論語詳解163述而篇第七(16)我に数年を加え*

論語述而篇(16)要約:全くのデタラメで、当たるも八卦、当たらぬも八卦。八卦良いでお相撲はやっと始まりますが、八卦の占いが始まったのは早くとも戦国時代のこと。孔子先生がそんなものを、一生懸命学んだはずがありません。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子曰、「加我數年、五十以學易、可以無大過矣。」

校訂

定州竹簡論語

……以學,亦a可以毋b大過矣。」157

  1. 亦、阮本作「易」。連上句読為「學易」。『釋文』云、「魯読易為亦。按『魯論』作”亦”、連下句読」。鄭注、「魯読”易”為”亦”」。
  2. 毋、今本作「無」。

→子曰、「加我數年、五十以學、亦可以毋大過矣。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 加 金文我 金文年 金文 五 金文十 金文㠯 以 金文学 學 金文 亦 金文可 金文㠯 以 金文母 金文大 金文過 金文矣 金文

※論語の本章は數の字が論語の時代に存在しない。占いの易は論語の時代に存在しない。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、われ數年すうねんくはへて、五十もつまなばば、おほいにもつ大過たいくわかるなり

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「私にもう数年の寿命を加えて、五十になっても学ぶなら、大きな間違いをしなくて良いに違いない。」

意訳

孔子 人形
あと数年、五十になっても勉強するなら、大失敗をしでかさずに済むに違いない。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「私がもう数年生き永らえて、五十になる頃まで(えき)を学ぶことが出来たら、大きな過ちを犯さない人間になれるだろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「如果我能多活幾年,五十歲學《周易》,就可以無大錯了。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「もしもう幾年か生きられたら、五十歳で”周易”を学び、つまりそれで大きな間違いをしないようになれるだろう。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

、「 ( 。」


加 金文
(金文)

論語の本章では”与える”。初出は西周早期の金文

『学研漢和大字典』によると会意文字で、「力+口」。手に口を添えて勢いを助ける意を示す、という。一方『字通』によると力は耜(すき)の象形で、口は𠙵(さい)。耜を清めて、その生産力の増加を祈る儀礼を示す字であろう、という。詳細は論語語釈「加」を参照。

數/数

初出は戦国文字。論語の時代に存在せず、同音に語義を共有する漢字は無い。従って論語の時代の置換候補は無い。ただし近音の「須」には”しばらく”の語義があり、「数年」の置換候補となる可能性がある。

「数」は孔子塾の必須科目、六芸の一つに数えられているが、六芸の初出は『周礼』で、編纂されたのは漢代。文字的に言えば「いわゆる六芸の数は存在しない」事になってしまうし、類義語の「算」も初出は楚系戦国文字だから、言い出すと論語が崩壊しかねない。なにかしら算術的教養の教授はあったと思いたい。

詳細は論語語釈「数」を参照。

學(カク)易(エキ)→學亦(エキ)

学 甲骨文 学
(甲骨文)

「學」は論語の本章では”学ぶ”。「ガク」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。新字体は「学」。原義は”学ぶ”。座学と実技を問わない。上部は「コウ」”算木”を両手で操る姿。「爻」は計算にも占いにも用いられる。甲骨文は下部の「子」を欠き、金文より加わる。詳細は論語語釈「学」を参照。論語語釈「易」論語語釈「亦」も参照。

前漢宣帝期の定州竹簡論語には「学亦」とあり、古注に「易窮理盡性以至於命」”易は宇宙のことわりを明らかにし、ものごとの性質を見極め、それらによって天命を伺い知る”とあることから、おそらくは後漢の時代に何者かが、勝手に「亦」zi̯ăk(入)を「易」di̯ĕk(入)に書き換えたと思われる。その意図は易の権威付けのためであり、世間師として易を売り出した儒者が儲けるためである。

荀子
儒教に易を持ち込んだのは戦国末期の荀子であることは定説となっている。孔子の生前、易の字に”占い”の語義は無く、亀の甲や動物の骨をあぶる占いは甲骨文の昔から存在したが、筮竹のたぐいを操っての占いは、論語の時代に存在したという証拠が無い。

また孔子は論語衛霊公篇37で、はっきりと占いを否定している。

いはく、君子くんしうらなひてうべなはざれ。

孔子 キメ
諸君は貴族を目指すのだから、迷信に惑わされてはならない。天命を占ったところで、信じるに足りる理由は何もない。他人を納得させるために占いの真似を見せはしても、自分が信じてどうする。

現伝「周易」の基本思想である陰陽の概念は、孔子没後170年ごろの戦国時代に生まれた鄒衍からしか確認できず、『史記』が易による占いを周の昔に遡らせているのはほぼ妄想。

自古受命而王,王者之興何嘗不以卜筮決於天命哉!其於周尤甚,及秦可見。代王之入,任於卜者。太卜之起,由漢興而有。

司馬遷 史記
古来より天の命令で王が決まり、王者が勢いづくのは易によって天命を知ったからに他ならない。易の占いは周の時代にもっとも盛んとなり、秦代にも見られた。やがて王者に代わって天命をうかがい知るために、卜者(宮廷易者)を任命するようになった。その長官である太卜を置いたのは、漢帝国の始めからになる。(『史記』日者列伝)

なお日者列伝を後世の創作とする説があるのは承知しているが、その真偽を質す手段が無いからとりあえずおく。「太卜」の名は『呂氏春秋』にも見えるから、『史記』よりも遡ることにはなるが、孔子の時代にまでは至らない。いずれにせよ論語の時代に占いの易は存在しない。

武内義雄 武内義雄 論語
なお武内本には「釋文云、魯論は易を読みて亦とす、蓋し易は亦と同音のため仮借せられたるもの」とあり、いわゆる占いの「易」だとは、必ずしも解されなかったという。

ただし易と亦が同音というのは、カールグレン上古音がすでに発表されていたゆえに、戦前だろうと誤りで、上掲の通り「亦」zi̯ăk(入)と「易」di̯ĕk(入)で近音ではありえても、同音ではない。「爺いT」と「DDT」、「歯」と「屁」を聞き間違えるだろうか。なお◌̯は音節副音(弱い音)を、 ̆(ブリーヴ)は極短音を、入声はつまった音を意味する。

可以(カイ)

論語の本章では”…できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「クーイー」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。

先秦甲骨金文簡牘詞彙庫 可以

「先秦甲骨金文簡牘詞彙庫」

可 甲骨文 可 字解
「可」(甲骨文)

「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”…できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”…できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。

以 甲骨文 以 字解
「以」(甲骨文)

「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”…で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。

論語:解説・付記

中国歴代王朝年表

中国歴代王朝年表(横幅=800年) クリックで拡大

論語八佾篇の一連の章から明らかになるように、孔子は古代人らしからぬ合理主義者で、神も占いも信じなかった(→孔子はなぜ偉大なのか)。

いはく、ていすでそそのちわれこれることをほつさざるなり

孔子 せせら笑い
禘の祭りでは酒を撒き、それでご先祖様のたましいを呼び申す、ことになっておる。たましいが降りてきた振りした神官どもの、偽善めいた振る舞いは、アホらしくて見るに堪えない。(論語八佾篇10)

またおそらくは本章を易の宣伝に書き換えた儒者の出た後漢の時代は、オカルトや偽善がまかり通ったとんでもない時代でもある(→後漢というふざけた帝国)。訳者としてはこのようなデタラメの下手人を突き止めたい所ではあるが、今のところ「こいつだ」という確信が無い。

なにせ易の字は”占い”とともに、”変更する”というありふれた動詞でも使われる漢字であり、漢籍から検索して引っかかった膨大な易の字を、一々解読していては寿命が尽きてしまう。また下手人が前漢の儒者である可能性も、否定できる根拠を持たず、ただの勘でしかない。

話はこれでおしまいだが、上掲『史記』日者列伝の続きが面白いので訳しておく。

司馬季主者,楚人也。卜於長安東市。

宋忠為中大夫,賈誼為博士,同日俱出洗沐,相從論議,誦易先王聖人之道術,究遍人情,相視而嘆。賈誼曰:「吾聞古之聖人,不居朝廷,必在卜醫之中。今吾已見三公九卿朝士大夫,皆可知矣。試之卜數中以觀采。」二人即同輿而之市,游於卜肆中。天新雨,道少人,司馬季主閒坐,弟子三四人侍,方辯天地之道,日月之運,陰陽吉凶之本。二大夫再拜謁。司馬季主視其狀貌,如類有知者,即禮之,使弟子延之坐。坐定,司馬季主復理前語,分別天地之終始,日月星辰之紀,差次仁義之際,列吉凶之符,語數千言,莫不順理。

宋忠、賈誼瞿然而悟,獵纓正襟危坐,曰:「吾望先生之狀,聽先生之辭,小子竊觀於世,未嘗見也。今何居之卑,何行之汙?」

史記
前漢帝国が天下を平定すると、南方の楚に生まれた易者の司馬季主は、都の長安に出て市場に占いの店を出した。

そのころ、中大夫(政務議官)に任じられた宋忠と、博士(学術顧問官)に任じられた賈誼(『新書』の著者)が、連れだって銭湯に出掛ける道すがら、易について語り合った。易はまことに先王・聖人が生み出した素晴らしい技術であり、あらゆる人の思いを推し量れるわざであると思うと、互いに「すごいすごい」と讃え合うのだった。

賈誼「私の知る限り、いにしえの聖人は朝廷に仕えるのでないなら、易者や医者を開業していた。そこで今の閣僚や高官を見回すと、大した能のある者はいない。だから聖人に出会いたければ、いちまちの易者から探すしかない。」

そこで二人は、同乗した車を市場に向けさせ、占い師が店を連ねる一角に入った。その時雨が降り出して人出はまばらで、司馬季主の店は暇だったので、弟子に占いの講義を行っていた。それがいかにも詳しかったので、宋忠と賈誼の二人は聖人かもしれんと二度拝んで店に入った。

司馬季主は二人がいかにも賢そうな顔をしているので、恭しくお辞儀したあと、弟子に敷物を敷かせて迎え入れた。二人が腰を下ろすと、司馬季主はさらに易の講釈を詳しく始め、長々と数千語にまで至ったが、どれももっともなことわりで矛盾が無い。

たまげた二人は衣冠を正し、正座して言った。「先生のお説はまことに、世にも貴く思われます。それなのになんでまた、こんなむさ苦しい所で、卑しい易者など開業しておられるのですか?」

司馬季主捧腹大笑曰:「觀大夫類有道術者,今何言之陋也,何辭之野也!今夫子所賢者何也?所高者誰也?今何以卑汙長者?」二君曰:「尊官厚祿,世之所高也,賢才處之。今所處非其地,故謂之卑。言不信,行不驗,取不當,故謂之汙。夫卜筮者,世俗之所賤簡也。世皆言曰:『夫卜者多言誇嚴以得人情,虛高人祿命以說人志,擅言禍災以傷人心,矯言鬼神以盡人財,厚求拜謝以私於己。』此吾之所恥,故謂之卑汙也。」

司馬季主「ホーホッホッホ。お二方は見る目をお持ちのようだ。だがおかしな事を仰いましたな? 易者が卑しいというのなら、いったいどんなお方が、世にも貴いと仰るのですかな?」

二人「官位と俸禄が高いのを、世では貴いと申し、賢者がそうなると言われています。先生はそうではありませんから、むさ苦しいと申し上げたのです。それにこういうところに店を出す者は、だいたい口を開けばウソを言い、言ったことはデタラメで、占っても全然当たらない。だから卑しいと申し上げたのです。

世間ではそう言いますし、こういう悪口も聞きますぞ? いわく、易者はハッタリで客を脅し、まやかしで客を怖がらせ、デタラメで客の心を傷付け、お化けを語って金を取り、私利私欲ばかり貪る連中だ、と。」

続きは論語衛霊公篇37で。



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