論語詳解147雍也篇第六(30)もしひろく民に*

論語雍也篇(30)要約:論語で最高の徳目、仁。その究極は、自分ではなく他人の成長を助け、志をかなえてやることでした。孔子先生は自分を仁者ではないと言いますが、では仁者のお手本はどこにいるのでしょう、というお話。

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論語:原文・書き下し →項目を読み飛ばす

原文

子貢曰、「如有*博施於民、而能濟衆*、何如。可謂仁乎。」子曰、「何事於仁、必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取譬、可謂仁之方也已。」

校訂

武内本

清家本により、衆の下に者の字を補う。能、唐石経有に作る。

定州竹簡論語

貢 外字曰:「若a博施於民b能濟衆c],可謂仁乎?」子曰:「何事於[仁]!135也聖乎!堯舜其猶病□![夫]仁者,己欲立而立人,136欲達而達人。能近取辟d,可謂仁之方也已。」137

  1. 若、今本作「如」、幷於「如」下有「有」字、皇本作「如能」。
  2. 今本「民」下有「而」字。
  3. 今本「衆」下有「何如」二字、皇本作「衆者何如」。
  4. 辟、今本作「譬」。

→子貢 外字曰、「若博施於民、能濟衆、何如。可謂仁乎。」子曰、「何事於仁、必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者、己欲立而立人、己欲達而達人。能近取辟、可謂仁之方也已。」

復元白文

子 金文江 金文曰 金文 論語 若 金文論語 博 金文論語 矢 金文於 金文民 金文 能 金文斉 金文論語 衆 金文 何 金文如 金文 可 金文謂 金文仁 甲骨文乎 金文 子 金文曰 金文 何 金文事 金文於 金文仁 甲骨文 必 金文也 金文論語 聖 金文乎 金文 堯 金文舜 金文其 金文猶 金文者 金文 夫 金文仁 甲骨文者 金文 己 金文谷立 金文而 金文立 金文人 金文 己 金文谷達 金文而 金文達 金文人 金文 能 金文斤 謹 金文取 金文論語 辟 金文 可 金文謂 金文仁 甲骨文之 金文方 金文也 金文已 矣 金文

貢 外字→江・施→矢・濟→齊・仁→(甲骨文)・欲→谷・近→斤。論語の本章は病の字が論語の時代に存在しない。本章は戦国時代以降の儒者による捏造である。

書き下し

子貢しこういはく、ひろたみほどこして、ひとびとととのはば、如何いかんじんいはく、なんじんこととせむ、かならせい堯舜げうしゆんこれめり。仁者じんしやは、おのれたむとほつひとて、おのれとほらむとほつひととほす。ちかたとへるは、じんみちなるのみ

論語:現代日本語訳 →項目を読み飛ばす

逐語訳

論語 子貢 論語 孔子
子貢が言った。「もし片寄り無く民に施して、民衆の格差を無くせたらどうでしょう。貴族らしいと言えますか。」先生が言った。「なぜ貴族らしいと言うのか。それはもう聖だ。堯舜もやはりそれが出来なくて悩んだ。そもそも仁者は、自分が立とうとすれば人を立て、自分が成し遂げようとすれば人に成し遂げさせ、身近な者にその例を取りうるのは、仁の道と言いきって良い。」

意訳

ニセ子貢 ニセ孔子
子貢「民を守ってやり、食わせてやり、格差をなくしてやれば、それで一人前の貴族と言えますかね。」
孔子「とんでもない。そんなことが出来たらもう万能だ。堯舜だって出来なかったことだ。仁者とはそうではない。自分が目立ちたければ他人を目立たせ、自分が出世したければ他人を出世させてやる。身近な者からそうさせてやるのが、仁に至る方法と言って間違いない。」

「…仁者とはそうではない。顔回を見てみろ。自分が目立ちたければ他人を目立たせ、自分が出世したければ他人を出世させてやる。仕官もせず貧乏暮らしのままだが、人生を楽しんでいる。身近な顔回に見習うのが、仁に至る方法と言って間違いない。」

従来訳

論語 下村湖人
 子貢が先師にたずねていった。――
「もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことが出来ましたら、いかがでしょう。そういう人なら仁者といえましょうか。」
 先師がこたえられた。――
「それが出来たら仁者どころではない。それこそ聖人の名に値するであろう。堯や舜のような聖天子でさえ、それには心労をされたのだ。いったい仁というのは、何もそう大げさな事業をやることではない。自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、ただそれだけのことだ。それだけのことを日常生活の実践にうつして行くのが仁の具体化なのだ。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

子貢說:「如有人能讓百姓都得到實惠,又能扶貧濟困,怎樣?可算仁人嗎?」孔子說:「豈止是仁人!必定是聖人!堯舜都做不到!所謂仁人,衹要能做到自己想成功時先幫別人成功,自己想得到時先幫別人得到,就可以了。推己及人,可算實行仁的方法。」

中国哲学書電子化計画

子貢が言った。「もし人民全てに恩恵を施し、貧困を救えるなら、どうでしょう?仁者と言えますか?」孔子が言った。「仁者どころではない!それはきっと聖人だ!尭舜ですら至れなかった!いわゆる仁者とは、自分が成功したければその前に人を成功させ、自分の欲望があればまず人の欲望をかなえる。それで仁者と言える。自分を材料に人を思いやることが、仁を実行する方法と言って良い。」

論語:語釈 →項目を読み飛ばす

施(シ・セ)

論語 施 金文大篆 論語 施 字解
(金文)

”ほどこす”ことだが、善政を施すのか、具体的に食料を施すのかはっきりしない。ただし語源は”旗・吹き流し”で、ひらひらと及ぶことだから、善政と取った方がいいかも知れない。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。論語の時代に存在した置換候補も無い。

詳細は論語語釈「施」を参照。

濟(済)

論語 済 金文 論語 済
(金文)

論語の本章では”整える”。”救う”と解する例があり、間違いとは言えないが、その語義では論語時代の置換候補が無くなってしまう。初出は上掲戦国末期の金文で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はtsiər、同音に齊(斉)を部品とする漢字群。

部品の斉dzʰiərはかんざしを三本連ねたさまで、”そろえる・平らにならす”の基本義を持つ。

「済」の『大漢和辞典』の第一義は”等しい”。斉の字にさんずいが付いているが、おそらくは”川を渡る”が原義と思える。それが”救う”意味になった理由は、”過不足なく調整する”ことから。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、齊(=斉)の原字は、物がでこぼこなくそろったさまをあらわす象形文字。濟は「水+〔音符〕齊」で、川の水量を過不足なく調整すること。調整してそろえる意を含む。

儕(セイ)(そろった仲間)・劑(サイ)・(セイ)(=剤。そろえて切る)・齋(サイ)(=斎。起居をきちんとととのえる)などと同系のことば、という。

論語の本章は後世の創作であるものの、「仁」の意味は孔子在世中と同じく、”貴族(らしさ)”と思われる。詳細は論語における「仁」を参照。

論語 聖 金文 論語 耳 聖
(金文)

論語の本章では”万能”。論語で言う「聖人」は”万能の人”であり、”神に近い人”ではない。

『学研漢和大字典』によると会意兼形声文字で、壬(テイ)は、人が足をまっすぐのばしたさま。呈(テイ)は、それに口をそえて、まっすぐ述べる、まっすぐさし出すの意を示す。聖は「耳+〔音符〕呈」で、耳がまっすぐに通ること。わかりがよい、さといなどの意となる、という。

猶(ユウ)

論語 猶 金文 論語 猶

論語の本章では、”~もまた”。細は論語語釈「猶」を参照。

論語 夫 金文 論語 夫 字解
(金文)

句頭では「それ」と読んで、”そもそも”。『学研漢和大字典』によると象形文字で、大の字にたった人の頭に、まげ、または冠のしるしをつけた姿を描いたもので、成年に達したおとこをあらわす。父(自分より世代が一段上である男子)・伯(長老の男)と同系のことば、という。

論語の本章では”悩む”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はbhi̯ăŋで、同音は存在しない。詳細は論語語釈「病」を参照。

立・達

論語 立 金文 論語 達 金文
(金文)

色々取りようがあってどれと決めがたいが、論語の本章では”自立・目立ち”と”達成・出世”と取った。

『学研漢和大字典』によると「立」は会意文字で、「大(ひと)+━線(地面)」で、人が両足を地につけてたったさまを示す。両手や両足をそろえて安定する意を含む。

▽リフ→リュウの音は建立(コンリュウ)の場合に用い、リフ→リツの音は入声(ニツショウ)(つまり音)を日本で促音ツであらわす習慣によってなまった音。笠(リフ)→(リュウ)(頭上にしっかりとのせるかさ)・拉(ラフ)→(ラツ)(両手を対象につけてつかまえる)と同系のことば、という。

また「達」は会意兼形声文字で、羊はすらすらと子をうむ安産のシンボル。達は「辶(進む)+羊+〔音符〕大(ダイ)」で、羊のお産のようにすらすらととおすことをあらわす。大(ゆとりがあってつかえない)・泰(タイ)(ゆとりがある)と同系のことば、という。

論語の本章では”近く”。初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。カールグレン上古音はghi̯ənで、同音に”ちかい”を意味する漢字は無い。論語時代の置換候補は、部品の斤。詳細は論語語釈「近」を参照。

能近取譬

論語 譬 金文大篆 論語 譬
「譬」(金文大篆)

論語の本章では、”近くに例を見ることが出来る”。

論語 吉川幸次郎
既存の論語本で、諸説揺れている。吉川本は例によって「あれか、これか」であり、北欧の哲学者と違って、吉川は自説を言わずいつも逃げを打つので当てにならない。古注では「相似を近い自分の身の上について考える」とあるというが、ますます分からない。

論語 藤堂明保
藤堂本は「他人のことを我が身のがわに引き寄せて推し測ることが出来る」といい、まだ分かりやすい。同じく藤堂博士の『漢文入門』では、「近く譬を取るとは何か。他人が困窮しているときには、自分がああだったら、どうだろう、とわが身に引き比べる、他人のケースを身近にたとえてみる意である。」と言う。

論語 宮崎市定
宮崎本では「奇蹟のようなことを行わないでも、最も近い所で、説明の出来ることをすること」といい、やや分かりやすい。宇野本はいかめしく、「ただ能く近く己の欲する所をもって他人の心に比べ、他人の欲する所もまたこのようであると知って、己の欲する所を推して他人に及ぼす」とある。

要するに”自分のしたいことは他人も望むだろうと思って施してやる”ことだろう。仁者とはずいぶんおせっかいなものだ。

ニセ論語指導士養成講座 論語教育不救機構
加地本では「近くにかくありたきことの類型を実現させようとする」という。訳者としては、「恕(ジョ)」=他人を自分と考えて望みを叶えてやること、を補助線に、藤堂本に近く一旦訳したのだが、回りくどくて仕方がないので、えいやっと意訳甲のように解釈した。

ここで論語の教え(論語衛霊公篇「学ぶに如かざるなり」)に従い、考えるのをやめて論語を読み直してみよう。

論語 顔回 輝き
回也、其の心三月にして仁に違わ不なりぬ。(論語雍也篇7)
一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人其の憂いに堪えざるも、回也其の楽みを改めず。賢なる哉回也。(論語雍也篇11)

仁者のたとえが、子貢の近くにあるではないか。以上から、意訳乙と解釈した。

論語 方 金文
(金文)

論語の本章では、”方法”。

『大漢和辞典』の第一義は”もやいぶね”。以下”並べる・比べる…”と続くが、”方角”から”そこへ至る道”と諸本解釈しているので、それに従った。

『字通』では、境界にさらされた異民族のいけにえと言い、『学研漢和大字典』では取っ手が左右に突き出た農具のスキという。
論語 方 論語 鋤

論語:解説・付記

解釈を考える一つの方法として、「能近取譬」は「能近取辟言」の誤記ではないかという可能性がある。こういう本文を改編するような企てには慎重になるべきだし、「辟」もこれがまた大変な多義語(古事記に用例有りとか?)だから、はて。論語憲問篇の「賢者辟世、其次辟地、其次辟色、其次辟言。」も気になるが、しかし上掲意訳乙でOKではなかろうか?

そもそも本章が、孟子がいくつもこしらえた子貢おとしめ話であり、真面目に考える必要の無いポエムである。実務能力がまるで無かった孟子は、仕事の出来る者からたかるための大義名分として、ニセ孔子にニセの言葉を語らせたのだ。まことに悪質と言って良い。

『論語』雍也篇おわり

お疲れ様でした。

警告

漢文業界の者は嘘つき中国人そっくりで、微塵も信用ならぬ(→理由)ので、数言申し上ぐ。


出典明記の引用は自由だが(ネット上では可動リンク必須)、盗用・剽窃は居合を嗜む有段者の訳者が、櫓櫂の及ぶ限り追い詰める。言い訳無用。訳者が「やった」と思ったら、全国どこでも押し込む。頭にきたら海外にも出かけ、バッサリやってすぐ帰る。訳者は暇であるし、惜しむものを持っていないし、面倒が苦にならぬゆえ、こうして古典を研究している。

刀の手入れは毎日している。そして未だ人を斬ったことが無い。

盗作・剽窃の通報歓迎。下手人を成敗した後、薄謝進呈。他人にやらせた者も同罪、まずそ奴から追い回してぶっ○○る。覚悟致せ。

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コメント

  1. […] 孔子はお追従でさえ、下手だった(論語泰伯篇1)。どちらかと言えば良く見聞きし読む人であり(論語為政篇10)、だからこそ万能の人を、聖人と呼んだ(論語雍也篇30)。文字が耳と口から構成されているように、自分の苦手な口も達者なことを、聖人の条件としたのだ。 […]