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論語詳解136雍也篇第六(19)人の生くるや°

論語雍也篇(19)要約:人は正直に生きなければならない。時には裏道も必要ですが、いつも裏をかいていると、いつかは自分が裏をかかれます。非常手段と普段の行いは分けるべきだと、孔子先生は説くのでした。

論語:原文・書き下し

原文

子曰人之生也𥄂罔之生也幸而免

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰人之生也𥄂/罔之生也幸而免

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

曰:「人生之也𥄂a,亡生也幸而免也b]。」126

  1. 人生之也直、阮本作「人之生也𥄂」、皇本作「人生之𥄂」。
  2. 亡生也幸而免也、今本作「罔之生也幸而免」。亡・罔通。

標点文

子曰、「人之生也𥄂、亡生也幸而免。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 人 金文之 金文生 金文也 金文直 金文 亡 金文生 金文也 金文幸 金文而 金文免 金文

書き下し

いはく、ひとくる𥄂なほかれ。くるをくらめるいましめられまぬかるるのみ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子 肖像
先生が言った。「人の生き方は真っ直ぐにしなさい。生き方に隠し事をするのは、手かせをはめられて(一時的に)免れている(だけだ)。」

意訳

孔子 ぼんやり
汚いことにも随分手を染めてきたが、結局は無駄だった。素直に生きた方がよかったように思える。後ろ暗い事をして生きても、すでに手かせをはめられ、いずれはその報いを受けるのだから。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
「人間というものは、本来、正直に生れついたものだ。それを無視して生きていられるのは、決して天理にかなっていることではない。偶然に天罰を免れているに過ぎないのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「人正直,才能生活幸福;不正直的人有時也能生活平安,那衹是僥幸逃過了災難而已。」

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孔子が言った。「人は正直であって、やっと幸福に生活する。不正直な人も時には生活が平穏だが、それはただ偶然の幸いで災難を免れているだけだ。」

論語:語釈

子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”人間一般”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

生(セイ)

生 甲骨文 生 字解
「生」(甲骨文)

論語の本章では”生き方”。「生」の初出は甲骨文。字形は「テツ」”植物の芽”+「一」”地面”で、原義は”生える”。甲骨文で、”育つ”・”生き生きしている”・”人々”・”姓名”の意があり、金文では”月齢の一つ”、”生命”の意がある。詳細は論語語釈「生」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では、「や」と読んで主格の強調に用いている。「由也」のように「名前+也」では「や」と読んで主格の強調に用いている。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

𥄂(チョク)→直(チョク)

直 甲骨文 直 字解
(甲骨文)

論語の本章では”真っ直ぐ”。初出は甲骨文。「𥄂」は異体字。「ジキ」は呉音。甲骨文の字形は「コン」+「目」で、真っ直ぐものを見るさま。原義は”真っ直ぐ見る”。甲骨文では祭礼の名に、金文では地名に、戦国の竹簡では「犆」”去勢した牡牛”の意に、「得」”…できる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「直」を参照。

罔(ボウ)→亡(ブ)

論語の本章では”隠れてこそこそ悪事を働く”。唐石経・清家本は「罔」と記し、現存最古の論語本である定州竹簡論語は「亡」と記す。時系列に従い「亡」へと校訂した。

論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。

原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→
             ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→
→漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓
       ・慶大本  └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→
→(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在)
→(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)

罔 網 甲骨文 罔 字解
「网」(甲骨文)

「罔」字の「モウ」は呉音。原義は”あみ”。”くらい”を意味する同音の「亡」・「盲」と音が通じたので、”くらい”を意味するようになった。論語の時代には「亡」を省いた「网」と書かれ、「網」と書き分けられていない。音も同音。現代中国語では網やネットを「网」と書く。詳細は論語語釈「罔」を参照。論語語釈「網」も参照。

亡 甲骨文 亡 字解
「亡」(甲骨文)

定州竹簡論語の「亡」の初出は甲骨文。「ボウ」で”ほろぶ”、「ブ」で”無い”を意味する。字形は「人」+「丨」”築地塀”で、人の視界を隔てて見えなくさせたさま。原義は”(見え)ない”。甲骨文では原義で、春秋までの金文では”忘れる”、人名に、戦国の金文では原義・”滅亡”の意に用いた。詳細は論語語釈「亡」を参照。

幸(コウ)

幸 甲骨文 幸 字解
(戦国末期金文)

論語の本章では”手かせをはめられる”。「いましめ」と読める場合に限り、初出は甲骨文。「さち」の読みと語義は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。戦国の金文から「十」字形+「羊」の字形が見え、”さいわい”の意を得た。論語語釈「幸」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そのおかげで”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

免(ベン)

免 甲骨文 免 字解
(甲骨文)

論語の本章では”免れる”。

この語義は戦国時代以降に音を借りた転用した仮借。「メン」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「免」。大陸と台湾では「免」が正字として扱われている。字形は「卩」”ひざまずいた人”+「ワ」かぶせ物で、中共の御用学者・郭沫若は「冕」=かんむりの原形だと言ったが根拠が無く信用できない。

「卩」は隷属する者を表し、かんむりではあり得ない。字形は頭にかせをはめられた奴隷。甲骨文では人名を意味し、金文では姓氏の名を意味した。戦国の竹簡では「勉」”努力する”、”免れる”、”もとどりを垂らして哀悼の意を示す”を意味した。

春秋末期までに、明確に”免れる”と解せる出土例はない。詳細は論語語釈「免」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章を、先秦両漢で再録したのはただ一人、後漢前期の王充『論衡』が類似の文字列を記しただけだが、時代が下るだけあって、もちろん「幸」を”さいわい”と解している。

災氣加人,亦此類也,不幸遭觸而死,幸者免脫而生。不幸者,不徼幸也。孔子曰:「人之生也直,罔之生也幸。」則夫順道而觸者,為不幸矣。立巖墻之下,為壞所壓;蹈坼岸之上,為崩所墜。輕遇無端,故為不幸。魯城門久朽欲頓,孔子過之,趨而疾行。左右曰:「久矣!」孔子曰:「惡其久也。」孔子戒慎已甚,如過遭壞,可謂不幸也。

王充
災いが人に降りかかるのは、生まれつきの運不運によるもので、不幸な者は不幸な目に遭って死に、幸福な者は不幸を免れて生き延びる。不幸は、後日の幸福を呼び寄せはしない。

孔子は言った。”人の人生は真っ直ぐで、後ろ暗く生きられたなら幸運である”と。つまり人の道を踏み外さないように生きても、運が悪ければ不幸に見舞われる。頑丈な壁に寄りかかっていても、とんでもないものが降ってくれば押しつぶされる。がけっぷちを歩いたら、崩れて落っこちても不思議は無い。ちょっとしたことで幸運を逃す、これは不幸のなせる業だ。

孔子が世に在ったとき、魯国の城壁が長らくずれて修復工事中だった。孔子はそこを通り過ぎるのに、馬車に鞭打って素早く通り過ぎた。お付きの者が「ずいぶんかかりますねえ」というと、「サボりよってからに。さっさと直さぬか」と答えた。孔子は慎重だったから、災いの種から遠ざかるのにこれほど熱心だったのだが、これも不幸の一種と言える。(『論衡』幸偶3)

論語の本章を史実とする限り、「幸」は”手かせ”でしかあり得ないのだが、それで何とか文意が取れ、かつ文字史的に全て論語の時代に遡れることから、とりあえず本章は史実として扱ってよい。仮に偽作なら、文意は従来訳の通り。

後漢年表

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解説

孔子は性善説も性悪説もとらなかった。善人だろうと悪人だろうと、技能と教養を身につければ「真っ直ぐな生き方」が出来ると思い、貴族に成り上がるのに相応しい人物と解した。そういう人材を育て、血統貴族が独占していた政界官界に、弟子を送り込むのが孔子塾だった。

従って論語の本章を、「人は本来素直な生き物だ」と解するのは、孔子没後一世紀に生まれた孟子の説いた性善説に基づくもので、孔子の発言とは言えなくなる。もちろん儒者は、そう解釈した。論語の本章、現行の文字列の再録は後漢末から南北朝にかけて編まれた古注になる。

古注『論語集解義疏』

…註馬融曰言人之所以生於世而自終者以其正直之道也…註苞氏曰誣罔正直之道而亦生是幸而免也

馬融 包咸
注釈。馬融「人が世の中で生きて人生を全うする方法は、正直であると述べている。」
注釈。包咸「正直さを誤魔化したりバカにして生きているのは、幸運によって罰を免れているのである。」

意外にも、後漢の不真面目儒者の代表だった馬融の方が、苦労人儒者だった包咸よりも孔子の真意に近い解釈をしている。人の本性はいずれであれ、正直に生きるのが人の道、と言うからだ。一方包咸は、本来人が持っている正直を誤魔化す、と孟子的に論語の本章を解している。

新注は以下の通り。

新注『論語集注』

程子曰:「生理本直。罔,不直也,而亦生者,幸而免爾。」

論語 程伊川
程頤「人を生きさせている本性は真っ直ぐである。罔とは真っ直ぐでないことで、それでも生きているのは、幸運によって罰を免れているだけだ。」

上記の検討の通り、論語時代の「幸」とは手かせをはめられることで、戦国の後半に至るまで”幸い”・”幸運”の意味ではない。論語の本章を史実とするなら、孔子は”すでに捕らえられているも同然だが、今しばらくの間平穏無事に過ごせているだけだ”と解するべきとなる。

ただし孔子は天界に意志を備えた人格神がいるとは思っていなかったから、「幸而免」を”天罰が下るのに間があるだけだ”と思っていたわけではない。だが人界で悪事を働けば、怨まれて報復されるという当たり前の事実には気付いていただろう。そして悪事を働いた自覚もあった。

孔子は、亡命作の衛国で政府転覆工作をやり弟子の司馬牛を見殺しにするなど、後ろ暗いことを随分やってきた。巷間言う「孔子は理想の政治の場を求めて放浪した」の現実がそれである。すでに確立した政権に、政治を変えろと要求するのは、それはクーデターに他ならない。

その孔子から「素直に生きろ」と言われても、釈然としないものを感じるが、本章は孔子晩年、人当たりのよい、政治工作には携わらなかった子夏あたりに、語った言葉ではなかろうか。

孔子一門は、子路・顔淵・子貢・冉有といった年長組と、子夏・子張・樊遅といった年少組に分かれる。子游はその中間ぐらいの年齢だが、グループとしては後者と言ってよい。年長組は孔子亡命前に弟子になり、放浪にも同行し、戦闘や謀略など、孔子の私兵となって働いた。

対して年少組は、年齢から孔子帰国後に入門したと思われ、孔子68歳から逝去した73歳までの、約5年間しか師弟の接触が無い。帰国後の孔子は後ろ盾の呉国が凋落したこともあって、さほど活発に政治工作を行ったわけではなかった(孔子・論語年表)。

あるいは孔子71歳の時、見捨てた弟子の司馬牛が、わざわざ魯国に来て変死している(論語顔淵篇3)。問い詰められた孔子は言葉に詰まっており、自分に対して「素直に生きればよかった」という嘆きかも知れない。もしそうなら、論語の本章にはぐっと迫力が出る。

余話

全国どこでも山賊海賊

中華文明の実践に、怖くない者を遠慮無く叩くのがある。中国語の成句として、「タールオシュイコウ」”水に落ちた犬は打て”という。なぜこれが中華文明の実践たり得るかと言えば、社会の資源が常に人口の必要を満たせず、生活圏から他人を追わねば生きられないからだ。

論語の本章で孔子が言う手かせとは、そうした厳しい環境を言う。その中で真っ直ぐ生きるとは、譲り合って生きることではない。シルバーシートに股を広げて座り、店員が目を離したら万引きし、お上が目こぼしするなら街角で暴れ回り、公共物を壊して回るのが正解になる。

実際に現代中国でもたびたび暴動が起こるが、今世紀初頭には反日暴動というのもあった。お上が反日運動ならやっちゃっていいというので、遠慮無しに日系企業に押しかけ叩き壊し金品を奪った。その上がりのいくらかは、現地の役人やら党幹部やらにも回ったことは確実だ。


他国の例ばかりでない。敗戦後に生まれたDK世代を、〒冫丿-が甘やかせと遠回しに命じたのをかたじけなくも伺った、と元警察官僚の佐々淳行が嬉しそうに自著に記している。その結果が全国での暴行と現在の横暴になったが、詳細は論語子罕篇23余話を参照して頂きたい。

こういう事例が欧米その他の人類圏に拡大できるかどうかは知らないが、少なくともDK世代と同世代の人類は、パリで学生暴動を起こしアメリカでヒッピーになって危ない𠂊ス刂をやりつけた。人間は「手かせ」がないとどこまでもわがままで残忍になるのは事実と見て良い。

中華帝国がひたすら独裁帝国を目指したのは、社会を構成する中国人がこういう人々だったという事情に原因がある。強権政権でないと社会の秩序を維持できず、細胞壁を壊された細菌のように、溶けるように国が崩壊してしまうからだ。そして強権支配は必ず行き過ぎる。

詳細は論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」を参照。

行き過ぎる強権が「手かせ」でない間は、中国人は当然従わない。『鹿州公案』は中華帝国も最盛期だった清の雍正帝時代に、どんな田舎だろうと必ず山賊海賊のたぐいがあったことを記している。そうした私的武装勢力は、もちろん地元の有力者とつるんで好き勝手している。

言い換えるなら、普段の生活圏に限るなら、中国人はお上の世話にならずとも、自立的に経済活動し、自律的に秩序を維持している。確かにその維持の仕方は公正にはほど遠いが、個人にも対抗手段があり、青幇チンパン紅幇ホンパンのたぐいの秘密結社に加入し、自力を超えると結社に頼る。

地方の有力者だろうと、青幇紅幇には逆らえない。この脅威があるからこそ、地方ボスの支配はそれなりに緩やかで、人々の生存空間を守りもする。結局中華帝国の存在意義は、大飢饉の際に物資を移動させること、攻め込んでくる蛮族から中国人を守る事に尽きる。

その証拠に、王朝が崩壊する直接の原因は、常にこの二つに失敗したことだった。

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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