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論語詳解141雍也篇第六(24)斉一変せば*

論語雍也篇(24)要約:後世の創作。斉国で殿様が家老に殺される政変があり、その家老家はやがて斉国を乗っ取ります。激動の春秋時代、孔子先生とその弟子たちも、諸国を経巡って何やらやります。あるいはそれと関連のある一節。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子曰齊一變至於魯魯一變至於道

校訂

東洋文庫蔵清家本

子曰齊一變至於魯〻一變至於道

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

曰:「齊壹a變,至於魯;魯壹b變,至於道。」130

  1. b.今本「壹」作「一」。

標点文

子曰、「齊壹變、至於魯。魯壹變、至於道。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文曰 金文 斉 金文一 金文 至 金文於 金文魯 金文 魯 金文一 金文至 金文於 金文道 金文

※壹→一。論語の本章は、「變」の字が論語の時代に存在しない。「道」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

いはく、せいひとたびかはらば、いたらむ、ひとたびかはらば、みちいたらむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子別像
先生が言った。「斉がひとたび変われば魯のようになるだろう。魯がひとたび変われば原則に則るようになるだろう。」

意訳

孔子 人形
諸君。斉で政変が起こった。うまくいけば我が魯のような君子国になれよう。魯もワシの政道に従えば、理想のメルヘンランドになるだろう。

従来訳

下村湖人
先師がいわれた。――
(せい)が一飛躍したら魯のようになれるし、魯が一飛躍したら真の道義国家になれるのだが。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說:「齊國的制度經過改革,就能達到魯國的水平;魯國的制度經過改革,就能走上正道。」

中国哲学書電子化計画

孔子が言った。「斉国での制度が改革されれば、つまり魯国の水準に至ることが出来る。魯国の制度が改革されれば、つまり正しい道を進むことが出来る。」

論語:語釈

、「 。」


子曰(シエツ)(し、いわく)

論語 孔子

論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」論語語釈「曰」を参照。

子 甲骨文 曰 甲骨文
(甲骨文)

この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。

齊(セイ)

斉 金文 斉 字解
(甲骨文)

論語の本章では”斉国”。初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。

一(イツ)→壹(イツ)

一 甲骨文 一 字解
(甲骨文)

論語の本章では、”ひとたび”。「イチ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。初出は甲骨文。重文「壹」の初出は戦国文字。字形は横棒一本で、数字の”いち”を表した指事文字。詳細は論語語釈「一」を参照。

變(ヘン)

変 金文 変 字解
(戦国金文)

論語の本章では”動乱が起こる”。新字体は「変」。初出は戦国早期の金文。ただし釈文は□のままで語義が明瞭でない。論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。同音は存在しない。初出の字形は字形は「占」+「又」”手”+「言」で、先を占うさま。現行字体の字形は「絲」”糸→つながる”+「言」+「攵」”打つ”で、「䜌」は音符とされ、”乱れる”の語釈が『大漢和辞典』にある。詳細は論語語釈「変」を参照。

齊一變

論語の本章では、あるいは魯の哀公十年(BC485)の政変のこと。斉は開祖太公望以来、魯の東隣にあった大国で、孔子と同世代で、雇う雇わないのゆかりもあった景公は、宰相・晏嬰(アンエイ)の補佐もあって、桓公以来の安定した国政を維持できた。

ところが晏嬰が世を去り、景公も魯の哀公五年(BC490)に病死すると、魯国と同じく諸家老家の力が強かった斉国では内乱が続いた。まず景公の後継に擁立された晏孺子荼(アンジュシ・ト)は幼君で国政が安定せず、有力家老は内乱を起こして荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生を呼び帰し悼公とした。

悼公は魯に亡命中、魯国門閥家老筆頭・季康子の妹を望んで夫人とした。季康子は晩年の孔子を魯に呼び返した若家老。悼公は帰国後、夫人を斉に呼び寄せようとしたが季康子に妨害された。季康子は自分の妹が、一族の一人と密通していたのを、当の妹本人から聞かされていたからである。怒った悼公は魯に兵まで出して、やっと夫人を連れ帰った。

ここから分かるように、悼公もあまりだらしのある殿様ではない。斉国内では家老家同士の内輪もめが続き、魯の哀公十年(BC485)には陳成子の反乱に遭って殺されてしまった。陳成子=田恒は大女を後宮に集め、手下を自由に間男ばたらきをさせ、生まれた男児を全て自分の子として認知し、田氏の勢力を拡大させた。論語雍也篇16解説も参照。

呉王夫差
当時の春秋諸侯国の国際関係では、南方の海岸沿いにある呉国が、まさに日の出の勢いにあった。呉王夫差はたびたび斉や魯といった中原諸侯国に出兵し、国際関係のもつれがあると干渉した。西北の大国・晋とも張り合い、南方の大国・楚はすでに破っていた。

そしてそのころ、孔子と一門は楚と呉の間にある、陳などの小国に滞在していた。そしてたびたび子貢を呉に遣わして、濃密な関係を築いていた。あるいは魯の季氏以下の門閥家老家が、態度を軟化させて孔子の帰国を受け入れたのも、背後に呉国の武力があったからだろう。

つまり孔子の革命計画は、ある程度までうまくいっていた。哀公十年の斉の政変に、孔子一門や呉国が、どこまで関係していたかは史料がない。しかし状況証拠的に、魯国門閥家老筆頭の季氏と縁が深い悼公が去ったことは、孔子にとって政治的に有利に見えたに違いない。

本章は、それを踏まえないと孔子の言葉としては理解しがたい。

BC 魯哀公 孔子 魯国 諸国
490 5 62 佛肸フツキツの招きに応じようとするが果たせず 晋・佛肸、孔子を招く。晋・定公、范・中行氏を敗り、二氏斉に亡命。斉・公子陽生、魯に亡命。望んで季康子の妹をめとる。斉・景公死去。子の晏孺子荼即位
489 6 63 楚・昭王の招きに応じ、子貢・宰我を伴って向かうが、陳・蔡の妨害に遭う。楚の宰相・子西も反対し、仕官できず衛へ 楚・昭王死去。斉・田乞、高氏・国氏を追い、晏孺子荼を廃位し、魯に亡命していた公子陽生、帰国して即位し悼公となる
488 7 64 衛・出公に仕える? 呉に百牢を出す。季康子、子貢を派遣して自分の出張を撤回させる。邾を攻める。 呉、強大化し繒の会盟で無理な要求を魯に突きつける
487 8 65 弟子の有若、迎撃部隊から外される。斉と和睦 呉、邾の要請で魯を攻撃。斉、魯を攻め三邑を取る。邾、呉の力で復国
485 10 67 夫人の幵官氏死去。子貢を派遣して呉から援軍を引き出す 呉と同盟して斉を攻める 斉・悼公、鮑牧に殺され簡公即位、田乞死去し田常継ぎ、魯を攻めんとして子貢諫止
484 11 68 魯に戻る。のち家老の末席に連なる。弟子の冉求、侵攻してきた斉軍を撃破 呉と連合して斉に大勝

至(シ)

至 甲骨文 至 字解
(甲骨文)

論語の本章では”至る”→”…のようになる”。甲骨文の字形は「矢」+「一」で、矢が届いた位置を示し、”いたる”が原義。春秋末期までに、時間的に”至る”、空間的に”至る”の意に用いた。詳細は論語語釈「至」を参照。

於(ヨ)

烏 金文 於 字解
(金文)

論語の本章では”~に”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。

魯(ロ)

魯 甲骨文 魯 字解
(甲骨文)

孔子の生まれた春秋諸侯国の一国。周初の摂政・周公旦を開祖とし、周公旦の子・伯禽が初代国公。現在の中国山東省南部(山東半島の付け根)にあった。北の端には聖山である泰山があり、西の端には大野沢という湖があった。東は大国・斉、南には邾・滕といった小国があった。首邑は曲阜(現曲阜)。wikipediaを参照。また辞書的には論語語釈「魯」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”理想的な政治”。この語義は春秋時代では確認できない。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音。詳細は論語語釈「道」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は、文字史的に論語の時代に遡れず、春秋戦国の誰一人引用していない。前漢中期埋蔵の定州竹簡論語に記されていることから、前漢前半には論語の一章として成立していたのだろう。再出は後漢前期の『漢書』地理志で、孔子の言葉として記載されている。

しかし孔子当人が、そんなに母国の魯を結構な国だと思っていたふしは無く、せいぜい「君子が多い」と言った程度(論語公冶長篇2)。また魯国が変身して至るべき「道」なるものは、孔子の教説とは言いがたい。以上から、論語の本章は後世の創作と断じてよい。

解説

孔子塾とは、鉄器や小麦や(クロスボウ)の実用化に伴って変動し始めた古代中国で、庶民が入門して貴族にふさわしい技能教養を学び、仕官して貴族に成り上がる場だった。従って孔子は「道」などという、形而上的なメルヘンを説かなかったし、弟子も聞きたがらなかった。

孟子
その教説は極めて実用的かつ具体的で、分からないゆえに有りがたい経文のようなメルヘンを儒学に持ち込んだのは、孔子没後一世紀に現れた孟子からになる。従って論語の本章は、おそらく孟子の作であり、孟子は春秋に無い「變」(変)の字が、丁度中国に現れた時代を生きた。

論語 孔子 せせら笑い
史実の孔子は、儒者や漢学教授がよよと泣き濡れたことを書いたような、生涯不遇の聖者ではない。諸国間の戦争を煽って謀略を逞しくし、亡命先の衛国では政府乗っ取りをはかるような危険人物で、陳・蔡国を滅亡の瀬戸際に追いやり、逃げ遅れて包囲された不逞の輩でもある。

余談ながら不逞の輩と言えば、司馬遼太郎の小説に、幕末の長州で、尊王攘夷派がやっと殿様に謁見を認められ、平伏しつつ揃ってシクシク泣き濡れる場面があった。ところが後列に不逞の輩(白井小助)が居て、目の前にあった松下村塾の後輩の、何某の尻をつねって曰く。

「まだ泣き足らぬ。もっと泣け」。あまりにしつこいので「白井さん、やめてくだされ」と頼むが、「慷慨家コウガイカ(大言壮語して天下国家を嘆く連中)も大変じゃのう」と返されたという。この人物は維新後も、松下村塾の後輩だった山県有朋の屋敷に押し込んだ。

その夫人をかわやに呼びつけて「ワシの尻を拭け」。さすがに怒ったに夫人を酒樽に放り込み、「公爵夫人を漬けたらどんな味がするのかのう」(『長州人の山の神』)。史実の孔子は場合によっては、こんな事も平気でやりかねない人物だった。

論語の本章に話を戻せば、新古の注を付けた儒者連も、「道」の解釈に困っていろいろと想像を書き付けている。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰言齊魯有太公周公之餘化也太公大賢周公聖人今其政教雖衰若有明君興之者齊可使如魯魯可使如大道行之時也

包咸
注釈。包咸「斉国と魯国は、太公望と周公が教育を施した国の末裔である。太公望は大賢者だったし、周公は聖人だった。今ではその政治が衰えたとは言うが、もし名君が現れて再興すれば、斉は魯のようになれるし、魯は大道を行くことが出来るのだ。」

この言い分は、当時の魯国がよほどまともな正義の国になっていないと成り立たないが、当時の魯国は大国ではないものの、周辺の弱小国をいたぶって回る悪の侯国だった。孔子が放浪から帰国する四年前、魯国は隣国のチュを攻め滅ぼしてしまう。

魯軍はついに城門を破り、チュ国になだれ込む。殿様の屋敷を占拠すると、昼間ゆえに兵隊は手当たり次第略奪を始めた。邾軍はさっさと逃げ散り、城民と共に繹山エキザンに隠れる。一方一旦始まった魯軍の乱暴は止まらなくなり、夜も略奪に忙しい。

負けて呆然としていた邾の殿様・エキは捕まり、ゴウという高台のやしろに閉じ込められる。監禁した魯の兵隊に「ケケケ、首ちょん切ってオソナエにしちゃおうかな~」とさんざんいびられた。ついで負瑕フカのまちに監禁され、この時繹山に逃げた民も巻き添えを食った。(『春秋左氏伝』哀公七年)

この時は覇権国の呉に邾が泣きついて援軍を引き出し、何とか復国に成功したようだが、世が戦国へと移り変わっていく中で、魯国も相応に暴虐沙汰を繰り返していた。論語季氏篇1からの属国取り潰しの話は、まるまる史実とは言えないが、当時の魯国の様子を伝えている。

新注を参照しよう。

新注『論語集注』

孔子之時,齊俗急功利,喜夸詐,乃霸政之餘習。魯則重禮教,崇信義,猶有先王之遺風焉,但人亡政息,不能無廢墜爾。道,則先王之道也。言二國之政俗有美惡,故其變而之道有難易。程子曰:「夫子之時,齊強魯弱,孰不以為齊勝魯也,然魯猶存周公之法制。齊由桓公之霸,為從簡尚功之治,太公之遺法變易盡矣,故一變乃能至魯。魯則修舉廢墜而已,一變則至於先王之道也。」愚謂二國之俗,惟夫子為能變之而不得試。然因其言以考之,則其施為緩急之序,亦略可見矣。


孔子の頃、斉の国情は利益追求にあせり、好き好んで詐欺をやった。これは桓公が覇者だったことの名残である。対して魯は道徳を重んじ、信義を尊び、まだ先王の遺風が残っていた。ただし権力の主体があいまいで、政治の誤りを正せなかった。

ここで道というのは、先王の道である。斉魯二国には、政治のやり方で悪と善の差があったが、だからこそ政治を先王の道に戻すにあたって、難易の差があったのだ。

論語 程伊川
程頤「孔子様の時代、斉は強く魯は弱かった。だから斉が魯にまさっていたと言えはするが、魯にはまだ、周公の制度が残っていたのだ。斉は桓公が覇者になって以来、政治に損得勘定を取り入れた。太公望の遺法はすっかり消えていたのだ。だから改革があってやっと、魯の水準になれた。対して魯は、衰えていた制度を復活させるだけで済むから、改革があればすぐさま、先王の道に戻れた。」

論語 朱子 新注
馬鹿者である私(朱子)が考えるに、二国の政情は孔子先生だけが変えることが出来たが、その機会が無かった。お言葉から考えるに、改革の実施には実情に合わせた速さが必要で、性急に事を進めなければ、見るべきものがあっただろう。(『論語集注』)

「見るべきものがあっただろう」と一生懸命ゴマをすっているが、「魯は道徳を重んじ、信義を尊び、まだ先王の遺風が残っていた」と記した時点でおのれを偽っている。朱子が『春秋左氏伝』を読んでいなかったはずが無く、邾国や顓臾センユへの侵略話を無いことにして済ませた。

ウソをウソと知りつつウソを言い続けると、いつか自分の精神を病む。自分までだまされる。現代の論語読者が、儒者のウソに付き合う必要は無いし、調べもしないでウソの拡大再生産をし、世間からお金を取っている論語業者を、有り難がる必要もさらさらない。

余話

畳の上で死ねない斉公

論語の本章が偽作だからと言って、春秋時代の斉国がまともな国だったわけではない。姜氏斉国公32代のうち、13人は殺されている。4割は畳の上で死ねなかったことになる。

  1. 太公望:おそらく自然死。
  2. 丁公:おそらく自然死。
  3. 乙公:おそらく自然死。
  4. 癸公:おそらく自然死。
  5. 哀公×周王によって釜ゆで。
  6. 胡公×クーデターで討ち死に。
  7. 献公:おそらく自然死。
  8. 武公:おそらく自然死。
  9. 厲公×反乱で討ち死に。
  10. 文公:おそらく自然死。
  11. 成公:おそらく自然死。
  12. 荘公贖:おそらく自然死。
  13. 釐公:おそらく自然死。
  14. 襄公×クーデターで討ち死に。
  15. 公孫無知×暗殺。
  16. 桓公×病身を幽閉され飢え死に。
  17. 斉侯無詭×暗殺。
  18. 孝公:おそらく自然死。実子は殺害。
  19. 昭公:おそらく自然死。
  20. 斉君舎×暗殺。
  21. 懿公×暗殺、竹やぶに放置。
  22. 恵公:おそらく自然死。
  23. 頃公:おそらく自然死。
  24. 霊公?自然死とされるが疑わしい。
  25. 荘公光×家臣の妻を寝取って殺される。
  26. 景公:おそらく自然死。孔子より一世代は上の同時代人。
  27. 晏孺子荼×クーデターで殺される。
  28. 悼公×暗殺。
  29. 簡公×クーデターで殺される。
  30. 平公:おそらく自然死。
  31. 宣公:おそらく自然死。
  32. 康公?自然死とされるが疑わしい。姜氏斉国滅ぶ。

参考記事

『論語』雍也篇:現代語訳・書き下し・原文
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