論語における漢字の音通と古代音

音通とは

音通とは、同音や近音の漢字を、別の意味に転用すること。仮借カシャりて借りる”とも言う。その発生は、口語は野放図に人間の口から生まれるのに対し、文字は「ああ、そういう意味ね」との、大勢の同意が要るからだ。牛は牛 金文と書いたから、ウシなのだと受け入れられた。

牛 金文 牛 金文
西周早期 西周末期 現在

こうした大勢の同意がなければ、その意味を示す文字として通用しない。

つまり口語の数は、常に文字の数より多い。だから文字に表せない口語が多数あるわけで、現在では約十万字ある漢字は、論語の時代には一万字未満しか無かったとされる。従って文字の無い口語を記したければ、別の字を代用するしかないわけで、これが音通という現象になる。

ただし気を付けなければならないのは、代用される文字→同音か近音であって、その逆ではないことだ。儒者どもが学をひけらかすために、長年むやみに逆をやらかしたから、逆が成立している場合は少なくないが、原則は崩れないし、論語の時代のような古代ではなおさらだ。

訳者が論語の史実性を検討するに当たって、音通を幅広く取り入れるのはそれゆえである。正の字のように、原始的な漢字が多数の派生義を持つことは珍しくない。そして多くはやがて、政の字のように、より語義が具体的になった文字が現れ、役割を分担するようになっていく。
正 カールグレン上古音

そして正と政の場合は、たまたま口語も同じ音だったが、違えている場合もある。つまり一つの漢字が複数の音を持つ場合がある。それはより具体的な漢字の出現と共に、再び分化して音も一つになったろうが、現在でも新たな漢字が生まれず、複数の音を持つ漢字は存在する。

例えば「請」がそうで、現代音では「セイ」qǐngだけが残ったが、古代ではdzʰi̯ĕŋとtsʰi̯ĕŋの二つの音があった。前者は”うける”を意味し、後者は”もとめる”を意味した。「施」は現在でもシshīと読んだ場合は”ほどこす”、イyìと読んだ場合は”のびる・およぶ”を意味する。

もちろん古代でも音は違い、”ほどこす”場合はɕia(ɕはシュに近いシ)、”のびる”場合はdiaと発音したとされる。原義は”のびる”方だとされ、”ほどこす”の語義まで兼業したまま現在に至り、”ほどこす”独自の漢字は作られないか、知られないままに今のところ終わった。

音通はむやみに通じない

ただし、音通するかしないかの判断は、なんとなくの感覚でやってしまうと、ただの素人談義になって意味が無い。金比羅ときんぴらとチンピラを同じだと言い張るような説は、たわごとでしかないからだ。まして中国語の音の微妙さは、外国人の常識を覆すほどである。

妈骂麻马吗?mā mà má mǎ ma
”母はあばたの馬に怒鳴りますか?”

これは外国人の耳には、「マーマーマーマーマ」としか聞こえない。同じ「マ」でも、全然意味が違うのだ。そして外国人の耳には同じでも、音の上げ下げや声帯の用法や唇の丸め方に微妙な違いがあり、これを言い間違えると、全く中国人には通じない。

「シャーイーラ。」「なんで殺したんだ?」

言った方は「xiàle」”雨が降ってきた”と言いたかったのだ。しかし口が回らないと「shāle」”魚を締めたよ”と聞こえてしまう。だから少しでも中国語を知る者なら、音通には慎重になるはず。ところが博士・教授先生なのに、日中の専門家にはあまりに無頓着な学者がいる。

白川静 白川静 字通
『字通』の著者、故白川静博士はその一人で、日本語音を比較しただけで、安易に「通ずる」と書いている場合がある。中国語の音、それも復元された古代音で比較しない限り、論語のような最古の古典を読むなら間違いに迷い込む。

今代表して白川博士を出したが、国際的な批判に耐えた中国語音韻学を踏まえないなら、他のどんな権威の言う音通も信用できない。だから専門書に「通ずる」と書いてあっても、自前で古代音を調べ直さない限り、真に受けてはいけないのだ。

もちろん古代の中国語と、現代北京語は同じではない。音の上げ下げも、現在のようではなかっただろうと言われている。だがそれでも、五十音だけで済ませてしまえるほど単純ではない。つまり論語のような最古の古典を読むなら、中国の歴史をある程度知らねばならない。

その前提として、最低でも現代北京語に通じていること、そして国際発音記号が読めることはもちろんだ。そうでなければ、2,5000年前の孔子の肉声には迫れない。しかし論語を読むにも、後世のでっち上げだらけのままでそれでよし、とする立場も、あるにはあるだろう。

だがそれに価値を見いだせないなら、やはり勉強が必要なのだ。
儒者の捏造

おわりに

ここで安易に「通ずる」と言うチンピラ論が、時に文化勲章ものになる理由についても考える価値がある。史実として中国人は、インテリでも上掲「代用される文字→同音か近音」のような、初歩的な形式論理学すら、わきまえる機能を持たなかった。事情は日本の漢学界も同じ。

東大教授だろうと文学部に行くような人物は、文字が読める日本人の中で、最も頭が悪い部類に属する(→日本儒教史)。訳者もその一人に他ならないが、どうも自分は頭が悪い、と深刻に思い直して、中年になってから数学を学び直した。だから逆裏対偶を一通り心得ている。

盗人
ドモルガンの法則にも、ビビらない程度には勉強した。だが学界の権威と讃えられた東大の主任教授だろうとも、その主著で「逆だから真」を平気でやらかす。偉くなり過ぎてしまって、誰も批判してくれないからであり、つまらない研究なので、誰も読んでくれないからだ。

このような、頭の悪さを深刻に思い直す必要の無い人が、因数分解から学び直したりするだろうか。それは理の当然というものである。だからそうした人物を責めることは出来ない代わりに、大っぴらにそうしたチンピラ論を、真に受けず時にはからかい倒してよいのである。

たかが数Ⅰの論理学など、異性の下半身を追っかけるに忙しい、少年少女諸君が学ぶべきものではあるし、その否定から論理の広い世界が広がること、中村元先生の著書にある通りだ。だが否定するにも知りすらしないのでは、広い世界に遊べない。やはり勉強が必要なのだ。


誤解無きよう記す。それでも白川漢字学には大きな価値がある。論語の時代に通用した文字は金文で、金文を含む金石文について、現在最もよく解る本は、やはり『字通』だからだ。もし論語を原文で読むなら、『字通』『大漢和辞典』『学研漢和大字典』は三種の神器と言る。

そうでない論語の訳はデタラメだ。大いにからかい倒していいのである。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だし、訳者に連絡のお気遣いも不要だが(ただしネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。

言い訳無用。訳者が「やった」と思えば全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。空港の刃物検査通過は、やったことがあるが存外簡単だ。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。もし長生きしたいなら、悪いことはせぬものだ。朴ったら○すぞ。それでもやるなら、覚悟致せ。



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コメント

  1. […] →→牛 こうした大勢の同意がなければ、その意味を示す文字として通用しない…。 →続きはhttps://hayaron.kyukyodo.work/kaisetu/ontuu.html […]

  2. […] 論語の本章では”覆う”→”補佐する”。この場合は指示代名詞”あの”で解釈すると意味が分からない。指示する対象がないからだが、どの論語本も分かったような振りをして誤魔化している。論語の本章では「被」”おおう”の音通で、「彼相(=補佐役)」で”補佐役”の意。 […]