論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
季康子問使民敬忠以勸如之何子曰臨之以莊則敬孝慈則忠舉善而敎不能則勸
- 「民」字:「叚」字のへんで記す。唐太宗李世民の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
季康子問使民敬忠以勸如之何/子曰臨之以莊則敬/孝慈則忠/舉善而教不能則勸
後漢熹平石経
…之…
定州竹簡論語
季康子問:「使民敬、忠以[勸,如]之何?」子曰:「臨a之以狀b,則c27……則忠,舉善而教不能,則[勸]。」28
- 皇本「臨」下有「民」字。
- 狀、阮本、皇本皆作「莊」。狀借為莊。
- 皇本「則」字下有「民」字。
標点文
季康子問、「使民敬忠以勸、如之何。」子曰、「臨之以狀則敬、孝慈則忠、舉善而教不能則勸。」
復元白文(論語時代での表記)
忠勸 忠 勸
※狀→莊・慈→字・舉→喬。論語の本章は、「忠」「勸」の字が論語の時代に存在しない。「問」「何」「狀」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
季康子問ふ、民を使て敬忠にして以て勸めしむ、之を何に如かん。子曰く、之に臨むに狀を以ゐば則ち敬、孝慈みならば則ち忠、善きを擧げ而能は不るを教ふらば則ち勸む。
論語:現代日本語訳
逐語訳
季康子が問うた。「民をへりくだらせ素直にしそれでまじめにする、これはどのようにすればいいか。」先生が言った。「これは実践に当たって頼りがいを見せれば必ず敬います。年上も年下もいたわれば言うことを聞きます。有能な者を取り立てて無能な者を教えさせればまじめに働きます。」
意訳
若家老「民を躾けて真面目に働かせるには、どうしたらよいか。」
孔子「民に偉そうにしなされ。震え上がって敬います。老人や子供をいたわりなされ。感激して何でも言うことを聞きます。仕事の出来る者に、出来ない者の教育を任せなされ。みなまじめに働きます。」
従来訳
大夫の季康子がたずねた。――
「人民をしてその支配者に対して敬意と忠誠の念を抱かせ、すすんで善を行わしめるようにするためには、どうしたらいいでしょうか。」
先師はこたえられた。――
「支配者の態度が荘重端正であれば人民は敬意を払います。支配者が親に孝行であり、すべての人に対して慈愛の心があれば、人民は忠誠になります。有徳の人を挙げて、能力の劣った者を教育すれば、人民はおのずから善に励みます。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
季康子問:「怎樣使人尊敬、忠誠、勤勉?」孔子說:「舉止端莊,能贏得尊敬;敬老愛幼,能贏得忠誠;任用賢良、培養人才,能使人勤勉。」
季康子が問うた。「どうすれば、人を尊敬させ、忠誠にさせ、勤勉にさせられるのだろう?」
孔子は言った。「立ち居振る舞いが美しく立派なら、尊敬を勝ち得ます。老人をいたわり子供を愛護すれば、忠誠を勝ち得ます。有能な善人を登用し、人材育成に努めれば、人を勤勉にさせられます。」
論語:語釈
季康子(キコウシ)
?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。BC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢・冉有を用いて国政に当たった。
「季」(甲骨文)
「季」は”末っ子”を意味する。初出は甲骨文。魯の第15代桓公の子に生まれた慶父・叔牙・季友は、長兄の第16代荘公の重臣となり、慶父から孟孫氏(仲孫氏)、叔牙から叔孫氏、季友から季孫氏にそれぞれ分かれた。辞書的には論語語釈「季」を参照。
「康」(甲骨文)
「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”の意で用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。赤子の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いられた。辞書的には論語語釈「子」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
民(ビン)
(甲骨文)
論語の本章では”たみ”。初出は甲骨文。「ミン」は呉音。字形は〔目〕+〔十〕”針”で、視力を奪うさま。甲骨文では”奴隷”を意味し、金文以降になって”たみ”の意となった。唐の太宗李世民のいみ名であることから、避諱して「人」などに書き換えられることがある。唐開成石経の論語では、「叚」字のへんで記すことで避諱している。詳細は論語語釈「民」を参照。
「民をどうすればいいか」と論語の本章で尋ねている季康子は、魯国門閥家老三家=三桓の筆頭・季孫氏の家長で、しかも数代にわたって国政を代行する立場にあった。その季康子が「民」というには、一つには自領の”領民”、もう一つは魯国全体の”臣民”を意味する。
敬(ケイ)
(甲骨文)
論語の本章では”敬う”。初出は甲骨文。ただし「攵」を欠いた形。頭にかぶり物をかぶった人が、ひざまずいてかしこまっている姿。現行字体の初出は西周中期の金文。原義は”つつしむ”。論語の時代までに、”警戒する”・”敬う”の語義があった。詳細は論語語釈「敬」を参照。
忠(チュウ)
「忠」(金文)/「中」(甲骨文)
論語の本章では”忠実”。初出は戦国末期の金文。ほかに戦国時代の竹簡が見られる。字形は「中」+「心」で、「中」に”旗印”の語義があり、一説に原義は上級者の命令に従うこと=”忠実”。ただし『墨子』・『孟子』など、戦国時代以降の文献で、”自分を偽らない”と解すべき例が複数あり、それらが後世の改竄なのか、当時の語義なのかは判然としない。
「忠」が戦国時代になって現れた理由は、諸侯国の戦争が激烈になり、領民に「忠義」をすり込まないと生き残れなくなったため。軍国美談が必要だから、軽々しく「チューコー」を言い回る悪党が世にはびこるのである。詳細は論語語釈「忠」を参照。
もし論語の本章が、季康子と孔子の史実の対話だとすると、「忠」ではなく「中心」となっていただろう。「使民敬忠以勸」は、「民をして敬わしめ心に中り、以て勧むるは」と読み下し、”民に敬いの気を起こさせ、感心させ、それで真面目にするには”と解すべきだろう。
すると孔子の答えも無理が無くなる。「孝慈、則忠」を「孝慈ならば即ち心に中り」と読み下し、”ご家老が身内の老人をいたわり、子供を可愛がれば、民は感心します”と解する。これならあり得る話。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では、「忠以勸」では接続詞で”それで”。前置詞の「…を以て」ではないので、「もて」と訓んで区別する。「以莊」では前置詞または動詞で、”~で”・”…を使って”の意。「もって」「もちいて」と訓む。
初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
勸(カン)
(隷書)
論語の本章では”まじめに働く”こと。他の語義は”つとめる・すすむ・すすめる”。新字体は「勧」。初出は前漢の隷書。論語の時代に存在しない。同音に「巻」(”すすめる”の意なし)とそれを部品に持つ漢字群。『大漢和辞典』に記載された「音カン訓すすめる」はこの字しか無い。部品の「雚」は”こうのとり・こうづる・ががいも”の意でしか載せていない。部品の「力」には”つとめる”の語釈は載るが”つとめさせる・すすめる”の語釈は載らない。使役に読めないことはないが、音がまるで違うし、春秋末期までに”つとめる”の用例が無い。詳細は論語語釈「勧」を参照。
如之何(これをなににしかん)
論語の本章では”これを何のようにすればいいか”。この語義は春秋時代では確認できない。「如何」の間に目的語の「之」を挟んだ形ではなく、「如」-「之何」と解して「これをなににしかん」”それをどのようにすればいいか”の意。漢文でVO1O2と述語動詞のあとに目的語が二つあり、かつ「于」「於」などの間接目的語を示す助辞が無い場合、直接目的語(~を)-間接目的語(~に)の順に並ぶのが通例。
中国語は甲骨文の太古を除き、主語ー述語動詞ー目的語の順だから、「如何」は述語動詞ー目的語、「何如」は主語ー目的語の組み合わせ。どちらもいっしょくたに「いかん」と読んだのは、不真面目なおじゃる公家の怠慢が今なお続いているに過ぎない。
- 「如何」→「何に従うべきか」→”どうしましょう”・”どうして”。
- 「何如」→「何が従っているか」→”どう(なる)でしょう”
「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。
「如」の初出は甲骨文。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
「之」の初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
「何」の初出は甲骨文。原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
使民敬忠以勸如之何
『論語集釋』に言う
文選沈約安陸昭王碑文註引論語「使民以敬如之何」
について、本文は国会図書館蔵だが注の記載が無い。南朝梁の『文選』の注を根拠に校訂する必要は無いだろう。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
なお論語の本章での問い手である季康子は、孔子より一世代は下とは言え、身分は魯国筆頭家老家の当主であり、孔子より高い。これを反映して、論語では殿さまに問われたとき同様、孔子の回答は「孔子對曰」になる例が多い。これを「問い手を敬ったのである」とは論語の前章で朱子がのたもうたご託宣。
- 季康子問、「弟子孰爲好學。」孔子對曰~。(論語先進篇6)*
- 季康子問政於孔子。孔子對曰~。(論語顔淵篇17)°
- 季康子患盜、問於孔子。孔子對曰~。(論語顔淵篇12)*
- 季康子問政於孔子曰~。孔子對曰~。(論語顔淵篇19)’
対して論語の本章のように、「(孔)子曰」と弟子相手のように記している場合もある。
これは帝政期以降に孔子と季康子の地位が逆転したことの反映で、つまり少なくとも帝政期以降にいじくられた文章であることを証している。
臨(リン)
(甲骨文)
論語の本章では”上位者が下位者を見守る”こと。字形は大きな人間が目を見開いて、三人の小人を見下ろしているさま。原義は”下目に見る”・”見守る”。金文では原義に用いられ、戦国の竹簡でも同様。詳細は論語語釈「臨」を参照。
莊(ソウ)→狀(ソウ)
現存最古の論語版本である定州竹簡論語は「狀」と記し、論語の本章について最古の古注本である宮内庁蔵清家本、唐石経とそれを祖本とする現伝論語は「莊」と記す。時系列上より古い定州本に従い校訂した。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では”力強い”。初出は春秋中期の金文。『字通』によると、西周宣王(BC828-BC782)時代の「毛公鼎」に「唯天集厥命」(これてん”おおいに”そのめいをなす)に現れた「」が原字だとする。通説では、「」は「將」だと釈文されている。「ショウ」は呉音。
初出の字形は「爿」”寝床”+「甾」”容器”+「𠙵」”くち”で、何を意味しているのか分からない。金文では諸侯のおくり名として用いた。”おごそか”の意が確認できるのは、新~後漢初期の論語古注まで時代が下る。
註苞氏曰莊嚴也君臨民以嚴則民敬其上也
注釈。包咸「莊とはおごそかの意だ。君主が民衆の前に出るときおごそかであれば、必ず民はその目上を敬うのである。」(『論語集解義疏』)
詳細は論語語釈「荘」を参照。
「狀」(秦系戦国文字)
定州竹簡論語の「狀」の初出は秦系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。新字体は「状」。「ジョウ」は呉音。字形は「爿」”ねどこ”+「犬」で、犬が寝そべったさまを示すのだろうが、明瞭には原義が分からない。戦国の金文では人名に、竹簡では”ものの様子”の意に用いられた。詳細は論語語釈「状」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、「A則B」で”AはBになる”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
「すなわち」と訓む一連の漢字については、漢文読解メモ「すなわち」を参照。
孝(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”年下の年上に向けた敬意”。初出は甲骨文。原義は年長者に対する、年少者の敬意や奉仕。ただしいわゆる”親孝行”の意が確認できるのは、戦国時代以降になる。詳細は論語語釈「孝」を参照。
慈(シ)
(金文)
論語の本章では”いつくしむ・いつくしみ”。年上に対する「孝」と対になり、年下に対する愛情。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。「ジ」は呉音。字形は「茲」”蚕の繭”+「心」で、「茲」には”しげる”の語釈もあり、「滋」の原字。原義は恐らく”慈しみの心”。同音の「字」の原義は”屋根の下で子を大切に育てるさま”であり、論語時代の置換候補。詳細は論語語釈「慈」を参照。
舉(キョ)
「舉」(金文)
論語の本章では”登用する”。新字体は「挙」。初出は戦国末期の金文。論語の時代に存在しない。初出の字形は「與」(与)+「犬」で、犬を犠牲に捧げるさま。原義は恐らく”ささげる”。ただし初出を除く字形は「與」+「手」で、「與」が上下から両腕を出して象牙を受け渡す様だから、さらに「手」を加えたところで、字形からは語義が分からない。論語時代の置換候補は、”あげる”・”あがる”に限り近音の「喬」。また上古音で同音の「居」には”地位に就く”の意がある。詳細は論語語釈「挙」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では、”よい”。道徳的な善人ではなく、技術的な有能者。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
敎(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”教える”。新字体は「教」。台湾と香港では、「教」を正字としている。清家本も「教」と記す。「キョウ」は呉音。字形は「爻」”算木”+「子」+「攴」筆を執った手で、子供に読み書き計算を教えるさま。原義は”おしえる”。甲骨文では地名・人名に用い、春秋の金文では”つたえる”、戦国の金文では原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「教」を参照。
どの字形を正字体として定めるかは、時の権力の都合によることが多い。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えているため、唐石経を訂正しうる。また現存最古の論語本である定州竹簡論語も「教」と記す。
本章もそれに倣って校訂した。ただし、定州本の原簡は非公開で、おそらくすでに失われていると思われるが、他の例から後漢までは「敎」形が見られ、字の来歴からはも「敎」の方がより崩れていないと言える。さらに画数が変わるわけでないし、いわば書き癖の範囲にとどまるため、あまり意味のある事だとも思われない。
『大漢和辞典』は「敎」を正字とし「教」を俗字とする。『学研漢和大字典』は「教」を俗字とし「敎」を旧字とする。
字形 | 敎 | 教 |
unicode | 654E | 6559 |
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲む親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
臨之~則敬~則勸
「臨之~則敬~則勸」を「臨民之~則民敬~則民勸」と記すのは、日本伝承本のうちさらに本願寺坊主の手になる文明本と、それ以降の足利本・根本本だけで、先行する正平本は「則民勸」だけに「民」を足し記している。清家本はいずれも記さない。中国伝承本は全て記さない。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢ごろ成立の『小載礼記』によく似た言葉があるほかは、誰も引用していない。新から後漢初期を生きた包咸が上掲の通り注を付けているし、定州竹簡論語にあるから、前漢前半までに創作されたと見るべきだろう。
解説
吉川本など従来の論語本では「孝慈」を”為政者が自分の子や親を愛すること”と解する向きがあるが、民から見れば、「どうぞご勝手に」であり、あまりに間抜けで聞くに値しない。
”他人の子供や老人をいたわる”と解する方が間抜けの度合いは減るが、これも血も涙もない独裁者が人民をだますためによく使う手であり、その意味で論語の本章を真に受けるのは、どこか頭のおかしい人か、「お前だけそうしろ」と他人に平気で言う図々しい者だけだろう。
前漢時代に儒者が「周代の礼法」としてでっち上げた『小載礼記』は記す。
子言之:「君子之所謂仁者其難乎!《詩》云:『凱弟君子,民之父母。』凱以強教之;弟以說安之。樂而毋荒,有禮而親,威莊而安,孝慈而敬。使民有父之尊,有母之親。如此而後可以為民父母矣,非至德其孰能如此乎?」
孔子先生は言った。「君子の身につけるべき仁とは、そうたやすいものではない。詩経に言う、”にこやかで従順な君子は、民の父母”と。凱とは能力で人を教えること、弟とは喜びで人を安らげることだ。楽しんでもふけらず、折り目正しくても親しみやすい。威厳があってもおだやかであり、子供と老人をいたわってあなどらない。民には父の厳しさと、母の慈しみを思わせる。これらが出来て、やっと民の父母になれるのだ。道徳の極みとしてこれ以上があろうか?」(『小載礼記』表記26)
孔子生前の仁とは、こんな雲を掴むような話でないことは、論語における「仁」を参照。なお前漢の儒者で、司馬遷が教えを受けたという孔安国も注を付けているが、この男は避諱すべき高祖劉邦の「邦」を、平気で記している箇所があるから、存在そのものが如何わしい。
註孔安國曰魯卿季孫肥也康諡也
注釈。孔安国「魯の家老である。季孫肥ともいう。康はおくり名である。」(『論語義疏』)
本章最終句の「舉善而敎不能」とは、いわゆる職業訓練を意味しているかも知れないが、そのような行政が出来るようになるのは、民間からデータを取って報告し、政府から命令を受けて社会に執行する役人集団が出来ていないと不可能だ。だが論語の時代にそんなものはない。
公職とは世襲すべきものであり、それをわずかに崩し始めたのが孔子とその一門で、大部分の役人はやはり世襲だった。漢学教授や政治家を見れば子供にも分かるように、世襲集団は痴呆化するが理の当然であり、その結果春秋諸国が立ちゆかなくなったから、孔子が世に出た。
もちろん社会の底辺出身の孔子が宰相にまでなったについては、官職にある無能もののせいばかりではない。鋳鉄としての鉄器の普及、その結果としての食糧生産の増大、大麦から作るに難しい小麦の普及があった。要するに人の数が増え、さらに贅沢で図々しくなった。
近代の砂糖と同じ麻薬性を、グルテンの多い小麦が持っていたとご理解頂けるだろうか。
だから”威張ってみせる”だけで、論語の時代の民が大人しくなったと考えるのは間が抜けている。『春秋左氏伝』を読む限り、たしかに帝政時代よりは、貴族も庶民も中国人は、まじめで大人しく思えるが、書いてあることがどこまで本当か、分かったものではない。
また論語の本章では、前章の殿様に引き続き、家老まで孔子の弟子のような扱いをしている。「孔子曰」でなく「子曰」となっているのはその証拠だが、家格で言えば季康子は筆頭家老であり、孔子は臨時雇いの相談役に過ぎない。このあたりは江戸の御家人に似ている。
江戸の幕臣のうち、原則として領主である大名と旗本に対し、給与生活者を御家人という。御家人は本来一代限りの臨時雇いで、もとは戦国の世で雑兵として働く徴集・徴募兵だった。江戸期に入ると事実上世襲になったが、あっという間に痴呆化したのは漢学教授と変わらない。
だが江戸人には「家」が重くのしかかっており、無能ばかりだとお家が潰れる。そこで御家人株と言って、御家人になる権利が証券化された。だから才覚のある商人などが身分向上を狙って争って買い、御家人の実子が無能ばかりでも、できのよい養子が家を継いだ。
有名なのが勝海舟の祖父だが、商家でも三井家のように、実子にはあとを継がさないという慣習まであった。封建制と実力主義が、上手い具合に組み合わさっていたのである。孔子もはるか古代で異国の、そうした存在と思えばよい。論語の世界がより想像しやすくなるだろう。
だが季康子を弟子扱いしているのは、同じく家老の孟武伯をそう記す論語為政篇6とは違い、論語を分かりにくくしている。孟孫家は二代前から孔子と関わりが深く、孟武伯にとって孔子は「おじさま」だった。季孫家も孔子と不仲ではなかったが、孟孫家ほどの親密さではない。
論語の本章を創作した漢儒は、不勉強にも程があり、論語先進篇6では同じく季康子との対話でありながら、「孔子曰」と記されていることと、本章との整合を取る必要に気付かなかった。それに孔子は帝国の儒者官僚が思いたがるような、温和であなどりやすい男ではない。
孔子の帰国を哀公と季康子が認めた背景には、当時国威発揚中の呉国の軍事力があった。放浪中の孔子と呉国の関係は深く、つまり孔子は外国軍のヒモ付きで帰国した。だから哀公と季康子にとって煙たくはあっても、イソイソと教えを乞いたくなるような存在ではなかった。
重複を恐れず記せば、呉王夫差は軍を率いて北伐の途中、魯国に立ち寄って牛・羊・豚の焼肉セット百人前(百牢)を出せと強要している。困った魯国は家老を言い訳に立てたが、武力で脅されて聞いて貰えず、やむなく用意したと『春秋左氏伝』哀公七年条にある。
孔子は今で言うアメリカや中国の回し者だろうか。そんなワルい男でもあった。論語の本章、新注は次の通り。
新注『論語集注』
季康子問:「使民敬、忠以勸,如之何?」子曰:「臨之以莊則敬,孝慈則忠,舉善而教不能則勸。」季康子,魯大夫季孫氏,名肥。莊,謂容貌端嚴也。臨民以莊,則民敬於己。孝於親,慈於眾,則民忠於己。善者舉之而不能者教之,則民有所勸而樂於為善。張敬夫曰:「此皆在我所當為,非為欲使民敬忠以勸而為之也。然能如是,則其應蓋有不期然而然者矣。」
本文「季康子問:使民敬、忠以勸,如之何?子曰:臨之以莊則敬,孝慈則忠,舉善而教不能則勸。」
季康子とは、魯の家老の季孫氏であり、いみ名は肥。莊とは、容貌が厳めしいことを言う。民の前で厳めしく振る舞えば、かならず民は厳めしい自分を敬う。親孝行で、民衆を可愛がれば、必ず民は自分に忠義を尽くす。有能な者を昇進させて有能で無い者の教育に充てれば、必ず民はまじめになる場面があり、善行を喜ぶようになる。
張敬夫「この話は全部自分でしたことの結果である。民をおとなしくまじめでよく働くように仕向けた結果ではない。だがこの通りに出来るなら、必ず、たぶん期待しないのにその通りになる。」
「則其應蓋」”必ずそれはまさに多分”とはふざけた言い方にも程がある。こういう宋儒のデタラメについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
自己犠牲は気味悪い
中国人と忠義について、以前帝政時代の例を記した。訳文のみ再掲する。
前漢の文帝が腫れ物を病んだ(古代では死病である)。そこへ側近の鄧通という男が有り難そうに、毎日チュウチュウと膿を吸い取って治療していた。だがまともな脳みそだった文帝は、「何じゃこいつ」と気味が悪くなり、素知らぬ顔をして鄧通に尋ねた。
文帝「天下でもっともワシを愛しているのは何者じゃ?」
鄧通「そりゃあもう皇太子殿下に決まっております。」
(文帝が死んでもよいよう、次代にゴマをすったのである。)
そこで見舞いに訪れた皇太子(のちの景帝。皇太子時代に親戚を双六盤で殴刂殺し、呉楚七国の乱が起きて漢はほろびかけた)に、文帝が「ワシの膿を吸え」と命じた。皇太子はやむなく吸い付いたものの、みるみるうちに嫌な顔をした。(『史記』佞幸列伝4)
これは春秋時代も同様だった。春秋の五覇といえば晋の文公は必ず挙がり、その放浪に付き従った忠臣・介子推の名も必ず伴う。放浪中に飢えた文公に、自分の腿を切り取ってスープを作って差し出したという伝説だが、文公功成って即位後、一人だけ恩賞から漏れたとされる。
そこで介子推の縁者が「放浪の竜を我が身で救った蛇が泣いている」と垂れ幕を都に掲げたので、仕方なく文公は介子推を探したが、綿上という山に籠もって出てこない。いぶり出せば出てくるだろうと火を掛けたら、山が丸焼けになって炭になった介子推が出てきましたとさ。
それで文公以下は泣き、ケチな村の租税を代々介子推の供養料に当て、付近の住民も貰い泣きしたと史書は言う。針小棒大、換骨奪胎の戦国美談とはこういうもので、飢えた時の文公も、自分のもも肉を切り取って差し出した介子推に「なんじゃこいつ」とまともに思ったのだ。
即位後も介子推を忘れたのではなく、あんな奴見るのもキモいと放置したわけ。「隠綿上山中、 焚其山。」と山に火を放ったのも、「焼け死んでくれれば」と思って火を付けたわけで、冷静で温情のかけらも無い。以上は『十八史略』による伝説で、史料によって話が違う。
だがいずれも、介子推が文公に忠義を尽くし、文公即位後に冷遇されたことは共通している。日本でだけ有名な『十八史略』だが、鄭問氏の劇画『東周英雄伝』がそれに拠っているのはなぜだろう? 確かに「仙人になった」などメルヘンが無く、一番絵になる話ではあるのだが。
文公名重耳、獻公之次子也。献公嬖驪姫、殺太子申生、而伐重耳於蒲。重耳出奔、十九年而後反國。嘗餒於曹。介子推割股以食之。及帰賞従亡者、狐偃、趙衰、顚頡、魏犨、而不及子推。子推之従者、懸書宮門曰、「有龍矯矯、頃失其所、五蛇従之、周流天下、龍饑乏食、一蛇刲股、龍返於淵、安其壤土、四蛇入穴、皆有處處、一蛇無穴、號于中野。」公曰、「噫、寡人之過也。」使人求之。不得。隱綿上山中。 焚其山。子推死焉。後人爲之寒食。文公環綿上田封之、號曰介山。
文公は名を重耳といい、献公の次男だった。献公は妾の驪姫を寵愛し、太子の申生を殺し、重耳をその領地の蒲に攻めた。重耳は国を出、十九年過ぎて帰国した。放浪中に曹で飢え、介子推が腿を切り取って食わせた。帰国してから放浪の従者だった、狐偃、趙衰、顚頡、魏犨に褒美を与えた。だが子推には褒美が無かった。子推の家来が宮門にこう書いて貼り出した。「調子に乗った竜が居て、住まいを失った。五匹の蛇が従って、天下を放浪し、竜が食うに困ったので、蛇の一匹が腿を食わせた。竜は住まいに帰り、領地に安住し、四匹の蛇も穴に入り、みな居るべき場所に落ち着いたが、一匹の蛇だけ穴がなく、野原でわあわあ泣いている。」文公は「あ、私の間違いだ」と言った。人をやって介子推を探させたが、見つからない。綿山に隠れたので、その山を焼いた。介子推は死んだ。後世の人が気の毒がり、焼けた日を記念して冷たいものだけ食べた。文公は綿山のふもとを亡き介子推の領地とし、「今日からこの山は介山だ」と言いふらした。(『十八史略』巻一・春秋戦国-晋)
ともあれ閲覧者諸賢には、論語の本章の「忠」の如何わしさをご理解頂きたい。
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