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論語詳解129雍也篇第六(12)子の道を’

論語雍也篇(12)要約:鉄器と弩(クロスボウ)の実用化で、激動の春秋時代。時代に対応すべく、弟子の冉有は主家の季孫家と共に、税制改革に取りかかります。しかし超人ではあってもすでに晩年の孔子先生には、その必要性が理解出来ませんでした。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

冉求曰非不說子之道力不足也子曰力不足者中道而廢今女畫

  • 「說」字:〔兌〕→〔兊〕。

校訂

諸本

  • 正平本:「冉求」→「冉有」
  • 文明本:「冉求」→「冉求」

東洋文庫蔵清家本

冉有曰非不說子之道也力不足也子曰力不足者中道而廢今女畫

  • 「有」字:宮内庁本同。京大本「有」、「求」と傍記。
  • 「說」字:つくりは〔兊〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

……道而廢。今女畫。」121

標点文

冉有曰、「非不說子之道也、力不足也。」子曰、「力不足者、中道而廢。今女畫。」

復元白文(論語時代での表記)

冉 金文有 金文曰 金文 非 金文不 金文兌 金文子 金文之 金文道 金文也 金文 力 金文不 金文足 金文也 金文 子 金文曰 金文 力 金文不 金文足 金文者 金文 中 金文道 金文而 金文法 金文 今 金文女 金文画 金文

※說→兌・廢→「灋」(法)。論語の本章は、「足」「畫」の用法に疑問がある。

書き下し

冉有ぜんいういはく、みちよろこるにあらざるかなちからかなと。いはく、ちからものは、なかばのみちにしつ、いまなんぢかぎれりと。

論語:現代日本語訳

逐語訳

冉求 冉有
冉有ゼンユウが言った。「先生の説く原則を喜ばないのではないのですよ。どうしても力が足りないのですよ。」先生が言った。「力が足りない者は、道の途中でやめる。今お前は区切った。」

意訳

冉求 焦り 孔子 説教
冉有「先生の理想に共鳴はしますが、私には先生の言う、理想の政道を実現するなんて無理ですよ。」
孔子「(カチン!)言ったな !? やりもしないで何が無理だっ!」

従来訳

下村湖人
冉求(ぜんきゅう)がいった。――
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
すると、先師はいわれた。
「力が足りないかどうかは、(こん)かぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

冉求說:「我不是不喜歡您的學說,而是能力不足。」孔子說:「如果是能力不足的話,會半道而廢,現在你還沒開始,就不想前進了。」

中国哲学書電子化計画

冉求が言った。「私はあなたの学説を喜ばないのではありません。能力が足りないのです。」孔子が言った。「本当に能力不足なら、道の途中で止める。今お前は始めようともしない。つまり前進する気が無い。」

論語:語釈

 (、「 。」 、「 。」


冉求(ゼンキュウ)→冉有(ゼンユウ)

孔子の弟子、冉求子有のこと。現存最古の論語本である定州竹簡論語は本章のこの部分が欠損し、唐石経は「冉求」といみ名で呼び捨てにし、清家本は「冉有」とあざ名で敬称している。清家本の年代は唐石経より新しいが、より古い古注系の文字列を伝えており、唐石経を訂正しうる。従って「冉有」に改めて校訂した。

論語の中での冉求子有の呼び名は、「冉求」が3、「冉有」が11、「冉子」が3。「冉求」と呼び捨てにされているもののうち、論語先進篇と論語憲問篇の例は、季子然・孔子という目上の発言の中での呼びであり、地の文で「冉求曰」となっている論語雍也篇本章の例は異常。

京大蔵の清家本では、「冉有」と記し横に小さく「求」と記している。同本で他の「冉有」にはこういう添え書きが無い(例1例2例3例4)。つまり京大蔵清家本は唐石経の文字列を知って、あとから添え書きした可能性が高く、清家本が唐石経より古い文字列を伝えている傍証となる。

清家本に次いで古い日本の論語本である正平本も「冉有」と記しており、清家本を引き継いでいる。対して次に古いとみられる本願寺坊主の手に成る文明本は「冉求」と記しており、唐石経と同じ。文明本は中国伝承本とも異なる勝手な改竄が見られる本だが、論語の本章のこの部分については、唐石経を参考に改めた可能性がある。

唐石経が「冉求」といみ名を呼び捨てに書いたのは、論語の本章が孔子による叱られ話であるからだとしか説明が付かないが、隋代の『経典釈文』には論語についてさまざまな異本があったことが記されており、唐石経より前に「冉求」と記す版本があった可能性はある。ただし『経典釈文』は論語の本章について、「不說」「中道」「今女」については発音に関して言及があるものの、「冉求/冉有」について何も記しておらず、唐石経の「冉求」は唐儒の勝手な改竄である可能性もまたある。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

冉有は実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。

冉 甲骨文 冉 字解
「冉」(甲骨文)

「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。

求 甲骨文 求 字解
「求」(甲骨文)

「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

非(ヒ)

非 甲骨文 非 字解
(甲骨文)

論語の本章では”~でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

說(エツ)

説 楚系戦国文字
(楚系戦国文字)

論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。

庶民として、身分差別の時代の中でモヤモヤ悩んでいたのが、「こうすれば出世が出来るのじゃ」と孔子に教えられてすっきりしたわけ。

先秦両漢=中国古代の文章では、音が同じだと字の形にこだわらないことが多い。それが藤堂明保博士の漢字学の土台だが、理由の一は昔だからそんなに字が出そろっていなかったこと、もう一つは古典は書き写す間に写し間違いがあることによる。

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”やり方”・”過程”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

也(ヤ)

唐石経では「不說子之道」と記し、清家本は「不說子之道也」と句末に「也」を記す。これに従い「也」字があるものとして校訂した。

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「かな」と読んで断定の意。「なり」と読む断定の意は、春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

力(リョク)

力 甲骨文 力 字解
(甲骨文)

論語の本文では”能力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。

足(ショク/シュ)

足 疋 甲骨文 足 字解
「疋」(甲骨文)

論語の本章では”足りる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…する者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

中(チュウ)

中 甲骨文 中 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の途中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

廢(ハイ)

廃 隷書 廃 字解
(隷書)

論語の本章では”捨てる”→”やめる”。新字体は「廃」。呉音は「ホ」。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「灋」(法)。字形は「广」”屋根”+「發」”弓を射る”で、「發」は音符。詳細は論語語釈「廃」を参照。

今(キン)

今 甲骨文 今 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「シュウ」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。

女(ジョ)

女 甲骨文 常盤貴子
「女」(甲骨文)

論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。

畫(カイ/カク)

画 甲骨文 画 字解
(甲骨文)

論語の本章では”区切る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「画」。「ガ」は慣用音、「エ」は呉音。「カイ」の音で”描く”、「カク」の音で”区切る”を意味する。甲骨文の字形には、「又」”手”を欠くもの、「个」”たけ”を「丨」”ひご”に描くものなどがある。字形は「聿」”ふで”+「又」+”墨壺”で、筆に墨を含ませて筆画を記すこと。原義は”記す・描く”。甲骨文では人名・地名に用い、金文では”絵画”、”彫刻”の意に用い、戦国の竹簡で”描く”、”区切る”の意に用いた。詳細は論語語釈「画」を参照。

なお旧字体は「昼」と間違いやすい。「画」は「田」、「昼」は「日」。

(画) (昼)

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、先秦の誰一人引用せず、再録もしていない。定州竹簡論語にあるから、前漢前半には成立していたろうが、欠損がひどくて、本章がもとどのようになっていたか心細い。残っていたのは現伝の本章のうち、最後の六文字「道而廢。今女畫。」だけになる。

従って全文が確認できる初出は、後漢末~南北朝に成立の古注になる。

古注『論語集解義疏』

註孔安國曰畫止也力不足者當中道而廢今汝自止耳非力極也

孔安国
注釈。孔安国「画とは止めることだ。力の足りない者は、途中で止めて当然だが、今お前は自分から止めてしまった。力が足りないにも程がある。」

孔安国の実在が疑わしいのはいつも通り。ここではまるで孔子になったかのような物言いをしている。また普段の古注は原文の途中に割り込むのに、本章では原文が終わるまで辛抱している。ただしそれが何を意味するかまでは分からない。新注は次の通り。

新注『論語集注』

說,音悅。女,音汝。力不足者,欲進而不能。畫者,能進而不欲。謂之畫者,如畫地以自限也。

論語 朱子 新注
説は、悦の音で読む。女は、汝の音で読む。力不足とは、進もうとしても出来ないことだ。画とは、進めるのに望まないことだ。画という言い方は、字面に線を引いて自分の道を限ることだ。


胡氏曰:「夫子稱顏回不改其樂,冉求聞之,故有是言。然使求說夫子之道,誠如口之說芻豢,則必將盡力以求之,何患力之不足哉?畫而不進,則日退而已矣,此冉求之所以局於藝也。」

論語 胡寅
胡寅「孔子先生は前章で、貧乏暮らしを楽しんで止めないと顔回を讃えた。それを冉求が聞いていたので、本章のようなやりとりがあった。

そのうらには、冉求は先生の道を喜ぶと言っても、実のところ家畜がエサを喜ぶようなことを言っただけで、本当なら懸命の努力で道を求めるはずだ。どうして力が足りないなどとこぼす必要がある?

見限って進歩しようとしなければ、日に日に成り下がるだけで、これが冉求がただの器用貧乏で終わった理由だ。」

冉有を家畜扱いした胡寅は、古拙な似顔絵にもその卑劣な人格が現れているが、金軍が北宋に押し寄せると真っ先に姿をくらまし、北宋が滅びやがて南宋が成立するとノコノコ現れて官職を要求した。任官後は他人の悪口ばかり言って働かないので、宰相によってクビにされた。こういう宋儒のていたらくについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

ともあれ論語の本章は、文字史的に論語の時代に遡れるから、史実として扱ってよい。

解説

冉有は『史記』弟子伝・『孔子家語』七十二弟子解ともに孔子より29年少と記し、春秋の世からすれば孫ほど年齢が離れていた。冉有は冉雍仲弓と共に冉氏一族の俊才として、長老の冉耕伯牛が孔子に教育を託した若者だが(孔門十哲の謎#侮りがたい冉氏一族)、冉雍仲弓は「雍や南面すべし」(論語雍也篇1)と孔子がべた褒めしたのに対し、孔子との仲は必ずしもしっくりいっていない。

戦国の竹簡によれば、冉雍仲弓が孔子亡命前にすでに子路と共に筆頭家老家の季孫家で執事を務めているのに対し、冉有は孔子亡命時にそのまま魯国に残ったか、あるいは亡命の旅から先に帰国してやはり季孫家に執事として仕えた。激動の春秋末期にあって、両者の政治的行動は当然異なる。

冉雍仲弓が具体的に何をしたかは史料に見えない。しかし冉有は季孫家の政策に従い、新税制を魯国に施行しようとして改革の実務に当たった。前近代では税と労役・兵役はほぼ一体化しており、春秋の税制改革は軍制改革を伴った。

税制改革は、既得権益からはもちろん、それまでの税制に慣れた人々からも忌み嫌われる汚れ仕事だが、その上改革が軍政にも及ぶなら、軍部からも嫌われることになる。この改革には孔子も反対し、その結果冉有と孔子の師弟関係はぎくしゃくした。

季孫家が耕地の面積で徴税しようとした。冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。
孔子「知らん。」

三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。

「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。

御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)

孔子の生前、弩(クロスボウ)の実用化によって、僅かな訓練しか施さない徴集の歩兵でも、強力な打撃部隊になり得た(論語における君子)。その結果軍の主力が貴族の操る戦車隊から、歩兵隊に移り変わりつつあった時、孔子が塾の必須科目に入れた「御」=戦車の操縦は、時代遅れになりつつあった。

季孫家と冉有が進めた税制改革は、おそらくこの軍制改革の必要から始まったのだろう。しかしすでに晩年で、冉有とは祖父・孫ほど年齢の放れた孔子には、改革の必要性が理解出来なかったわけだ。身長2mを超しペニシリン無き時代に70過ぎまで生き、その頭脳は同時代の誰より優れた超人孔子も、時代の流れからは取り残されざるを得なかった。

晩年の孔子が説いた「道」は、すでに時代遅れになっていた。師を敬う冉有は、その「道」を喜ばないわけではなかったが、師の言い付け通りにするには時代があまりに変わり、「力及ばず」と告白せざるを得なかった。孔子の頭も固くなっていただろう。だから「なんじはかぎれり」と言われてしまったのである。

孔子が求めた「道」とは、身分制社会の春秋時代半ばにあって、貴族に相応しい技能教養さえ身につければ、庶民だろうと貴族に成り上がれる世の中だった。流浪の巫女の私生児として生まれた孔子は、自らそれをやってのけ、弟子にも同じ道を進ませようと教育した。

それは成功して、冉有はじめ庶民出身の役人や武将が世に出たのだが、歩兵隊主力の軍制は、古代ギリシアやローマと異なり、中国ではかえって身分差を激しくした。歩兵は相変わらず平民のままだったからだ。東西古代社会がどうしてこう違ったか、ここでは論じる余裕がない。

季孫家と冉有がすすめるそういう「道」は、誰もが技能により貴族に成り上がれる孔子の「道」とは方向が違った。おそらく冉有が孔門の二代名を担ったように(儒家の道統と有若の実像)、冉有はそうした矛盾の中でも、師の「道」と何とか整合性を付けようとしただろう。だがそれは洪水を戸板で止めるようなもので、「力が足りる」はずもなかったのだった。

余話

せんじんのダニ

物事を中途半端に終える事を戒める故事成句として、「ジンの功を一」と言う。九仞≒14m余りまで築山を築いたのに、最後のもっこ一杯分を積み上げる前に止めてしまえば、それは何もしなかったのと同じだと言う。出来の悪い教師や親の言いそうな説教には違いない。

漢文口調は偉そうに聞こえるから、事実を別の変なものに作り替える。九仞の土は高さ九仞の土でしかなく、それまでに費やされた労力は、確かに費やされて無かったことにはならない。他人の仕事に文句を言えば済む立場の者が、報酬惜しさに言いがかりを付けたとも言える。

そもそも出典が、後世の偽作が確定している『尚書』で、周代の言葉でも何でもなく、漢儒が自分の都合で言い出したでっち上げ。偉そうに弱い立場の人間にこの句を説教する者は、自力で漢文を読める者から見れば間抜けこの上ない。これも漢籍が本質的に持つ虚偽の一つ。

詳細は論語雍也篇9余話「漢文の本質的な虚偽」を参照。

そもそも孟子以降の儒者は、どいつもこいつもひょろひょろで、帝国儒者は力仕事を賤しみ、箸と筆とワイロより重い物を持とうとしなかった。もっこ担ぎなどしたこともないくせに、偉そうな事を言うだけで、人間の汗や労力を無いものと見なし、その成果だけ盗み取った。

嗚呼!夙夜罔或不勤,不矜細行,終累大德。為山九仞,功虧一簣。允迪茲,生民保厥居,惟乃世王。


ああ、朝から夜まで下らないことばかり考えて真面目にならず、行動のすみずみまで折り目正しくしようとしなければ、しまいには大いなる道徳から背くことになるだろう。九仞の山を築くのに、もっこ一杯の土を積むのを怠たるのと変わらない。君主が慎み深く努力を重ねるようにして、やっと民は安らかに暮らすことが出来るのだ。それが実行できるようになって、はじめてまことの王と言えよう。(『尚書』周書・旅獒2)

ご覧のように、仮にこの故事成句を有り難がるにせよ、これは君主の心得で、栄耀栄華を受け取る者だけが、慎むべき事柄だ。君主は大勢の人の生き死にを左右するからこそでもあるが、ただの庶民や力の無い子供に、この説教を説くのは馬鹿げているし、ふざけている。

漢文調の説教を言う者に限って、まるで漢文を読んだことがないし、そもそも読めもしないのだ。そういう者もおおかた、サディストからそういう説教をされたからこそだろうが、サドは明確な精神医学上の疾病で、まともな人間のすることではない。

たとえそういう過去を持つにせよ、誰かがサドの連鎖を断ち切らねば、人界の不幸はますます増える。目の前の人間の不幸を思えない者が、説教するなど幼稚の至りで、自分がいかに残忍なことをしているか、客観的な観察が出来ないわけだ。だから漢文を権威と持ち上げる。

ためしにその者に「九仞ってどんな高さですか」と聞くと良い。うろたえるに決まっている。

箱根の山
付け足し。周代における1仞の長さを覚えるより、「千仞の谷」の深さは225mと知る方が楽だ。大して深い谷ではない? 箱根の山ならその程度だが。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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