論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰蓋有不知而作之者我無是也多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰蓋有不知而作之者我無是也/多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
子曰:「蓋有弗智也a而作之者,我無是。多聞,擇其善*172而從之;多聞而志之b,智之次也。」173
- 弗智也、今本作「不知」。
- 多聞而志之、今本作「多見而識之」。
*現伝論語ではここに「者」があるのだが、定州竹簡論語は記さないのではなく簡が欠損している。「一枚に記された文字は19-21字」と「紹介」にいうから、簡172号の末尾、173号の先頭のいずれかに「者」を補うべき十分な理由がある。詳細は語釈で。
標点文
子曰、「蓋有、弗智也、而作之者。我無是。多聞、擇其善者而從之。多聞而志之、智之次也。」
復元白文(論語時代での表記)
※志→識。
書き下し
子曰く、蓋し有らん、智ら弗る也、し而之を作す者。我は是無し。多く聞きて、其の善き者を擇び而之に從ふ。多く聞き而之を志すは、智る之次也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「考えてみれば、本当に知らない者が、なんと書く事があるだろう。私にはない。沢山聞いて、そこからよいものを選んでそれに従う。沢山聞いてそれを書き記すのは、知るの次だなあ。」
意訳
ある者が書いた本を読んだ。…何だこれは。ぜんぜん分かっとらんのに書いてるな。私は違うぞ、たくさん情報は取るが、いいものだけを書き留めておく。闇雲に聞きかじった情報を書き散らしているのは、まだ知には至っていないのだぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「無知で我流の新説を立てる者もあるらしいが、私は絶対にそんなことはしない。私はなるべく多くの人の考えを聞いて取捨選択し、なるべく多く実際を見てそれを心にとめておき、判断の材料にするようにつとめている。むろん、それではまだ真知とはいえないだろう。しかし、それが真知にいたる途なのだ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「有一種人,不瞭解情況就冒然行事,我不會這樣。多聽,向先進人物學習;多看,把細節牢記在心。就是掌握知識的最好方法。」
孔子が言った。「ある種の人間は、事情がよく分かっていないのに行動へと突進する。私にはそのようなことが無い。多くを聞き、先達に学ぶ。多く見、細部まで把握して心に留める。これが知識を得る最も良い方法だ。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
蓋(カイ/コウ)
(金文)
論語の本章では、”考えて見ると・推測するに”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は春秋早期の金文。「ガイ」は慣用音。「カイ」(去)の音で”覆う”を、「コウ」(入)の音で”草葺き屋根”、”どうして…ないのか”の意を示す。字形は「艹」+「盍」”ふた・覆う”で、原義は”草葺き屋根”。初出の金文は”器のふた”の意で用いた。詳細は論語語釈「蓋」を参照。
漢文の読解では、句頭にある時は”考えて見ると”・”そこで”・”そもそも”の意と、再読文字として「なんぞ~ざる」”どうして~しないのか”を、句中に動詞としてある時は”覆う”の意味を知っておくと便利。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”存在する”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
不(フウ)→弗(フツ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「弗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形には「丨」を「木」に描いたものがある。字形は木の枝を二本結わえたさまで、原義はおそらく”ほうき”。甲骨文から否定辞に用い、また占い師の名に用いた。金文でも否定辞に用いた。詳細は論語語釈「弗」を参照。
知(チ)→智(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知るということ”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語は、普段は「智」の異体字「𣉻」と記す。通例、清家本は「知」と記し、正平本も「知」と記す。文字的には論語語釈「智」を参照。
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也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、
- 「弗智也」では「や」と読んで主格の強調。
- 文末「智之次也」では「かな」と読んで詠嘆の意か、「なり」と読んで断定の意。断定の意は論語の時代に存在しない。
初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…であって同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
作(サク)
(甲骨文)
論語の本章では、論語述而篇1と同様、”新説を立てること”。初出は甲骨文。金文まではへんを欠いた「乍」と記される。字形は死神が持っているような大ガマ。原義は草木を刈り取るさま。”開墾”を意味し、春秋時代までに”作る”・”定める”・”…を用いて”・”…とする”の意があったが、”突然”・”しばらく”の意は、戦国の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「作」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では
- 「作之」の場合は「これ」と読んで直前が動詞であることを示す記号。意味内容が以前に無いからだ。訳は”こんなの”とでもするのが適切。
- 「從之」「志之」の場合は「これ」と読んで「擇」んだ「善者」や「多聞」した内容を意味する指示詞。
- 「智之次」の場合は「の」と読んで”…の”。名詞句を作る。
”これ”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では、”…である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
我(ガ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし(は)”。初出は甲骨文。字形はノコギリ型のかねが付いた長柄武器。甲骨文では占い師の名、一人称複数に用いた。金文では一人称単数に用いられた。戦国の竹簡でも一人称単数に用いられ、また「義」”ただしい”の用例がある。詳細は論語語釈「我」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”ない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
是(シ)
(金文)
論語の本章では”これ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。
多(タ)
(甲骨文)
論語の本章では”多く”。初出は甲骨文。字形は「月」”にく”が二つで、たっぷりと肉があること。原義は”多い”。甲骨文では原義で、金文でも原義で、戦国の竹簡でも原義で用いられた。詳細は論語語釈「多」を参照。
聞(ブン)
(甲骨文1・2)
論語の本章では”聞く”。初出は甲骨文。「モン」は呉音。甲骨文の字形は”耳の大きな人”または「斧」+「人」で、斧は刑具として王権の象徴で、殷代より装飾用の品が出土しており、玉座の後ろに据えるならいだったから、原義は”王が政務を聞いて決済する”。詳細は論語語釈「聞」を参照。
論語の時代、「聞」は間接的に聞くことで、直接聞く事は「聴」と言った。
擇(タク)
(金文)
論語の本章では”選ぶ”。初出は西周末期の金文。新字体は「択」。字形は「睪」+「廾」”両手”で、「睪」の甲骨文は向かってくる矢をじっと見つめる姿。全体で、よく見て吟味し選ぶこと。原義は”選ぶ”。金文では原義で用いた。詳細は論語語釈「択」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
善(セン)
(金文)
論語の本章では”よい”。「善」はもとは道徳的な善ではなく、機能的な高品質を言う。「ゼン」は呉音。字形は「譱」で、「羊」+「言」二つ。周の一族は羊飼いだったとされ、羊はよいもののたとえに用いられた。「善」は「よい」「よい」と神々や人々が褒め讃えるさま。原義は”よい”。金文では原義で用いられたほか、「膳」に通じて”料理番”の意に用いられた。戦国の竹簡では原義のほか、”善事”・”よろこび好む”・”長じる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「善」を参照。
善者(センシャ)
定州竹簡論語で論語の本章を横書きで示せば以下の通り。
子曰蓋有弗智也而作之者我無是多聞擇其善…簡172号
…而從之多聞而志之智之次也…簡173号
「…」は簡の欠損部分。簡172号の先頭には簡の欠損が無く、末尾にはあり、簡173号の先頭と末尾には欠損がある。「一枚に記された文字は19-21字」と「紹介」にいうから、簡172号にはあと2文字分の筆記余地があったことになる。また簡173号の前後にも筆記余地が有ったことになる。
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現伝の論語では簡を跨ぐ部分に「者」を記す。中国伝来の唐石経、宮内庁蔵南宋本『論語注疏』には「者」を記し、日本伝来の清家本、正平本、文明本を底本とする懐徳堂本、根本本も「者」を記す。よって簡172号の末尾か、173号の先頭に「者」があったと考えるべき。
從(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では、”従う”。初出は甲骨文。新字体は「従」。「ジュウ」は呉音。字形は「彳」”みち”+「从」”大勢の人”で、人が通るべき筋道。原義は筋道に従うこと。甲骨文での解釈は不詳だが、金文では”従ってゆく”、「縦」と記して”好きなようにさせる”の用例があるが、”聞き従う”は戦国時代の「中山王鼎」まで時代が下る。詳細は論語語釈「従」を参照。
識(シ)→志(シ)
(金文)
論語の本章では、”記す”。初出は西周早期の金文。初出の字形は「戠」で、「戈」+”棒杭”。「戠」の語義は兵器の名とも、土盛りとも、”あつまる”の意ともされるが、初出は”知る”の意と解せる。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)は、”しる”では「ショク」、”しるす”では「シ」。初出の金文では”知る”と解せ、春秋末期までの用例はこれ一件しか無い。また戦国末期までの出土に、”記す”と明確に解読できる例は無い。詳細は論語語釈「識」を参照。
(金文)
定州竹簡論語では「志」と記す。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
見(ケン)
(甲骨文)
論語の本章では”見る”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は、目を大きく見開いた人が座っている姿。原義は”見る”。甲骨文では原義のほか”奉る”に、金文では原義に加えて”君主に謁見する”(麥方尊・西周早期)、”…される”(沈子它簋・西周)の語義がある。詳細は論語語釈「見」を参照。
次(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”予備役”→”その次”。初出は甲骨文。現行字体の字形は「冫」+「欠」だが、甲骨文の字体は「𠂤」の下に「一」または「二」。「𠂤」は兵士が携行する兵糧袋で、”軍隊”を意味する。下の数字は部隊番号と思われ、全体で”予備兵”を意味する。原義は”予備”。金文では氏族名・人名に用いる例が多い。詳細は論語語釈「次」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前半が「蓋有不知而作之者,我亡是也。」と若干違う文字列で後漢初期の『漢書』楊胡朱梅云伝の論賛に再出。後半は「孔子有言:吾聞擇其善者而從之,多見而志之,知之次也。」として『白虎通義』巻二・礼楽に再出。つまり春秋戦国時代の誰も引用せず、初出は前漢中期の定州竹簡論語。文字史的には全文が論語の時代に遡れるので、とりあえず史実の孔子の発言として扱って良い。
本章がもし後世の創作だとすると、創作の意図が分からない。本章によって、儒者が得できるような何かを想定しがたいからだ。
解説
論語の本章、新古の注は次の通り。
古注『論語集解義疏』
子曰蓋有不知而作之者我無是也註苞氏曰時人多有穿鑿妄作篇籍者故云然也多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也註孔安國曰如此次於生知之者也疏子曰至次也 云葢有云云者不知而作謂妄作穿鑿為異端也時蓋多有為此者故孔子曰我無是不知而作之事也云多聞擇其善者而從之者因戒妄作之人也言豈得妄為穿鑿也人居世間若有耳多所聞則擇善者從之者也云多見而識之者若因多所見則識錄也多見不云擇善者與上互文亦從可知也云知之次也者若多聞擇善多見錄善此雖非生知亦是生知之者次也
本文「子曰蓋有不知而作之者我無是也」。
注釈。苞氏「当時の人は、重箱の隅を突いてデタラメな本を書く者が大勢居たので、こう言ったのだ。」
本文「多聞擇其善者而從之多見而識之知之次也」。
注釈。孔安国「このような連中は、生まれながらに賢い孔子様には及ばないのだ。」
付け足し。先生は自分に次ぐものを言った。「葢有うんぬん」とは、知りもしないのにデタラメを言いオタク話を書き連ねることで、これが学んでも益の無い「異端」である(論語為政篇16)。当時は多分、こういう者が多かったのだろう。だから孔子は”私は知らない事を書いてはいない”と言った。「多聞擇其善」とは、デタラメを言いふらす連中を戒めたのである。その心は、どうしてデタラメにオタク話を書きなどするか、ということである。人が世に住んで、もしよく話を聞くなら、そこからよいものを選んでそれに従うべきなのだ。「多見而識之」とは、もし多く見たことを証拠にするなら、それを記すということだ。”多く見て「その中からよいものを選び」とは書いていないが、それは上の文と重なるからで、省略なのがわかるだろう。「知之次也」というのは、もし多く聞いてよいものを選び、多く見てよいものを記すなら、生まれながらに知ったことでなくても、生まれながらに知ったことの次にはなる、ということだ。
新注『論語集注』
子曰:「蓋有不知而作之者,我無是也。多聞擇其善者而從之,多見而識之,知之次也。」識,音志。不知而作,不知其理而妄作也。孔子自言未嘗妄作,蓋亦謙辭,然亦可見其無所不知也。識,記也。所從不可不擇,記則善惡皆當存之,以備參考。如此者雖未能實知其理,亦可以次於知之者也。
本文「子曰、蓋有不知而作之者,我無是也。多聞擇其善者而從之,多見而識之,知之次也。」。
識の音は志である。分かっていない者が書けば、理屈が分かっていないのだからデタラメが出来上がる。孔子は、自分はそういうデタラメを書いたことが無いと言ったのだが、それでもまだ謙遜した言葉だ。聖人だから何でも知っていたからだ。識とは記すことである。記す前に吟味が必要で、そうやって書けば善悪がみなウソで無くて当たる。そういう本なら当てに出来る。理屈の当否を区別が出来ない者がものを書くなら、それはものを知っている者には及ばないのだ。
論語の本章に関する限り、朱子の解釈は正しいし、現代の論語業界にもよく当てはまる。誓っても良いが論語の訳本なるものを出版した者の中で、一字一句を辞書引きした者は辞書編者以外におらず、一応漢文が読める者でも、他人のパクリで読んで済ませた。
漢文がぜんぜん読めないのに、訳本と称して売り出した不届き者は何人もいる。
それが問題にならないのは、世間が論語や漢文に、その程度しか期待していないからで、同じようなことをもし医師がやったら、裁判沙汰になるのは明白だ。閲覧者諸賢で論語を読もうと思っている方は、ぜひ本を買う前に自分に問いかけて頂きたい。
「何のために論語を読むのか」と。それがデタラメ本を避ける心構えだからだ。
余話
嫌われてるとも知らないで
古来おじゃる公家の昔より、日本の漢文業者はうそデタラメを書いて済ませていた。仕方のない事情もあった。辞書も整っておらず、儒者は親の家業を継いでなるものだったからだ。誠実かつ知的な者が少なかったのも無理ないが、21世紀の現在で、この言い訳はもう通用しない。
確かトーマス・マンの言葉だったか、次のような人間の分別があった。
- 知的なナチは誠実でない。
- 誠実なナチは知的でない。
- 知的で誠実な者はナチでない。
「ナチ」は漢学教授やその風味の者など、「日本の漢文業者」にあるいは置き換え得る。しかも1.はめったにいない。訳者は漢文業界の裏や表を見て歩いてきたが、知的な人物には二・三人しか会ったことが無い。T大入試程度では、しょせん知的かどうかは判定できないからだ。
こっ…この子、居なかったことにしましょう! そうすれば悲しくもない! トーダイの脳みそはもう無いんです!(西原理恵子『鳥頭紀行』)
漢文業界の概況については、論語雍也篇27余話「そうだ漢学教授しよう」を参照。
だから漢学科の大学院に入るのは、入学ならぬ入院と言った方が当を得ている。文系の院生になる者はなぜか、どこの大学でも身だしなみがだらしなく、不潔のまま平気で人前に現れ、陰口が大好きで、勉強が嫌いな者が多く、中肉の者が珍しかった。一種の入院患者であろう。
こんな奴らの仲間になるぐらいなら、さっさと出て行こうと思うに十分だった。
訳者の入院中、モンゴルからの留学生がいて、訳者は加わらなかったが、夏休みに同ゼミ生を連れて帰郷した。実家の父上はかつて日本軍と戦い抜いた古強者だったが、院生どもをみて息子に怒鳴ったらしい。「お前は父をたばかるのか! こんなカントン人なぞ連れてきおって!」
孔子の後継者を名乗った儒者も、文系院生と同じく、数理を知らず虚弱で、カルトなウンチクを競い合う、オカルトにメルヘンを足しっぱなしにした、世間に甘やかされた生物だった。訳者が儒者の生態についてかなり詳しく類推できるのも、この大学院での経験が与っている。
詳細は論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。虚弱も数理の無理解も生まれつきによるから、出来る出来ないは当人の責任ではないが、出来ないのに出来ると言い、読めもしない漢文を読めたと世間に言いふらしてカネを取るのは、詐欺師の非難を免れない。
諸賢は太極拳やカンフーをご存じかと思うが、前者は運動が嫌いな儒者が清末の暴乱に怯えて、飼っていた用心棒に楽な自衛法を作らせたのが始まりで、後者は奇声を張り上げるハッタリが多すぎて呆れる。回転を制しがたいヌンチャクを振り回すなど、まるで実戦的でない。
気分よくヌンチャクを振り回す敵に、好きなだけ振らせ、●属バットで●ったらしまいだ。得物など無くともよい。体術を稽古した者なら、相手が振り回し疲れたのを待ち、入身して鼻柱を潰すか、スネをかっぱらうだけで立ち会いが終わる。知ってるか知らないかのon/offだ。
訳者は道場に通って中国武術を稽古したが、馬鹿らしくなって半年でやめた。
声で敵でなく自分を狂わせ強者にも撃ち掛かる武術が我が国にある。九公一民という無茶をしないと藩政府が維持できなかった薩摩は、俸禄はやらんが忠義を尽くせと命じた城外士に示現流を習わせた。現在伝わる稽古を何度か実見したが、あれを稽古しようとは思えなかった。
その声を「猿叫」という。薩摩藩主すら、「あんな真似が出来るか」と嫌がった。
20歳前後で受験した頃が頭脳の頂点で、その後は痴呆化するだけの人は少なくない。筋トレ同様、脳も器官であるからには、鍛え続けないと退化するだけからだ。人間の細胞の多くは再生可能らしいが、死んだ脳細胞は二度と再生しないと聞く。人体はそのように出来ている。
この世の無残を一々覚えていたら、とうてい生きてはいけないからだ。だが確かに人間は脳細胞そのものを鍛えることは出来ないが、脳細胞同士のつながり方を最適化することは出来る。武道の型を覚えて体に叩き込むように、漢文読解も繰り返しの稽古によって型が身に付く。
それでやっと漢文が読めるようになる。この世に万能薬がないように、「これさえ読めば漢文が読める」本などない。通信教育で武道の段位を貰っても、稽古を重ねた相手に出くわせばブチのめされて終わる。諸賢は論語を読みたいのか、読んだと言われたいのかどちらだろう。
あるいは、自分そのものを高めるために読みたいのか、他人に説教するタネとして読みたいのかどちらだろう。後者はおすすめできないと申し上げるしかない。なぜなら論語で納得するほど世間は漢文を知らず、もし読める者に説教すれば、鼻でせせら笑われて終わるからだ。
道徳的説教がたいがい失敗に終わるのは、「お前だってメシを食ったり異性といちゃついたり屁を垂れたりしているくせに」と、説教相手を操作しようとするさもしい根性を見透かされるからで、気の利いた子供でもこの程度の判別力は持っている。栴檀は双葉より芳しい。
地位のある者が地位の無い人に、得々と説教する姿はみっともない。聞かされる方は誰もが思っているのだ。「笑(嫌)われてるとも知らないで。」人間とはそんな大人しい生き物ではない。説教の苦痛を与えれば、いつか必ず復讐される。そして復讐者の数は常に自分より多い。
昔、もうすぐ死ぬというのに、まだそういう痴態を演じる男がいた。奥さんに「あんなののどこが良かったんです?」と尋ねたことがある。若気の至りで、奥さんは目を白黒させていたが、今思えば問い詰めないで良かった。詰めれば、自分も痴れ者の仲間に入るところだった。
他人の趣味は分からない。
ともあれ恐れるべきではないだろうか。説教のタネにしようと、どんなに論語や漢文を読んでも、相手を操作するという目的を果たせないだけでなく、自分を害する結果になる。しかも論語を道徳的に解釈した本は、まず分かりよいようには書いていない。その理由は明白だ。
中華文明のイロハは、道徳は他人にやらせるもので、決して自分が実践してはならないことにあるからだ(論語学而篇4余話)。つまり読む者にとって一方的に不利な話ばかり書いてある。すると生身の脳が危険を感じ、そういう文字列を読まないよう不快感を作り出す。
漢詩を好きな人なら誰でも知っているはずの蘇東坡ですら、こんな事を言っている。
愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。(論語憲問篇8新注)
漢文の勉強が難しいのは、古来よりこういう漢文業者の身勝手が原因だ。漢文読解法の習得は単純で、原文を見る→辞書を引く→複数の解から最適解を選ぶ、の繰り返し。この繰り返しのみが、漢文を読めるような脳細胞の連携を最適化する。余計な事を覚えている余裕は無い。
閲覧者諸賢も同様で、余計なデタラメを読んでいられるほど、人生は長くないのでは?
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