養」と「有」を入れたのは、「そのようなものが存在しうる」ということ。

古代中国のインテリの間では、妙なラノベが流行っていて、例えばカラスは親孝行な鳥だという。「烏は、孝鳥」と『論衡』指瑞篇に言い、『説文解字』は烏の字を解説して、「孝鳥なり」という。妖怪話を真に受けたか、少なくともそのふりだけはしていたわけ。

有
至於犬馬、皆能養。

犬や馬だろうと、どちらも養うこと(or個体)が有り得る。

従って「犬馬を飼う場合にもある」ではなく、「犬馬でも(親を)養うことがある」と解すべき。有の語義は、「事物が形をなしてあること」だし、上掲語釈の通り、「有」”存在する”が「能」”できる・あり得る”なのだから。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰犬以守禦馬以代勞能養人者也一曰人之所養乃能至於犬馬不敬則無以別孟子曰養而不愛豕畜之也愛而不敬獸畜之也

古注 何晏 古注 皇侃
注釈。苞氏「犬は番犬を務めることで、馬は人の代わりに働くことで、人を養うことができる。」
異説「人が養う生き物の範囲は、犬や馬を含めることが出来る。だから敬意が伴わないと、人を養うのも犬や馬を養うのも区別がつかない。」
孟子「養うだけで愛さないのは、豚を飼うのと同然だ。愛しても養わないのは、動物を飼うのと同然だ。」

苞氏が言う「養う」の意味がよく分からない。番をしたり働くことが、衣食住を与えることと同様に、「養う」ことになるのだろうか。それとも番犬や馬車馬にも賃金というものがあり、その稼ぎは人に衣食住を与えるに十分だ、ということだろうか。まさか。

せいぜい、”ためになる・ためにする”程度の意味だろう。

新注『論語集注』

養,謂飲食供奉也。犬馬待人而食,亦若養然。言人畜犬馬,皆能有以養之,若能養其親而敬不至,則與養犬馬者何異。甚言不敬之罪,所以深警之也。胡氏曰:「世俗事親,能養足矣。狎恩恃愛,而不知其漸流於不敬,則非小失也。子游聖門高弟,未必至此,聖人直恐其愛踰於敬,故以是深警發之也。

朱子 新注
養とは、差し上げられた食べ物飲み物のことだ。犬や馬が人に飼われて食べるのは、全く飲食を差し上げられているのと変わらない。

本章で言うのは、人も家畜も犬も馬も、みな互いに養うことがあるが、親を養えるのにもかかわらず、敬意がこもっていないなら、いったい犬や馬を飼うのとどこが違うのか、ということだ。まさしく不敬の罪を述べて、そうした不孝を深く戒めているのだ。

胡氏「世間の常識では、親を養えればそれで十分だと思っている。親子の情愛を当たり前だと勘違いして、だんだんと不敬になっていくのに気付かないのは、ささいな罪だとは言えない。子游は尊い一門の高弟だが、それでもこの境地に至っているとは言い難かった。だから孔子様は、子游の愛情が敬意から懸け離れるのをすぐさま心配して、だからこの言葉で深く戒め、子游の気付かなかった不敬の心を指摘したのだ。」

ごく例外を除いて、一般的に動物は親孝行をしないから、孔子は観察の結果から孝行な犬馬がいる、と言ったのではない。孔子は論語の時代人としては博物学的な動物の知識に長けており、『史記』の記述によると、家畜の管理人としてよく太らせ、その数を増やしたという。
孔子事跡図解(12)

また弟子には詩を学ぶ効用として、動植物の名前が覚えられることを指摘している(論語陽貨篇9)。従って話の弾みで「犬馬だってやりそうなことだ」といったわけ。

なお論語の本章で孝行な犬馬に言及したからと言って、孔子の仁の情けが動物にまで及んでいると解釈するのも誤りで、孔子は動物を、徹頭徹尾利用の対象だと思っていた(論語雍也篇6)。それは濃淡こそあるものの民に対しても同様で、その政治論は民主主義とは関係ない。

余話

犬馬の労

漢籍の中で、論語に次いで「犬馬」と記したのは孔子没後一世紀に生まれた孟子の言行録『孟子』になる。その中で、今にも潰れそうな小国の君主に相談されてこう言っている。

滕文公問曰:「滕,小國也。竭力以事大國,則不得免焉。如之何則可?」
孟子對曰:「昔者大王居邠,狄人侵之。事之以皮幣,不得免焉;事之以犬馬,不得免焉;事之以珠玉,不得免焉。乃屬其耆老而告之曰:『狄人之所欲者,吾土地也。吾聞之也:君子不以其所以養人者害人。二三子何患乎無君?我將去之。』去邠,踰梁山,邑于岐山之下居焉。邠人曰:『仁人也,不可失也。』從之者如歸市。或曰:『世守也,非身之所能為也。效死勿去。』君請擇於斯二者。」


滕文公「滕はあまりに小さくて、できる限りの奉仕を大国に行っても、許して貰えず潰されそうだ。どうすれば良いだろう?」

孟子「むかし周の君主、古公タンは、ヒンの地に住まっていましたが、北から蛮族が押し込んできて、毛皮や絨毯をやったがまだ攻め込み、犬や馬をやったがまだ攻め込み、宝石をやったがまだ攻め込んできました。

そこで長老たちを集めて言うことには、”蛮族が欲しいのは我らの土地だ。君子たる者、自分の領地で民を食わせられないようでは失格だと言う。諸君、ワシが居なくなっても困りはしないだろう? だからワシはこの地を出て行く。”そう言って邠を去り、梁山を越えて、岐山のふもとに新しいまちを構えました。

取り残された邠の人は、”情け深い殿様じゃあ。行ってしまわれてはワシ等が困る。”そう言って古公亶父に従い、あっという間に市場の如く岐山が賑わいました。ですが中には、”先祖代々の土地を、捨てるなんて出来ない。死んだ方がましだ。”と言う者も居ました。

さて殿様、あなたはどちらを選びますか?」(『孟子』梁恵王下22)

これは誘導尋問というもので、「どうにもならないから、周にならって出奔しなさい」とけしかけているのだが、上掲「事之以犬馬」は、時代を考えると「犬や馬のように奉仕する」ではない。馬は騎乗したかも知れないが、おおかたは”取って食うために差し出した”の意。

蛮族だけでなく、太古の昔から中国人は犬を食ってきたし、今でも食っている。食ったことのある中国人に聞くと美味いという。訳者は食いたいとは思わないが、それは現代中国人が生身の肉や魚を食べたがらないのと同じ。ただし明代までは中国人も肉や魚の刺身を食べた。

日本では色んな騒ぎの結果、肉を生で食べることはほぼ不可能になったが、沖縄の伝統料理に山羊(ヒージャー)の刺身があって、訳者は学生時代より好んで食った。他の肉と違って、確かに元気になる気がする。沖縄に旅したときも本場物を食べたが、クセのある味がたまらない。

熊本で馬刺しも食った。清正公よりの名物だそうで、まちの人たちに聞き聞きしながら昼間に頂けるところを探したら、さる居酒屋が昼間に少々店を開け、昼飯を出しているがそこで食べられるという。行って早速注文し、「旅の人かね」とおばさんが笑いながら出してくれた。

また「犬馬の労をとる」という言葉が漢語にあって、”犬や馬のように奴隷奉公する”の意で、「信長の野望」で捕まえた武将が、命乞いにこう言うことがよくあった。そのくせ勝手に兵や鉄砲をかっぱらって他国に出奔したりするので、ぜんぜん当てにならない。

そしてこの語が漢籍に見えるのはかなり新しく、明代ごろ成立の『西遊記』になる。一応戦国時代の成立という事になっている兵法書『六韜』にも見られるが、いつ記されたかは相当に怪しい。

『論語』為政篇:現代語訳・書き下し・原文
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました