論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす
原文
子曰、「天生德於予、桓魋其如予何。」
校訂
定州竹簡論語
……「[天]生德於予,桓魋其如予何?」165
復元白文
※予→余・桓→亘・魋→椎。
書き下し
天德を予於生せり、桓魋其れ予を如何せん。
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逐語訳
天は私に隠然たる人格力を与えた。桓魋が私をどうできるはずもあるか。
意訳
宋国の将軍・桓魋が暴れ込んできた。
孔子「お前さんと違って天が味方に付いている。やられたりするものか。」
従来訳
先師がいわれた。――
「私は天に徳を授かった身だ。桓魋などが私をどうにも出来るものではない。」
現代中国での解釈例
孔子說:「老天賦予我高尚的品德,追殺我的人能把我怎樣?」
孔子が言った。「お天道様は私に高尚な人徳を与えた。私を追い詰め殺すような人は私に何が出来るか?」
論語:語釈 →項目を読み飛ばす
子曰
前漢宣帝期の上掲定州竹簡論語では、「子曰」が無かったことになる。論語が現伝の形式に整う前の姿を伝えている。
德(徳)
(金文)
論語では経験や技能に裏打ちされた、人間の持つ機能のこと。道徳や人徳では決してない。詳細は論語における「徳」を参照。
予
初出は戦国時代の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はdi̯o。同音に余、野などで、「余・予をわれの意に用いるのは当て字であり、原意には関係がない」と『学研漢和大字典』はいう。「豫」は本来別の字。詳細は論語語釈「予」を参照。
桓
初出は戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はghwɑnで、同音多数。桓の字の『大漢和辞典』の第一義は、”しるしの木”。『学研漢和大字典』によると次の通り。
カ音による同音で、語義を共有できそうなものは見当たらない。ただし固有名詞であり、また孔子より約一世紀前の覇者・桓公の名もある。部品の亘”めぐる”の字は甲骨文から存在する。また桓魋は『左伝』では向魋と記され、宋の桓公の末裔だという説がある。
従って「桓」の字の不存在を理由に、架空の人物と断じることは出来ない。論語語釈「桓」も参照。
魋
初出は後漢の『説文解字』。カールグレン上古音は不明。藤堂上古音はdɪuər(鎚「ツイ」と同じ)。『大漢和辞典』によると”さいづちまげ”を意味し「椎」(藤堂音dɪuər。ただしəの上にハーチェク)と通じるとある。「椎」は甲骨文から存在する。
さいづちまげとは、髪を後ろに垂らしておでこを強調した髪型で、南越の風習だと『大漢和辞典』は言う。魋の字に”才槌頭”の語義がある。
桓魋(カンタイ)
(篆書)
論語の本章では、代々宋国の司馬(元帥)を務めた家柄の出で、孔子の弟子・司馬牛の兄。詳細は論語の人物:司馬耕子牛を参照。
なお「桓」は”大きい・厳めしい”の意で、「魋」は頭にかぶる”しゃぐま”のこと。
其
論語の本章での其は、”それ”という指示詞ではなく副詞。あり得ないこと、あり得ては困ることを示す(戸内俊介「上古中国語文法化研究序説 ――「于」「而」「其」の意味機能変化を例に――」)。詳細は論語語釈「其」を参照。
論語:解説・付記
論語の本章が創作としても、桓魋による襲撃事件は、広く史実として受け入れられている。
従来訳のような解釈は、頭のおかしな爺さんが、気の狂った自慢をしているとしか聞こえない。間違いの元は、孔子が人格者だなどという、儒者のでっち上げを真に受けるからである。革命家でありながら、命を狙われない者など、ただの一人もいはしない。
儒教徒も認めるように、孔子は社会の底辺に生まれた。そして魯国の宰相格にまで出世した。身分制社会で、これは革命にほぼ近い。その上、弟子を連れて国外逃亡し、諸国で政治活動を行ったことも、儒家は認めざるを得ないだろう。既得権益がひしめいている所に、「孔子の理想」をその国で実現させるための運動とは、つまりはクーデターの画策に他ならない。
孔子はとんでもない危険人物だったのだ。だから諸国で追い出され、包囲されて一行は枕を並べて討ち死に寸前まで行った。以上はおおかた、儒教徒も認める伝説を綴り合わせたものだが、それだけで孔子が人格者などでは無い事が証明できる。
その上、春秋時代では「徳」とは能力のことだ。生物の持つ機能と言って良い。平均寿命が30そこそこの時代に70過ぎまで生き、身長2mの体軀で武芸の師範だった孔子は、まぎれもない「徳」の人である。それが人徳の意味になったのは、「君子」同様、孟子が自分の金儲けのために、論語を改変して偽善的な意味をくっつけてからだ。真に受ける必要がどこにあろう。
『史記』では本章の出来事を、魯哀公二年(BC493)・孔子59歳の時のこととする。
しかしなぜ桓魋が孔子を憎み、木を引っこ抜いてまでして迫ったのか説明が付かない。それより哀公十四年(BC481)、孔子71歳で司馬牛が変死した際のことと考えた方が話が通る。すなわち司馬牛が孔子一門に見捨てられたのを怨んで、復讐に訪れたと考えたい。
司馬牛は孔子一門には珍しく、れっきとした貴族、それも領地を持つ宋国の名門上級貴族だった。政治革命の宿志を持つ孔子が、司馬牛をただの弟子として扱ったとは思えない。おそらくは宋での政治工作の拠点を、司馬牛に提供させただろう。
司馬牛は普段は宋国にいて、兄の桓魋が失脚するまで止まっていた。しかしなぜか兄を避けるようにし、亡命した斉国に兄が向かっていると聞くと、あてがわれた領地も捨てて呉国に逃亡している。そして呉国にもいられなくなった理由を、『左伝』は国人に憎まれたと書く。
そして司馬牛が向かったのは魯国だった。恐らくその際の問答が、論語には二つある。
孔子「言いにくそうにものを言うことだ。」
司馬牛「たったそれだけ? それだけで仁なのですか?」
孔子「言いにくそうにするのは難しい。仁を語りにくいのももっともだ。」
(論語顔淵篇3)
孔子はまるで突き放すように、司馬牛をまともに扱っていない。その結果。
子夏「そうでもないでしょう。生きるも死ぬも運命です。富貴だって同じです。君子は君子らしく振る舞えば、世界中が兄弟です。それが礼法の教えというものです。」
司馬牛「ハハハハハ。君はいいな。何もわかっちゃいない。」
(論語顔淵篇5)
「ハハハハ」は訳者の付け足しだが、司馬牛の絶望をここに見る。『左伝』は言う。
司馬牛は自分の領地と爵位を示す玉の笏を宋の公室に返上し、斉に行った。
一方すでに宋国を出ていた兄の向魋(=桓魋)は、衛を去った。その途上、公文氏が桓魋を攻めかけて、夏后氏の璜(たま)を奪おうとした。桓魋は公文氏に他の玉を与え、斉に逃亡した。
斉の執権・陳成子が桓魋を迎えて次卿(=準家老)に任命すると、司馬牛は斉で与えられていた領地を返上して、呉に逃げた。
しかし呉の国人が司馬牛を憎んだので居られなくなった。そこで晋の執権・趙簡子が司馬牛を呼び寄せ、陳成子も呼び寄せたが、司馬牛は城門で死んだ。阬氏が司馬牛を丘輿に埋葬した。
おそらくは魯の郊外で自ら命を絶ったのだろう。桓魋は左伝によると決して乱暴者ではなく、失脚して亡命した曹国で、無関係の曹国人を巻き込まないよう配慮するなど、むしろ論語時代の貴族としては例外的に道徳的な人だった。その桓魋が弟をこのように扱われ、復讐に来た。
訳者はこの説を、ほとんど史実のように思っている。あるいはまた、孔子が華南の陳・蔡国で政治工作をし、呉国に両国を攻めさせて、ほとんど滅亡同然にまで至らせたが、宋国は陳・蔡国の隣国で、あるいは宋国もまた呉国に攻められていた可能性がある。
孔子は怨まれるようなことを、ずいぶんしてきたのだ。
ただし孔子にも言い分がある。仕官して身分差別を乗り越える野心に燃えた若者が、武装して集っているのが孔子塾。しかも弟子のほとんどは庶民の出。だから孔子塾に入門を願う者は、出身地や身分を捨て去らねばならなかった。武装した若者集団で差別が流行ればどうなるか。
内部で血の雨が降ること、日本の新撰組やドイツのSAと同じ。差別禁止=「友の己にしかざる者無からしめよ」(論語学而篇8)は孔子塾の鉄則だった。ところが司馬牛は、『史記』に「口数が多くてはしゃぐ」と書かれたことから、おそらく自分の身分を鼻に掛けたのだろう。
そんな司馬牛を、孔子は許すことが出来なかったのだ。
BC | 魯哀公 | 孔子 | 魯国 | その他 | |
484 | 11 | 68 | 孔文子に軍事を尋ねられる。衛を出て魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 | 呉と連合して斉に大勝 | |
483 | 12 | 69 | もう弟子ではないと冉有を破門 | 季康子、税率を上げ、家臣の冉求、取り立てを厳しくする | |
482 | 13 | 70 | 息子の鯉、死去 | 呉王夫差、黄池に諸侯を集めて晋・定公と覇者の座を争う。晋・趙鞅、呉を長と認定(晋世家)。呉は本国を越軍に攻められ、大敗 | |
481 | 14 | 71 | 斉を攻めよと哀公に進言、容れられず。弟子の顔回死去。弟子の司馬牛、宋を出奔して斉>呉を放浪したあげく、魯で変死 | 孟懿子死去。麒麟が捕らわれる | 斉・簡公、陳成子(田常)によって徐州で殺され、平公即位。宋・桓魋、反乱を起こして曹>衛>斉に亡命 |
480 | 15 | 72 | 弟子の子路死去 |
子服景伯と子貢を斉に遣使 |
斉、魯に土地を返還、田常、宰相となる。衛、出公亡命して蒯聵=荘公即位。 |
479 | 16 | 73 | 死去。西暦推定日付3/4。曲阜城北の泗水河畔に葬られる | ギリシア、プラタイアの戦い |
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