(検証・解説・余話の無い章は未改訂)
論語:原文・白文・書き下し
原文・白文
子曰、「小子、何莫學夫詩。詩可以興、可以觀、可以群、可以怨。邇之事父、遠之事君、多識於鳥獸草木之名。」
校訂
定州竹簡論語
子曰:「小子何莫學a詩?詩,可[以]興,可以觀,可以群,可以520怨。壐b之事父,遠[之事君;多]志c於鳥獸草木之名。」521
- 今本”學”字下有”夫”字。
- 壐、今本作”邇”。
- 志、今本作”識”。
→子曰、「小子、何莫學詩。詩可以興、可以觀、可以群、可以怨。壐之事父、遠之事君、多志於鳥獸草木之名。」
復元白文(論語時代での表記)
※詩→辞・怨→夗。志→識。論語の本章は、「之」「事」の用法に疑問がある。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。
書き下し
子曰く、小子、何ぞ詩を學ぶこと莫き。詩は以て興す可く、以て觀る可く、以て群る可く、以て怨む可し。邇きを之父に事へ、遠きを之君に事へ、多く鳥獸草木之名於志らん。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「諸君、なぜあの『詩経』を学ばないのか。詩は感情を呼び起こすことができる、物事を観察することができる、同好の士を集めることができる、うらみを表現することが出来る。身近なところでは父親に仕え、身近でないところでは主君に仕え、多くの鳥やけものや草木の名を分類して知る。」
意訳
諸君、『詩経』のうたを学びなさい。うたを知れば、世界がまるで違って生き生きと見えるようになる。物事の背景が分かるようになる。同好の士を集めて楽しむことが出来る。思いのたけを表現できる。
うたが分かると人情が分かるから、家で父親に仕えるにも役立つ。教養が身に付くから、仕事で主君に仕えるにも役立つ。おまけに鳥やけもの、草木の名前が覚わる。
従来訳
先師が門人たちにいわれた。――
「お前たちはどうして詩経を学ぼうとしないのか。詩は人間の精神にいい刺戟を与えてくれる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人とともに生きるこころを培ってくれる。また、怨み心を美しく表現する技術をさえ教えてくれる。詩が真に味わえてこそ、近くは父母に仕え、遠くは君に仕えることも出来るのだ。しかも、われわれは、詩をよむことによって、鳥獣草本のような自然界のあらゆるものに親しむことまで出来るのではないか。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「同學們,為什麽不學詩呢?學詩可以激發熱情,可以提高觀察力,可以團結群衆,可以抒發不滿。近可以事奉父母,遠可以事奉君王;還可以多知道些鳥獸草木的名字。」
孔子が言った。「塾生諸君、どうして詩を学ばないのかね? 詩を学べば情熱を沸き立たせることが出来、観察力を高めることが出来、群衆と団結することが出来、不満を表現することが出来る。近い所では父母に仕えることが出来、遠いところでは君主に仕えることが出来る。またあまたの鳥獣草木の名を知ることが出来る。」
論語:語釈
小子(ショウシ)
論語の本章では”お前ら”。孔子は弟子複数に呼びかけるとき「君子」”諸君”とか「二三子」”きみたち”とか呼んでおり、「小子」という無礼な言葉遣いをおそらくしていない。曽子はしているがこれも後世の偽作。
おそらく論語の本章は、もと「二三子」とあったのが、後世「小子」に書き換えられている。軍人が上官に「小官は…であります」と言うのは謙遜の辞だが、上官が部下に「小官、面舵一杯」と言えば、キレて取り舵一杯を切りかねない。言葉に敏感な孔子が、「小子」の無礼に気付かぬワケがないだろう。
(甲骨文)
「小」の初出は甲骨文。甲骨文の字形から現行と変わらないものがあるが、何を示しているのかは分からない。甲骨文から”小さい”の用例があり、「小食」「小采」で”午後”・”夕方”を意味した。また金文では、謙遜の辞、”若い”や”下級の”を意味する。詳細は論語語釈「小」を参照。
「子」(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。論語ではほとんどの章で孔子を指す。まれに、孔子と同格の貴族を指す場合もある。また当時の貴族や知識人への敬称でもあり、孔子の弟子に「子○」との例が多数ある。なお逆順の「○子」という敬称は、上級貴族や孔子のような学派の開祖級に付けられる敬称。「南子」もその一例だが、”女子”を意味する言葉ではない。字形は赤ん坊の象形で、もとは殷王室の王子を意味した。詳細は論語語釈「子」を参照。
何莫
(金文)
論語の本章では、”どうして~しないのか”という疑問、または”~するとよい”という勧誘のことば。「何」は疑問辞、「莫」は”無い”を意味する。詳細は論語語釈「何」・論語語釈「莫」を参照。
夫
「夫」(金文)
論語の本章では、”あの”。「夫」はもと成人男性を指すが、本章では三人称の指示代名詞。転用されるようになった事情については、『大漢和辞典』『学研漢和大字典』『字通』ともに記載がない。詳細は論語語釈「夫」を参照。
詩
論語の本章では”詩集に収められた詩”。現伝『詩経』を指すと考えてもほぼ間違いないが、正確でもない。理由は下記「付記」を参照。
初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は「辭」(辞)。『学研漢和大字典』によると、之(シ)(いく)は、止(とまる)と同じく、人の足を描いた象形文字で、直線状に進む、直下に停止する、の意を含む。寺は「寸(手)+〔音符〕之」からなり、手でおし進める、手をじっととめる(持)の両方の意を含む。詩は「言+〔音符〕寺」の会意兼形声文字で、心の進むままをことばであらわしたもの(叙情詩)、心の中にとまった記憶をことばにしてとどめたもの(叙事詩)の両方の意を含む、という。詳細は論語語釈「詩」を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
詩可以興
「興」(金文)
論語の本章では、”詩によって感情を興すことが出来る”。例えば勉強嫌いの子供が、修学旅行で奈良に連れて行かれた場合、「シカがいる」「せんべいを売っている」「大仏があった」でおしまいとなる。だがこの和歌を知っていたとしよう。
すると唐風の衣装を着た奈良朝人の姿や、命がけで海を渡った遣唐使や、聖武天皇などの姿が目に浮かぶかも知れない。大仏も金色に輝いて見えるかも。つまりメルヘンやファンタジーの世界に遊べる。カネのかからぬ暇つぶし、人文が持つ唯一の実用的価値かもしれない。
「興」の原義は”大事なものを大勢の手で持ち上げる”。藤堂本によると注として「『詩経』には、比(たとえ)・賦(直叙)・興(風物から心情をかき立てる)の三つの場合がある。その興をふまえたことば」とある。詳細は論語語釈「興」を参照。
觀・群・怨
論語の本章では、”観察する”・”同好の士を集める”・”うらみの気持を表現する”。
「観」(金文)
「觀」(観)の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によるの原義は、口を揃えて鳴く鳥+見で、ものをそろえて見渡すこと。詳細は論語語釈「観」を参照。論語の時代の漢文では、”受動的に見える”を「見」と書き、”能動的に見る”を「視」・「観」・「察」と書く。
「群」(金文)
「群」の初出は春秋末期の金文。『学研漢和大字典』による原義は、丸くまとまった羊の群れ。「君」はまるくまとめること。論語の本章では、詩をきっかけに同好の士を集めること。詳細は論語語釈「群」を参照。
「怨」(秦系戦国文字)
「怨」の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しないが、同音の夗を単独で用いたか、夗心と二文字で書かれた可能性がある。『学研漢和大字典』による原義は、土下座させられるような押さえつけられた心。論語の本章では、詩を通じて押さえつけられた心を表現し、晴らすことを意味する。詳細は論語語釈「怨」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では動詞の強調と、”~の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
「之」は多くの場合「A之B」で、”Aが属性として持つところのB”の意を持ち、節や句(フレーズ。文の中の半独立した、複数のことばからなる部品)を作る役割を持っている。形としては「主語+之+述語」または「修飾語+之+被修飾語」。
ただし論語の本章の場合は、「A之B」で”AをこれBす”、倒置・強調の意を意味する。
邇きをこれ父に事う
近いところでは父親に仕える
あるいは「これちかからば父に事う」と読んで、直前の動詞「邇」を強調する記号として捉えてもよいが、「邇」「壐」「爾」は形容詞であり、動詞に分類するのは無理があるように思う。
事(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”奉仕する”。動詞としては主君に”仕える”の語義がある。初出は甲骨文。甲骨文の形は「口」+「筆」+「又」”手”で、原義は口に出した言葉を、小刀で刻んで書き記すこと。つまり”事務”。「ジ」は呉音。論語の時代までに”仕事”・”命じる”・”出来事”・”臣従する”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「事」を参照。
邇之事父→壐之事父
「邇」(古文)
論語の本章では、”身近なところでは父に仕える”。ここでの「事」は”仕える”という動詞。
「邇」は論語では本章のみに登場。初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音は爾”はんこ・お前”のみ。『学研漢和大字典』によると「辶+(音符)爾(ジ)(紙や布にくっつけて押すはんこ)」の会意兼形声文字で、ぺったりとねばりつくの意を含む。爾は璽の原字。爾(はんこ、身ぢかにいる相手)・二(ふたつくっつく)・昵(ジツ)(身ぢかになじむ)と同系のことば、という。詳細は論語語釈「邇」を参照。
定州竹簡論語の「壐」は「璽」の異体字で、初出は楚系戦国文字だが近音で部品の「爾」の初出は甲骨文。”はんこ”の意だが、「爾」には”近い”の語釈がある。論語では「反」を「畔」とわざと難しく書くように、儒者どもによるハッタリでいちいち気にしていられない。詳細は論語語釈「璽」を参照。
「事」の初出は甲骨文。『学研漢和大字典』によると「計算に用いる竹のくじ+手」の会意文字で、役人が竹棒を筒(ツツ)の中にたてるさま、という。詳細は論語語釈「事」を参照。
なお詩を学ぶとなぜ父や主君に仕えるのに役立つかは、藤堂本に「詩によってやさしい心を育てれば」「詩によって教養を高めれば」とあるのに従った。
識→志
(金文)
論語の本章では”知る”。初出は西周早期の金文。カールグレン上古音は、”しる”ではɕi̯ək(入声)。『学研漢和大字典』による原義は標識+言で、目印やことばによって物事を分類して知ること。詳細は論語語釈「識」を参照。
定州竹簡論語は「志」と記す。初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は”知る”→「識」を除き存在しない。字形は「止」”ゆく”+「心」で、原義は”心の向かう先”。詳細は論語語釈「志」を参照。
論語:付記
論語の本章は、孔子在世当時のうたの重要性と、孔子がどんな思いで『詩経』と関わったかが分かる。『詩経』の編者には異論があるが、論語為政篇2で「『詩経』を一言で言ってしまうと、悪気のないうたばかりだ」と言ったことから、孔子かそれ以前の人と訳者は考える。
つまり『詩経』は論語よりさらに古い古典ということになる。ただし現伝の『詩経』は漢代の『毛詩』に始まるとされ、その編者は毛ナントカ(一説に毛亨・毛萇)といって名前も心細い人物で、どこまで本当か信用しかねる。『詩経』の文字には史実性が怪しいものも多い。
またおのおのの詩やその成立過程について、後漢の鄭玄がもっともらしいハッタリを書き加えた(ふらちな後漢儒)。それが唐代になると科挙の必須知識になった。ところが朱子は儒教にオカルトを持ち込んだにもかかわらず、鄭玄の御託をハッタリと言い切ったらしい。
だが朱子の『詩集伝』をざっとながめる限り、それなりに鄭玄に敬意を払っているように見受けられる。論語の真偽判断で手一杯の訳者にとっては、両人の言い分検討は面倒が見きれないし、クズ(鄭玄)と𠮷外(朱子)の吐き出しものを検分するのは、正直言っていやである。
鄭玄の書き加えたハッタリとは、たとえば次の通り。
『詩経』桃夭
(元の詩)
桃之夭夭、灼灼其華。”桃はみずみずしく実り、キラキラとはなやいでいる。”
之子于歸、宜其室家。”今嫁いでいく我が娘よ、嫁ぎ先で可愛がられますように。”
鄭玄「桃夭とはみかどのきさきが持つ性質である。女が不妊症でないならば、男女は婚姻をまじめに結ぶ。そうなればその時代にやもめ男は出ないのである。ついでに書いておく。年老いたのに妻がいない者をやもめ男という。」
だから何だ、と言うしかない。
話を『詩経』に戻すと、さらに鄭玄に続けて、儒者どもが「俺も俺も」と御託を書き加えている。元の詩はあとページを2枚めくらないと現れない。漢語で下らない御託を並べることしか出来ない儒者を腐儒(腐れ儒者)という。『笑府』の第二巻は腐流=腐儒部だ。
なお第一巻はカネや身分を持ったバカをからかっている。冒頭を掲げる。
財主命牧童晒巾。童晒之牛角上。牛臨水照視驚而走逸。童問人曰。見一隻戴巾牛否。此牛自知分量勝却主翁多許。
でくでくと太った金持ちおやじが思い上がって、士分がかぶるべき頭巾をかぶった。汚れたので召使いの小僧に洗濯を命じた。洗い終えた小僧は牛の角に干した。牛が水を飲みに川辺に行くと、水面に何やら変なものをかぶった化け物がいる。驚いた牛はどこかへ走り逃げてしまった。小僧が牛を探して隣近所に聞いて歩いた。
「頭巾をかぶった牛を見ませんでしたか。」
「そりゃあんたの所の旦那さんかね。」
この牛は身の程を知っている。金持ちおやじのデタラメよりよほどましだ。(『笑府』巻一・富翁帯巾)
話を論語の時代に戻す。
『詩経』のうたや、そこから漏れたうた(=逸詩)が、論語の時代の人物によって、たびたび発言の中で引用されていることは、『春秋左氏伝』に数多く見られる。一々説明すればややこしくなる物事も、共通に知っているうたの一節で「ああそういうことか」と納得できたのだ。
論語の本章の史実性については、『論語之研究』でも特に異論を挟んでいない。文字もほぼ金文までさかのぼることが出来、語法も特に新しいと言えるものはない。孔子の肉声と言っていいだろう。熱心に詩を勧めた孔子の講義録と思われる話は、『孔子家語』好生7にある。
『詩経』の講義は、音楽や情操、作文や文学の講義であるだけでなく、本章で言うように博物学であり、『孔子家語』にあるように、地理・歴史の講義でもあった。つまり君子=為政者階級にとって必須の基礎教養であり、知らないと仕事にならなかったのである。
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