論語時代史料:『史記』原文-書き下し-現代日本語訳
是歲、季武子卒、平子代立。孔子、貧且賤、及長、嘗為季氏史、料量平。嘗為司職吏、而畜蕃息。由是為司空、已而去魯、斥乎齊、逐乎宋衛、困於陳蔡之閒、於是反魯。
是の歳、季武子卒し、平子代わりて立つ。孔子、貧しく且つ賎し。長ずるに及びて、嘗(こころみ)て季子の史と為(な)り、料(ます)量(はかり)平らかなり。嘗て司職の吏と為りて畜蕃(ふ)え息(こ)ゆ。是に由り司空と為る。已(すで)にして魯を去り、斉に斥けられ、宋・衛に逐われ、陳・蔡の間に困(くる)しみ、是に於いて魯に反る。
この年(昭公七年、BC535)、李武子がなくなり、李平子が代わって立った。孔子は貧しく身分が低かった。成長すると、短期間李氏の文書係になり、計量が正しかった。短期間司職の役人になり、家畜が繁殖し太った。これを褒められて土木監督官になった。その後魯を去り、斉では追い出され、宋、衛では追い払われ、陳と蔡の間で包囲され、それで魯に帰った。
孔子長九尺有六寸。人皆謂之長人而異之。魯復善待由是反魯。
孔子は長け、九尺有六寸。人皆之を長人と謂いて之を異(あや)しとなす。魯復た善く待ち、是に由り魯に反(かえ)る。
孔子は身長が216cmあり*、人々はみな「のっぽ」と呼んで珍しがった。魯は今一度孔子に良い待遇を与えたので、魯に帰った。
*春秋の一尺=22.5cmとして計算。
魯南宮敬叔、言魯君曰、「請與孔子適周。」魯君與之一乘車兩馬一豎子、俱適周問禮。蓋見老子云。辭去、而老子送之曰、「吾聞、富貴者送人以財、仁人者送人以言。吾不能富貴、竊仁人之號、送子以言曰、聰明深察而近於死者、好議人者也。博辯廣大危其身者、發人之惡者也。為人子者、毋以有己。為人臣者、毋以有己。」
魯の南宮敬叔、魯君に言いて曰く、「請うらくは孔子と與に周に適かん」と。魯君、之に一乗車、両馬、一豎子を與(あた)う。倶(とも)に周に適(ゆ)きて礼を問う。蓋(けだ)し老子に見(まみ)ゆと云う。辞して去るに、老子、之を送りて曰く、「吾聞く、富貴なる者は人を送るに財を以てし、仁人なる者は人を送るに言を以てす、と。吾、富貴なること能わざるに、仁人の号を窃(ぬす)み、子を送るに言を以てせん、曰く、聡明深察なれども死に近き者は、人を議(かた)るを好む者なり。博弁広大なれども其の身を危くする者は、人の悪を発(あば)く者なり。人の子為(た)る者は、以て己を有する毋(な)かれ、人の臣為る者は、以て己を有する毋かれ」と。
(昭公二十四年、BC518)魯の南宮敬叔が魯公に言った。「孔子とともに周に行かせてください。」魯君はこれに車を一乗、馬を二頭、お付きの少年一人を与えた。
孔子と南宮は周に行き、礼を学んだ。おそらく老子に会うためという。
別れの挨拶に際し、老子が二人を送って言った。「富貴な者は財宝を餞別にし、仁者は言葉を餞別にするという。私は富貴になれないので、仁人の振りをしてお二人に言葉を送ろう。
よいかな、聡明で目端が利くのに死にそうな目に遭うのは、人の悪口を言うからだ。博識で口も回るのに身が危なくなるのは、人の悪事を言いふらすからだ。人の子たる者、その自尊心を捨てよ。人の臣下たる者、その自尊心を捨てよ。」
孔子自周反于魯、弟子稍益進焉。是時也、晉平公淫、六卿擅權、東伐諸侯、楚靈王兵強、陵轢中國、齊大而近於魯。魯小弱、附于楚則晉怒、附于晉則楚來伐、不備於齊、齊師侵魯。
孔子、周自(よ)り魯に反(かえ)りて、弟子稍(ようや)く益々進む。是の時や、晋の平公は淫(みだら)にして、六卿、権を擅(ほしいまま)にし、東のかた諸侯を伐つ。楚の霊王は兵彊(つよ)く、中国を陵轢(しのぎひき)たり。斉は大にして魯に近し。魯は小弱なり、楚に附けば則ち晋怒り、晋に附けば則ち楚、来りて伐つ。斉に備えずんば、斉の師、魯を侵す。
孔子は周より魯に帰ると弟子が徐々に増えた。
この時、晋の平公は怠け者で、六人の家老が権力を欲しいままにし、東の諸侯を浸食した。楚の霊王は兵が強く、中原諸侯国をふみにじった。斉は大きく、魯に近かった。魯は弱小で、楚に附けば晋が怒り、晋に附けば楚が討伐に来た。斉に備えなければ、斉の軍は魯を侵した。
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