論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「周監於二代,彧彧a乎文哉!吾從周。」50
- 彧彧、阮本作「郁郁」。『汗簡』云、「『古論語』郁作
」。『説文』段玉裁注「
、古多仮彧字為之。彧者、
之隷変。今本『論語』”郁郁乎文哉”、古多作”彧彧”」。
→子曰、「周監於二代、彧彧乎文哉。吾從周。」
復元白文
※代→弋・郁/彧→鬱。
書き下し
子曰く、周は二代於監みて、彧彧乎て文す哉。吾は周に從ふと。
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逐語訳
先生が言った。「周は夏・殷二代の王朝の事跡を考慮して、匂うようにあでやかな文化を創り上げた。私は周に従う。」
意訳
かつての夏・殷王朝は、あまりに人を殺しすぎた。そこへいくと我が周は、匂うようにあでやかな文化を創り上げた。私は周に従う。
従来訳
先師がいわれた。――
「周の王朝は、夏殷二代の王朝の諸制度を参考にして、すばらしい文化を創造した。私は周の文化に従いたい。」
現代中国での解釈例
孔子說:「周禮借鑒了夏、商兩朝的禮法,真是豐富多彩啊!我贊同周禮。」
孔子が言った。「周の礼法は夏・殷王朝の礼法を手本として、まことに豊かで多彩だなあ。私は周の礼法に賛同する。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
二代
「代」(秦系戦国文字)
論語の本章では、周王朝に先行する夏・殷王朝のこと。「代」の字は秦帝国成立後の文字が初出で、論語の時代には存在しない。論語時代の置換候補は弋。詳細は論語語釈「代」を参照。
現伝の論語のテキストが固まった唐代、太宗李世民の名を避けて、「世」は「代」と書き換えられた。これを避諱という。ただし前漢宣帝期の定州論語が、すでに「代」となっているので、本章の場合は適用できない。
監
(金文)
”下にのぞむ・みはる・かねる”。論語の本章では、水鏡を見下ろすように見ること。論語の時代は大皿(盤)に入れた水鏡を主に用いた。当時は青銅器時代であり、青銅器は磨いても金色にしかならず反射が悪い。
青銅の表面に銀をメッキする手段はあるが、銀はたちまち真っ黒になってしまうし、高価で、柔らかいから磨いているとすり減って、地が出てしまう。
『学研漢和大字典』によると会意文字で、臥(ガ)は「臣(伏せた目)+人」の会意文字で、人がうつぶせになること。監は「皿の上に水+臥」で、大皿に水をはり、その上に伏せて顔をうつしみること。水かがみで、しげしげと姿をみさだめること。鑑(かがみ)と同系のことば、という。

「史墻盤」(シショウバン)西周時代 口径47.3cm重量12.5kg 周原博物館蔵
[会意]臥(が)+皿(べい)。臥は人が臥して下方を視る形。皿は盤。盤水に臨んでその姿を映す意で、いわゆる水鏡(みずかがみ)。すなわち鑑の初文。〔説文〕八上に「下に臨むなり。臥に從ひ、䘓(かん)の省聲」とするが、下は水盤の形。〔詩、小雅、節南山〕「何を以て監(かんが)みざる」、〔詩、大雅、烝民〕「天、有周を監る」のように用いる。金文に「監𤔲(かんし)」(監司)という語があり、もと天より監臨することをいう。〔呉王夫差鑑〕に「自ら御監を作る」とあり、鑑(水鏡)をいう。
郁(イク)→彧
「鬱」(金文)
論語の本章では、”匂うようにあでやかなさま”。現代中国では「郁」を「鬱」(”むらがりしげる・においぐさ”)の簡体字として用い、『大漢和辞典』も「鬱と通じる」という。鬱は嗅覚に関わる美的感触を意味する。
「郁」の初出は後漢の『説文解字』で、論語の時代に存在しない。「国学大師」は甲骨文・金文、共に載せるが「鬱」での書体。カールグレン上古音はʔi̯ŭk。同音は存在しない。
『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、「邑+〔音符〕有(くぎる、かこむ)」。村々の境界がくぎられて数多く並ぶさま、という。
「彧」は『説文解字』にも記載が無く、初出は不明。ただし定州竹簡論語にあったということは、『説文解字』の記載漏れという事になる。
[形声]声符は有(ゆう)。もと地名。〔説文〕六下に「右扶風、郁夷なり」という。彧(いく)・(いく)と通用し、その義に用いる。
乎
論語の本章では、形容詞・副詞につけて、その状態を示す助辞。”…である”。詳細は論語語釈「乎」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章は、孔子の生きた周代のイメージを示す一節。
孔子にとり、周文化の特徴は人間主義で、夏・殷王朝では捕虜や奴隷をむやみに人身御供に供したが、周ではいやがれれた。もっとも動物は盛んに殺して供えているから、現代日本人の感覚から見ればはるかに血なまぐさいが、人殺しが嫌われる程度には、文明的だった。
しかし周辺の異民族を、同じ人間として見るまでには至っていない。中国人は異民族を蛮族と呼び、人間ではなく鳥や獣=禽獣のたぐいだと思っていた。孔子もその例外ではなく、「蛮族に酋長が居ても、君主不在の中華諸国に及ばない」と論語八佾篇5で言っている。
また『字通』によると、漢字の「方」は中国の境界線に異民族を磔にし、見せしめにしたのが語源だという。文献にはあまり現れないが、機械力のない時代には奴隷は有用な農業機械・工作機械だったから、奴隷狩りはしただろうし、弱った者はいけにえにもしただろう。
念のために書いておくと、これは現代日本人が論語時代の中国人を、野蛮だといって責めるには当たらない。明治政府はアイヌ民族の虐殺を見て見ぬふりをしたし、昭和前期まで貧民を集めて奴隷にし(タコ部屋労働)、トンネル工事などで平気で人柱として埋め込んだ。
話を論語に戻すと、それでも孔子自身はおそらく、異民族だろうと人身御供を嫌がった。

孔子が言った。「自分のために副葬品を作らせた者は、葬儀の何たるかをきっと知っていたのだろう。作らせても実用品ではなかった」。悲しいことだ、死者が生者の道具を使うとは。生者を殉葬するのとほとんど同じだ。そもそも明器とは、神の明らかに見通す力そのものだ。車のはにわ、お供えのわら人形、これらが昔からあるのは、副葬品のあるべきことわりを示すものだ。だから孔子は言った、「つたないわら人形を作らせた者はよろしい。だが写実的な土人形を作らせた者には仁の心がない。いずれ本物の人を生き埋めにするようになるぞ!」(『礼記』檀弓下)
この孔子の発言が、のちに故事成句となって「俑を作る」という。『字通』によれば、「殷」の原義は血の色であるように、殷人は現代人が見れば血祭りを喜ぶ未開の蛮族そのものだが、周ではそれをただの人殺しと見るような観念が広まった。明るい世の中になったのだ。
ただし『礼記』はほとんど漢代儒者の作文で、孔子の発言とは言いかねる。つまり孔子とその生きた時代を理想化し、儒者に都合の良い模範として中国社会に広めるために作られた伝説であることを、割り引いておかねばならない。
なお既存の論語本では吉川本に、以下のように記す。

監むとは…前二王朝の姿を観察参考してつくられたとする宋儒の説がやはりよろしいであろう。…もっとも、…二代に監ぶればの意であって…比較すると、と解する説もある。
その「宋儒」が何を言っているか見てみる。

二代とは、夏と殷のことだ。夏と殷の礼法を参考にして足し引きしたことを言ったのだ。郁郁は、文化の盛んな姿のことだ。尹氏曰く、「三代の礼法は周になって大いに完成した。孔子様はその文化らしさを好み、それに従われたのだ。」(『論語集注』)
大した事は言っていない。周でない二代と言えば、夏と殷しかないからだ。吉川の時代には、すでに殷墟が発掘されて、いけにえの骨がゴロゴロ転がっていたことは知られていたはずで、事実として周が殷に比べていかに明るい世の中だったかは容易に想像が付くと思う。
なお論語の本章は、後世の肉声を疑う要素がないが、孔子が「二代」と言っている事から、論語の時代には夏・殷王朝までが知られ、それ以前の堯舜や黄帝や顓頊といった神代の聖王は、まだ創作されていなかったことになる。夏の開祖とされる禹は知っていたかも知れないが、それも現伝のような洪水伝説が当時あったかどうか。
禹はおそらく孔子没後しばらくして世に出た墨子が、自学派の開祖として祭り上げたのであり、それゆえ自学派の得意とする土木技術に長けていたとされた。孔子がもちあげた周公より前に置いたのは、もちろん儒家への対抗のためである。
コメント
[…] 対して周は異民族だろうと、人間をいけにえにするのを嫌ったため、これを孔子は評価して「郁郁乎として文」(論語八佾篇14)と言った。ただし奴隷が廃止されたわけではなく、相変わらず異民族が奴隷として使役されていたことが知られる。 […]
[…] すでに記した話で恐縮だが、「周は二代に鑑みて、郁郁乎として文なるかな。吾は周に従う」(論語八佾篇14)と孔子が言ったのは、前代の殷と違って人身御供をしなかったからで、本章もそれに沿っている。ただし例の笑い話集『笑府』では、遠慮無くからかっている。 […]
[…] とうの昔に、人を供物にする習慣は廃れていた。それまでは「義」の字から独立していない。殷周革命の精華の一つはこの人間主義で、下掲『字通』が「宜」の甲骨文時代の用例として人身御供を記すのに対し、孔子は周の人間主義を讃えた(論語八佾篇14)。 […]