論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰周監於二代郁郁乎文哉吾從周
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰周監於二代郁〻乎文哉吾從周
※「監」字の上左は〔㠯〕。「唐武騎尉楊寶墓誌」刻。
後漢熹平石経
…於二代郁郁乎…
定州竹簡論語
子曰:「周監於二代,彧彧a乎文哉!吾從周。」50
- 彧彧、阮本作「郁郁」。『汗簡』云、「『古論語』郁作」。『説文』段玉裁注「、古多仮彧字為之。彧者、之隷変。今本『論語』”郁郁乎文哉”、古多作”彧彧”」。
標点文
子曰、「周監於二代、彧彧乎文哉。吾從周。」
復元白文(論語時代での表記)
彧彧
※論語の本章は「彧」の字が論語の時代に存在しない。本章は本章は漢儒による創作である。。
書き下し
子曰く、周は二つの代於監みて、彧彧乎て文す哉。吾は周に從ふと。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「周は夏・殷二代の王朝の事跡を考慮して、草木が茂るように盛んな文化を創り上げた。私は周に従う。」
意訳
かつての夏・殷王朝は、あまりに人を殺しすぎた。そこへいくと我が周は、茂るように盛んな文化を創り上げた。私は周に従う。
従来訳
先師がいわれた。――
「周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「周禮借鑒了夏、商兩朝的禮法,真是豐富多彩啊!我贊同周禮。」
孔子が言った。「周の礼法は夏・殷王朝の礼法を手本として、まことに豊かで多彩だなあ。私は周の礼法に賛同する。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指すが、そうでない例外もある。「子」は生まれたばかりの赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来る事を示す会意文字。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例があるが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。おじゃる公家の昔から、日本の論語業者が世間から金をむしるためのハッタリと見るべきで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
周(シュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”周王朝”の意。初出は甲骨文。極近音に「彫」など。初出は甲骨文。極近音に「彫」など。甲骨文の字形は彫刻のさま。原義は”彫刻”。金文の字形には下に「𠙵」”くち”があるものと、ないものが西周早期から混在している。甲骨文では”周の国”を意味し、金文では加えて原義に、人名・器名に、また”周の宗室”・”周の都”・”玉を刻む”を意味した。それ以外の語義は、出土物からは確認できない。ただし同音から、”おわる”、”掃く・ほうき”、”奴隷・人々”、”祈る(人)”、”捕らえる”の語義はありうる。詳細は論語語釈「周」を参照。
監(カン)
(甲骨文)
論語の本章では”照らし合わせる”。初出は甲骨文。「ケン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「皿」”平たい水器”+”目を見開いた人”で、水鏡をのぞき込む人の姿。原義は”よく見る”。甲骨文では原義・人名に用い、金文では”観察する”、”青銅のタライ”の意に用いた。詳細は論語語釈「監」を参照。
論語の時代は大皿(盤)に入れた水鏡を主に用いた。当時は青銅器時代であり、青銅器は磨いても金色にしかならず反射が悪い。青銅の表面に銀をメッキする手段はあるが、銀はたちまち真っ黒になってしまうし、高価で、柔らかいから磨いているとすり減って、地が出てしまう。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
なお定州竹簡論語よりやや先行する『史記』孔子世家では、「於」を欠いている。現存最古の宋版『史記』もそう記している。下掲右頁中程。ただし略して引用した可能性があるし、最古の宋版『史記』でも古さは清家本とほぼ同じだから、校訂の必要は無いと判断した。
二代(ジタイ)
「二」(甲骨文)/「代」(石鼓文)
論語の本章では、周王朝に先行する夏・殷王朝のこと。
「二」の初出は甲骨文。「ニ」は呉音。「上」「下」字と異なり、上下同じ長さの線を引いた指事文字で、数字の”に”を示す。原義は数字の”に”。甲骨文・金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「二」を参照。
「代」の初出は春秋末期の石鼓文。「ダイ」は呉音。同音に臺(台)とそれを部品とする漢字群。甲骨文では「弋」を「代」の意に用いており、「亻」+「弋」で”人の交替・代理”を意味する。原義は”代わる”。現伝の論語のテキストが固まった唐代、太宗李世民の名を避けて、「世」は「代」と書き換えられた。これを避諱という。ただし前漢宣帝期の定州論語が、すでに「代」となっているので、本章の場合は適用できない。詳細は論語語釈「代」を参照。
孔子の生前、夏王朝は知られていたし、禹王の名も知られていたが、詳細な伝説は創作前だった。漢字の文字史は殷代中期に始まるから、そもそも「夏」王朝は存在しないのだが、その始祖とされる「禹」という文字は殷代からあった。おそらく人名を意味したようだ。
だがそれが、治水を成功させ夏王朝を開いた人物を指す証拠があるわけではない。「夏はあった」と言えば儲かる郭沫若など中共の御用学者が、磨滅した金文を読みたい方向に引きずって解釈して、一生懸命夏王朝の実在を「証明」しようとしているが、信用できるわけがない。
やり口は「消防署の方から来ました」の消化器詐欺と同じで、中世のローマ坊主が、火あぶりの暇に書いた「神の実在についての証明」という論文を、21世紀の今、誰が真に受けるだろう。「禹」の字の文献上の初出は論語だが、論語で「禹」を記した章は全て後世の創作である。
論語語釈「禹」も参照。
禹王を創作したのは、孔子と入れ替わるように春秋末戦国の世を生きた墨子で、儒家に対抗するために、儒家の持ち上げる周の開祖・文王より古い禹王をでっち上げた。
禹王が土木技術に優れていたとされるのはそれゆえで、この墨家の主張に反撃するため、孔子より一世紀のちの孟子が、さらに古い舜王をでっち上げた。その動機の一つは、顧客の斉王家の開祖として舜を創作することで、その家格に箔を付けるためでもあった。
「舜」の初出は戦国文字で、文献上の初出はやはり論語なのだが、無いはずの舜を記していることから、それらの章もまた全てニセモノである。は論語語釈「舜」も参照。
郁*(イク)→彧(イク)
唐石経・清家本は「郁」と記し、定州竹簡論語は「彧」と記す。どちらも文化程度の高さを表現する言葉ではあるが、語義がやや異なる。定州本に従い校訂した。
「郁」(篆書)
「郁」は論語では本章のみに登場。初出は後漢の『説文解字』。後漢になってできた新しい言葉で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。現代中国では「鬱」(初出は甲骨文)の簡体字として用いるが、古代音は同じでない。字形は「有」+「阝」”まち”で、初出の当時は特定の都市名。後に音を借りて”もようのあでやかなさま”を意味するようになったのか、そのような意味を込めて都市名に用いたのか明らかでない。詳細は論語語釈「郁」を参照。
(隷書)
定州竹簡論語の「彧」の初出は定州竹簡論語。前漢ごろに出来た新しい言葉で、論語の時代に存在しない。字形が明らかになった初出は後漢の隷書。論語時代の置換候補もない。同音は無い。近音に「郁」、「鬱」。字形は〔或〕”一定の部分”+〔彡〕”茂み”で、草木の茂った部分をいう。原義は”茂る”。「郁」ʔi̯ŭk(入)とは近音ʔi̯oǔk(入)。詳細は論語語釈「彧」を参照。
前漢で「彧」と書かれたのが南北朝ごろから「郁」と書かれるようになった理由は、「彧」ʔi̯oǔk(入)→「郁」ʔi̯ŭk(入)の空耳アワーであること以外、訳者には考えつかない。この間に編まれた古注は、ただでさえ根拠の無い儒者の自己宣伝ばかりで役に立たないのだが、今回も輪を掛けて役立たない。
古注『論語集解義疏』
子曰周監於二代郁郁乎文哉吾從周註孔安國曰監視也言周文章備於二代當從周也疏子曰至從周云周監於二代郁郁乎文哉者周周代也監視也二代夏殷也郁郁文章明著也言以周世比視於夏殷則周家文章最著明大備也云吾從周者周既極備為教所須故孔子欲從周也
本文「子曰周監於二代郁郁乎文哉吾從周」。
注釈。孔安国(前漢とされる架空の人物)「監とは見つめることである。孔子先生が言うには、周の文化はそれ以前の夏や殷より整っていたので、周に従うのが良いというのである。」
付け足し。皇侃「先生は周に従う理由を言った。周監於二代郁郁乎文哉の、周とは周代である。監は見つめることである。二代とは夏と殷である。郁郁とは文化が明らかで発達していることである。孔子先生の言うには、周の世を夏殷と比べて観察すると、つまり周王室の文化が最も発達史明らかで大いに備わっているというのである。吾從周者とは、周は既に、弟子に教えるべき文化を備え切っているので、だから孔子は周に従うと言ったのである。
(甲骨文)
現代中国語で「郁」の繁体字とされる「鬱」は、初出は甲骨文。字形は「大」”上長”に率いられて「人」”服従者”が、「林」茂みの中に入る姿で、原義は”むせかえるように草木が茂ったさま”。甲骨文ではは地名に、西周早期の金文では、”においの強い”の意に用いた。春秋時代の用例は見られず、戦国時代に再出するが、器名の例が多い。詳細は論語語釈「鬱」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、形容詞・副詞につけて、その状態を示す助辞。”~である”。詠歎の”…だなあ”の派生義と見てよい。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
文(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では「武」に対する「文」で、”学問芸術一般”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。原義は”入れ墨”で、甲骨文や金文では地名・人名の他、”美しい”の例があるが、”文章”の用例は戦国時代の竹簡から。詳細は論語語釈「文」を参照。
哉(サイ)
(金文)
論語の本章では”…だなあ”。詠歎の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
古くは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」(藤堂上古音ŋag)を主格と所有格に用い、「我」(同ŋar)を所有格と目的格に用いた。しかし論語で「我」と「吾」が区別されなくなっているのは、後世の創作が多数含まれているため。論語語釈「我」も参照。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”したがう”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、「周監於二代」が前漢中期の『史記』に再録されるまで、春秋戦国の誰一人引用していない。その後、やはり一部だけの引用なら後漢初期の王充(27-97)による『論衡』にある。
周有郁郁之文者,在百世之末也。漢在百世之後,文論辭說,安得不茂?
周は艶やかな文化を築き、百世のちまで存続している。漢帝国は百世の後にあるからその文化を引き継いでおり、詩文や論文、礼儀の言葉や説得の言葉が、なぜ衰えることがあろうか?(『論衡』超奇14)
ただし記録がもう一つあり、論語の本章をほぼすべて取り込んでいる、後漢後期の蔡邕(133-192)の『蔡中郎集』では、「伝にいわく」となっている(陳太丘碑1)。これは「伝えられた論語によると」の意味なのか、論語以外の「伝によると」の意なのか分からない。
定州竹簡論語に本章が含まれていることから、前者だと割り切って済ませられるが、現伝の論語の成立には、多様な版本が織り交ぜられたことは間違いない。
論語の本章は、史実性の要点となるのが「郁」または「彧」の春秋時代における存在だが、「鬱」”においの強い酒”と繋がりそうで繋がらない。孔子はあるいは別の言葉で周を讃えたかも知れないが、とりあえず後世の創作としておく。
解説
論語の本章に、周が「文なるかな」と讃えられたのには、それなりの理由がある。「二代」のうち夏王朝の詳細は存在の虚実を含めて分からないが、殷は、むやみに異民族を捕らえて、生きギモを取って占いに用いた。
- 「貞多羌獲」貞う、多く羌(異民族の一つ)を獲えんか。(甲骨文合集456.2)
- 「貞用來羌」貞う、来たりし羌を用いんか。(甲骨文合集244)
- 「貞刞百羌」貞う、百の羌を刞さんか。(甲骨文合集308)
- 「貞羌三人卯牢又一牛」貞う、羌三人を卯き又一牛を牢きせんか。(甲骨文合集400.1)
「殷」(甲骨文・金文)
だから殷以外の人々から、「殷」”人の生きギモを取る残忍な奴ら”と呼ばれ、「殷」はどす黒い血の色をも意味した。殷人自身は「商」”偉大な国”と自称しており、殷人が生け贄にした人骨がごろごろと出てくるから、殷墟”殷の滅びた跡”が人々に注目され発掘されるに至った。
だが周王朝になると、生け贄は野蛮だと思われるようになった。
僖公二十一年(BC639)の夏、日照りが続いたので、雨乞いに失敗したこびとのみこを、(魯国公の)僖公は焼き殺そうと考えた。
(家老の)臧文仲「そんなことでは日照りは収まりません。城壁を堅固にして飢えた賊の襲来を防ぎ、食事を質素にして出費を減らし、農耕に力を入れて貧者を励ますのが、当面のやるべき事です。みこなど焼き殺して何になるのですか。天がみこを殺すおつもりなら、今なおのうのうと生きている道理が無いではないですか。」(『春秋左氏伝』)
殿様も腹立ち紛れにみこを焼くと言っただけで、焼けば雨が降るとは思っていない。これが「郁郁乎として文なるかな」で、明るく物理法則にかなったものの考え方が、周代の「文」だった。それなのに同時期、殷の末裔である宋の襄公は、懲りずに生け贄をやらかした。
十九年…宋人執滕宣公。夏宋公使邾文公,用鄫子于次睢之社,欲以屬東夷,司馬子魚曰,古者六畜不相為用,小事不用大牲,而況敢用人乎,祭祀以為人也,民,神之主也,用人,其誰饗之,齊桓公存三亡國,以屬諸侯,義士猶曰薄德,今一會而虐二國之君,又用諸淫昏之鬼,將以求霸,不亦難乎,得死為幸。
僖公十九年(BC641)、宋の襄公が(会盟を宣言し、遅刻した)滕の宣公に、言いがかりを付けて捕らえてしまった。(同じく遅刻して邾人に捕らえられた鄫の殿様について、)夏になると襄公は命令して、宣公とともに「次睢」という霊域で処刑せよと命じた。「東の蛮族どもが恐れおののいて服属するだろう」というのである。宋国軍司令官の子魚が真っ青になっていさめた。
「いにしえの習いでは、犠牲獣は一種類だけと決まっており、つまらぬ事に犠牲は捧げませんでした。人を犠牲にするなどもってのほかです。そもそも祈るということは、人間のために行うのであり、民や神の利益になるから行うのです。そこに人間を犠牲に出したとして、いったいどなた様が召し上がるのですか。
先頃亡くなった斉の桓公さまは、三つの滅びた国を復活させたのに、正義にうるさい貴族の中には、役得尽くだと悪口を言った者がいます。いま殿は、一度の会盟でお二人の国君を生け贄にしようとし、それも如何わしい神霊に差し出そうとしています。それで覇者になりたいおつもりでしょうが、そんなことでなれはしません。今に死んだ方がましだと思うような目に遭いますぞ。」(『春秋左氏伝』)
滕と鄫の殿様が助かったかどうか、史料は沈黙している。
おそらく生け贄にされてしまったのだろう。これを見た春秋諸侯は、襄公を𠮷外だと見なして会盟の呼びかけに応じなくなった。さらに襄公は大国楚にケンカを売って、自分からつまらぬ意地を張って負け、「宋襄の仁」(訳)と後世にまで笑われることになった(泓水の戦い)。
史実の孔子にとっても、周文化の特徴は人間主義で、殷王朝の人身御供は、周ではいやがられるようになった。もっとも動物は盛んに殺して供えているから、現代日本人の感覚から見ればはるかに血なまぐさいが、人殺しが嫌われる程度には、文明的だった。
しかし周辺の異民族を、同じ人間として見るまでには至っていない。中国人は異民族を蛮族と呼び、人間ではなく鳥や獣=禽獣のたぐいだと思っていた。孔子もその例外ではなく、「蛮族に酋長が居ても、君主不在の中華諸国に及ばない」と論語八佾篇5で言っている。
また『字通』によると、漢字の「方」は中国の境界線に異民族を磔にし、見せしめにしたのが語源だという。文献にはあまり現れないが、機械力のない時代には奴隷は有用な農業機械・工作機械だったから、周も奴隷狩りはしただろうし、弱った者はいけにえにもしただろう。
念のために書いておくと、これは現代日本人が論語時代の中国人を、野蛮だといって責めるには当たらない。明治政府はアイヌ民族の虐殺を見て見ぬふりをしたし、昭和前期まで貧民を集めて奴隷にし(タコ部屋労働)、トンネル工事などで平気で人柱として埋め込んだ。
話を論語に戻すと、それでも孔子自身はおそらく、異民族だろうと人身御供を嫌がった。
孔子が言った。「自分のために副葬品を作らせた者は、葬儀の何たるかをきっと知っていたのだろう。作らせても実用品ではなかった」。悲しいことだ、死者が生者の道具を使うとは。生者を殉葬するのとほとんど同じだ。そもそも明器とは、神の明らかに見通す力そのものだ。車のはにわ、お供えのわら人形、これらが昔からあるのは、副葬品のあるべきことわりを示すものだ。だから孔子は言った、「つたないわら人形を作らせた者はよろしい。だが写実的な土人形を作らせた者には仁の心がない。いずれ本物の人を生き埋めにするようになるぞ!」(『礼記』檀弓下)
この孔子の発言が、のちに故事成句となって「俑を作る」という。ただし『礼記』はほぼ漢代儒者の作文で、孔子の発言ではなく、孔子とその生きた時代を理想化し、儒者に都合の良い模範として中国社会に広めるために作られた伝説であることを、割り引いておかねばならない。
余話
一体なに人
前政権の悪口を言って、自分らの正当性を宣伝するのは権力の常で、不思議がるには及ばない。論語の本章はとりあえず史実の孔子の言葉としておくが、それゆえに前政権の悪口に権威を与えもした。だが孔子以前に、前朝の批判が人々によく知られたとされた例がある。
文王曰咨、咨女殷商。
文王曰くああ、ああなんじ殷商よ
人亦有言、顛沛之揭。
人また言う有り、顛沛之揭るとき。
枝葉未有害、本實先撥。
枝葉は未だ害有らざるも、本は實に先ず撥かれり。
殷鑒不遠、在夏后之世。
殷鑒遠からず、夏后之世に在り。
周の初代、文王が言った。「ああ、あなた方殷王朝よ、人も言うだろうに。裾をまくり上げねばならないような洪水の時、大樹の枝葉にはまだ害が無くても、根本はもう流水に掘り尽くされている。殷の鏡として教訓とすべきは、夏王朝の時代に有っただろうに。」(『詩経』大雅・蕩8)
殷を倒して周を立てたのは武王で、その父文王は聖王として周の開祖扱いされている。この歌は「顛沛」がどうやっても春秋時代以前に遡れない事から、戦国時代以降の偽作はほぼ確定だが、「殷鑒(鏡)遠からず」は日本のインテリの間にまで流行した。
おそらくこの詩は、論語里仁篇5が出来てからそれを元に作ったのだろうが、その結果夏末に末喜mwɑt(入)xi̯əɡ(上)、殷末に妲己?(入)ki̯əɡ(上)という妖婦が現れて、夏の桀王・殷の紂王はどちらも酒池肉林の乱痴気騒ぎで滅んだというそっくりな伝説が作り出された。
同様に秦帝国は「周は封建制を取ったから、暴虐な諸侯が身勝手をして民百姓を苦しめた」と碑文に書いて公開した。
六王專倍,貪戾傲猛,率眾自彊。暴虐恣行,負力而驕,數動甲兵。陰通閒使,以事合從,行為辟方。內飾詐謀。
諸侯どもは好き勝手に道徳に背き、贅沢三昧にふけって乱暴を働き、領民を駆り立てて勝手に強がり、どんな残虐でもしないことがなく、武力をいい事におごり高ぶり、気軽に軍隊を出し、間者を諸国に放ち、互いにくっついたり離れたりし、悪いことしかせず、そのくせ自分は正義だと言って領民をたぶらかした。(『史記』始皇帝本紀44)
その秦が滅ぶと楚漢戦争になったが、勝ち残った漢は秦と項羽をまとめて「残忍この上ない」と宣伝した。前漢を乗っ取った王莽が悪口を書く間もなく滅ぶと、後漢は王莽を「ずるくて残忍で狂信者」と言い回った。後漢を滅ぼした晋が悪口を書く間もなく滅び、中国は蛮族の駆け回る五胡十六国時代になって、いずれも悪口を言うひまもなく国が起きては滅んだ。
それを統一した隋が悪口を書く時間もなく滅ぶと、唐は隋の煬帝を史上最悪の暴君と書き立てた。その唐は、朝廷では宦官がはびこり、地方では軍閥がはびこって滅んだのだが、その混乱を収めて再統一した宋は、あまり前朝の悪口を言わなかった。自信があったのかも知れない。
それ以降、明が元を滅ぼし「蛮族を追い払え」、民国が清を滅ぼし「蛮族を追い払え」と同じ事を言い、中共は「愚か者の蒋介石を追い払え」とよく似たことを言った。中共政権が来永劫続くわけが無く、いつか滅ぶのだろうが、どのような悪口を言われるのだろう。
「石を持ち上げて、自分自身の足を打つ」。これは、中国人が一部の愚か者の行為をたとえていった諺である。各国の反動派も、こうした愚か者にほかならない。かれらが革命的人民にくわえているさまざまな迫害は、とどのつまり、人民のいっそう広範な、いっそうはげしい革命をうながすだけである。ツァーと蒋介石が革命的な人民にくわえたさまざまな迫害が、偉大なロシア革命と偉大な中国革命にたいして、そうした促進作用をはたしたのではなかったであろうか。(毛沢東「ソ連最高会議の偉大な十月社会主義革命四十周年祝賀会における講和」一九五七年十一月六日/『毛主席語録』日本語版より)
日本だって他人事ではない。
明治維新の元勲は若造のまま権力を握ってしまい、「幕府は悪だ」と国民に言いふらしはしたが、どうすれば良いか分からない事があると旧幕臣の勝海舟の所へ行って、「お前ェさんがたは知るめぇが、幕府てぇのはこういう仕事もしてたんだぜい」と説教されるのを常とした。
訳者の世代は、ずいぶんと戦前の悪口を吹き込まれたが、身近な戦前人にはそんなにはひどい人を見ず、かえって戦後生まれのDKの方がむしろ平気で残忍なことをした。成長してからはいわゆる左派の者に、「この人本当に日本人なのかしら」と思う事が多くなった。
DKの横暴は治らぬまま死に絶えるのだろうが、「この国は一体なに人の国だ」と思っていたあれこれは、今世紀に入ると消え始めた。多分拉致事件を政府が認めた頃からだったと思う。こういうものは作用反作用の法則が働くから、揺り返しが大きくなければ良いのだが。
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