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論語詳解094公冶長篇第五(2)君子なるかな*

論語公冶長篇(2)要約:後世の創作。万能の孔子先生ですが、統治能力で先生を上回る弟子もいました。本章の子賤はその一人で、得体の知れない政治力を発揮して、先生を畏敬させました、というラノベ。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子謂子賤君子哉若人魯無君子者斯焉取斯

  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。

校訂

諸本

  • 論語集釋:史記弟子列傳引經作:「君子哉,魯無君子,斯焉取斯?」少「若人者」三字。家語子路初見篇:孔子喟然謂子賤曰:「君子哉若人!魯無君子者,則子賤焉取此?」

東洋文庫蔵清家本

子謂子賤/君子哉若人魯無君子者斯焉取斯

  • 「若」字:〔艹〕→〔十十〕。

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

(なし)

標点文

子謂子賤、「君子哉若人。魯無君子者、斯焉取斯。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文謂 金文子 金文賤 賎 金文大篆 君 金文子 金文哉 金文若 金文人 金文 魯 金文無 金文君 金文子 金文者 金文 斯 金文取 金文斯 金文

※賤→金文大篆。論語の本章は、「賤」字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音近音のあらゆる漢字が置換候補になり得る。「焉」の字が論語の時代に存在しない。「焉」の字を省くと文意が成り立たない。「斯」の用法に疑問がある。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。

書き下し

子賤しせんふ、君子よきひとなるかなかくのごとひと君子よきひときはいづくにかきはらむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

子賤
先生が子賤を言った。「君子だなあ、このような人は。魯に君子がいないことは、こういう状況をどの状況から取ったのだろうか。」

意訳

子賤は君子だな。魯にはろくな君子がいないといわれるが、いったいどこの真似をして、こうなってしまったんだろう。

従来訳

下村湖人
先師が子賎(しせん)を評していわれた。――
「こういう人こそ君子というべきだ。しかし、もし魯の国に多くの君子がいなかったとしたら、彼もなかなかこうはなれなかったろう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子評論子賤:「這人是個君子!如果魯國沒有君子,他怎麽會有好品德?」

中国哲学書電子化計画

孔子が子賤を評論した。「この人はひとかどの君子だ! もし魯国に君子がいなかったら、彼はどうやって良い品格を身につけたのだろう?」

論語:語釈

子(シ)

子 甲骨文 子 字解
(甲骨文)

論語の本章では「子謂」では”(孔子)先生”。「子賤」・「君子」は後述。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

謂(イ)

謂 金文 謂 字解
(金文)

論語の本章では”そう思うって言う”。ただ”いう”のではなく、”~だと評価する”・”~だと認定する”。現行書体の初出は春秋後期の石鼓文。部品で同義の「胃」の初出は春秋早期の金文。金文では氏族名に、また音を借りて”言う”を意味した。戦国の竹簡になると、あきらかに”~は~であると言う”の用例が見られる。詳細は論語語釈「謂」を参照。

子賤(シセン)

論語では生没年未詳、孔子の弟子。姓はフク、名は不斉。『史記』によれば孔子より49年少。『孔子家語』によると、単父ゼンホのまちの代官となったが、孔子は役不足だ(もっといい職をあてがてもいい)と評した。

『呂氏春秋』によると、子賎は琴を弾くだけでまちが治まったという。弟子の巫馬期フウバキも単父を治めたが、非常に苦労したため、不思議に思って子賎にたずねると、人任せだから治まると答えたという。また「掣肘」という故事成語の出典となった。

『漢書』芸文志には宓不斉の書として『宓子』16篇があったことを述べている。また、『景子』という書物にも宓子の言葉を記していたという。

自らの名乗りに、「賎」(いやしい)と付けるのは、よほどの大人物なのか、おっちょこちょいなのか、それともすね者か。

政治に対する孔子の態度には矛盾があり、みやみに世間をいじくり回すことを好む半面、琴を弾いただけでまちが治まったという子賎に、孔子は得体の知れない政治力を感じて魅入られた可能性がある。詳細は論語の人物:宓不斉子賎を参照。

「宓」の初出は甲骨文。字形は先にカギ状のかねがついた棒「必」を、屋根「宀」の下に仕舞う様。甲骨文では”安定させる”・”やすらげる”に用い、金文では国名、または”密かに”の意で用いられた。詳細は論語語釈「宓」を参照。

「不」は漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

「斉」の初出は甲骨文。新字体は「斉」。「サイ」は慣用音。甲骨文の字形には、◇が横一線にならぶものがある。字形の由来は不明だが、一説に穀粒の姿とする。甲骨文では地名に用いられ、金文では加えて人名・国名に用いられた。詳細は論語語釈「斉」を参照。

「賤」の字の初出は戦国文字で、論語の時代に存在しない。「賎」は異体字。カールグレン上古音はdzʰi̯anで、同音は戔を部品とする漢字群。論語時代の置換候補もないが、固有名詞だから、そのどれもが論語時代の代替候補になり得る。詳細は論語語釈「賎」を参照。

君子(クンシ)

論語 徳 孟子

論語の本章では「よきひと」と訓読して”情け深く教養を身につけた人徳のある人”。論語の本章は「焉」の存在や他の語の用法の怪しさから見て戦国時代以降の成立が確実なので、孔子生前の意味「もののふ」”貴族”ではなく、孟子が商売の都合ででっち上げた意味で解すべき。詳細は論語における「君子」を参照。

哉(サイ)

𢦏 金文 哉 字解
(金文)

論語の本章では”…だなあ”。詠歎の意を示す。初出は西周末期の金文。ただし字形は「𠙵」”くち”を欠く「𢦏サイ」で、「戈」”カマ状のほこ”+「十」”傷”。”きずつく”・”そこなう”の語釈が『大漢和辞典』にある。現行字体の初出は春秋末期の金文。「𠙵」が加わったことから、おそらく音を借りた仮借として語気を示すのに用いられた。金文では詠歎に、また”給与”の意に用いられた。戦国の竹簡では、”始まる”の意に用いられた。詳細は論語語釈「哉」を参照。

若(ジャク)

若 甲骨文 若 字解
(甲骨文)

論語の本章では”このような”。初出は甲骨文。字形はかぶり物または長い髪を伴ったしもべが上を仰ぎ受けるさまで、原義は”従う”。同じ現象を上から目線で言えば”許す”の意となる。甲骨文からその他”~のようだ”の意があるが、”若い”の語釈がいつからかは不詳。詳細は論語語釈「若」を参照。

人(ジン)

人 甲骨文 人 字解
(甲骨文)

論語の本章では”ひと”。初出は甲骨文。原義は人の横姿。「ニン」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文・金文では、人一般を意味するほかに、”奴隷”を意味しうる。対して「大」「夫」などの人間の正面形には、下級の意味を含む用例は見られない。詳細は論語語釈「人」を参照。

若人(かくのごときひと)

論語の本章は定州竹簡論語に無く、事実上の初出は『史記』弟子伝なのだが、そこではこの句を欠く。だが引用ゆえに略したのかも知れず、現存する『史記』は日本の国立民俗博物館蔵の南宋本で古注よりは新しい。よって校訂しなかった。

なおやはり『論語集釋』が引く『孔子家語』は、定州漢墓竹簡に含まれることからすなわち定州竹簡論語と同時期の編ということになる。

魯(ロ)

魯 甲骨文 魯 字解
(甲骨文)

孔子の生まれた春秋諸侯国の一国。周初の摂政・周公旦を開祖とし、周公旦の子・伯禽が初代国公。現在の中国山東省南部(山東半島の付け根)にあった。北の端には聖山である泰山があり、西の端には大野沢という湖があった。東は大国・斉、南には邾・滕といった小国があった。首邑は曲阜(現曲阜)。wikipediaを参照。また辞書的には論語語釈「魯」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”いない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

者(シャ)

者 諸 金文 者 字解
(金文)

論語の本章では”…は”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”…は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。

魯無君子者

論語の本章では、”魯に君子がいないことは”=魯の君子不在。この句で次の句「斯焉取斯」の主部を構成する。文字史から本章は戦国時代以降の偽作が確定するので、語釈の範疇が広がる。句中の主格は「魯」で、述語動詞は「無」。『学研漢和大字典』によると、漢語の「無」は形容詞ではなく動詞であるとする。

服部宇之吉
「君子者」を三字で一語とし”君子である者”と解したのは戦前の帝大総長である服部卯之吉だが、論語先進篇19を除き、論語の他の箇所で「君子」の二文字で記したのを、なぜここだけ「者」をつけたか説明が付かないなら、漢文が読めないことを白状したコジツケに過ぎない。

うのきち本 クリックで拡大

論語の本章、ここでの「者」は主格を示す語義。また宇之吉は「魯無君子者」を”もし魯に君子がいなかったら”と条件節に解すが、「者」を「君子者」と読んでしまった以上、条件を示す記号は無くなってしまう。これは古注や新注に書き付けられた儒者のデタラメを真似したから。

古注『論語集解義疏』

註苞氏曰若人者若此人也如魯無君子子賤安得取此行而學行之

包咸
注釈。包咸「”若人”とは”このような人”の意である。もし魯に君子がいなければ、子賤はどうやってこれほどまでの行動規範と学問を身につけ実践できただろうか。」

新注『論語集注』

上斯斯此人,下斯斯此德。子賤蓋能尊賢取友以成其德者。故夫子既歎其賢,而又言若魯無君子,則此人何所取以成此德乎?因以見魯之多賢也。

論語 朱子 新注
上の「斯」は”このような人”の意、下の「斯」は”このような徳”の意。おそらく子賤は賢者を尊び、そのような人と付き合い、そうやって徳を身につけたのだろう。だから孔子先生はその偉さを讃え、加えて”もし魯に君子がいなかったら、いったいどうやってこの人はこのような徳を身につけたのか?”と言った。となると、当時の魯には賢者が多かったのだろう。

「者」に仮定条件の用法はあるが、「者」単独では順接の仮定条件で、逆接の場合は「不者」の形を取ると『学研漢和大字典』に言う。漢文は極端に語数を惜しむ言語なので、一字一句をないがしろにせず丁寧に読み解かないと、儒者同然の誤りを犯すことになる。

服部の読みは語順もデタラメで、「てにをは」を付け間違えている。格変化も助詞も無い漢語では、語順をデタラメに読んだらもう正しく読めない。

うのきち解
魯国に 無い 君子である者が ならば
訳者解
魯国が 持たない 君子を ことは

表にすると「てにをは」のみならず、服部が勝手な都合で原文にない「ならば」を付けていることも明らかになる。

斯(シ)

斯 金文 斯 字解
(金文)

論語の本章では、”こういう状況”。初出は西周末期の金文。字形は「其」”籠に盛った供え物を祭壇に載せたさま”+「斤」”おの”で、文化的に厳かにしつらえられた神聖空間のさま。意味内容の無い語調を整える助字ではなく、ある状態や程度にある場面を指す。例えば論語子罕篇5にいう「斯文」とは、ちまちました個別の文化的成果物ではなく、風俗習慣を含めた中華文明全体を言う。詳細は論語語釈「斯」を参照。

焉(エン)

焉 金文 焉 字解
(金文)

論語の本章では「いづくにか」と読んで、”どこで”を意味する疑問のことば。初出は戦国早期の金文で、論語の時代に存在せず、論語時代の置換候補もない。漢学教授の諸説、「安」などに通じて疑問辞と解するが、いずれも春秋時代以前に存在しないか、疑問辞としての用例が確認できない。ただし春秋時代までの中国文語は、疑問辞無しで平叙文がそのまま疑問文になりうる。

字形は「鳥」+「也」”口から語気の漏れ出るさま”で、「鳥」は装飾で語義に関係が無く、「焉」は事実上「也」の異体字。「也」は春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「焉」を参照。

取(シュ)

取 甲骨 取 字解
(甲骨文)

論語の本章では”取る”→”真似をする”。初出は甲骨文。字形は「耳」+「又」”手”で、耳を掴んで捕らえるさま。原義は”捕獲する”。甲骨文では原義、”嫁取りする”の意に、金文では”採取する”の意(晉姜鼎・春秋中期)に、また地名・人名に用いられた。詳細は論語語釈「取」を参照。

斯焉取斯

論語の本章では、”いったいどこの真似をして、こうなってしまったんだろう”。

  • 斯:”こういう状況”。「魯無君子者」を言い換え、魯の君子不在を指す。
  • 焉:”どこから”。
  • 取:”取る”→”真似をする”。
  • 斯:”こういう状況”。魯国にかかわらず君子の不在を指す。

論語:付記

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検証

前漢年表

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論語の本章は、前漢中期の『史記』仲尼弟子伝に再録され、半世紀ほどのちには、前漢劉向の『説苑」政理篇にも再録された。後漢前期の『白虎通義』にも名指しは無いが再録された。だが春秋戦国の誰一人、引用も再録もしていない。だから前漢初期の創作の可能性が高い。

文法的には、「焉」の字は論語の時代に存在しないが、疑問辞であれ断定の語であれ、取って付けたような文型だと無くても文意が変わらない。だが本章の場合、「斯」の字が前にあることによって、「焉」はハンダ付けのように文に組み込まれ、これ無しでは文意が通じない。

つまり論語の本章はどうやり繰りしても、史実と言えない。主人公である子賤の、情報的な得体の知れなさを含め、人物ひっくるめて偽造と見てよい。

ただし異説もある。仮に「焉」字が「也」字の飾り文字に過ぎないという訳者のバクチが当たっているなら、全文春秋時代に遡れることになり、次のように解釈できる。

子謂子賤、「君子哉若人。魯無君子者、斯也取斯。」
子子賤を謂ふ、「君子なる哉かくのごとき人。魯は君子なる者無くんば、きは斯を取らむか。」


先生が子賤を評論した。「貴族らしいなあ、このような人は。(それなのに)魯は貴族らしい者を持たないから、そういう環境こそが(一層)そういう環境を作り出す悪循環に陥っているのだ。

ただしバクチに過ぎないから、異説としての提示に止める。

解説

ただし本章を偽作する動機が、漢儒に見当たらない。何かの史実を反映しているだろうが、春秋戦国時代に、子賤の事跡を記した儒者はいない。他学派が戦国末期、面倒くさい住人が住むまちの代官になったことを『呂氏春秋』が記し、殺されてしまったと『韓非子』は記す。

宓子賤治亶父,恐魯君之聽讒人,而令己不得行其術也。將辭而行,請近吏二人於魯君,與之俱至於亶父。邑吏皆朝,宓子賤令吏二人書。吏方將書,宓子賤從旁時掣搖其肘。吏書之不善,則宓子賤為之怒。吏甚患之,辭而請歸。宓子賤曰:「子之書甚不善,子勉歸矣。」二吏歸報於君,曰:「宓子不可為書。」君曰:「何故?」吏對曰:「宓子使臣書,而時掣搖臣之肘,書惡而有甚怒,吏皆笑宓子,此臣所以辭而去也。」魯君太息而歎曰:「宓子以此諫寡人之不肖也。寡人之亂子,而令宓子不得行其術,必數有之矣。微二人,寡人幾過。」遂發所愛,而令之亶父,告宓子曰:「自今以來,亶父非寡人之有也,子之有也。有便於亶父者,子決為之矣。五歲而言其要。」宓子敬諾,乃得行某術於亶父。

呂氏春秋
子賤が亶父(単父)のまちの代官に任じられたとき、「殿様はいずれ私の悪口を言う者に耳を傾けるに違いない」と疑い、習い覚えた政治の手練手管を使わずにおこうと決心した。赴任にあたって「副官を二人つけて下さい」と殿様に願い出て、この二人を連れて亶父に行った。

現地の役人が揃って挨拶に来たので、子賤は二人に命じてその者らの名を書き付けさせた。副官が筆を執ると、子賤が横からチョイチョイと副官の袖を引っ張った。それで字が汚くなってしまったが、子賤は「何という下手くそな字だ」と副官を叱った。頭にきた副官が辞任を願い出ると、「ああ、帰れ帰れ」と子賤は言った。

都城に帰った副官二人が殿様に報告し、「子賤どのが字を書かせてくれません」と言った。
殿様「どういうことじゃ?」
副官「子賤どのが字を書けというので書こうとすると、袖を引っ張って邪魔しました。なのに”下手くそ”と子賤どのには叱られ、現地の役人はゲラゲラ笑っていました。だから辞めて戻ってきたのです。」

殿様「あー、しもうた。これは子賤がワシを疑っておるのじゃ。ワシが子賤の邪魔をし、腕を振るわせないことが今までにあったのじゃろう。お前たち二人が帰ってこなかったら、今後もワシは気付かぬままじゃったろうな。」

殿様は側近中の側近を亶父のまちに派遣し、子賤にこう言わせた。「今後ワシは、亶父をそなたに呉れてやったことにする。亶父のためによいことなら、思い通りにやるがよい。五年たったら、成果を報告しに帰るように。」

子賤は殿様の御諚をありがたく拝命し、手練手管を尽くして亶父を治めた。(『呂氏春秋』具備2)

これが「掣肘」の故事成語の出典だが、対して『韓非子』にはすごいことが書いてある。

故文王說紂而紂囚之…宓子賤、西門豹不鬥而死人手…。此十數人者,皆世之仁賢忠良有道術之士也,不幸而遇悖亂闇惑之主而死,然則雖賢聖不能逃死亡避戮辱者何也?則愚者難說也,故君子不少也。且至言忤於耳而倒於心,非賢聖莫能聽,願大王熟察之也。

韓非子
だから聖王の周の文王でさえ、暴君の紂王に意見したら牢に放り込まれ、…子賤と西門豹はいさかいを避けていたのに殺されてしまいました…。この十数人は、全て当時でも人柄才能ともに優れた人々だったにもかかわらず、バカ殿のせいで死に追いやられたのです。こんなすごい人々が、なぜ自分を死から救えなかったのでしょうか。

それは、バカ(殿)に付ける薬が無いからです。だからこそ、世の中に人材はいくらでも居ると申し上げました(バカ殿には人材が人材だと分からない)。そして同時に、本当に政治に役立つ献策は、君主の耳に心地よくはなく、腹に据えかねる事さえあるのです。ならば聖王や名君でなければ聞き入れることが出来ない道理で、大王殿下にはそこの所をご理解下さると幸いです。(『韓非子』難言2)

西門豹とは子夏の弟子、すなわち孔子の孫弟子に当たる人物で、春秋末期に勃興した魏国の名代官として知られる。ただし魏文侯の取り巻きにワイロを贈らなかったためクビになり、紆余曲折あって「アホらしい」と役人を辞めてしまい、後になって事実を悟った文侯が「悪かった。戻ってくれ」と言ったが受けなかった、と『史記』には無いが『韓非子』は言う

春秋時代年表

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ダイコン人として有名な西門慶とは別人28号ゆえ注意を要する。

ともあれ上掲の『韓非子』は、韓非がのちに始皇帝となる秦王に説いた部分で、始皇帝はウソには本気で怒る性格だったから、西門豹と並んで子賤が”君主に殺された”というのは、おそらく戦国末期では史実として広まっていたのだろう。だが史実と断じるには史料が足りない。

子賤の目出度からぬ話はこの『韓非子』が伝える一節のみだからで、事実は古代の闇の中だ。また後世に「子賤派」は確認できないし、儒家の道統に含まれたわけでもない。つまり偽造の動機が分からない。

古注に「子賤魯人弟子宓不齊也」”子賤とは魯の人である。弟子の宓不斉である”と注を付けたのは実在が疑わしい孔安国であり、それ以外の古注は上掲包咸の注にあるように、子賤についての感想は書いてあるが子賤その人に迫る情報は何ら記されていない。

古注の残り、疏=付け足しは、孔安国と包咸の言い換えに過ぎない。

云子謂子賤者亦評子賤也云君子哉若人者此通所評之事也若人如此人也言子賤有君子之徳故言君子哉若此人也云魯無君子者斯焉取斯者因美子賤又美魯也焉安也斯此也言若魯無君子子賤安得取此君子之行而學之乎言由魯多君子故子賤學而得之


付け足し。子謂子賤とは、子賤を評したということである。君子哉若人とは、その評価の内容である。若人とはこの人ということである。子賤には君子の徳があったから、君子だなあ、と感心したのである。魯無君子者斯焉取斯とは、子賤が結構なのは魯が結構だったからということである。焉とはどこにの意味である。斯はこれの意味である。若魯無君子子賤安得取とは、君子らしい行動をどこで学んだかという意味である。魯に君子が多かったから、子賤が君子らしさを学べたというのである。

文のちょん切り方の短さ、例えば「焉」一字で切っていることから、付け足しを書いた儒者も書くべき情報を持っておらず、と言って何も書かないと仕事にならないので何か書かねばならず、毒にも薬にもならないことを書き連ねたことがよく分かる。

ついでだから新注の残りも記しておこう。

蘇氏曰:「稱人之善,必本其父兄師友,厚之至也。」


蘇軾曰く、「人の長所を讃えるからには、その長所の裏には、必ず長所ある者の父兄や師友が、手厚くその者と付き合っている精華があって、それが花開いたのである。」

日本では詩人として、またトンポーローの発明者として有名な蘇軾=蘇東坡だが、どうでもいい事しか言っていない。蘇東坡ファンには残念なことだろうが、彼もまた中国史上最高を極めた宋儒の高慢ちきとメルヘンを代表する人物で、書いた散文を読むとびっくりする。

メルヘンは詩人に欠かせない資質だが、こういう人物をお上に頂く庶民はたまらない。

それにもう一つ、本章について書いておかねばならない事がある。孔子が魯を出て放浪したことから、儒者は口を揃えて当時の魯国が「ろくでもなかった」と言う。ところが本章では、魯に立派な君子が大勢いたから、子賤がまことに結構な君子になれたと口を揃えて言う。

こんなインチキ、子供でも納得しないと思うのだが、こういう事を平気で言える鉄面皮を持たないと、帝国儒者は務まらない。儒者のそういう物言いに「ヘンだ」と声を上げない漢学教授も、ご同類と言われても仕方がなかろう。

だから論語に何が書いてあるかを知りたければ、自分で読むしか無いわけだ。

余話

間違いなくまともでない

蘇東坡についてこう書いただけでは不実で後ろめたいので、一例を記す。

蘇氏曰:「…愛而知勞之,則其為愛也深矣;忠而知誨之,則其為忠也大矣。」

蘇軾 蘇東坡
愛すればこそ苦しめる。そうすれば愛は深まる。真心があるからこそ無知を教えてやる。そうすれば真心は一層偉大になるのだ。(論語憲問篇8新注)

これって、ある種の趣味の人と言えるでしょ? 宋儒のこうしたていたらくについては、論語雍也篇3余話「宋儒のオカルトと高慢ちき」を参照。

『論語』公冶長篇:現代語訳・書き下し・原文
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