論語:原文・白文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文・白文
子曰、「予欲無言。」子貢曰、「子如不言、則小子何述焉。」子曰、「天何言哉。四時行焉、百物生焉、天*何言哉。」
校訂
武内本:釋文云、魯論天を夫となす。
書き下し
子曰く、予言ふ無からむと欲す。子貢曰く、子如し言はずんば、則ち小子何をか述べ焉。子曰く、天何をか言はん哉。四時行り焉、百物生り焉。天何をか言はん哉。
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逐語訳
先生が言った。「私はもう何も言いたくない。」子貢が言った。「そもそも先生が言わないなら、全く私ごときが何を語り継げるでしょうか。」先生が言った。「天が何かを言うかね。季節は変わらず移っていく、万物は休まず成長していく、天が何かを言うかね。」
意訳
孔子「もう何も言う気がなくなった。」
子貢「えっ! 先生が仰らないなら、弟子の私がどう先生の言葉を伝えましょうか。」
孔子「子貢よ、私もまた天に従っている。その天が何か言うか? 何も言わん。だが季節はめぐり、万物は成長していく。言わずとも世は回るのだ。」
従来訳
先師がいわれた。――
「私はもう沈默したいと思っている。」
子貢がいった。――
「先生がもし沈默なさいましたら、私共門人は何をよりどころにして、道をひろめましょう。」
先師がいわれた。――
「天を見るがいい。天に何の言葉があるのか。しかも四季の変化は整然と行われ、万物はたゆみなく生育している。天に何の言葉があるのか。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
予
(金文)
初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に余、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。
欲
(金文)
論語の本章では”~したいと思う”。『学研漢和大字典』による原義は、谷=うつろな穴に、欠=そちらへ身をかがめることで、腹が減って身をかがめるさまという。
子貢
孔子の弟子で、弁舌の才=外交、交渉の能力を評価された。また最も商売に優れ、孔子一門の財政を支えたと思われる。孔子没後は斉に移り、一門を半分する派閥の領袖となった。
子
(金文)
論語の本章では”先生”。原義は王の息子で、転じて貴族や師匠への敬称となった。
如
(古文)
論語の本章では、”もし”という仮定を表す記号。『学研漢和大字典』によるともとやわらかにものを言うさまだったが、音が通じて遠くも近くもない対象を指す指示代詞となった。仮定の条件を指示する「如(モシ)」も、現場にないものをさす働きの一用法である、という。
則
(金文)
論語の本章では”とりもなおさず”。『学研漢和大字典』による原義は、食器に添えられたナイフで、不可分にセットになったさまを言う。
小子
(金文)
論語の本章では”わたくしめ”。一人称としては謙遜の自称、二人称としては目下に対する呼びかけ。
何述焉
「何」(金文)
論語の本章では”何一つ言える事があるでしょうか”。漢文は英語と同じく、疑問文では疑問の目的語を句頭や文頭に出す。「焉」について詳細は論語語釈「焉」を参照。
述
(金文)
論語の本章では”ものを言う”。『学研漢和大字典』による原義は、もちアワの実が穂にくっついて離れないさまで、同じ言うでも、今までのいきさつに従ってものを言うこと。
論語の本章では、教説の発信源である孔子がものを言わないのなら、子貢は弟子として、それに従って発言することが出来ない、ということ。
焉
(金文)
論語の本章では、子貢の発言として「何を言ってしまう事が出来るでしょうか」と、また孔子の発言として「万物は成長している」と用いられている。いずれも基本語は”終わってしまった”ことで、ここから断定や疑問、反語の意味が派生してくる。
”終わってしまった”=「たり」を意味する漢文の助辞の中で、自分ではどうしようもなく終わってしまう、あたかも判決が下されるような語気を示す。
哉
(金文)
論語の本章では「や」と読んで詠嘆を示す。「かな」と読んでも差し支えない。
四時
(金文)
論語の本章では、春夏秋冬の季節。漢文では他に、朝昼夕夜の四つの時を指す場合がある。
百物
「百」(金文)・「物」(古文)
論語の本章では、”全ての生物”。
「物」は甲骨文で確認できるが、なぜか金文では未発掘。『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、勿(ブツ)・(モチ)とは、いろいろな布でつくった吹き流しを描いた象形文字。また、水中に沈めて隠すさまともいう。はっきりと見わけられない意を含む。
物は「牛+(音符)勿」で、色あいの定かでない牛。一定の特色がない意から、いろいろなものをあらわす意となる。牛は、ものの代表として選んだにすぎない、という。
天何言哉
武内本が孫引く釋文が引く魯論語が正しいとすると、「夫何言哉」となるが、読みは「それ何をか言わんや」であり、訳は”そもそも何を言うだろう”。
論語:解説・付記
論語の本章について、武内義雄『論語之研究』は史実性に疑義を唱えていない。ただ最終句について、魯論語では「天何言哉」が「夫何言哉」(それ何をか言わんや)になっているという。”天が何も言わなくても世界は回る。だからワシが何を言うことがあろうか”ということ。
饒舌な孔子が、「もう何も言いたくない」と言い出すのはよほど絶望したと言うべきで、孔子の肉声ならば最晩年のことだろう。孔子の逝去を看取ったのが子貢であることは、『史記』に記されている。和辻哲郎によると、『史記』の史料価値は『論語』より劣ると言うが、はて。
つまり『史記』を参考に『論語』を解釈するのは慎重であるべきだというのだが、儒家の伝承や論語に漏れた伝説を丁寧にまとめたのは『史記』をおいて他になく、信用していいと思う。
以下は全く蛇足ながら、論語の本章は次の構造になっている、つまり天は最も偉大で、孔子はそれに比べると卑小である。偉大な天が言わぬのなら、卑小な孔子は言うべき言葉を持たない。孔子はその事実を語っている。それを承けた子貢は、さらに自分の卑小を思っただろう。
語っていることは短く、そして事実。論語の本章は、孔子の肉声に違いない。