論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子所雅言詩書執禮皆雅言也
校訂
東洋文庫蔵清家本
子所雅言/詩書執禮皆雅言也
定州竹簡論語
[□所雅言],《詩》、《書》、執禮疾a,皆雅言也。158
- 疾、今本無。為執礼激揚之声。
標点文
子所雅言、詩、書。執禮疾、皆雅言也。
復元白文(論語時代での表記)
雅 雅
※詩→辭。論語の本章は「雅」の字が論語の時代に存在しない。「書」「疾」「也」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降、おそらく前漢儒による創作である。
書き下し
子の雅へに言ふ所は、詩、書。禮を執る疾、皆雅への言也。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が古語で発音したのは、『詩経』、『書経』。儀式の号令も、みな古語だった。
意訳
孔子先生は古典解説や祭典では、古語を使ったのであるぞよ。だから古語を知る我ら儒者に、もっとお金を寄こしなさい。
従来訳
先師が毎日語られることは、詩・書・執礼の三つである。この三つだけは実際毎日語られる。下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子有時講普通話:讀詩、讀書、舉行典禮時,都用普通話。
孔子は講義の際には共通語を使った。詩を読み、書を読み、儀式を行うとき、全て共通語を使った。
論語:語釈
子(シ)
「子」
論語の本章では”(孔子)先生”。初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
所(ソ)
(金文)
論語の本章では”…するところの事項”。初出は春秋末期の金文。「ショ」は呉音。字形は「戸」+「斤」”おの”。「斤」は家父長権の象徴で、原義は”一家(の居所)”。論語の時代までの金文では”ところ”の意がある。詳細は論語語釈「所」を参照。
雅(ガ)
(秦系戦国文字)
論語の本章では”みやびな”→”古典の”。初出は小学堂では戦国最末期の「睡虎地秦簡」だが、戦国中末期の「郭店楚簡」、戦国時代だが年代不定の「上海博物館蔵戦国楚竹簡」にも用例がある。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「互」または「牙」+「隹」”とり”。「ゴォ」または「ンゴ」と鳴く鳥、つまり”カラス”。同音に牙とそれを部品とする漢字群。戦国の竹簡では『詩経』の篇名に、また”もともと”の意に用いた。詳細は論語語釈「雅」を参照。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言葉(を話す)”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
なお論語の時代には「言」と「音」は区別せず、同じ文字で表した。
「言・音」(金文)
雅言(ガゲン)
論語の本章では”古語”。
武内本では「雅言」を「標準語を使う意」という。これはおそらく古注の受け売り。武内博士は戦前、古注の研究で名を馳せ、現在で定本となっている懐徳堂本を編んだ。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰雅言正言也…註鄭𤣥曰讀先王典法必正言其音然後義全故不可有所諱也禮不誦故言執也
注釈。孔安国「雅言とは標準語のことである。」注釈。鄭玄「いにしえの聖王のおきてを読み上げるのに、必ず標準語を用い、発音を明らかにしてから意味を講釈した。だから余すところなく古典を説明できたのだ。礼儀作法の演習ではいちいち指図をしなかった。だから号令だけを掛けたのである。」
「正言」とはつまり周の都で使われる標準語で発音したということ。ただし古都・鎬京のあった陝西の言葉なのか、春秋時代の首都だった洛邑・河南の言葉なのかはわからない。
おそらくは陝西の言葉を周の東遷とともに持ち込んだろうから、陝西としていいが、そもそもこの「雅」の字の春秋時代に於ける不在から、論語の本章の偽作が確定するので、詮索する意味が無い。ただし偽作した漢儒の意図としては”古語”だったと思われる。
なぜなら、古語を知る自分たちにもっと利権を寄こせ、と言いたいのが創作意図と思われるからだ。儒者が古語を言い回って為政者に嫌われたのは、いわゆる始皇帝の焚書坑儒の例があるが(『史記』始皇帝紀38)、定州竹簡論語と同時期の前漢宣帝も感情的に言い放った。
俗儒不達時宜、好是古非今。
欲の皮が張った儒者どもは、差し迫った政治的課題を何一つ解決できないというのに、事あるごとに古くさい言葉を持ち出しては、チクチクとイヤガラセを言いやがる。(『漢書』元帝紀2)。
だから武内博士の言う「雅言」標準語説には賛成しがたい。中国人の物書きが方言を意識し始めたのは、おそらく統一帝国が出来た秦からで、全土に秦の文字を強要した始皇帝は、”話し言葉もさっさと秦の言葉にせい”と思っていた可能性が十分にある。
方言の存在を認め、中国最初の方言辞典が出来るのは、前漢末期の楊雄『方言』からになる。
「雅言」が漢語に現れるのは、論語の本章を除けば後漢初期の王充『論衡』からで、原則として熟語が存在しない春秋時代の漢語ではない。「雅」に”みやび”の意味が現れるのは、戦国時代の『楚辞』からで、やはり春秋時代に遡れる言葉ではない。
詩(シ)
(楚系戦国文字)
論語の本章では”『詩経』”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は近音の「辞」。字形は「言」+「寺」”役所”のものや、「之」”ゆく”+「口」などさまざまある。原義が字形によって異なり、明瞭でない。詳細は論語語釈「詩」を参照。
現伝の『詩経』が春秋時代に不在の漢語を用い、孔子による編纂というのも極めて如何わしい事情については、論語八佾篇20解説を参照。
『詩経』について論語では、博物学知識にも役立つと言い(論語陽貨篇9)、外交交渉では必須だったことが知れる(論語子路篇5)。石頭の子夏が詩についてトンチンカンな問答を孔子と交わしたのは、論語八佾篇8(偽作)に見られる。
書(ショ)
(甲骨文)
論語の本章では『書経』、別名『尚書』のこと。この語義は春秋時代では確認できない。
文字の初出は甲骨文。甲骨文の字形は”ふでを取る手”+「𠙵」”くち”で、言葉を書き記すさま。原義は”記す”。金文では文書を意味し、また人名に用いた。甲骨文を筆記するには筆刀という小刀を使うが、木札や布に記す場合は筆を用いた。今日春秋時代以前の木札や竹札、字を記した布が残っていないのは、全て腐り果てたため。紙は漢代にならないと発明されない。詳細は論語語釈「書」を参照。
『書経』は歴史書の一種で、孔子時代までの為政者の宣言を集めたとされる。現在では二系統を残し他は失われており、とりわけ戦国時代以前の古文で書かれた系統は、後世の創作のみ伝わる(『偽古文尚書』)。
『書経』についても孔子の編纂とされてきたが、孔子が生まれてすぐの襄公二十五年(BC548)にも引用があり、論語では孔子自身がその成立について語っていないため、現在では否定する見解が主流。
執(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”司会を務める”。初出は甲骨文。「シツ」は慣用音。字形は手かせをはめられ、ひざまずいた人の形。原義は”捕らえる”。甲骨文では原義で、また氏族名・人名に用いた。金文では原義で、また”管制する”の意に用いた。詳細は論語語釈「執」を参照。
禮(レイ)
(甲骨文)
論語の本章では”儀式”。新字体は「礼」。しめすへんのある現行字体の初出は秦系戦国文字。無い「豊」の字の初出は甲骨文。両者は同音。現行字形は「示」+「豊」で、「示」は先祖の霊を示す位牌。「豊」はたかつきに豊かに供え物を盛ったさま。具体的には「豆」”たかつき”+「牛」+「丰」”穀物”二つで、つまり牛丼大盛りである。詳細は論語語釈「礼」を参照。
孔子の生前、「礼」は文字化され固定化された制度や教科書ではなく、貴族の一般常識「よきつね」を指した。その中に礼儀作法「ゐや」は含まれているが、意味する範囲はもっと広い。詳細は論語における「礼」を参照。
疾(シツ)
(甲骨文)
論語の本章では”号令をかける”。この語義は春秋時代では確認できない。漢文では、”にくむ”の意味で用いられることも多い。初出は甲骨文。字形は「大」”人の正面形”+向かってくる「矢」で、原義は”急性の疾病”。現行の字体になるのは戦国時代から。別に「疒」の字が甲骨文からあり、”疾病”を意味していたが、音が近かったので混同されたという。甲骨文では”疾病”を意味し、金文では加えて人名と”急いで”の意に用いた。詳細は論語語釈「疾」を参照。
禮疾(レイシツ)
論語の本章では”儀式の号令”。『大漢和辞典』に「禮疾」の項目は無いが、「疾呼」を立てて”急速の音調・激しく叫ぶ”とある。「立て!拝礼!」などの号令を意味するのだろう。また上掲定州論語の校勘、「為執礼激揚之声」=”儀式執行時の鋭い掛け声である”を否定する理由が無い。
皆(カイ)
(甲骨文)
論語の本章では”どれもすべて”。初出は甲骨文。「ケ」は呉音。上古音の同音は存在しない。字形は「虎」+「𠙵」”口”で、虎の数が一頭の字形と二頭の字形がある。後者の字形が現行字体に繋がる。原義は不明。金文からは虎が人に置き換わる。「从」”人々”+「𠙵」”口”で、やはり原義は不明。甲骨文・金文から”みな”の用例がある。詳細は論語語釈「皆」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意。断定の語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、定州竹簡論語にある他は、春秋戦国時代を含めた先秦両漢の誰一人引用していない。文字史的にも論語の時代に遡れず、戦国時代以降、おそらく前漢儒による創作と断定できる。
解説
中国は広いだけあって方言もまた多様で、例えば現在の北京と香港では、もう会話が通じない。当時もまた同様で、南方の大国・楚の人名、たとえば「闘穀於菟」などを見るたびに、これは中国人なのだろうかと首をかしげたくなるようなことがある。
孔子塾の塾生の出身地はさまざまであり、むろん地元の魯が一番多かっただろうが、例えば子貢や子夏は衛の出身だったりする。そのような環境で授業を行うのに、孔子が当時の華北=北中国の方言を用いたことが論語述而篇32からわかるとされたが、どうやら間違いらしい。
論語の本章、新注は次の通り。
新注『論語集注』
雅,常也。執,守也。詩以理情性,書以道政事,禮以謹節文,皆切於日用之實,故常言之。禮獨言執者,以人所執守而言,非徒誦說而已也。程子曰:「孔子雅素之言,止於如此。若性與天道,則有不可得而聞者,要在默而識之也。」謝氏曰:「此因學易之語而類記之。」
雅とは、いつも、の意である。執とは、従って外れない、の意である。『詩経』は感情にしまりを付け、『書経』は政治の原則を明らかにし、『礼記』は仕草を正しくする教科書である。すべて日常の実践を明らかにする本だから、いつもそれらを語ったのである。礼儀作法だけを「言う」ではなく「執る」と書いてあるのは、人として従い外れてはならない原則だからだ。ただお作法のウンチクを語って済ませたわけではない。
程頤「孔子が普段から語った事柄は、突き詰めれば『詩経』『書経』『礼記』の三つだった。人の本性や天の定めは、必ずしも毎日講義したわけではない(論語公冶長篇12。ただし程頤は誤読している)。弟子は暗黙のうちに知るしか無かった(論語述而篇2。これも誤読)。
謝良佐「論語の本章は、孔子が易を学んだ話(論語述而篇16。偽作)のついでに記されたのである。」
宋儒の誤読については、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。
余話
間抜けな現代文
論語の当時も現代も、古典を読もうとするならまず自国語の古文が読めなければならない。明治人は西洋の古典も古文で訳したが、それは書き下しの伝統があったからだ。漢文=古典中国語から直に現代日本語に訳すのもよいが、日本人にとっては却って効率が悪いと思う。
若い漢文読者や古典を読むのを強いられる高校生が、漢文の読み下しに意義を感じられないのは、古来日本の漢文業者が自分の不勉強を棚に上げて、まともに漢文を解読せず、徹底的に訓読みしなかったからだ。「ジョーバンキシ」と言われて、常盤貴子氏だと分かるわけがない。
漢文のとりわけ詩歌の場合は、古文で読んだ方がいい。
國破山河在 城春草木深(杜甫「春望」)
古文 | 現代文 |
国破れて山河あり 城春にして草木深し | 国が戦乱に負けても山や河はもとのままです。まちは春になって草木が生い茂りました。 |
現代文はみやびでないと言うよりむしろ間抜けだ。西洋の言語でも、同じではないだろうか。以下はプ–ュ☨の詩「青銅の騎士」。本を無くしてしまったので、うろ覚えで木崎良平先生の訳を借り申して対比すれば以下の通り。
※大人の事情により原文と読みは削除
古文 | 現代文 |
かくてみかどの思えらく この地より脅かさんかなスウェーデン 傲岸不遜な隣国に 立ち向かうべき都そ建てん。 いざさだめに従いて ヨーロッパへの窓こそ開くべき。 さかまく波も何せんと 新たなる時の至るべし。 まろうどら旗をば打ち立てて 至らばうたげを開くべし。 |
そして彼は考えました。 ここから我々はスウェーデン人に直面しよう ここに街を築こう 邪悪な高慢な隣人に。 自然は私たちに運命づけています ヨーロッパへの窓を開くには、 立つにも困る海岸でしかありません。 ここで新しい波に乗って すべての旗が私たちを訪れます そして宴会場は開いています。 |
漢文を古文で訓読することの重要性については、論語解説「漢文が読めるようになる方法2022」を参照。
さて現代文で古典詩歌を読む間抜けは動かしようがないと思うが、論語の本章のようにいわゆる標準語を”みやび”とする価値観は賛成できない。日本人は明治初期に何か勘違いをして、方言を徹底的に差別し消し去ろうとした。小学校で方言を言うと廊下に立たされたという。
理由の如何を問わず、育った言葉で生活できない事ほど、人にとっての苦痛は珍しい。今この加筆は2022年の半ばに書いているが、人類を脅かしている戦乱の元はといえば、少数民族の言語を弾圧したことにあった。言語的多様性を文化的豊穣と見なさない者とは、話が通じない。
訳者がどうしても好きになれない米国人の一般的傾向は、世界のどこでも米語が通じると信じて疑わず、米語を使えない人をまるで劣等であるかのように扱う点だ。これは無邪気に無意識に行われているという点で、極めて根深い差別と言ってよく、人界から拭い取るべきだろう。
差別だ差別だとわぁわぁと叫ぶ連中は、本当の被差別者ではない。本当の差別には声も立てられず、誰一人耳を貸さない。孤独に孤立して押し詰められる、まことに陰惨極まりない状態を言う。自他共に救うべき人はまずそういう人で、うるせえ連中など放置すればよろしい。
相手にされない→金にならない、サドの対象になってくれないと分かれば、たいてい鳴り止むからだ。ともあれ日本に限定すれば今なお、豊かな方言が健在で、まことに喜ばしい景色と言ってよい。もちろん日本に住みながら日本語系以外の言語を使うのもよい。
気を付けるべきはただ一つ、恕=相手を思いやって聞き、話せるかどうかだ。どうしても仕方ない場合は、相手の言葉でない自分の言語で語りかけねばならないが、無礼をしているのだと自覚せねばならない。その負い目をかけらも持たないから、米人ははなはだ傲慢に見える。
陸軍士官だった村上兵衛は、幼年学校時代の思い出として、生徒の間で歌われた「学科嫌い」の歌を挙げている。「リパブリック賛歌」の替え歌だが、その一節にこうあったらしい。まじめに語学を学ぶより、征服して自分の言語を他国人に押し付けたいというのである。
針かミミズか知らないが/頓珍漢の語学など/やっても役には立たないよ/俺はナポレオン(『陸軍幼年学校よもやま話』)
相手の言葉で話さない。これは相手を同じ人間と見なしていないことを意味している。幼年学校の就学年齢は、だいたい今の高校生に当たる。陸軍将校の間でまだはな垂れガキのうちから、こういう傲慢が広まっていたからには、やがて陸軍が暴走するのは理の当然だった。
その結果、日本はアメリカの属国に落ちぶれた。たかが替え歌と侮る気にはならない。中韓の回し者として死後博物館が建つ程度に繁盛した司馬遼太郎が、滅茶苦茶にこき下ろしているので誤解されているが、軍の重鎮だった山県有朋は、早くからこうした軍人の傲慢を危惧した。
そこで明治天皇の口を借りて、こう説教した。
常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ
普段人々と付き合うには、温和を第一に心掛けて、世間の人から愛され尊敬されるように努力しなければならない。理由も無く勇ましいふりを好んで、無茶な威嚇に走ったら、その結果は世の中の人から忌み嫌われて、猛獣狂犬のように見下されることになる。よくよくそうならぬよう気を付けねばならない。(「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」明治十五年)
回し者やその飼い主の宣伝から目が覚めないと、自国の歴史も分からない。「勅諭」とは”天皇陛下のお諭し”の意だが、「〒冫丿一は神サマじゃ」と言い回る𠮷外が帝国宰相だったり東京帝大法科教授だったりした帝政日本は、神サマの言葉をぜんぜん無視した連中に食い潰された。
ひとえに、役人天国。それが現在、日本人が消滅し掛かっている発端である。
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