論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
𦯧公問孔子於子路子路不對子曰女奚不曰其爲人也發憤忘食樂以忘憂不知老之將至云爾
校訂
東洋文庫蔵清家本
葉公問孔子於子路子路不對/子曰汝奚不曰其爲人也發憤忘食樂以忘憂不知老之將至也云爾
「葉」字:〔艹〕→〔十十〕。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……公問孔子於子路,子路不對。子曰:「女何a不曰,其為人也,159……憤忘食,樂以忘憂,不[知老]之至b云壐。」160
- 何、今本作「奚」。
- 老之至、阮本作「老之將至」。皇本作「老之將至也」。
標点文
葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、「女何不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之至云壐。」
復元白文(論語時代での表記)
※憤→奮・壐→爾。論語の本章は、「云壐(爾)」の語が論語の時代に存在しない。少なくとも孔子の台詞は、漢儒による改変を加えられている。
書き下し
葉公孔子を子路於問ふ。子路對へ不。子曰く、女何ぞ曰は不る、其の人と爲り也、憤を發して食を忘れ、樂んで以て憂を忘れ、老之至るを知ら不云壐。
論語:現代日本語訳
逐語訳
葉公が孔子を子路に問うた。子路は答えなかった。先生が言った。「お前はなぜ言わなかったのか。その人となりは、憤りに食事を忘れ、楽しみに心配を忘れ、老いたのも忘れているなどなどと。」
意訳
子路を南方の大国・楚の一領主である葉公のもとに使わした所、葉公が孔子の人となりについて質問した。しかし子路は答えられないまま孔子の元に戻った。
孔子「何で言わなんだのか。天下を憂いて食事を忘れ、政治工作が当たると憂鬱を忘れ、歳も気にせぬお人ですようんぬんと。」
従来訳
葉公が先師のことを子路にたずねた。子路はこたえなかった。先師はそのことを知って、子路にいわれた。――
「お前はなぜこういわなかったのか。――学問に熱中して食事を忘れ、道を楽んで憂いを忘れ、そろそろ老境に入ろうとするのも知らないような人がらでございます、と。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
葉公問子路:孔子是怎樣的人,子路不回答。孔子說:「你怎麽不說:他這個人啊,發憤學習就忘記吃飯,高興起來就忘記了憂愁,不知道快要變老了等等?」
葉公が子路に問うた。「孔子はどのような人か。」子路は答えなかった。孔子が言った。「お前はどうして言わなかったのだ。彼という人は、学習に発憤すると飯を食うのを忘れ、高まると憂いを忘れ、もうすぐ老いるのを知らない人ですなどと。」
論語:語釈
葉公(ショウコウ)
論語では、楚の王族で楚王の諸侯の一人。
生没年未詳。姓は芈(楚の王族の姓。長江文明圏に属する楚は黄河文明圏と異なり、同じ血統でも別の姓を名乗る場合がある。wikipedia芈姓条を参照。)、氏は沈尹(氏は姓と異なり必ずしも同じ血統の集団を意味しない)、名は諸梁、字は子高。楚王の親類の一人で、葉に領地があったので葉公と呼ばれる。楚はあまりに広大だったので、半独立の領主が点在していた。
楚は黄河文明圏と対峙する長江文明圏の盟主で、黄河文明圏の盟主・周の君主が王を名乗り諸侯を従えていたように、王を名乗り諸侯を従えていた。楚王を始めから周王の家来のように見なすのは、黄河文明圏側から見た一方的な評価。詳細は論語八佾篇25解説を参照。
斉の桓公の三十年(BC656)。桓公は諸侯を率いて…楚に攻め込んだ。楚の成王が迎撃軍を率いて対峙し呼ばわった。
楚王「なんだお前らは。何しにワシらの国に踏み込んだ?」
管仲「えーとですねぇ。…だから周王室のための出兵でござる。」
楚王「…知らんぞそんなの。…周の昭王とやらがいなくなった件は、ワシは知らん。どこぞの川岸で、土左衛門でも探すんだな。」(『史記』斉太公世家36)
葉公は領主としては名君であったとされ、楚の大臣としても賢臣と言われる。しかし孔子が謁見しようとした楚の昭王の変死に際して、煙のように記録が消されている所から、一筋縄ではいかない人物だったと想像する。
葉公は孔子にとって、楚での政治工作の受付役となっていたとされる。しかし墨子の証言によれば、孔子は楚国の内乱を扇動し、扇動された白公勝(少年時代、伍子胥に伴われて呉に亡命したことがある)が決起して楚王に取って代わろうとしたのを、鎮圧したのは葉公とされる(『春秋左氏伝』哀公十六年)。
前漢後期の劉向は、葉公について語り、龍が大好きだったが、あまりの好かれように「じゃ、ちょっと挨拶するか」と龍が屋敷に現れると、腰を抜かしたというおそらくは作り話を載せる(『新序』雑事五)。かつての楚の領域である長江流域には、今もヨウスコウワニが住んでいるので、おそらくはワニのことだったと想像する。
なお人名や地名の場合、「葉」は漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)でも呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)でも「ヨウ」ではなく「ショウ」と読む。中華人民共和国の葉剣英元帥も、「ようけんえい」ではなく「はけんえい」でもなく「しょうけんえい」。
(金文)
「葉」の初出は春秋時代の金文。ただしくさかんむりを欠く。字形は「木」に葉が生えた象形。春秋時代の用例では「世」と釈文されているが、”枝分かれ”→”家に伝える”とも解せる。戦国の竹簡では”葉っぱ”の意で用いた。詳細は論語語釈「葉」を参照。
「公」(甲骨文)
「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。
問(ブン)
(甲骨文)
論語の本章では”問う”。この語義は春秋時代では確認できない。定州竹簡論語では欠いている。初出は甲骨文。「モン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「門」+「口」。甲骨文での語義は不明。金文では人名に用いられ、”問う”の語義は戦国時代の竹簡以降になる。詳細は論語語釈「問」を参照。
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もその一つで、相手は準殿様の葉公。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
子路(シロ)
記録に残る中での孔子の一番弟子。あざ名で呼んでおり敬称。詳細は論語人物図鑑「仲由子路」を参照。
「路」(金文)
「路」の初出は西周中期の金文。字形は「足」+「各」”夊と𠙵”=人のやって来るさま。全体で人が行き来するみち。原義は”みち”。「各」は音符と意符を兼ねている。金文では「露」”さらす”を意味した。詳細は論語語釈「路」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
對(タイ)
(甲骨文)
論語の本章では”回答する”。初出は甲骨文。新字体は「対」。「ツイ」は唐音。字形は「丵」”草むら”+「又」”手”で、草むらに手を入れて開墾するさま。原義は”開墾”。甲骨文では、祭礼の名と地名に用いられ、金文では加えて、音を借りた仮借として”対応する”・”応答する”の語義が出来た。詳細は論語語釈「対」を参照。
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
(甲骨文)
「曰」は論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。
汝(ジョ)→女(ジョ)
論語の本章では”お前”。
「汝」(甲骨文)
「汝」の初出は甲骨文。字形は〔氵〕+〔女〕で、原義未詳。「漢語多功能字庫」によると、原義は人名で、金文では二人称では「女」を用いた。そのほか地名や川の名に用いられた。春秋時代までの出土物では、二人称の用例は見られない。詳細は論語語釈「汝」を参照。
「女」(甲骨文)
論語の本章は定州竹簡論語に無いが、その他章に「汝」は見られず、全て「女」と記す。初出は甲骨文。字形はひざまずいた女の姿で、原義は”女”。甲骨文では原義のほか”母”、「毋」として否定辞、「每」として”悔やむ”、地名に用いられた。金文では原義のほか、”母”、二人称に用いられた。「如」として”~のようだ”の語義は、戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「女」を参照。
奚(ケイ)→何(カ)
(甲骨文)
論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。カールグレン上古音はɡʰieg(平)。字形は「𡗞」”弁髪を垂らした人”+「爪」”手”で、原義は捕虜になった異民族。甲骨文では地名のほか人のいけにえを意味し、甲骨文・金文では家紋や人名、”奴隷”の意に用いられた。春秋末期までに、疑問辞としての用例は見られない。詳細は論語語釈「奚」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語は「何」と記す。”なぜ”の語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「人」+”天秤棒と荷物”または”農具のスキ”で、原義は”になう”。甲骨文から人名に用いられたが、”なに”のような疑問辞での用法は、戦国時代の竹簡まで時代が下る。詳細は論語語釈「何」を参照。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”その”。初出は甲骨文。原義は農具の箕。ちりとりに用いる。金文になってから、その下に台の形を加えた。のち音を借りて、”それ”の意をあらわすようになった。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
爲(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…である様子”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「為」。字形は象を調教するさま。甲骨文の段階で、”ある”や人名を、金文の段階で”作る”・”する”・”…になる”を意味した。詳細は論語語釈「為」を参照。
人(ジン)
(甲骨文)
論語の本章では”人”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、”…はまさに”。主格の強調。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
發(ハツ)
(甲骨文)
論語の本章では、”起こす”。この語義は春秋時代では確認できない。新字体は「発」。『大漢和辞典』の第一義は”射る”。初出は甲骨文。ただし字形は「㢭」または「𢎿」。字形は「弓」+「攴」”手”で、弓を弾いて矢を射るさま。原義は”射る”。甲骨文では人名の他、否定辞に用いられた。金文では人名や官職名に用いられた。詳細は論語語釈「発」を参照。
憤(フン)
「奮」(金文)/「憤」(楚系戦国文字)
論語の本章では”いきどおる”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「奮」で、この字と書き分けられなかった。「小学堂」による初出は楚系戦国文字。ただし字形は上下に「奞思」。現行字体の初出は後漢の『説文解字』。「奮」の字形は「衣」”ふくろ”+「隹」”とり”+「田」”鳥かごの底”で、鳥かごに捕らえた鳥が羽ばたいて逃れようとするさま。戦国文字の字形は「奮」の省略形「奞」+「思」。心がふるいたつさま。現行字体の字形は「忄」+「賁」”吹き出す”で、心が吹き出すように高まるさま。ただし春秋末期までの「賁」は”華麗な(装飾)”の意。同音に「分」・「焚」、「賁」とそれを部品とする漢字群。春秋末期までに”奮い立つ”の用例がある。詳細は論語語釈「憤」を参照。
忘(ボウ)
(春秋金文)
論語の本章では”忘れる”。初出は西周早期の金文。ただし字形は「𧫢」。その他「朢」(望)も「忘」と釈文される例が西周時代にある。現行字体の初出は春秋の金文。字形は「亡」”隠れる”+「心」。思いが隠れて忘れること。春秋末期までに、”わすれる”・”為すべき仕事を放置する”の意に用いた。詳細は論語語釈「忘」を参照。
食(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”食事”。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「亼」+点二つ”ほかほか”+「豆」”たかつき”で、食器に盛った炊きたてのめし。甲骨文・金文には”ほかほか”を欠くものがある。「亼」は穀物をあつめたさまとも、開いた口とも、食器の蓋とも解せる。原義は”たべもの”・”たべる”。詳細は論語語釈「食」を参照。
樂(ラク)
(甲骨文)
論語の本章では”楽しむ”。初出は甲骨文。新字体は「楽」。原義は手鈴の姿で、”音楽”の意の方が先行する。漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)「ガク」で”奏でる”を、「ラク」で”たのしい”・”たのしむ”を意味する。春秋時代までに両者の語義を確認できる。詳細は論語語釈「楽」を参照。
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”それで”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
憂(ユウ)
(金文)
論語の本章では”うれい”。頭が重く心にのしかかること。初出は西周早期の金文。字形は目を見開いた人がじっと手を見るさまで、原義は”うれい”。『大漢和辞典』に”しとやかに行はれる”の語釈があり、その語義は同音の「優」が引き継いだ。詳細は論語語釈「憂」を参照。
知(チ)
(甲骨文)
論語の本章では”知るということ”。現行書体の初出は春秋早期の金文。春秋時代までは「智」と区別せず書かれた。甲骨文で「知」・「智」に比定されている字形には複数の種類があり、原義は”誓う”。春秋末期までに、”知る”を意味した。”知者”・”管掌する”の用例は、戦国時時代から。詳細は論語語釈「知」を参照。
定州竹簡論語ではしばしば、「智」の異体字「𣉻」と記す。詳細は論語語釈「智」を参照。
老(ロウ)
(甲骨文)
論語の本章では”老い”。初出は甲骨文。字形は髪を伸ばし杖を突いた人の姿で、原義は”老人”。甲骨文では地名に用い、金文では原義で、”父親”、”老いた”の意に用いた。戦国の金文では”国歌の元老”の意に用いた。詳細は論語語釈「老」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”これ”・”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
至(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”至る”→”そうなる”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。
云爾(ウンジ)→云壐(ウンジ)
論語の本章では”などなど”。「のみ」「しかいう」と読み下す例もある。「上の文をまとめて、文を結ぶことば」と『学研漢和大字典』に言う。武内本は「助辞」と言って訳を示さないが、ちゃんと意味はあって”うんぬん”・”などなど”と訳す。
「助辞だ」「置き字だ」といって無いものとして扱うのは、大学受験の漢文までは許されるが、古典解読にあたってそういうデタラメは通用しない。簡潔を事とする漢文に、意味内容の無い無駄な字など一字も無いと心得ない限り、万年過ぎても漢文は読めるようにならない。
「云爾」は漢代になって出来た新しい言葉で、『孟子』『小載礼記』には見えるが戦国の竹簡に一切見られず、もちろんそれ以前の甲金文にも見えない。儒家以外の諸子百家も一切用いていない。初出は事実上、前漢武帝期・董仲舒の『春秋繁露』で、論語に見える「云爾」もこの男がねじ込んだと考えると説明が付く事柄が多い。
(甲骨文)
「云」の初出は甲骨文。字形は「一」+”うずまき”で、かなとこ雲(積乱雲)の象形。甲骨文では原義の”雲”に用いた。金文では語義のない助辞としての用例がある。”いう”の語義はいつ現れたか分からないが、分化した「雲」の字形が現れるのが楚系戦国文字からであることから、戦国時代とみるのが妥当だが、殷末の金文に”言う”と解せなくもない用例がある。詳細は論語語釈「云」を参照。
(甲骨文)
「爾」の初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
(秦系戦国文字)
定州竹簡論語の「壐」の初出は斉系戦国文字。ただし字体は「鉨」。現行字体の初出は秦戦国文字。下が「玉」になるのは後漢の『説文解字』から。字形は「爾」”はんこ”+「土」または「玉」で、前者は封泥、後者は玉で作ったはんこを意味する。部品の「爾」が原字。「璽」は異体字。同音は無い。戦国最末期「睡虎地秦簡」の用例で”印章”と解せる。論語時代の置換候補は部品の「爾」。詳細は論語語釈「壐」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、『史記』孔子世家に引用があるほかは、春秋戦国時代を含む先秦両漢に引用が無い。定州竹簡論語にあることからも、前漢前半までには論語の一章として成立していた。文字史的には全て論語の時代に遡れるが、「云爾」の春秋時代における不在はどうにもならず、伝説としてはこのような史実があってもおかしくないが、少なくとも孔子の台詞は漢代になっていじくられている。
解説
孔子は数えで69歳の時、亡命先の衛から魯に戻ったが、子路は衛に止まったまま、蒲というまちのの領主を務めていた(孔子年表)。孔子の亡命先は多方面にわたるが、主に滞在したのは衛国で、本章の話はおそらく、孔子の衛国滞在中、それも帰国よりしばらく前のことだろう。
衛国は最初の亡命先だったが、やり手の殿様だった霊公からポンと現代換算で111億円もの捨て扶持を貰った(論語憲問篇20)。
それで調子に乗ったのか、孔子は引き連れた物騒な弟子たち、弟子のアキンド子貢の実家の手代や丁稚小僧、滞在先である国債傭兵団の長・顔濁鄒親分の手下を使って、国盗りを図ったらしい。気付いた衛国の貴族が、霊公に「出て行って貰いましょう!」と直談判し、霊公は親分の屋敷におまわりをうろつかせた。孔子は脱兎の如く逃げ去ったと『史記』孔子世家にある。
そういう理由で孔子亡命の中頃は、華中の陳国・蔡国に滞在したが、そこでも悪だくみを働いて、両国を新興の呉国が攻めるようけしかけた。怒った両国の貴族が孔子一行を包囲して、干殺しにしようとした(論語衛霊公篇2)。そこを何とか脱出出来たのは、楚王の力による。
その楚王・昭王が変死した裏には、本章に出てくる葉公のしわざが考えられるが、上掲の通り孔子も楚国に陰謀を働いており、葉公との密接な接触がきっとあっただろう。密接だからと言って同調するとは限らないのは、古今東西の人間界と同じ。
上掲の通り、孔子が糸を引いていたと思われる楚での白公の乱は、孔子の死去の年、哀公十六年(BC479)の六月以降で、孔子はそれより前の三月に世を去ったとされる。子路の死去はその前年だから、やはり本章の時期は、帰国直前の衛国滞在中と考えるのが筋が通る。
中国史にはさまざまな怪物が出現するが、実在の動物を言ったと思われる例は少なくない。上記の龍がそうだし、論語の時代にはまだ中国にサイがいた。皮が厚くて丈夫なことから、武具に使われたのだが、程なくして絶滅した。また当時から華南には象がいた。
象牙をかたどった漢字も多い。『封神演義』に登場し、主人公太公望の乗騎となっている四不象は、漫画になったときに「スープー」と呼ばれカバのように描かれているが、実は鹿の仲間で実在の動物。絶滅寸前に西洋に輸出され、今はスコットランドにいるという。
論語の本章の史実性については、武内義雄『論語之研究』では疑義を挟んでいない。一方和辻哲郎『孔子』によると、『史記』に記された、楚の昭王による孔子招聘ばなしは、論語の本章によって否定できるという。その発端は、本章で子路が答えなかったことにあるとする。
『史記』孔子世家
(孔子が陳と蔡国のはざまで包囲されて)そこで子貢を楚国に遣わした。楚昭王は軍を率いて孔子を迎えた。それでやっと、孔子一行は包囲から脱出できた。楚昭王はすぐさま、書社の地七百里、一万七千五百戸の領民を孔子に与えて召し抱えようとした。そこで楚の宰相、子西が言った。
「王が諸侯に遣わす使者で、子貢ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王を補佐する大臣で、顔回ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王が軍を任せる将軍で、子路ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。」
「王の官吏をとりまとめる者で、宰予ほどの者がいますか。」王は言った。「おらぬ。それゆえ孔子を招くのじゃ。」
子西は言った。「そもそも楚の始まりは、周に諸侯たる認定を受け、爵位はせいぜい下から一、二番目の子爵か男爵、土地は五十里に過ぎませんでした。今孔子は、いにしえの聖王三皇五帝の定めた法を述べ立て、かつての周の名臣・周公旦と召公奭の業績を喧伝しています。
王がもし孔子を用いるなら、きっと昔に戻せと言い出して、楚の歴代堂々たる数千里四方の国土を保つことは出来なくなります。そもそも周の始まりにしても、開祖文王は豊の田舎町にいたに過ぎず、初代武王は鎬の田舎町にいたに過ぎません。たった百里の領主なのに、とうとう天下の王となりました。
今孔子に領地を与え、賢明な弟子たちがそれを助けるとなれば、楚の幸福にはなりません。」
それを聞いて、昭王は孔子の採用をあきらめた。
和辻哲郎『孔子』によると、葉公は孔子のような偉大な教師を理解できない俗物で、それゆえに一本気な子路は、孔子をどう紹介したものかと口ごもったという。「率直に答えたのでは葉公が孔子を理解し得ないということがあまりに明白だったからである」ともある。
葉公が楚の昭王政権の中で中枢にいた人物であることは間違いないが、その葉公が孔子を評価しない以上、昭王が孔子を招くことなどありえない、と和辻博士は言っているようだ。博士の立場は、『史記』によって論語を訂正することは出来ないとし、『史記』が誤りという。
確かに一理はある。古代中国には黄河と長江の二代文明圏があったが、北では大河を「河」といい、南では「江」といった。楚は長江文明圏を代表する大国だが、論語の中にただの一語も、「江」の字が記されていない。孔子は楚に行かなかった可能性は十分高い。
武内義雄『論語之研究』によると、『史記』を編んだ司馬遷は、古論語を学んでいたという。古論語とは現伝の論語の基礎となった本で、漢の武帝時代に孔子の旧宅から発掘された(論語の成立過程)。ここから『史記』は、一つに論語を参照して成立したことがわかる。
しかし司馬遷は、論語のみを史料として、『史記』孔子世家を書いたわけではない。漢代に伝わっていた各種の孔子伝説を踏まえて、孔子世家を書いている。その内容の真偽は別途吟味されなければならないが、必ずしも論語によって『史記』を訂正できるわけではないだろう。
余話
カミサマじゃ
和辻博士は戦前の人だけに、その言い分には時代ならではのいかがわしさがある。帝政期の日本は、〒冫丿-を神サマ扱いしないと牢屋にぶち込まれ、拷問死の憂き目に遭う𠮷外国家で、その神格化を言い出したのは神主ではなく儒者だった。𠮷外神主はその尻馬に過ぎない。
従って孔子も信仰の対象で、八紘一宇などの洗脳スローガンをまき散らしたのも、大東文化学院に巣食い、税金を湯水のように使って帝大より優遇された、𠮷外儒者どもだった。連中に同調して東京帝大法科大学では、頭のおかしな教授が神国論を将来の官僚に説いていた。
大東は「〒冫丿-は神サマじゃ」と言って回った、東京帝大首席卒業の平沼騏一郎が、儒者や神主を集めて気勢を上げ国会に猛運動して出来た学校で、授業料無料の上に学生にはお小遣いまで出た。教えたのは狂信的神国論と漢文だけ。日本帝国は税金で𠮷外を養成した。
結果、対米戦争という𠮷外沙汰への反対意見を、「〒冫丿-は神サマじゃ」の声が全て封じた。
今では想像出来ないことが戦前にはあった。納税者への貢献は、『大漢和辞典』と米朝師匠だけだった。その大東の漢文業者に清田清がおり、大勢の若者を煽って戦地に追いやったと泣き濡れたことを書いた直後、だらだらと長い言い訳を書き付けた(中国古典新書『孔子家語』)。
これでも良心的な方だった。清田も同類も誰一人「申し訳ない」と自決しなかったばかりか、ほとんどが己の所業を無いことにして済ませた。そして先日まで〒冫丿-の写真を拝んでいた変な奴らが、あるいはマッカーサーを拝み、あるいはこぞって中国ソ連を拝み始めた。
敗戦直後からRedな詐欺師が「マニフェスト」とか横文字で日本人をたぶらかしてきたように、戦前は漢語が洗脳の道具になっていた。坊主の唱える経文と同じで、普通の人には何が書いてあるか分からないから、怖じ気づいて敬い従ってしまったのである。
- 論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」
- 二・二六事件叛乱軍蹶起趣意書:現代語訳
和辻博士の言うことは、その分割り引いて聞かねばならない。その属した京都学派も、うさんくさい連中の集まりで、親分格の西田キタローは、俗物極まるネズミ男だった。日本の文系論文に分けの分からない言葉で書くという流儀を持ち込み、人文業者をまとめてダメにした。
難読文の不可解は徹頭徹尾書き手の責任で、読み手のせいではぜんぜんない。
- 論語里仁篇15余話「ネズミ男」
だが分けの分からないことばかり書いたため、だんだんとお客が減ってキタローは金に困った。そこで国内だけで日の出の勢いだった軍部の先棒をかつごうとしたが、あまりに人間が卑しいので、東条英機に断られた。和辻博士にも油断は出来ない。
訳者の知人はT大の教養課程でカント哲学を取らされたのだが、講義の最中に理系の学生がゲラゲラ笑い出して、学級崩壊したらしい。訳者はカント先生の人の善さは疑わないが、その説が今なお通じると言い張る者はぜんぜん信用ならない。カント先生ですらかくのごとし。
まして凡百の哲学業者には難読無内容を説く者が多い。どうかその虚喝を恐れないで欲しい。
コメント