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論語における「束脩」

論語とわかめ中国人

江戸時代、寛永年間の末。中国で明王朝が滅び、大勢の中国人が国外逃亡した。その一人に、廃業したラーメン屋のおやじがいた。海からワカメだらけになって上がってきたおやじを、水戸の黄門様が這いつくばって拝んだ。日本人が、まるで中国人を知らなかったからである。

だが今は違う。ラーメン屋どころか学者だろうと、ガキのようなことしか言えぬと知れる。

古注 皇侃
皇侃オウガン:孔注いえども、シュウほじしにし、意た脯を離るるを得不る也。
「証拠は無いが、何が何でも、束脩ソクシュウは干し肉の束でしかあり得ない。」(『論語義疏』)
「束脩」を干し肉の束と言い出したのは、ご覧の通り中国儒者だが、一切根拠を言っていない。自分がそう思えばそうなるというのは、全知全能の神にしか言えないことである。つまり口から出任せであり、「束脩」は論語の時代では、”過去を綺麗さっぱり捨て去る”こと。

「脩」は論語の時代に存在しない

いはく、束脩そくしうおこな以上いじやうは、われいまかつをしふることくんばあらざるなり。(論語述而篇7)
子 金文曰 金文 自 金文行 金文束 金文㠯 以 金文上 金文 吾 金文未 金文嘗 金文無 金文誨 金文

〔一般的解釈〕
先生が言った。「入門料として干し肉の束を持ってきた人なら、私は誰一人として教えなかったことは無い。」

まず章末の「焉」の字は、無くとも文意が変わらないから、論語の本章を後世の創作と断じる証拠としては弱い。さらに「焉」字は、春秋時代にはすでに存在した「也」字の飾り文字である可能性があり、語義も共通する(論語語釈「焉」)。

次に束脩は、孔子から千年後﹅﹅﹅に皇侃が”干し肉を十本まとめた束である”と書いてから、そのように解釈して今も疑われない。しかし「脩」の字の初出は戦国中期の竹簡であり、孔子の生きた春秋時代から、数百年のちにならないと現れない。すると論語述而篇7は偽作なのだろうか。

論語の本章は、現在最古の論語のテキストである『定州漢墓竹簡論語』には無く、前漢宣帝期よりのちに付加された可能性がある。だが定州論語は残簡が発掘されたのみで、それも発掘後におそらく紅衛兵の手によって一旦滅茶苦茶に壊された。その際失われた可能性も高い。

束脩のうち、「束」は論語の時代の金文にあるが、「脩」はない(語釈)。そのカールグレン上古音は声母のsのみで、sを声母に持つ漢字は膨大にあるが、藤堂上古音ならsiog。そして部品のユウ(藤音ḍiog。下〇は下点で代用。無声音を示す)は、論語の時代の金文に存在する。

ゆえに「脩」がもし「攸」に置換可能なら、論語の本章は史実と言える。漢字は単純な形から複雑な形へと進化しつつ数を増やした歴史があり、かつてその数が少なかった頃、単純な漢字がさまざまな語義を持っていた。今は失った語義を部品が持っていたとしても不思議は無い。

同時に、複雑な漢字が過去と今とで、語義が変わった可能性もある。

攸 金文 修 字解

脩の部品の攸は、古い金文では人+水+手の組み合わせで、人に水を注いで洗い流すこと、つまり”沐浴”。脩はそれに月(にくづき)を加えた字形だが、にくづきは”肉”と”人の体”の両義を持つ。すると脩とは、”干し肉”なのだろうか。それとも、”人体の沐浴”なのだろうか。

皇侃が金文以前を参照できなかった物証は無いし、参照できた物証も無い。ただし状況証拠として、隷書より古い書体で書かれた論語は、前漢の時代にすでに散逸し、伝わらなかったとされる。皇侃が隷書で論語を読んだ可能性は高いが、金文以前で読んだ可能性は無に近い。

脩 隷書 脩
つまり皇侃は隷書の「月」だけを見て、勝手に”干し肉”と言い出したのではないか。

革命家だった孔子

攸+月=脩とは何か。ここで思い出されるのが、論語の以下の章。

温 甲骨文 溫 温 字解

いはく、ふるきをゆあみあたらしきをらば、なり。(論語為政篇11)

定説にも拘わらず、最古の甲骨文を参照すれば、「温故」とは”古いことをよく知る”ではなく、”温泉につかり、古いことを綺麗さっぱり洗い流す”だった。ここから孔子を保守の権化と見なすのは後世の儒者によるなすりつけで、本質は革命家だったことが判明する。

孔子 革命家
孔子をあたかも既得権益の擁護者のように見なしたがる心情は分からなくもないが、父も定かでない拝み屋の母の子として生まれた孔子が、社会の底辺から宰相格まで出世したのを否定しないなら、孔子は身分制の春秋時代にあって、とんでもない秩序の破壊者だったことになる。

また多くの論語本が言う、「孔子は理想の政治を実現する場を求めて諸国を放浪した」というのは、つまり確立した政権に対するクーデターであり、官僚制が確立していない春秋時代では、それは前権力者の処刑もしくは追放を伴う。亡命先にとって孔子は危険人物だった。

例えば孔子の母国である魯では、司徒=宰相は季孫家が、司馬=陸相は叔孫家が、司空=法相兼建設相は孟孫家が数代相続した。日本史で言う地頭しきと同じであり、家職であり、家財でもある。政権が変わろうと行政主体が変化しない組織、つまり官僚制は、まだ確立の前だった。

この魯国の門閥家老三家をまとめて三桓と言うが、孔子は宰相代理として、三桓の根城を破壊する挙に出た。国公の賛同があったと言うから、この孔子政権の政策を変えさせるには、三桓は孔子を魯国から追放するしかなかった。あるいは処刑されなかっただけでも温情と言える。

孔子と同時代、隣国・斉の宰相に晏嬰アンエイがいた。斉では政変のたび、宰相どころか国公まで殺された。そのなかでヒラ家老の一人に過ぎない晏嬰が生き延び、最後には宰相となったのは、「ひたすら主君に忠実で、国に利益をもたらす者にだけ従う」という信念を公言したからだ。

奉職の対象は人ではなく国だと。となると晏嬰は中国初の官僚に見えるが、むしろ過渡期の存在と言った方がよい。晏嬰が斉での孔子の仕官を阻んだのは、庶民でも能力によって仕官し貴族となるのを目指した孔子とは異なり、貴族連合としての斉「国」を守ろうとしたからだ。

対して孔子は放浪中最初に滞在した衛国で、巨額の捨て扶持を貰いながら、政府乗っ取り工作を始めた。無論成功後は、引き連れた弟子を官僚にして統治するつもりだった。気付いた国公が監視を付けると、孔子は一目散に衛国から逃げ去っている(『史記』孔子世家)。

孔子は懲りることなく、方々でこうした工作を繰り返した。だからどの国からも追われた。

過去を捨てた孔子塾生

上掲「温故知新」は用いられた漢字の古さから、史実を疑う理由が無いが、史実とも解しうる他の章にも、孔子が「過去を綺麗さっぱり洗い流すこと」を求めた話がある。

互鄕ごきやうともがたし。童子どうじまみゆ。門人もんじんまどふ。いはく、すすむにくみする退しりぞくにくみせざるかなただなんはなはだしき。ひとおのれいさぎよくしてもつすすまば、いさぎよきにくみするきたるをたもたざるかな。(論語述而篇28)

恐らくは被差別階級に属するであろう少年を、孔子は「過去を洗い流すなら、手助けしてやろう」と言う。革命家としての孔子の面目躍如たるものがあると同時に、孔子に入門を願う者は、必ず「過去を洗い流すこと」を必要としたと言える。

入門以前のことは、孔子塾では一切忘れ去らねばならなかった。野心に燃えた若者の集まりが、武器を執って稽古したのが孔子塾である。身分差別が流行れば血の雨が降っただろう。

新撰組
それは同じく武装した若者の集団で、しかもそのほとんどが野心に燃える庶民の出であり、そして身分差別を乗り越えようとした、新撰組を考えると分かる。新撰組は内ゲバを繰り返し半ば滅んだが、こうした武装した若者集団は、SA同様、外敵よりもまず部内を粛清したがる

それを防ぐため、孔子塾生は過去を、綺麗さっぱり洗い流さねばならなかったのだ。ところが主要弟子の中でただ一人、上級貴族だった司馬牛は、上級貴族である出自を、入門後も捨てられなかったのだろう。それゆえ『史記』に「口数が多くて不謹慎」と記された

だから孔子は司馬牛を見捨て、その死を救わなかった。それには十分な理由があったのだ。さらにこのことから、孔子一門がただの学徒の集まりではなかったと分かる。中国で、学問的な見解の相違で、人の生き死にが左右されるようになったのは、秦帝国成立まで下る

それまでは、意見が異なればただ分派すればよかった。儒家から墨家が生まれたようにである。それにもかかわらず孔子一門から犠牲者が出たことは、一門が政党でもあり、言い換えると孔子の私兵集団でもあったからだ。だからこそ、放浪の旅で幾度も激しい戦闘があった

無論、弟子の全てが革命闘士ではない。孔子晩年の弟子のように、単なる学徒もいた。だが孔子の同志だった放浪前からの弟子たちには、政治思想的純粋さが求められる。政治思想的な異分子は、いつ裏切るか分からず、受け入れるわけにいかなかったからだ。

孔子塾は武装した革命政党でもあった。過去を洗い流してから入らねばならなかったのだ。

束脩とは何か

以上から、シュウユウである状況証拠は揃った。「脩」が”干し肉”でなく”沐浴”なら、「攸」と語義が同じになる。亻(人)+丨(水)+攵(手)だけでも”沐浴”を意味し、さらにご丁寧に月(人体)を加えたというわけだ。すると「束脩」=「束攸」で、論語の時代に存在しうる。

では束ユウとは何か。『学研漢和大字典』も『字通』も同様に、「束」(藤音siuk)に”心を引き締める”の意があるという。ならば「束ユウ」とは、”心を引き締めて洗い流す”ことになる。そして『学研漢和大字典』は「束シュウ」の語釈として、”心をひきしめて修養する”を載せる。

これは修(藤音siog)が脩と同音であることからの音通で、「修」にもまた、”水を注ぐ”の意がある。つまり「束シュウ」「束修」siuk siogと聞いた古代中国人は、”心を慎んで洗い流す”と理解したはずだ。「束ユウ」siuk ḍiogと同様にである。それが論語の時代の中国語だった。

つまり”洗い流す”の語義で、脩は攸に置き換えうる。ゆえに論語述而篇7は孔子の肉声であり得る。代わりに”干し肉の束”という根拠の無い儒者の思い付きは、さっさと捨て去らねばならない。さらに結論として論語述而篇7の孔子の言葉は、次のように解されるべきである。

いはく、束脩そくしうおこな以上いじやうは、われいまかつをしふることくんばあらざるなり

孔子
過去を綺麗さっぱり洗い流すなら、誰だって教えてあげるよ。

ただしそれでもなお、中国儒者が肉束だと言った理屈についても調べておきたい。ご覧の通り、脩は攸+月(にくづき)であり、何かしら肉の類だろうと思いつくのは無理もない。そこで日本語音でシュウ、訓が”ほじし”=干し肉となっている漢字を『大漢和辞典』で引いてみる。

  • 脩(カ音sのみ/藤音siog)
  • 獸(カ音ɕのみ/藤音thiog)※ɕはシュに近いシ
  • 羞(カ音sのみ/藤音siog)
  • 𦛑(カ音不明/藤音不明)
  • 䐢(カ音不明/藤音不明)

脩と羞は全くの同音だし、脩と獸も、中学で英語を習う前の日本人なら聞き分けられない。「束脩」siuk siogという音は、”心をこめて洗い流す”とも、”干し肉の束”とも聞こえた。だから皇侃は脩のにくづきに飛びついて、語呂合わせをまるで子供のように強弁したわけだ。

だが「脩」のカールグレン上古音の同音に、「掃」”掃き清める”があり(論語語釈「脩」)、初出は西周早期の金文だから(論語語釈「掃」)、上古の「s」の音には、”清める”の意味があったことになる。

なお下記する食+攸を除けば、脩の字形は秦系戦国文字でも、楚系戦国文字でも、他の金文でも、月+攸になっている。だからこそ皇侃が読んだであろう、漢帝国で通用の隷書体に、月+攸=脩、と記された。その例外の食+攸は、『字通』が金文を載せている。

出典は戦国末期の金文。

脩 金文
食+攸。すでに「食」が付け加わっている。つまり戦国の末では、すでに「脩」は食べ物と見なされた。というより、脩とは別の字だと見るべきかも知れない。そして意外にも、戦国時代の儒家の本である『孟子』にも『荀子』にも、「束脩」が出てこない。

論語を除いた紙本の初出は、前漢の『説苑』や『孔子家語』である(定州竹簡の研究から、『家語』は前漢以前に遡りうると示唆されている)。となると上掲金文の比定が怪しく、いわゆる儒教の国教化に伴い、前漢の儒者が「肉束を寄こせ」と言い出した可能性がある。

脩 楚系戦国文字
「脩」(楚系戦国文字)

ただし戦国中期の竹簡『包山楚簡』に”干し肉”の用例があり、「月」を伴った字体で記されている。「漢語多功能字庫」による釈文は「脩一𥸡(はこ)、脯一𥸡」だから、”干し肉”の語義で間違いない。だがこの文字が、前漢やそれ以前に論語に記された文字だとも言えない。

現伝する中国史上最古の字書『説文解字』が成立したのは後漢の時代だが、そこには「脩、脯也。从肉攸聲」とあり、「脩はほじし也。肉にしたがユウこえ」と訓める。つまり後漢ではすっかり干し肉の意になり、発音は攸とまったく同じだったわけだ。

話を脩の字に戻せば、おそらく修の異体字だったはずだ。月と彡程度の形は、漢字の成立史ではいくらでも混同される。だが修=洗い流す、は通用しても、脩=修だというのが忘れられた。そこで皇侃が、出任せの思い付きを書き記すことになった。迷惑な男である。

儒者のでたらめ

なお日本ではすでに「束脩」は忘れられたが、中国や台湾では今なお、入学式の引き出物として肉の束を用意するらしい。その実用価値はどれほどが分からないが、日本で言えばすでに印刷で済ませる、のし袋の打ち鮑の如きものだろう。まことに滑稽と言えば滑稽である。

れ儒者は滑稽にし軌法のりとすから。(『史記』孔子世家)

繰り返すが束脩を肉束と言い出した皇侃は、何ら根拠を言っていない。そして皇侃は、孔子から千年後の人物だ。今から千年前と言えば平安後期だが、その古典について、根拠なく断定すれば袋だたきに遭うか、誰にも相手にされないだろう。それをなぜ今なお担ぐのだろう。

世間がその程度しか論語に期待していないからだが、だからといって真に受ける必要も無い。

以下、皇侃その他中国儒者の言い分を記すが、根拠が無いから一生懸命、へたくそなラノベを書いている。ラノベは大変結構なものだが、ラノベをラノベと言わないラノベは、詐欺に他ならない。こんなものを今なお担ぎ回っている「専門家」は、どうかしているとしか思えない。

原文が読めるなら、デタラメだと分かるはずなのだが。

「論語義疏」皇侃の言い分

〔原文〕
子曰自行束脩以上吾未嘗無誨焉註孔安國曰言人能奉禮自行束脩以上則皆教誨之也疏子曰至誨焉此明孔子教化有感必應者也束脩十束脯也古者相見必執物為贄贄至也表已來至也上則人君用玉中則卿羔大夫鴈士雉下則庶人執鶩工商執雞其中或束脩壺酒一犬悉不得無也束脩最是贄之至輕者也孔子言人著能自施贄行束脩以上來見謁者則我未嘗不教誨之故江熙云見其翹然向善思益也古以贄見脩脯也孔注雖不云脩是脯而意亦不得離脯也

〔書き下し〕
子曰く、束脩を行う自り以上は、吾れ未だ嘗て誨うること無くんばあらざる焉。註。孔安國曰く、言うは人能く禮を奉り、束脩を行う自り以上は則ち皆な之を教え誨える也。疏。子の曰うは、誨えをしるす焉り。此れ孔子の教え化うるに感ずる有らば必ず應うるを明める者也。束脩、十束の脯也。古え者相い見ゆるに必ず物を執り贄と為し、贄至る也已に來り至るを表す也。上は則ち人君玉を用い、中は則ち卿は羔、大夫はかり、士は雉。下は則ち庶人はあひるを執り、工商は雞を執り、其中或いは束脩、壺酒、一犬たるも、悉く無きを得不る也。束脩は是れ贄之輕きに至るの最もなる者也。孔子言く、人あきらかに能く贄をいたして束脩を行う自り以上、來り見え謁ゆる者は則ち我れ未だ嘗て教え誨え不るなしと。之れ故に江熙云く、其の翹然として善き思いに向うこと益〻なるを見れば也と。古えは贄を以て見ゆ。脩は脯也。孔注云わ不と雖も、脩は是れ脯にし而、意亦た脯を離るるを得不る也。

孔安国 古注 皇侃

〔現代日本語訳〕
「子曰く、束脩を行う自り以上は、吾れ未だ嘗ておしうること無くんばあらざるなり。」

注釈。孔安国「その心は、礼法通りに”束脩”を行う者なら、誰でも教えるということだ。」

付け足し。先生は「教えとは何か」を記したのだ。これは、孔子の教育に感じ入った者なら、誰でもその教えを受けたがったことを証拠立てるものだ。束脩とは、十束の干し肉だ。古くは、人は人に会うには必ず手土産を差し出した。手土産を贈ることで、”お目に掛かりたい”という意志を示したのだ。

だから上は君主が玉を贈り、中は大領主が仔羊、小領主がガン、士族がキジを贈った。下は庶民がアヒルを贈り、職人と商人はニワトリを贈り、場合によって干し肉の束や酒一壺、犬一匹だったが、何も贈らないなどと言うことはあり得なかった。その中で干し肉の束は、最も安価な贈り物である。

孔子は言った。「確かに贈るつもりで干し肉の束を持ってきたからには、私はやって来た者の誰でも教えないことが無かった。」だから江熙は言った。「跳ね上がるように良き心に向かう意志が膨らんでいるのが見えるからだ。」

昔は人に会うには手土産を持っていった。脩の字は干し肉である。「干し肉である」と孔安国は注釈を付けなかったが、何が何でも、脩は干し肉でしかあり得ないのだ。

ついでに、新注も見ておこう。

『論語集注』朱子の言い分

〔原文〕
脩,脯也。十脡為束。古者相見,必執贄以為禮,束脩其至薄者。蓋人之有生,同具此理。故聖人之於人,無不欲其入於善,但不知來學,則無往教之禮,故苟以禮來,則無不有以教之也。

〔書き下し〕
脩、脯也。十のほじしもて束と為す。古者相い見ゆるに、必ず贄を執りて以て禮と為すも、束脩は其の薄きに至る者たり。蓋し人之生有るは、同じく此の理を具う。故に聖人之人に於けるや、其の善於入るを欲せ不る無きも、但だし來りて學ぶを知ら不らば、則ち往きて之を教うるの禮無し、故に苟し禮を以て來たらば、則ち以て之を教うること有ら不るは無き也。


〔現代日本語訳〕
脩は干し肉である。干し肉十本を束にまとめた。昔は人と会うのに、必ず手土産を持っていくのが作法だったが、束脩は手土産のうち最も安価な品である。思えば人生も同じで、時間を取って会って貰うのに手ぶらで来る、そういう一方的な利益は道理に背く。

だから聖人は、もちろん人が自分の教えによって真人間になるのを望んだが、人生の道理として、「教えて下さい」とやってこない者の所へ、わざわざ押しかけて説教するのはおかしいと思った。

だからもし、人が作法通り手土産を持って来たなら、たとえ安物だろうと、もれなくその人を教えて、追い返したり放置したりしなかったのだ。

古注=皇侃のコピペで済ませている。新儒教の開祖の頭も、この程度なのだ。

以下は、激語が吐きたくて書くのではないが、論語にまつわる儒者の書き物を読んでいると、時おり真剣に考え込んでしまうことがある。「この人達、脳に障害でも負っているのだろうか」と。少なくとも在世中は、学者よ秀才よと、世間からチヤホヤされたはずなのに。

だから無理に理屈を付けるしか無い。古注の時代は、呆れるような偽善を言いふらさないと、学者としても人間としても生きていけなかった。新注の時代は、呆れるような狂信を言いふらさないと、学者としても人間としても生きていけなかった。そしてその次の結論は。

つくづく、中国人に生まれなくて良かった。本当にそう思う。

付記

同じ古注の論語公冶長篇3、瑚璉の章には、以下の通りある。

江熙云瑚璉置宗廟則為貴器然不周於民用也汝言語之士束脩廊廟則為豪秀然未必能幹煩務也

江熙云く、瑚璉は宗廟に置かば則ち貴器為り。然れども民の用於周から不る也。汝言語之士、廊廟に束脩せば則ち豪秀為り、然れども未だ必ずしも能く煩しき務めの幹たらざる也。

廊廟に束脩」するとは、”朝廷で束ね修める”、上手く政務を処理する、ということだろう。どうひっくり返しても、干し肉の束にはならない。江熙は『通典』東晉孝武帝太元六年(381)条に博士官として登場するから、魏の何晏よりは後、南朝梁の皇侃よりは前の人だ。

そして束脩を、肉束だと決めつけた皇侃とは別の意味で用いている。ただし論語の時代と同じではない。それにしても、たった一人の儒者の口から出任せが、今日に至るまで、中台韓のお肉屋さんの臨時収入に繋がっているとは面白い。村おこしの参考になるのではないか。

なお「束脩」については、論語述而篇7余話も参照。

付録:攸の辞書的解釈

学研漢和大字典

会意。攸は「人+:(水のたれるさま)+攴(動詞の記号)」からなるもので、長く細く水をたらすさま。洗滌(センデキ)の滌の原字。また、遊(たゆとう)や揺(固定せずにゆれる)などの意味にも当てて用いる。また、その音を借りて、古代の指さすことば(それ、そのもの)にも当てる。

字通

[会意]人+水+攴(ぼく)。水は水滴の形に作る。人の背後に水をかけ、これを滌(あら)う意で、身を清めること、みそぎをいう。〔説文〕三下に「行水なり」とあり、〔段注〕に、〔唐本〕に「水行くこと攸攸たり」とあるによって「行水攸攸たり」に作るべしというが、流水の意ではない。修・滌の字は攸に従い、清めて無垢の状を修、洗うものを滌(でき)、そのとき用いる枝葉を條(条)という。悠とはその修潔の心意をいう。徐鍇の説に、秦の刻石の字形によって、水中に杖つく意とするのは憶説である。また「攸(もつ)て」「攸(ところ)」のように用いるのは音の仮借である。

大漢和辞典

攸 大漢和辞典

漢語多功能字庫

金文從「」,「」聲,或不從「」而從「」為意符,本義是乾肉。「」和「」都是乾肉,分別在於「」是切成薄片的乾肉,「」是捶薄後加上薑、桂等香料的乾肉。《說文》:「𠋛(脩),脯也。从肉,攸聲。」段玉裁注:「〈膳夫〉大鄭注曰:『脩,脯也。』按此統言之。析言之則薄析曰脯,捶而施薑桂曰段脩。後鄭注〈内饔〉云:『脩,鍛脯也。』是也。〈曲禮〉疏云:『脯訓始,始作卽成也;脩訓治,治之乃成。』修治之,謂捶而施薑桂。經傳多假脩爲修治字。」


金文は「肉」の字形に属し、「攸」の音。あるものは「肉」ではなく「食」を意味の符号とする。原義は”干し肉”である。「脯」と「脩」は共に”干し肉”を意味するが、「脯」は細切りにした薄いものを、「脩」は引き延ばした後でショウガやニッキなどの香料を加えた干し肉を言う。

『説文解字』に言う。「𠋛(脩)はほじしである。肉の字形に属し、攸の音。」段玉裁の注に言う。「『膳夫録』大鄭注に、『脩はほじしである』とある。それを踏まえてこの語の根柢義を考え、そこからの派生義を考えると、つまりは薄く切ったものを「脯」(ほじし)といい、引き延ばしてショウガやニッキで香り付けしたものをたばねて脩という。後鄭による『内饔』の注に言う。『脩は、鍛(ほじし)・ほじしである』これが例である。

『曲禮』の付け足しに言う。『脯の作製は始という。作りはじめてすぐ出来るからだ。脩の作製は治という。あれこれ手を加えて出来るからだ』と。「修治之」とは、引き延ばしてショウガやニッキをまぶすことを言う。経典や注釈には、脩の字を修の意味で用いていることが多い。


古代孔門開學之際,學生要送十脡(即條)肉乾(稱為「束脩」)給孔子,作為見面禮,所以後來「束脩」、「脩金」用來表示送給老師的謝禮或酬金。《論語‧述而》:「自行束脩以上,吾未嘗無誨焉。」


古代では、孔子一門が塾を開いた際、弟子は十本一束の干し肉を孔子に差し出し、これを束脩と言った。これを贈るのが面会の儀礼となり、これを由来に後世、「束脩」「脩金」が師匠に対する射礼や学費を意味するようになった。論語述而篇に言う。「束脩を行う自り以上は、吾れ未だ嘗て誨え無きことあらざる焉」と。


戰國竹簡用作本義,《包山楚簡》255:「脩一𥸡,脯一𥸡」,意謂一箱乾肉,一箱肉脯。《睡虎地秦簡.日書甲種》簡76正貳:「脯脩節(䪡)肉」,這裏講述四種肉,包括一、切成薄片的乾肉(「」);二、捶薄後加上薑、桂等香料的乾肉(「」);三、蔬菜和肉細切做成的肉醬(「節(䪡)」);四、新鮮的肉。


戦国時代の竹簡では、原義通りに用いられている。戦国時代中期の『包山楚簡』255にいう。「脩一𥸡(はこ)、脯一𥸡」と。一箱の干し肉と、一箱のほじしをいう。戦国末期の『睡虎地秦簡.日書甲種』簡76正貳にいう。「脯脩節(䪡)肉」と。ここでは四種肉を述べている。つまり薄く切った干し肉を「脯」といい、引き延ばした後でショウガやニッキをまぶしたものを「脩」といい、野菜とまぜこんで塩漬けにしたのを「節(䪡)」といい、新鮮な肉を「肉」といった。


金文、竹簡通假為「」,中山王鼎:「越人脩(修)教備信」,意謂越國修治國之道,推行教化,具備誠信。《睡虎地秦簡.為吏之道》簡5貳:「正行脩(修)身」。《睡虎地秦簡.語書》簡4:「脩(修)法律令、田令」。


金文や竹簡では、音を借りて「修」の意で用いる。中山王鼎にいう。「越人は教えを脩(ととの)えて信用を備えた」と。越国が国政の方法を整えて、民衆教育を推進し、それで政府に信用が集まった、の意。『睡虎地秦簡.為吏之道』簡5貳にいう。「行いを正して身を脩(おさ)めよ」。『睡虎地秦簡.語書』簡4にいう。「法律令、田令を脩える」。


漢帛書通假為「」,表示洗滌,《馬王堆.老子乙本》第225行:「脩(滌)除玄監(鑒),能毋有疵乎?」意謂把鏡子洗乾淨,能沒有污垢嗎?又假借為「」,是一種古代烹調方法,用植物淀粉拌和食物,使之柔滑。《馬王堆.五十二病方》第241行:「亨(烹)肥羭,取其汁漬美黍米三斗,炊之,有(又)以脩(滫)之」。意謂烹煮肥美的黑色母羊,把熬出的肉汁浸泡三斗甘美的黍米,用火燒炊,再用淀粉攪拌,使之柔滑。《禮記.內則》:「滫瀡以滑之。」


漢代の絹に記された文書では、「滌」の意味で用いられ、洗い流すことを意味する。『馬王堆.老子乙本』第225行にいう。「玄き監を脩い除かば、能く疵有る毋からん乎」と。意味は、鏡をよく洗えば、少しでも汚れが残るだろうか。

また「滫」の意でも用いられた。これは古代の調理法の一種である。植物のデンプンをまぶしてとろみを付けた。『馬王堆.五十二病方』第241行にいう。「肥羭を亨て、其の汁を取り、美き黍米三斗に漬けて之を炊かば、以て之を脩する有り」。意味は、よく太ったメスの黒い羊を煮て、煮上がった煮汁を三斗の甘く美味なキビやコメと混ぜ、火にかけて煮、再度デンプンをまぜると、煮汁にとろみが出る。

『禮記』内則篇に言う。「滫瀡(シュウスイ)以て之を滑かにす」(あんかけ・とろみでなめらかに仕上げる)。

論語解説
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コメント

  1. 匿名 より:

    束脩の解釈について。脩という文が戦国を遡らないというのは仰る通りかもしれませんが、どうもその戦国時代にあっては既に脩は「肉」という意味で用いられていたようですよ。
    孫引きになりますが、http://humanum.arts.cuhk.edu.hk/Lexis/lexi-mf/search.php?word=%E8%84%A9
    こちら漢字多功能字庫では戦国の諸竹簡における脩の用法が並べられています。肉という字義の出典は相當古いようですが。

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