PRあり

定州漢墓竹簡『論語』日本語訳

定州漢墓竹簡『論語』は、現存する世界最古の論語のテキストである。それより古いとあるいは称する平壌楽浪地区出土『論語』は、不審が多いのでこのサイトでは扱えない。以下は定州竹簡論語の前書きの翻訳。()内は訳者による注釈。凡例については別ページに訳出した

前言

定州漢墓竹簡は1973年に前漢の中山懐王・劉脩の墓から出土した。その墓の位置は、定州の城門から南西へ4kmの八角廊村で、だいたい前漢の終わりに盗掘された。盗掘者によって墓の中で大火事が起こり、驚いて逃げたので、若干の重要文化財が保存されることになった。これらの竹簡は、墓室の東側にあり、猛火により炭化されたが、それで却って腐らずに残った。ただし盗掘や火災によって、竹簡は重大な損傷を受けた。竹簡はばらばらに散乱して折れ千切れ、炭化によって墨書きが読み取り難くなった。竹簡のまわりには、絹の炭や灰、筆刀、長方形の硯、銅の小さな水差しなどもあった。ここから推察すると、当時の墓の中には、帛書(=絹に記された文書)があっただろう。

1974年6月、発掘主任の劉来成の指導と同意により、竹簡は国家文物局に運ばれて、保護と整理が進められた。1976年6月、文物出版社は、かつて馬王堆帛書の整理に携わった専門家、張政烺、李学勤、顧鉄符、于豪亮先生等を迎えて、定州漢簡の整理に協力した。我が省(=河北省)からは劉来成、信立祥が作業に参加した。まず竹簡に記された文字をカードに抄録し、竹簡一枚にカード一枚で対応させ、順序を整理して番号を付けた。整理作業は、1976年7月の唐山大地震で中止になった。その時の地震の前では、竹簡は慎重に整理され保存されていたのだが、移送後に竹簡を保存してあった木箱は、事情(の貴重さ)が分からない何者か(おそらく当時猛威を振るった紅衛兵)の手によって覆され、竹簡はまたもや散乱し、いくらかの損傷を受けた。

1976年の抄録作業を経て、暫定的に竹簡の中には『論語』『文子』『太公』『󱩾安王朝五鳳二年正月起居記』『日書』があると認められ、時期が確定できる蕭望之等の奏議や、その他孔子と弟子に関わる発言などが記されていると分かった。

1980年4月、国家文物局・古文献研究室の呼びかけにより、李学勤先生が主任となって、定州漢簡の整理は継続されることになった。まず整理されたのは『論語』で、劉来成がカードから論語の部分を選び出し、胡紹衡が現伝の『論語』の篇、章、句に従って並べ直し、現伝の『論語』のどこに当たるかを決定した。のちに劉世枢が竹簡と現伝の『論語』の異同を調査し記録した。引き続いて劉来成が『文子』『太公』『󱩾安王朝五鳳二年正月起居記』『日書』『奏議』、その他孔子と弟子に関わる発言やその他をカードに記録し、竹簡を分類整理し、それぞれの竹簡を復元し、その後『󱩾安王朝五鳳二年正月起居記』のカードについては、六安から長安までの往復の日付の干支に従って順番を決めカードに書き記した。その後、劉世枢がカードと竹簡を比較して校訂を行い、記録した。10月初めになって、劉来成は別の仕事のため、全部の資料を劉世枢、何直剛に預けたので、両者によって整理が続けられた。彼らは『文子』のカードを並べ直し、『文子』から『保傅』『哀公問五義』までのカードと竹簡の異同を検証して記録し、『儒者家言』(と名づけた一連の文書)を整理してまとめ、『文物』1981年8月号に「定簡40号漢墓出土竹簡簡介」、「儒家者言釋文」、「儒家者言略説」などを発表した。これと同時期に張守中が、竹簡のうち判読できる文字をなぞり書きする作業を終えていた。その後ちょっとした理由から、竹簡の整理は一時中断された。1993年、劉来成が『論語』の釋文と校勘記を書き終えた。李学勤先生が監修した。

定州漢簡の出現は国内外の学者の関心を呼び、大勢が一刻も早い公刊を望んだ。国家文物局がこれを重視し、李学勤先生が熱心に運動し、文物出版社が全面協力し、河北省文物局長趙徳潤、河北省文物研究所長謝飛の大きな支持を得て、河北省文物研究所は定州漢簡整理グループを組織し、定州漢簡の整理作業を継続できるよう尽力している。

河北省文物研究所 定州漢簡整理グループ

紹介

定州漢墓竹簡『論語』は、現存する最も古い『論語』の抄本である。最初、『論語』であると判断された竹簡は620枚以上あり、断片も多数あった。簡の長さは16.2cm〔大体当時の7寸に相当する〕、幅0.7cm、一枚に記された文字は19-21字〔繰り返し記号を除く〕、両端と中程を白糸で綴り、その痕跡が残っていた。判読できた文字は全部で7576字、これは現伝の『論語』より二分の一足りない。残された竹簡で最も少なかったのが学而篇で、たった20字しかない。最も多いのは衛霊公篇で、694字あり、現伝『論語』の77%に及ぶ。この定州論語は残巻に過ぎないが、中山懐王劉脩が死んだのは前漢宣帝五鳳三年〔BC55〕であることから、BC55年以前の本であり、当時は論語も『魯論語』『斉論語』『古論語』の三つが伝わっていたとされる。こうした特異性から、論語研究の新材料となった。

『論語』は我が国の儒家の経典の一つである。漢の時代では、子供向けの読み書きの教科書だったし、必ず読むべき経典の一つだった。前漢の時代、『古論語』が世間には伝わらなかったのを除くほか、『魯論語』『斉論語』は、それぞれ伝えられていた。前漢の末、安昌侯張禹が『魯論語』と『斉論語』のいいとこ取りをして、一冊にまとめたので『張侯論』と呼ばれた。後漢末の『熹平石経』、そしてまた今に至るまで伝わった論語は、基本的に『張侯論』である。後漢の末、鄭玄は『張侯論』を材料に『魯論語』『斉論語』の復元を試み、『論語注』を著した。のちの世で論語を研究した学者は、残存した『論語注』に従って三種の論語の違いを考えた。ただし三種の論語はそれぞれが混じり合っており、それぞれの姿を明瞭に示すことは出来なかった。論語は我が国の重要な古典であり経典だったので、伝える学者も非常に多く、各種の版本にも大きな改竄は無かった。しかし全く同じ版本も見られなかった。これは漢代において、別の人物が同じ本を筆写したため、仮借字や略字や誤字脱字が、それぞれ違っていたためである。我々がこうした版本を校訂すると、その中から問題がいくらでも出て来る。現伝する論語の半分程度でも、版本による違いは七百以上に及び、それは釋文のほとんど十分の一を占めている。

『論語』各篇や各章の分け方も、現伝の本には多くの異同がある。定州論語の独自性は、例えば郷党篇の「食うに精を厭わず」から「郷人の飲酒」まで、現伝が全て2、3、5章に分割しているのを、1章にまとめている。「雷風には必ず変える」と「車にのぼらば」の章は、現伝は2章に分けるが、定州論語は1章にまとめている。陽貨篇の「子貢曰く、君子にくむありや」の章は、現伝では独立しているが、定州論語は「子路曰く」とまとめて1章にしている。とりわけ注目すべきは堯曰篇で、現伝は3章に分けるが、定州論語は2章に分ける。現伝の第3章は定州論語の中では、その上に2つの小さな○を付けて間隔を開け、2行の小文字がその下に続き、まるで一段を取って付けたように書いている。篇の題と章や節、字数を記した残簡に、まさに次のように記している。”全部で2章、全部で322字”。これによって堯曰篇が、ただ2章しかなかったと分かる。康有為は『論語注』で、堯曰篇について「魯論語では2章、最後の1章は斉論語である。翟氏灝(翟灝)の『(四書)考異』には、古論語ではこの篇を2つに分け、堯曰篇に1章、子張篇に2章とした」と言った。この最後の1章は、前の1章と間隔が開けられた上に、続けてその後ろにとって付けられたのは、魯論語にはあって、斉論語には無かったからだろうか。それとも古論語の最後の1章なのだろうか。

定州漢墓竹簡論語に記された文字は、(現伝との?)差異が非常に多く、その中には筆写した者が書き落としたものや、略字があるが、その中のいくらかは、元の本をそのままなぞっているだろう。元の本からある違いの中には、書き間違いを反映したものが少なからずあり、だからこそ各種の論語の版本が現れたわけで、そこが学者に対して深い研究課題を提供する。

  • 定州竹簡論語の学而篇には、「貧しくして楽しみ」とあり、「楽」の字の下に「道」の字が無い。現伝の多くには「道」の字があり、康有為は『論語注』で「道の字が無いのは、多分古文だ」と言った。
  • 為政篇の「違う無かれ」は、鄭玄の注では「古文では、毋の字は無と書かれた」となっている。
  • 八佾篇の「彧彧乎として文なる哉」は、『説文解字』段注本では「現伝の論語が郁郁と書いているのは、古文では彧彧だった」という。
  • 公冶長篇の「その賦を治め使むべし」の「賦」は、(陸徳明の)『(経典)釋文』によると、「梁の武帝曰く、魯論語では傅と書いた」。
  • 陽貨篇の「いにしえの矜や廉あり」は『釋文』によると、「魯論語は廉を”貶める”と読んだ」。
  • 天何をか言わん哉」は『釋文』によると、「魯論語は天を夫と書いていた」。
  • にくむこと果敢にして窒る者」は『釋文』によると、「魯論語は窒を室と読んだ」。
  • 述而篇の「以て大過なかるべし」は『釋文』と鄭注によると、「魯論語は易を亦と読んだ」。
  • 誠に弟子学ぶ能わざる也」は鄭注によると、「魯論語では、正を誠と書いた」。
  • 衛霊公篇の「好んで小恵を行う」は『釋文』によると、「魯論語では慧を恵と書いた」。
  • 述而篇の「執礼疾」は、現伝では疾の字が無い。
  • 雍也篇の二つの「斯人也」の間、現伝では「命也夫」の字が無い。

また、現伝とは異なった表現がいくらかある。

(以下作業中)

凡例

(別ページに記載)

釋文

「中国哲学書電子化計画」を参照。

論語解説
スポンサーリンク
九去堂をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました