論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
孟武伯問子路仁乎子曰不知也又問子曰由也千乗之國可使治其賦也不知其仁也求也何如子曰求也千室之邑百乗之家可使爲之宰也不知其仁也赤也何如子曰赤也束帶立於朝可使與賓客言也不知其仁也
校訂
東洋文庫蔵清家本
孟武伯問子路仁乎子曰不知也/又問子曰由也千乗之國可使治其賦也/不知其仁也求也何如子曰求也千室之邑百乗之家可使爲之宰也/不知其仁也赤也何如子曰赤也束帶立於朝可使與賓客言也/不知其仁也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子a武伯問:「子路仁乎?」子對b曰:「不智c也。」有d問。子曰:「由也82……之國,可使治其賦e也,不智其仁也。求也f,[千室之邑],83……乘之家,可使為之宰也,不智其仁也。」「赤也[何如]?」84……
- 子、今本作「孟」。
- 對、今本無。
- 智、今本作「知」。※訳者注:𣉻ではなく「智」のママ。
- 有、今本作「又」。
- 賦、『釋文』云、「梁武云”魯論作傅”」。
- 今本「求也」之前有「求也何如子曰」。
標点文
子武伯問、「子路仁乎。」子對曰、「不智也。」有問、子曰、「由也、千乘之國、可使治其賦也。不智其仁也。求也、千室之邑、百乘之家、可使爲之宰也。不智其仁也。」「赤也何如。」子曰、「赤也、束帶立於朝、可使與賓客言也。不知其仁也。」
復元白文(論語時代での表記)
※治→是・仁→(甲骨文)。論語の本章は、「問」「乎」「也」「有」「之」「使」「其」「何」「與」の用法に疑問がある。本章は少なくとも戦国時代以降の儒者による加筆がある。
書き下し
子武伯問ふ、子路仁なる乎。子曰く、智ら不る也。有問ふ。子曰く、由也、千乘之國、其の賦を治め使む可き也、其の仁を智ら不る也。求也、千室之邑、百乘之家、之が宰たら使むべき也、其の仁を智ら不る也。赤也如何ならん。子曰く、赤也、帶束めて朝於立ちて、賓客與言は使むべき也、其の仁を智ら不る也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
子武伯(孟武伯)が問うた。「子路さんは貴族らしいか」。先生が言った。「わかりませんなあ」。また問われたので先生が言った。「由は戦車千乗の国の軍政を司らせる事が出来ますが、貴族らしいかはわかりませんなあ。冉求は世帯千戸のまち、戦車百乗を出せる家の執事なら務まるでしょうが、貴族らしいかは分かりませんなあ」。「公西赤はどうか」。「赤は正装させて朝廷に列席させ、外来の身分ある客・身分無き客の応対は務まるでしょうが、貴族らしいかはわかりませんなあ」。
意訳
若家老「じいさま、これから政界に打って出るのに、お弟子方の力を借りたいのですが。」
孔子「ふむ。子路なら我が国の軍事が、冉求ならお館の執事が、公西赤なら外交官か務まりますな。」
若家老「みなさん、一人前の貴族として通用しますか?」
孔子「はて、それは分かりませんなあ。」
従来訳
孟武伯が先師にたずねた。――
「子路は仁者でございましょうか。」
先師がこたえられた。――
「わかりませぬ。」
孟武伯は、しかし、おしかえしてまた同じことをたずねた。すると先師はいわれた。――
「由は千乗の国の軍事を司るだけの能力はありましょう。しかし仁者といえるかどうかは疑問です。」
「では、求はいかがでしょう。」
先師はこたえられた。――
「求は千戸の邑の代官とか、百乗の家の執事とかいう役目なら十分果せましょう。しかし、仁者といえるかどうかは疑問です。」
「赤はどうでしょう。」
先師はこたえられた。――
「赤は式服をつけ、宮庭において外国の使臣の応接をするのには適しています。しかし、仁者であるかどうかは疑問です。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孟武伯問:「子路的品行到達了仁的境界嗎?」孔子說:「不知道。」又問。孔子說:「子路可以做大將,不知他仁否。「冉求怎樣?」孔子說:「冉求可以當市長,不知他仁否。「公西赤怎樣?」孔子說:「公西赤可以當外長,不知他是仁否。」
孟武伯が問うた。「子路の人柄は仁の境地に至ったと言えるか?」孔子が言った。「知りません。」また問うた。孔子が言った。「子路は軍の大将が務まりますが、仁と言えるか知りません。」「冉求はどうか?」「冉求は市長が務まりまが、仁と言えるか知りません。」「公西赤はどうか?」「公西赤は外相が務まりますが、仁と言えるか知りません。」
論語:語釈
子(孟) 武 伯 問、「子 路 仁 乎。」子 曰、「不 智(知) 也。」又 問、子 曰、「由 也、 千 乘 之 國、可 使 治 其 賦 也。不 智(知) 其 仁 也。(」「求 也 何 如。」子 曰、「)求 也、 千 室 之 邑、 百 乘 之 家、可 使 爲 之 宰 也。不 智(知) 其 仁 也。」「赤 也 何 如。」子 曰、「赤 也、束 帶 立 於 朝、可 使 與 賓 客 言 也。不 智(知) 其 仁 也。」
孟武伯→子武伯
「孟武伯」(金文)
論語では、魯国門閥三家老(三桓)の一家、孟(孫)氏の跡取り息子。姓は姫、氏は仲孫、名は彘。『左伝』によると、BC481に第10代当主となってからはさらに公室への圧力を強め、哀公が「私を殺す気か」と聞いたところ「知りません」と答え、恐れた哀公は国外逃亡して越国で客死した。
孟武伯の父は先代当主の孟懿子であり、孟懿子は孔子と同世代で、孔子の政界入りを後押しした。つまり孟孫家は孔子にとって、恩のある家であり、その部下として働いた主家でもある。武伯にとって孔子は「じいや」であり、孔子にとって武伯は「坊や」だった。
文中、孔子が平然と弟子の子路を「由」と呼び捨てしているのに、門閥家老当主の孟武伯が、「子路」と敬称している。また論語の他の章では、孔子と、殿様・家老との対話で、孔子を孔子と呼んでいる。「子」と敬称しないことで、殿様や家老への敬称を兼ねるとされる。
だから季孫家の若家老である季康子との対話では、「孔子」と記されているのに、本章の孟武伯では「子」と敬称している。これは、孔子と孟武伯との間の、特別に親しい関係を反映しており、若い当主として政界に出るに当たり、武伯が孔子一門の力を借りたかったからだ。
文字的には論語語釈「孟」・論語語釈「武」・論語語釈「伯」を参照。
なお定州竹簡論語の「子武伯」は「武伯」への敬称で、”武伯どの”と言った程度の意味。いずれにせよ孟武伯を意味する。文字的には論語語釈「子」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。西周から春秋に用例が無く、一旦滅んだ漢語である可能性がある。戦国の金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国最末期の竹簡から。それ以前の戦国時代、「昏」または「𦖞」で”問う”を記した。詳細は論語語釈「問」を参照。
子路(シロ)
論語の本章では史料に記録が残る孔子の最初の弟子、仲由子路のこと。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、子路のように学派の弟子や一般貴族は「子○」と呼び、孔子のような学派の開祖や大貴族は「○子」と読んだ。「子」は古くは殷の王族を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
仁(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では、”貴族らしさ”。初出は甲骨文。字形は「亻」”ひと”+「二」”敷物”で、原義は敷物に座った”貴人”。詳細は論語語釈「仁」を参照。
後世の捏造の場合、通説通りの意味。つまり孔子より一世紀のちの孟子が提唱した「仁義」=”情け深さ”の意味。ただしそう解しては、本章が何を言っているかわけワカメになってしまう。門閥の当主である孟武伯にとって、孔子の弟子たちの”情け深さ”など、どうでもいいからだ。詳細は論語における「仁」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…か”。疑問の意を示す。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
知(チ)→智(チ)
「知」(甲骨文)
論語の本章では”認識する”。「知」の現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。現在最古の論語のテキストである、定州漢墓竹簡論語は、「知」を「智」の古書体「𣉻」で書いている。詳細は論語語釈「知」・論語語釈「智」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「や」と読んで主格の強調と、「かな」と読んで詠歎に用いている。詠歎は「なり」と読んで断定に解してもよいが、「なり」の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
又(ユウ)→有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”それでもなお”。初出は甲骨文。字形は右手の象形。甲骨文では祭祀名に用い、”みぎ”、”有る”を意味した。金文では”補佐する”を意味した。詳細は論語語釈「又」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「有」は同音の「又」に通じて”ふたたび”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
由(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では、史料に記録が残る孔子の最初の弟子。本名(いみ名)は仲由、あざなは子路。通説で季路とも言うのは孔子より千年後の儒者の出任せで、信用するに足りない(論語先進篇11語釈)。詳細は論語の人物:仲由子路を参照。
なお「由」の原義は”ともし火の油”。詳細は論語語釈「由」を参照。だが子路の本名の「由」の場合は”経路”を意味し、ゆえにあざ名は呼応して子「路」という。ただし漢字の用法的には怪しく、「由」が”経路”を意味した用例は、戦国時代以降でないと確認できない。
千(セン)
(甲骨文)
論語の本章では、数字の”せん”=1000。初出は甲骨文。字形は「人」+「一」で、原義は”一千”。古代は「人」ȵi̯ĕn(平)で「一千」tsʰien(平)を表した。従って「人」に「三」や「亖」を加えて三千や四千を示した例がある。論語の時代までに、”多い”をも意味するようになった。詳細は論語語釈「千」を参照。
乘(ショウ)
(甲骨文)
「ジョウ」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「乗」。甲骨文の字形は人が木に登ったさまで、原義は”のぼる”。論語の時代までに、原義に加えて人名、”乗る”、馬車の数量詞、数字の”四”に用いられた。詳細は論語語釈「乗」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では「の」と読んで”…の”・「これ」と読んで”その”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”。足を止めたところ。原義は”これ”。”これ”という指示代名詞に用いるのは、音を借りた仮借文字だが、甲骨文から用例がある。”…の”の語義は、春秋早期の金文に用例がある。詳細は論語語釈「之」を参照。
國(コク)
(甲骨文)
論語の本章では”周王を宗主とする諸侯国”。新字体は「国」。初出は甲骨文。字形はバリケード状の仕切り+「口」”人”で、境界の中に人がいるさま。原義は”城郭都市”=邑であり、春秋時代までは、城壁外にまで広い領地を持った”くに”ではない。詳細は論語語釈「国」を参照。
加えて恐らくもとは「邦」と書かれていたはずで、漢帝国になって高祖劉邦のいみ名を避ける(避諱)ため、当時では同義になっていた「國」に書き換えたのが、そのまま元に戻らず現伝していると考えられる。詳細は論語語釈「邦」を参照。
千乘之國
「乗」(金文)
論語では戦車千乗を持つ国。規模中ほどの国。魯国などの中原諸侯国が相当する。『孫子』を真に受けて”大国”と解してはならない。『左伝』では魯国の門閥が、自国を「千乗」と言っている例があるし、千乗程度の動員力はあった。
可(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
使(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”~させる”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「事」と同じで、「口」+「筆」+「手」、口に出した事を書き記すこと、つまり事務。春秋時代までは「吏」と書かれ、”使者(に出す・出る)”の語義が加わった。のち他動詞に転じて、つかう、使役するの意に専用されるようになった。詳細は論語語釈「使」を参照。
治(チ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”管理する”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「是」。「ジ」は呉音。字形は「氵」+「台」で、「台」は「㠯」”すき”+「𠙵」”くち”で、大勢が工具を持って治水をするさま。原義は”ととのえる”。同音や近音には置換候補があるが、春秋時代以前に”おさめる”の用例が確認できない。詳細は論語語釈「治」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”という代名詞。「千乗の国」の言い換え。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
賦(フ)
(金文)
論語の本章では”軍政”。現代人として心を励まして言わねばならないのだが、軍の作戦を司る”軍令”と、軍組織の維持管理を担う”軍政”はまるで別物だ。手っ取り早くいうなら、「賦」とは軍人の名簿記入と、休暇と給与・支給品物資の計量と記帳である。
論語では本章のみに登場。初出は西周末期の金文。同音は「夫」、「斧」、「父」、「傅」”もりやく”。『大漢和辞典』の第一義は”納める”。字形は「貝」”財貨”+「武」で、軍事費のこと。春秋末期までの用例は一例しかなく、その金文では”官吏”(毛公鼎・西周末期)の意に用いた。ただし”租税”や”軍事税”と解せないわけではない。戦国の竹簡では”税”の意に用いた。詳細は論語語釈「賦」を参照。
求(キュウ)
(甲骨文)
論語の本章では孔子の弟子、冉求子有のいみ名。いみ名を呼べるのは目上に限られ、孔子は冉有の師であるゆえに「求」と呼んでいる。同格や目下が呼ぶには、あざ名を用いた。冉求の場合は「子有」。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。論語の時代までに、”求める”・”とがめる””選ぶ”・”祈り求める”の意が確認できる。詳細は論語語釈「求」を参照。
求也何如子曰→×
現行の論語の本章について、中国伝承論語の祖である唐石経、日本伝承論語の祖である清家本では、孔子が子路を評したあと、孟武伯が冉有について「どうでしょう」と問い、孔子は折り返し冉有の評価を語ったことになっている。
対して現存最古の論語本である定州竹簡論語では、孔子は子路評に次いで、問われもしないのに冉有評を始めたことになっている。定州本でも公西華については問→答のやりとりがあるから、おそらく定州本は孟武伯の「求何如」と孔子の「(子)曰」を書き落としているのだろう。
しかし物証は無いから、無いものとして校訂した。
室(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”家族”→”世帯”。初出は甲骨文。同音は「失」のみ。字形は「宀」”屋根”+「矢」+「一」”止まる”で、矢の止まった屋内のさま。原義は人が止まるべき屋内、つまり”うち”・”屋内”。甲骨文では原義に、金文では原義のほか”一族”の意に用いた。戦国時代の金文では、「王室」の語が見える。戦国時時代の竹簡では、原義・”一族”の意に用いた。詳細は論語語釈「室」を参照。
邑(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”都市”。初出は甲骨文。同音に「揖」など。字形は「囗」”城壁”+「㔾」”隷属する人”で、都市国家とその住民のさま”。原義は”都市国家”。「鄕」(郷)と語義が近く、春秋時代の身分制度で言う「卿」は、もと「郷」=「邑」の領主を意味した。詳細は春秋時代の身分制度を参照。甲骨文では原義のほか人名に用い、金文では加えて区画の単位に用いた。詳細は論語語釈「邑」を参照。
千室之邑
論語の本章では”世帯千戸の都市”。”千乗の国”に対して、それには及ばないがほどほどの国、の語意を含む。孔子没後一世紀の孟子は、「万乗の国を滅ぼすのは必ず千乗の領地を持つ家臣で、千乗の国を滅ぼすのは必ず百乗の領地を持つ家臣だ」と言った(『孟子』梁恵王上1)。
戦車一両には三人の乗員が要り、武装兵一人を出すには最低でも三家族が必要になろう。もちろん春秋・戦国を通じて核家族などなく、三家族で足りるはずも無い。孔子が生まれる半世紀弱前、魯の成公元年(BC590)に定められた「丘甲制」での模様を、後世では次の通り解した。
周礼九夫爲井、四井爲邑、四邑爲丘。丘十六井、出戎馬一匹、牛三頭。四丘爲甸、甸六十四井、出長轂一乘、戎馬四匹、牛十二頭、甲士三人、步卒七十二人。
『周礼』では成人男性九人で一井、四井で一邑、四邑で一丘を編成し、丘は十六井になり、軍馬一匹、(荷運びの)牛三頭を供出した。四丘で一甸を編成し、甸は六十四井になり、戦車一両、軍馬四匹、牛十二頭、士分の装甲兵三人、平民の足軽七十二人を供出した。(『春秋左氏伝』成公元年・杜預注)
三国ごろの杜預が春秋時代を見てきたように書いているだけだが、成人男性576人につき戦車1両の軍役だったといい、その程度には戦車には費用がかかった。「千室の邑」と杜預の注の間の数値違いはどうでもいいとして、やっと戦車1両出せるようなまち、という意味だろう。
「甲士」とは鎧兜を自前で用意して参陣する武者で、日本の江戸時代なら旗本以上になる。時代劇の奉行所で、袴を着た与力と、場合により裾からげまでしている同心の違いは、見た目だけで身分がよく分かる一例で、漢語の「卒」は同心よりなお身分が低く、戦時では揃いのはっぴのようなものを着せられる徴集兵、時代劇なら平次親分のような岡っ引きでしかない。
ちなみに現伝の『周礼』では、「四丘で一甸を編成」までしか書いておらず、その後は下記の通り。
四丘為甸,四甸為縣,四縣為都,以任地事而令貢賦,凡稅斂之事。乃分地域而辨其守,施其職而平其政。
四丘で一甸を編成し、四甸で一県を編成し、四県で一都を編成し、その土地の事情に合わせて税や労役を課し、納税の責任については、その地域ごとに負わせ、各官吏の職権で行政を処理させた。(『周礼』地官司徒80)
百(ハク)
(甲骨文)
論語の本章では、数字の”ひゃく”。初出は甲骨文。「ヒャク」は呉音。字形は蚕の繭を描いた象形。「白」と区別するため、「人」形を加えたと思われる。「爪である」という郭沫若(中国漢学界のボスで、中国共産党の御用学者)の説は、でたらめばかり言う男なので信用できない。甲骨文には「白」と同形のもの、上に「一」を足したものが見られる。「白」単独で、”しろい”とともに数字の”ひゃく”を意味したと思われる。詳細は論語語釈「百」を参照。
家(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”一族”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。字形は「宀」”屋根”+〔豕〕”ぶた”で、祭殿に生け贄を供えたさま。原義は”祭殿”。甲骨文には、〔豕〕が「犬」など他の家畜になっているものがある。甲骨文では”祖先祭殿”・”家族”を意味し、金文では”王室”、”世帯”、人名に用いられた。詳細は論語語釈「家」を参照。
百乘之家
論語の本章では、”戦車100両を出せる家”。要するに大貴族の家。
上掲の杜預注や『周礼』などとの数値整合性を考えるのは、それぞれの儒者が、勝手な事を言っているだけだから、考える意味が無い。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”地位に就ける”。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”~になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
宰(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では”執事”。初出は甲骨文。字形は「宀」”やね”+「䇂」”刃物”で、屋内で肉をさばき切るさま。原義は”家内を差配する(人)”。甲骨文では官職名や地名に用い、金文でも官職名に用いた。詳細は論語語釈「宰」を参照。
赤(セキ)
(甲骨文)
論語の本章では、孔子の弟子、公西赤のこと。論語の人物・公西赤子華を参照。「赤」の初出は甲骨文。字形は「大」”身分ある者”を火あぶりにするさまで、おそらく原義は”火祭り”。甲骨文では人名、または”あか色”の意に用い、金文でも”あか色”に用いた。詳細は論語語釈「赤」を参照。
何如(いかならん)
論語の本章では”どうでしょう”。「何」が「如」=”同じ”か、の意。対して「如何」は”どうしましょう”・”どうして”。日本で教えられる「漢文」では、語義の違う「何如」も「如何」も「いかん」と読んで混乱の元になっている。
- 「何・如」→何が従う→”どうでしょう”
- 「如・何」→何に従う→”どうしましょう”・”どうして”。
したがって「何如」は「いかならん」、「如何」は「いかにせん」と読み分けるべき。「いかん」と読み下す一連の句形については、漢文読解メモ「いかん」を参照。
「何」(甲骨文)
「何」は論語の本章では”なに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
「如」(甲骨文)
「如」は論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
束(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”(礼服の帯を)締める”。初出は甲骨文。「ソク」は呉音。字形はふくろを両側で束ねた姿で、原義は”束ねる”。「漢語多功能字庫」によると、金文では原義のほか、氏族名に用いた。詳細は論語語釈「束」を参照。
帶(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”(礼服の大)おび”。新字体は「帯」。初出は甲骨文。字形はあや模様を織り上げた帯の象形で、原義は”おび”。甲骨文では人名に、金文では原義に(子犯編鐘・春秋中期)、戦国の金文では人名に(平周戈・戦国末期)に用いた。詳細は論語語釈「帯」を参照。
立(リュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”参列する”。初出は甲骨文。「リツ」は慣用音。字形は「大」”人の正面形”+「一」”地面”で、地面に人が立ったさま。原義は”たつ”。甲骨文の段階で”立てる”・”場に臨む”の語義があり、また地名人名に用いた。金文では”立場”・”地位”の語義があった。詳細は論語語釈「立」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…で”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
朝(チョウ)
(甲骨文)
論語の本章では”朝廷”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
與(ヨ)
(金文)
論語の本章では、”~と”。新字体は「与」。新字体初出は春秋中期の金文。金文の字形は「牙」”象牙”+「又」”手”四つで、二人の両手で象牙を受け渡す様。人が手に手を取ってともに行動するさま。従って原義は”ともに”・”~と”。詳細は論語語釈「与」を参照。
賓*(ヒン)
(甲骨文)
論語の本章では”(外国からの)来客”。初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「夫」”かんざしや冠を着けた地位ある者”で、外地より来て宿る身分ある者のさま。原義は”高位の来客”。金文では原義、”贈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「賓」を参照。
客(カク)
(金文)
初出は西周中期の金文。「キャク」は呉音。カールグレン上古音はkʰlăk(入)。字形は「宀」”屋根”+「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、外地よりやって来て宿るさま。原義は”外来の人”。金文では原義で用いている(曾伯陭壺・春秋早期など)が、掲載例はみな「賓客」と記し、身分ある「賓」と身分無き「客」とは別物である。詳細は論語語釈「客」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”会話する”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は春秋戦国の誰一人引用せず、前漢中期の『史記』弟子伝がやや違う文で再録。
季康子問孔子曰:「冉求仁乎?」曰:「千室之邑,百乘之家,求也可使治其賦。仁則吾不知也。」復問:「子路仁乎?」孔子對曰:「如求。」
季康子が孔子に言った。「冉求は仁か?」(孔子が)言った。「千戸のまち、百乗の家は、冉求ならその軍政を任せられます。仁は全く分かりません。」また問うた。「子路は仁か?」孔子が答えた。「冉求と同じです。」(『史記』仲尼弟子伝17)
事実上これが初出で、質問者は孟武伯ではなく、同世代の同じく魯国門閥の当主で宰相格、季孫家の季康子になっている。これが後に論語雍也篇8に化けたと思われる。子華については『史記』はこのような話を伝えていない。定州竹簡論語と同時期の『孔子家語』が記すのみ。
公西赤,魯人,字子華。少孔子四十二歲,束帶立於朝,閑賓主之儀。
公西赤、魯の出身。あざ名は子華。孔子より42歳年下。正装して朝廷に立ち、来賓の応対に習熟していた。(『孔子家語』七十二弟子解18)
「閑」カールグレン上古音ɡʰăn(平)を「ならう」と読まねばならないのは、同音の「僩」ɡʰăn(上)との語呂合わせ。臭いの元は漢儒の利権あさりで、本来「閑」にこんな意味など無い。漢文を暗号化した始まりは、いわゆる国教化された儒教の司祭としての漢儒に始まる。
いわゆる日本のお経に何が書いてあるか、信徒に知られると「アホらしい」とお布施が貰えなくなるので、坊主は説教はしても解説はしないのと同じで、漢語を暗号化して解釈権を独占する事で、データを仕舞い込んで公開料を取る現代官僚同様の利権化を図ったというわけ。
それはさておき、論語の本章はその完成が前漢まで下ると思われる。ただし漢儒がこのような創作をする動機が不明だし、いつも通りの子路おとしめもやっていないので、何らかの史実を反映しているだろう。従って政界進出に当たっての、孟武伯と孔子の対話と解釈した。
また文字史的は論語の時代に遡れるので、とりあえず史実として扱う。
解説
孟武伯と孔子の関係については、論語為政篇6の解説も参照。庶民だった若き日の孔子の学識に目をとめた孟孫家の当主・孟僖子が、次期当主の孟懿子とその弟の南宮敬叔の家庭教師として孔子を迎え、孟懿子兄弟は殿様に進言して孔子を周の都・洛邑に留学させている。
『春秋左氏伝』による孟懿子の没年から、兄弟は孔子とほぼ同世代と思われ、孟懿子の子である孟武伯にとって、孔子は子供の頃から可愛がってくれた「おじさま」だった。しかも有能で物騒な?弟子を多く抱えている。そこで孔門の政治的協力を得られるかを尋ねたのが本章。
本章の記述で注目すべきなのは、子路の才能を「賦」=”軍組織の管理”と記した点で、後世の儒者が言い回した、子路ただの暴れ者説とは一線を画している。史料上確認できる子路の才能も、厄介な住人が住むまちの統治であり、論語先進篇2でも子路の才を「政事」と記す。
子路が蒲の領主になった。しばらくして孔子の滞在先に出向いて挨拶した。
子路「ほとほと参りました。」
孔子「蒲の町人のことじゃな? どんな者どもかね。」
子路「武装したヤクザ者が、町中をぞろぞろと大手を振ってうろついていて、手が付けられません。」(『孔子家語』致思19)
もっともこの「孔門十哲」を言い始めたのは孔子より一世紀のちの孟子だが(孔門十哲の謎)、言い換えると論語の時代から100年ほどは、弟子たちの姿がより正確に伝わっていたのだろう。また冉有が家宰として優れるのは、季孫家の執事を努めた史料的裏付けがある。
冉求子有は寡黙な実務家で、家宰として季孫家を取り仕切るだけでなく、武将としても優れ主家に信用されていたことが『春秋左氏伝』の記録から見える。ただの給料泥棒やひょろひょろなら、季孫家が子飼いの兵士を冉有に言われて供出し、指揮をゆだねるわけがない。
余話
見えないのに知る魔術
論語の本章の時期について、吉川本では仮に孔子が諸国放浪から帰ったBC484の事とすれば、孔子69、子路60、冉求40、公西赤27歳という。当時すでに冉求は千室之邑である季氏の執事だった。また公西赤は論語の中で、斉に使いしたことが記されている(論語雍也篇4)。
一方白川静『孔子伝』によると、「孔子亡命前ならば子華はまだ十三、四の少年であり」とあり、亡命前である可能性はないとする。加えて「帰国後ならば求はすでに季氏の宰となっている…孟武伯が問うはずがない」と本章を後世の創作とする。
これらの者は、絵に描けるように論語の時代を読み解けているのだろうかと疑う。『春秋左氏伝』哀公十四年(BC481)に孟懿子の逝去は明記されており、その時孟武伯が当主を継いだことも明らかで、少しでもものを考えるなら、本章のような交渉を孔子と行ったと気付いてよい。
これから政界に打って出る孟武伯にとって、孔門の協力は是非とも欲しかったはずだ。
「それを描くことが出来なければ、それを知ることは出来ない」。そうアインシュタインが言った、と物理学者のジョン=ウィーラーがサイエンスライターのジョン=ホーガンに言った、と竹内薫氏が訳した『科学の終焉』に書いてある。問題は絵心のあるなしではない。
白川静は漢字という極めて象形的な文字を解くにあたり、見てきたような想像力を働かせたが、論語や孔子の生涯についてはそうでもなかったようだ。その著書『孔子伝』で難しい言い廻しをしなければならなかったのは、書き手も見えていないことを無理に文字化したからだ。
だから本当に古典の意味を知りたいなら、自分で掘り進むしかない。権力や権威は、平気でウソをつくからだ。中国で偉大な革命歌として文革中に国歌を凌ぐ扱いを受けた「東方紅」も、実は「白菜のごま油炒め」の替え歌だった。前者の動画を今見ると、まるでマヌケでしょう?
ソ連の革命歌として知られた曲も、帝国軍や白軍の軍歌だったものが少なくない。
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