論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰自行束脩以上吾未甞無誨焉
校訂
諸本
- 北京中華諸局版論語義疏:「修」、齋本、庫本作「脩」、下同。邢疏、朱注作「脩」、劉氏正義作「修」。「脩」為乾肉、「修」是「修飾」、本是両字、自漢隷已互相通用。
- 京大蔵清家本・宮内庁蔵清家本・宮内庁蔵宋版論語注疏・正平本・早大蔵四書集注・根本本・乾隆御覽四庫全書薈要本:「脩」。文明本:「修」。
東洋文庫蔵清家本
子曰自行束脩以上吾未甞無誨焉
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
(なし)
標点文
子曰、「自行束脩以上、吾未嘗無誨焉。」
復元白文(論語時代での表記)
焉
※脩→攸。論語の本章は、「焉」が論語の時代に存在しないが、無くとも文意は変わらない。「行」「未」「嘗」の用法に疑問がある。
書き下し
子曰く、束みて脩を行ふに自るを以ゐる上は、吾未だ嘗て誨ふること無くんばあらざる焉。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「過去を綺麗さっぱり洗い流したからには、私はこれまで教えなかったことはなかったねえ。」
意訳
自分の身分や過去を気にしないなら、誰でも教えて上げるよ。
従来訳
先師がいわれた。――
「かりそめにも束脩をおさめて教えを乞うて来たからには、私はその人をなまけさしてはおかない。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「衹要帶了見面禮,沒有我不教育的人。」
孔子が言った。「入門の付け届けさえ持ってくれば、私が教えない人はいない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
自(シ)
(甲骨文)
論語の本章では”…による”。初出は甲骨文。「ジ」は呉音。原義は人間の”鼻”。春秋時代までに、”鼻”・”みずから”・”~から”・”~により”の意があった。戦国の竹簡では、「自然」の「自」に用いられるようになった。詳細は論語語釈「自」を参照。
行(コウ)
(甲骨文)
論語の本章では”行う”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ギョウ」は呉音。字形は十字路を描いたもので、真ん中に「人」を加えると「道」の字になる。甲骨文や春秋時代の金文までは、”みち”・”ゆく”の語義で、”おこなう”の語義が見られるのは戦国末期から。詳細は論語語釈「行」を参照。
束(ショク)
(甲骨文)
論語の本章では”(心を引き)締める”。初出は甲骨文。「ソク」は呉音。字形はふくろを両側で束ねた姿で、原義は”束ねる”。「漢語多功能字庫」によると、金文では原義のほか、氏族名に用いた。詳細は論語語釈「束」を参照。
脩(シュウ)
(晋系戦国文字)
論語の本章では”修養する”→”過去を綺麗さっぱり洗い流す”。初出は晋系戦国文字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補は部品の「攸」。字形は「攸」”人を棒で打つ”+「月」”にく”。原義は不明。詳細は論語語釈「脩」を参照。
辞書が「ほじし」”干し肉”と解しているのは、南北朝時代の儒者・皇侃のデタラメで、根拠が無い。詳細は論語における束脩を参照。
本字は諸本おおむね「脩」と記すが、文明年間(1469-1487、応仁の次)の本願寺坊主の手になる文明本は「修」と記し、清儒・劉宝楠の『論語正義』でも同様に「修」と記す。「月」”からだ”・”にく”と「彡」”毛”・”刷毛目”は明確に音と意味が異なり、「脩」・「修」は異体字ではない。文字的には論語語釈「修」を参照。
文明本は注に「行束修以上則皆教誨之也」、疏(注の付け足し)に「束修十束脯也」と、それぞれ「脩」→「修」に変えただけでそのまま古注の文字列を記しており、特に意味上の区別をつけるつもりで「修」と記したわけではないらしい。
また文明本は論語顔淵篇21では「脩慝」、論語憲問篇45では「脩己」と唐石経や清家本同様に記しており、坊主が「脩」の字を知らなかったわけではないらしい。
日本人は室町初期まではしおらしく古伝の文字列を伝承していたが、本願寺坊主になるとこのような勝手な書き換えを行った箇所が少なくない。改める根拠となるべき同時代以前の中国伝承本は存在しない。文明年間は蓮如が本願寺を再興した時代でもあり、教派隆盛のためなら古典の書き換えも平気でやらかしたようだ。日中ともに隙あらば物書きがそういう行為に走った例は、論語はどのように作られたかを参照。
もっとも当時の本願寺は後継者などを巡り内輪もめが激しかった上に、比叡山など伝統教派からも打ち壊しなどの目に遭っており、ウソ八百の八百程度はいいたくなった気持ちはわからなくもない。
『正義』については北京大学蔵の版本を見ると「正義曰修與脩同謂以修為摯見其師也」とある。誤植でなく意図的に「修」と記したが、意味は「脩」と同じだという。「摯見」とは鳥のガンなどを贈り物にして、婚約者や師匠となるものに挨拶すること。
劉宝楠(1791-1855)が「修」に改めた理由は明確でないが、乾隆末年から咸豊初年までを生きた彼の時代は、古注など日本に伝承された版本を輸入して古典を研究するのが流行っており(いわゆる清朝考証学)、劉宝楠はうっかり本願寺坊主のデタラメを真に受けた可能性がある。
論語の伝承について詳細は詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
以(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”…より”。初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”…で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
上(ショウ)
(甲骨文)
論語の本章では”…の上”→”し終える”。初出は甲骨文。「ジョウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。原義は基線または手のひらの上に点を記した姿で、一種の記号。このような物理的方向で意味を表す漢字を、指事文字という。春秋時代までに、”うえ”の他”天上”・”(川の)ほとり”の意があった。詳細は論語語釈「上」を参照。
吾(ゴ)
(甲骨文)
論語の本章では”わたし”。初出は甲骨文。字形は「五」+「口」で、原義は『学研漢和大字典』によると「語の原字」というがはっきりしない。一人称代名詞に使うのは音を借りた仮借だとされる。詳細は論語語釈「吾」を参照。
春秋時代までは中国語にも格変化があり、一人称では「吾」を主格と所有格に用い、「我」を所有格と目的格に用いた。しかし論語でその文法が崩れ、「我」と「吾」が区別されなくなっている章があるのは、後世の創作が多数含まれているため。
未(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”今までにない”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。「ミ」は呉音。字形は枝の繁った樹木で、原義は”繁る”。ただしこの語義は漢文にほとんど見られず、もっぱら音を借りて否定辞として用いられ、「いまだ…ず」と読む再読文字。ただしその語義が現れるのは戦国時代まで時代が下る。詳細は論語語釈「未」を参照。
嘗(ショウ)
(金文)
論語の本章では”かつて”。この語義は春秋時代では確認できない。唐石経・清家本の「甞」は異体字。初出は西周早期の金文。字形は「冂」”建物”+「旨」”美味なもの”で、屋内でうまいものを食べる様。原義は”味わう”。春秋時代までの金文では地名、秋の収穫祭の意に用いた。戦国の竹簡では、”かつて”の意に用いた。詳細は論語語釈「嘗」を参照。
無(ブ)
(甲骨文)
論語の本章では”…するな”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。
日本語の「無い」は形容詞だが、漢語の「無」は動詞。
誨(カイ)
(金文)
論語の本章では”(秘められたことを)教える”。初出は甲骨文とされるが、「每」(毎)の字形であり、「每」に”おしえる”の語義は甲骨文で確認できない。現行字体の初出は西周中期の金文。字形は「言」+「每」で、「每」は髪飾りを付けた女の姿。ただし漢字の部品としては”暗い”を意味し、「某」と同義だった。春秋末期までの金文では人名のほか、”たくらむ”・”教える”の語義がある。詳細は論語語釈「誨」を参照。
焉(エン)
(金文)
論語の本章では「かな」と読んで、”~ねえ”を意味する詠嘆のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞や完了・断定の言葉と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、その用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうるし、完了・断定の言葉は無くとも文意がほとんど変わらない。
字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章、「束脩」の再出は、定州漢墓竹簡にも含まれている前漢前半の『孔子家語』だが、文字列を見るとすでに本章が成立した後で記されたことが伺える。
齊太史子與適魯,見孔子。…曰…「然凡所教誨,束脩已上,三千餘人。或者天將欲與素王之乎?」
斉の記録長官子与が魯に行き、孔子と会って…言った。…「そして合計で教えた弟子は、束脩を行う以上の者、三世余人に達する。あるいは天は、孔子を素王=無冠の帝王にしようとしているのではないか?」(『孔子家語』本姓解2)
「素王」の語が漢語に見られるのは戦国時代の『荘子』が初出だが、孔子を讃える語として言いだしたのは前漢儒になる。論語の本章は定州竹簡論語に無く、「焉」の字が論語の時代に遡れないので、あるいは前漢儒の偽作を疑えるが、「焉」は無くとも文意が変わらず、「焉」を代行しうる漢語は論語の時代にもあるから、話そのものは史実の孔子の発言と見てよい。
ただし上記の通り、束脩=”干し肉”の解釈は間違っている。論語における「束脩」を参照。
解説
論語当時の師弟関係について明らかではないが、伝統的に中国では師礼を取らないと弟子入りさせて貰えず、金を積んでも師匠が断れば入門できなかった。そうでない公的な学校と言われるものが『左伝』にあるが、その解釈はおそらく間違いで、学校ではなく集会所だった。
また孔子より前、最下層の士族を含めた貴族階級にのみ教育を受ける権利があり、庶民は教育から閉め出されていた(→国野制)。そこに目を付けた革命家孔子は、成り上がりたい庶民を釣って教えると共に、自分の手下や私兵を養成した。明治の私立学校と同じである。
ゆえに志操堅固な者でないと、入門させられなかった。やる気の無い者が混ざると全体の士気が落ちるし、もっと切実なのは、出自を鼻にかける者が出ると血の雨が降りかねなかったからだ。それゆえ過去を綺麗さっぱり洗い流さねば、入門を許さない、と本章は言っている。
孔子塾で教授したのは、春秋の君子に成り上がるための技能教養で、君子には参戦義務があったから、武芸も教えた。物騒な道具と腕前を持った若者が集まる場では、日本の新撰組のように些細な意見の違いから、内部で殺し合いが始まるのは理の当然だったからだ。
孔子は弟子には優しい師匠だったが、有名弟子で例外がある。『史記』に「口数が多くてはしゃぐ」と評された司馬耕子牛は、庶民ばかりだった弟子の中で唯一上級貴族の出だったが、孔子は見捨てるようなことを言い(論語顔淵篇4)、司馬牛を憤死に追いやった。
論語顔淵篇4は偽作の疑いがあるが、宋の公族に生まれた司馬牛は、兄の桓魋とともに政争に巻き込まれ、諸国を右往左往して結局孔子を頼ったのだが、冷たく言い返されたのが顔淵篇の話で、その結果わざわざ魯の国都の門前で憤死したのは『春秋左氏伝』に記されている。
その結果、兄の桓魋が孔子のところへ復讐にやってきた(論語述而篇22)。通説では桓魋はただの乱暴者で、勝手に孔子を嫌って殺しに来たことになっているが、『春秋左氏伝』によれば極めて道徳的な常識人であり、弟を死に追いやった孔子を許せなかったのである。
亦入于曹取質,魋曰,不可,既不能事君,又得罪于民,將若之何。乃舍之。
(曹国に亡命した桓魋に討伐軍が差し向けられたので、人が桓魋に勧めて)曹国人から人質を取って、強制的に徴兵してはと言われると、桓魋は「いけない。すでに宋公に仕えきれずに亡命したのだ。この上曹国の民に怨まれるようなことをすれば、どうしようもないではないか。」そう言って曹国からも去った。(『春秋左氏伝』哀公十四年2)
おそらく司馬牛は、公族という自分の出自を自慢したのだろう。だから『史記』で酷評され、怜悧な孔子は突き放し弟子仲間からは嫌われ、若さゆえに孔門の暗部に関わらず、事情を知らない子夏だけが慰めの言葉を言った(論語顔淵篇5)。話を論語の本章に戻す。
現代日本ではごくわずかに、武道や禅宗などいくつかの芸事・宗教に入門作法が見られるが、師匠もそれでメシを食っている以上、入門お断りなどと言うことはまず考えられない。しかし孔子のこの発言から、そう簡単に入門できる気軽な塾なり学校なりは、当時無かっただろう。
孔子は有力弟子の冉求に「我が徒=弟子にはあらず」といった、破門状のような言葉を発している(論語先進篇16)。しかしそれでもなお、孔子塾は当時としては身分や出身地を問わない、極めて開かれた学塾で、おそらく被差別民の入門を孔子は許している(論語述而篇28)。
論語の本章、新古の注は以下の通り。
古注『論語集解義疏』
註孔安國曰言人能奉禮自行束脩以上則皆教誨之也
注釈。孔安国「自分から礼儀正しく束脩を行った者は必ずみな教えたのである。」
孔安国が架空の人物であることはいつも通りだが、「束脩」とは何か一切言っていない。南北朝の皇侃が記した、続きの疏=付け足しを見よう。
束脩十東脯也古者相見必執物為贄贄至也表已來至也上則人君用玉中則卿羔大夫鴈士雉下則庶人執鶩工商執雞其中或束脩壺酒一犬悉不得無也束脩最是贄之至輕者也
束脩とは十束の干し肉である。昔は人と会う際には必ず肉類の手土産を用意した。それによって会いたい意志を示したのである。高い身分の君主は玉を用意し、中程の身分のまち領主は子羊、家老はガンを用意し、士族はキジを用意した。庶民はガチョウ、うち職人や商人はニワトリを用意したが、庶民は干し肉の束か一壺の酒か犬一匹でもよかった。ただし手ぶらで会いに来るのは許されなかった。手土産の中で束脩は最も安いものだった。
新注は次の通り。
新注『論語集注』
脩,脯也。十脡為束。古者相見,必執贄以為禮,束脩其至薄者。蓋人之有生,同具此理,故聖人之於人,無不欲其入於善。但不知來學,則無往教之禮,故苟以禮來,則無不有以教之也。
脩とは干し肉である。十本をまとめて束にする。昔は人と会うのに、必ず肉類の手みゃげを用意した。束脩はその中で最も安いものである。おそらく出生祝いにも、同じ様な手土産が用意されただろう。だから孔子は人に対して、善の道に入ろうとする者を邪魔しなかった。ただし無学な者が入門して、入門の作法を守らないことがあった。だからもし作法を守って来たなら、必ずその者を教えたのである。
だいたい古注の疏の引き写し。
余話
個人の好みだから分からない
「束脩」の語は、「束修」でなくとも”修養する”の意味で南北朝まで通用した。
言出於近,千里必應。士之生世,束脩而已。廣則難周,無勞交結。玉尚待沽,而況人乎?勤營功德,恆事賑賜,此為上也。
自分の身近にあってよく知っていることを根拠にものを言えば、千里の遠くまで必ず当てはまる。士族がこの世に生まれたからには、ひたすら修養するのみ。付き合いを広げて他人にかまけることなく、交友での煩わしさから遠ざかるがよい。誰もが欲しがる宝石ですら、売られたがるものなのに(論語子罕篇13)、人は自分を売り出したがって止まず、その言う事を真に受けているほど人生は長くないぞ。(『金楼子』后妃7)
その「束脩」を入門料だと言い張ったのが儒者だったのは上記の通りだが、では誰が言い始めたデタラメかと言えば、最も古そうな出典は、『春秋穀梁伝』の「伝」(注釈)部分になる。
冬,十有二月,祭伯來。來者,來朝也。其弗謂朝何也?寰內諸侯非有天子之命,不得出會諸侯。不正其外交,故弗與朝也。聘弓鍭矢不出竟埸,束修之肉不行竟中,有至尊者不貳之也。公子益師卒。大夫日卒,正也。不日卒,惡也。
冬の十二月、祭伯が魯に来た。ただ来たのではなく、服属の挨拶に来たのである。ではどうして通例通り「朝」”目上の君主にまみえる”と書かなかったのか? 周王朝の勢力範囲にある諸侯は、天子の命令でなければ、他の諸侯と会見することが出来なかった。祭伯が来たのは不正規の来朝だから、だから「朝」と書かなかったのである。諸侯は弓の鏃を調達するのに、領地外に求めてはならず、束脩の肉が領内で贈られていないなら、最も尊い者は二度と訪れたりしない。公子益師が「卒した」”世を去った”とあるが、家老階級の死没を「卒」というのは、礼法にかなっている。「卒」以外の言葉で表現したら、それは間違いだ。(『春秋左氏伝』隠公元年6)
「天子」という言葉が中国語に現れるのは西周早期で、殷の君主は自分から”天の子”などと図々しいことは言わなかった。詳細は論語述而篇34余話「周王朝の図々しさ」を参照。
そもそも「穀梁伝は孔子の直弟子である子夏が伝えた」という伝説を今なお信じる玄人はいない。穀梁伝が明確に確認できるのは前漢宣帝の時代であり、定州竹簡論語とほぼ同時期になる。公羊伝を創作したのは董仲舒であるのはほぼ確実だが、穀梁伝の成立は更に時代が下る。
宣帝は前漢ではまともな皇帝だが、暴君武帝がやらかした制度の破壊と財政破綻の後始末のため、さんざん苦労したようだ。「儒者という役立たず」とも公言しており、現実主義の人物と思われる。その宣帝に穀梁伝はいたく好かれたらしい。理由は個人の好みだから分からない。
武帝については論語雍也篇11余話「生涯現役幼児の天子」を参照。
ともあれ穀梁伝のこの部分を誰が書いたか分からず、おおざっぱに「漢儒」と言えるだけ。
コメント