論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
冉求*曰、「非不說子之道*、力不足也。」子曰、「力不足者、中道而廢。今女畫。」
校訂
武内本
清家本により、道の下に也の字を補う。有、唐石経求に作る。
論語義疏
「冉求」「非不說子之道」
定州竹簡論語
……道而廢。今女畫。」121
→冉求曰、「非不說子之道、力不足也。」子曰、「力不足者、中道而廢。今女畫。」
復元白文(論語時代での表記)
※說→兌・廢→「灋」(法)。論語の本章は、「足」「也」「畫」の用法に疑問がある。
書き下し
冉求曰く、子之道を說ば不るに非ず、力足ら不る也と。子曰く、力足ら不る者は、中ばの道にし而廢つ、今女は畫れりと。
論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす
逐語訳
冉求が言った。「先生の説く原則を喜ばないのではありません。どうしても力が足りないのです。」先生が言った。「力が足りない者は、道の途中でやめる。今お前は区切った。」
意訳
冉有「先生の理想に共鳴はしますが、私には先生の言う、理想の貴族の真似なんて無理ですよ。」
孔子「(カチン!)言ったな !? やりもしないで何が無理だっ!」
従来訳
冉求がいった。――
「先生のお説きになる道に心をひかれないのではありません。ただ、何分にも私の力が足りませんので……」
すると、先師はいわれた。
「力が足りないかどうかは、根かぎり努力して見たうえでなければ、わかるものではない。ほんとうに力が足りなければ中途でたおれるまでのことだ。お前はたおれもしないうちから、自分の力に見きりをつけているようだが、それがいけない。」下村湖人先生『現代訳論語』
現代中国での解釈例
冉求說:「我不是不喜歡您的學說,而是能力不足。」孔子說:「如果是能力不足的話,會半道而廢,現在你還沒開始,就不想前進了。」
冉求が言った。「私はあなたの学説を喜ばないのではありません。能力が足りないのです。」孔子が言った。「本当に能力不足なら、道の途中で止める。今お前は始めようともしない。つまり前進する気が無い。」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
冉求(ゼンキュウ)
孔子の弟子、冉求子有のこと。実務に優れ、政戦両略の才があった。「政事は冉有、子路」とおそらく孟子によって論語先進篇2に記された、孔門十哲の一人。詳細は論語の人物:冉求子有を参照。
「冉」(甲骨文)
「冉」は日本語に見慣れない漢字だが、中国の姓にはよく見られる。初出は甲骨文。同音に「髯」”ひげ”。字形はおそらく毛槍の象形で、原義は”毛槍”。春秋時代までの用例の語義は不詳だが、戦国末期の金文では氏族名に用いられた。詳細は論語語釈「冉」を参照。
「求」(甲骨文)
「求」の初出は甲骨文。ただし字形は「豸」。字形と原義は足の多い虫の姿で、甲骨文では「とがめ」と読み”わざわい”の意であることが多い。”求める”の意になったのは音を借りた仮借。同音は「求」を部品とする漢字群多数だが、うち甲骨文より存在する文字は「咎」のみ。甲骨文では”求める”・”とがめる”の意が、金文では”選ぶ”、”祈り求める”の意が加わった。詳細は論語語釈「求」を参照。
なお論語の中での冉求子有の呼び名は、「冉求」が3、「冉有」が11、「冉子」が3。「冉求」と呼び捨てにされているもののうち、論語先進篇と論語憲問篇の例は、季子然・孔子という目上の発言の中での呼びであり、地の文で「冉求曰」となっている論語雍也篇本章の例は異常。
それゆえに武内本では校訂して古注や唐石経の「冉求」を清家本の「冉有」に改めたわけだが、1240年頃の清家本によって、830年頃の唐石経を訂正するにはそれなりに手続きが要る。京大蔵の清家本では、「冉有」と記し横に小さく「求」と記している(縦横中央左頁)。
他の箇所にはこういう添え書きが無い(例1・例2・例3・例4)。つまり清家本の筆写は唐石経の文字列を知っていた可能性がある。「冉求」は呼称として異常ではあるものの、定州竹簡論語では簡が欠損しており、どちらが正しいとは判じかねる。
清家本に次いで古い日本の論語本である京大蔵正平本も「冉有」と記しており、こちらには添え書きがない。ただし清家本を受けて「冉有」と記した可能性がある。現伝古注の祖本である文明本はネット上での公開がなく、それを底本とする懐徳堂本は「冉求」と記す。
結局「冉求」を「冉有」に校訂すべき十分な物証がない。従って「冉求」のままとした。
原始論語?…→定州竹簡論語→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →白虎通義─古注─経典釈文┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)────→(現在) →(日本)───────懐徳堂本→(現在)
曰(エツ)
(甲骨文)
論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
非(ヒ)
(甲骨文)
論語の本章では”…でない”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は互いに背を向けた二人の「人」で、原義は”…でない”。「人」の上に「一」が書き足されているのは、「北」との混同を避けるためと思われる。甲骨文では否定辞に、金文では”過失”、春秋の玉石文では「彼」”あの”、戦国時代の金文では”非難する”、戦国の竹簡では否定辞に用いられた。詳細は論語語釈「非」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
說(エツ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”喜ぶ”。新字体は「説」。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「兌」で、原義は”笑う”。詳細は論語語釈「説」を参照。
庶民として、身分差別の時代の中でモヤモヤ悩んでいたのが、「こうすれば出世が出来るのじゃ」と孔子に教えられてすっきりしたわけ。
先秦両漢=中国古代の文章では、音が同じだと字の形にこだわらないことが多い。それが藤堂明保博士の漢字学の土台だが、理由の一は昔だからそんなに字が出そろっていなかったこと、もう一つは古典は書き写す間に写し間違いがあることによる。
子(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”(孔子)先生”。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義は”これ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
道(トウ)
「道」(甲骨文・金文)
論語の本章では”やり方”・”過程”。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。
力(リョク)
(甲骨文)
論語の本文では”能力”。初出は甲骨文。「リキ」は呉音。甲骨文の字形は農具の象形で、原義は”耕す”。論語の時代までに”能力”の意があったが、”功績”の意は、戦国時代にならないと現れない。詳細は論語語釈「力」を参照。
足(ショク/シュ)
「疋」(甲骨文)
論語の本章では”足りる”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。ただし字形は「疋」と未分化。「ソク」「ス」は呉音。甲骨文の字形は、足を描いた象形。原義は”あし”。甲骨文では原義のほか人名に用いられ、金文では「胥」”補助する”に用いられた。”足りる”の意は戦国の竹簡まで時代が下るが、それまでは「正」を用いた。詳細は論語語釈「足」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
力不足也(ちからたらざるなり)
論語の本章では”先生の教説には付き合いきれません”。
孔子の話を聞いてすっきりしたはいいのだが、理想的な貴族になるため、なんとも珍妙なことをせよと孔子は言った。それは例えば現代に置き換えれば、「明日から外に出る時にはトサカをかぶりなさい」と言うようなものだった。
「滑稽」の語源となった、斉の宰相・晏嬰の言葉がそれを表している。

今、孔子は見た目を飾り立て、上り下りの礼や作法を面倒にしましたから、世代を重ねても覚え切ることはできません。今年一年ならなおさらです。殿が孔子を用い、斉の習俗を変えようとするのは、数多い民を導く方法ではありません。(『史記』孔子世家)
孔子の言う「礼」とはそういうことである。冉有は出世して貴族に成り上がりたいのはやまやまだが、そんな妙ちきりんなことはできません、と孔子に言ったわけ。非趣味人が、コスプレ大会に出なさいと言われたようなもので、真面目な冉有には耐えられなかったのである。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”…する者”。新字体は「者」。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…する者”・”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
中(チュウ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の途中”。初出は甲骨文。甲骨文の字形には、上下の吹き流しのみになっているものもある。字形は軍司令部の位置を示す軍旗で、原義は”中央”。甲骨文では原義で、また子の生まれ順「伯仲叔季」の第二番目を意味した。金文でも同様だが、族名や地名人名などの固有名詞にも用いられた。また”終わり”を意味した。詳細は論語語釈「中」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”…と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
廢(ハイ)
(隷書)
論語の本章では”捨てる”→”やめる”。新字体は「廃」。呉音は「ホ」。初出は前漢の隷書で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「灋」(法)。字形は「广」”屋根”+「發」”弓を射る”で、「發」は音符。詳細は論語語釈「廃」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
女(ジョ)
「女」(甲骨文)
論語の本章では”お前”。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”…のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。
畫(カイ/カク)
(甲骨文)
論語の本章では”区切る”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。新字体は「画」。「ガ」は慣用音、「エ」は呉音。「カイ」の音で”描く”、「カク」の音で”区切る”を意味する。甲骨文の字形には、「又」”手”を欠くもの、「个」”たけ”を「丨」”ひご”に描くものなどがある。字形は「聿」”ふで”+「又」+”墨壺”で、筆に墨を含ませて筆画を記すこと。原義は”記す・描く”。甲骨文では人名・地名に用い、金文では”絵画”、”彫刻”の意に用い、戦国の竹簡で”描く”、”区切る”の意に用いた。詳細は論語語釈「画」を参照。
なお旧字体は「昼」と間違いやすい。「画」は「田」、「昼」は「日」。
畫(画) 晝(昼)
論語:付記
検証
論語の本章は、先秦両漢の誰一人引用せず、再録もしていない。定州竹簡論語にあるから、前漢前半には成立していたろうが、欠損がひどくて、本章がもとどのようになっていたか心細い。残っていたのは現伝の本章のうち、最後の六文字「道而廢。今女畫。」だけになる。
従って全文が確認できる初出は、後漢末~南北朝に成立の古注になる。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰畫止也力不足者當中道而廢今汝自止耳非力極也
注釈。孔安国「画とは止めることだ。力の足りない者は、途中で止めて当然だが、今お前は自分から止めてしまった。力が足りないにも程がある。」
孔安国の実在が疑わしいのはいつも通り。ここではまるで孔子になったかのような物言いをしている。また普段の古注は原文の途中に割り込むのに、本章では原文が終わるまで辛抱している。ただしそれが何を意味するかまでは分からない。新注は次の通り。
新注『論語集注』
說,音悅。女,音汝。力不足者,欲進而不能。畫者,能進而不欲。謂之畫者,如畫地以自限也。
説は、悦の音で読む。女は、汝の音で読む。力不足とは、進もうとしても出来ないことだ。画とは、進めるのに望まないことだ。画という言い方は、字面に線を引いて自分の道を限ることだ。
胡氏曰:「夫子稱顏回不改其樂,冉求聞之,故有是言。然使求說夫子之道,誠如口之說芻豢,則必將盡力以求之,何患力之不足哉?畫而不進,則日退而已矣,此冉求之所以局於藝也。」
胡寅「孔子先生は前章で、貧乏暮らしを楽しんで止めないと顔回を讃えた。それを冉求が聞いていたので、本章のようなやりとりがあった。
そのうらには、冉求は先生の道を喜ぶと言っても、実のところ家畜がエサを喜ぶようなことを言っただけで、本当なら懸命の努力で道を求めるはずだ。どうして力が足りないなどとこぼす必要がある?
見限って進歩しようとしなければ、日に日に成り下がるだけで、これが冉求がただの器用貧乏で終わった理由だ。」
冉有を家畜扱いした胡寅は、古拙な似顔絵にもその卑劣な人格が現れているが、金軍が北宋に押し寄せると真っ先に姿をくらまし、北宋が滅びやがて南宋が成立するとノコノコ現れて官職を要求した。任官後は他人の悪口ばかり言って働かないので、宰相によってクビにされた。
ともあれ論語の本章は、文字史的に論語の時代に遡れるから、史実として扱ってよい。
解説
さて上記の通り、地の文で冉有を呼び捨てにしている本章は異常だが、冉有は子貢と並んで、孔門のなかでも実務の業績が記録されている弟子であり、子貢は意図的におとしめられた文章を論語に書き加えられてしまった弟子である点で、本章の冉有と共通する。
冉有と子貢との違いについて言えば、子貢が主に外交で活躍しているのに対し、冉有は孔門と縁の深い孟孫家の若当主・孟武伯と共に部将として、魯国軍の半分を率いて戦ったり、筆頭家老の季孫家の執事として、税制改革に走り回るなど多様な才能があった。
それゆえに論語雍也篇8の「求也藝」”冉有は多芸多才”と記されることになったのだろうが、放浪から帰国した孔子とは関係がギクシャクしたらしい。隠居同然の孔子と、現政権の幹事長的役割を担う冉有とでは、政治や社会に対する立場と見方が違ったからだ。
季孫家が耕地の面積で徴税しようとした。冉有を孔子の下へ使わして意見を聞いた。
孔子「知らん。」
三度問い直しても黙っているので、冉有は言った。「先生は国の元老です。先生の同意を得て税制を行おうとしているのに、どうして何も仰らないのですか。」それでも孔子は黙っていた。だがおもむろに「これは内緒話だがな」と語り始めた。
「貴族の行動には、礼法の定めによって限度がある。配給の時には手厚く、動員の時はほどほどに、徴税の時は薄くと言うのがそれだ。そうするなら、従来の丘甲制で足りるはずだ。もし礼法に外れて貪欲に剥ぎ取ろうとするなら、新しい税法でもまた不足するぞ。
御身と季孫家がもし法を実行したいなら、もとより我が魯には周公が定めた法がある。その通りにすれば良かろう。そうでなく、もしどうしても新税法を行いたいなら、わしの所へなぞ来なくてよろしい。」そう言って許さなかった。(『春秋左氏伝』哀公十一年)
また論語の本章は、論語に言う仁とは何かが分かっていないと、分からない。
孔子は論語時代の身分差別を自ら崩し、血統貴族に代わって教育を受けた庶民が官吏に就く世界を目指した。その貴族になるための必須教養と技能、一般常識を礼といい、差別の中でのし上がるには、孔子一門は門閥以上に貴族らしくなる必要があった。
ゆえに礼は常人には、実践も記憶も無理だと晏嬰に言われた(上記)。
かかる孔子のコスプレ趣味には付き合えない、と冉有が白状したのが本章で、こんにち非趣味人が趣味人の行動の奇矯さに、時に目を背けたくなるような感情を冉求は持ったのだろう。孔子一門では実直な実務家として知られた冉求は、オタクになれなかったのである。
今様なら魔法少女の杖とか渡されて、「さあコスプレしなさい」と言われたようなもの。
「先生のお話はよぉーく分かりました。分かりましたが、私には付き合えませんこんなの」
「なんじゃとーっ! このタワケ者めが。わしの趣味をやりもせずこんなのとは何じゃ!!」
孔子は自分が弟子に求めた「礼」が、恥ずかしいものだと十分自覚していた可能性がある。
この八佾篇の章は偽作だが、もし史実なら、冉有に図星を言われて激怒しても不思議はない。
冉有は武将としても優れ、政才を孔子自身が評価したにもかかわらず(論語先進篇2)、論語では唯一、破門を記された弟子でもある(論語先進篇16)。その理由を示すのが本章で、好き嫌いの激しい孔子は、熱く語った自分の教説を否定され、心底冉有が嫌いになったに違いない。
裏返せば、冉有はコスプレなしでも、その才だけで十分に出世した実績があるからこそ、こういう問答になったと言うべきだろう。加えて冉有は武勲をたてに、亡命中の孔子を呼び返すよう、筆頭家老の季孫氏に求めている(『史記』孔子世家)。師にもの申す力があったのだ。
なお史料から冉有の名が煙のように消え去るのと前後して、史料に煙のように現れた有力弟子に有若がいる。有若は同時代史料に全く記録が見えない謎の弟子だが、孔子を継いで二代目の儒家の頭領になったと『史記』はいう。おそらく有若は、冉有のまたの名だと思われる。
詳細は儒家の道統と有若の実像を参照。
余話
せんじんのダニ
物事を中途半端に終える事を戒める故事成句として、「九仞の功を一簣に虧く」と言う。九仞≒14m余りまで築山を築いたのに、最後のもっこ一杯分を積み上げる前に止めてしまえば、それは何もしなかったのと同じだと言う。出来の悪い教師や親の言いそうな説教には違いない。
漢文口調は偉そうに聞こえるから、事実を別の変なものに作り替える。九仞の土は高さ九仞の土でしかなく、それまでに費やされた労力は、確かに費やされて無かったことにはならない。他人の仕事に文句を言えば済む立場の者が、報酬惜しさに言いがかりを付けたとも言える。
そもそも出典が、後世の偽作が確定している『尚書』で、周代の言葉でも何でもなく、漢儒が自分の都合で言い出したでっち上げ。偉そうに弱い立場の人間にこの句を説教する者は、自力で漢文を読める者から見れば間抜けこの上ない。これも漢籍が本質的に持つ虚偽の一つ。
詳細は論語雍也篇9余話「漢文の本質的な虚偽」を参照。
そもそも孟子以降の儒者は、どいつもこいつもひょろひょろで、帝国儒者は力仕事を賤しみ、箸と筆とワイロより重い物を持とうとしなかった。もっこ担ぎなどしたこともないくせに、偉そうな事を言うだけで、人間の汗や労力を無いものと見なし、その成果だけ盗み取った。
嗚呼!夙夜罔或不勤,不矜細行,終累大德。為山九仞,功虧一簣。允迪茲,生民保厥居,惟乃世王。
ああ、朝から夜まで下らないことばかり考えて真面目にならず、行動のすみずみまで折り目正しくしようとしなければ、しまいには大いなる道徳から背くことになるだろう。九仞の山を築くのに、もっこ一杯の土を積むのを怠たるのと変わらない。君主が慎み深く努力を重ねるようにして、やっと民は安らかに暮らすことが出来るのだ。それが実行できるようになって、はじめてまことの王と言えよう。(『尚書』周書・旅獒2)
ご覧のように、仮にこの故事成句を有り難がるにせよ、これは君主の心得で、栄耀栄華を受け取る者だけが、慎むべき事柄だ。君主は大勢の人の生き死にを左右するからこそでもあるが、ただの庶民や力の無い子供に、この説教を説くのは馬鹿げているし、ふざけている。
漢文調の説教を言う者に限って、まるで漢文を読んだことがないし、そもそも読めもしないのだ。そういう者もおおかた、サディストからそういう説教をされたからこそだろうが、サドは明確な精神医学上の疾病で、まともな人間のすることではない。
たとえそういう過去を持つにせよ、誰かがサドの連鎖を断ち切らねば、人界の不幸はますます増える。目の前の人間の不幸を思えない者が、説教するなど幼稚の至りで、自分がいかに残忍なことをしているか、客観的な観察が出来ないわけだ。だから漢文を権威と持ち上げる。
ためしにその者に「九仞ってどんな高さですか」と聞くと良い。うろたえるに決まっている。
付け足し。周代における1仞の長さを覚えるより、「千仞の谷」の深さは225mと知る方が楽だ。大して深い谷ではない? 箱根の山ならその程度だが。
参考記事
- 論語述而篇27余話「嫌われてるとも知らないで」