論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
子曰不有祝鮀之佞而有宋朝之美難乎免於今之世矣
- 「世」字:〔七丨〕の字形。唐太宗李世民の避諱。
校訂
東洋文庫蔵清家本
子曰不有祝鮀之佞而有宋朝之羙難乎免於今之世矣
- 「羙」字:「美」の異体字。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
□曰:「不有祝鮀之仁a,而有[宋朝]之美,[難乎免於今之世b]125……
- 仁、今本作「佞」。
- 今本「世」下有「矣」字。
標点文
子曰、「不有祝鮀之仁、而有宋朝之美、難乎免於今之世矣。」
復元白文(論語時代での表記)
※鮀→它・仁→(甲骨文)。
書き下し
子曰く、祝鮀之仁有ら不、し而宋朝之美有るは、今之世於免るる乎難かり矣。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「祝鮀の貴族らしさなしに、宋朝の美貌をそなえるのは、今の世で免れるのがきっと難しい。」
意訳
あぶないぞ、美貌で出世した衛の宋朝どのは。祝鮀どのほどのコネも無ければ寝技も出来ず、ケンカも強くない。今の世では老けたら絶対にクビだぞ。
従来訳
先師がいわれた。――
「祝鮀ほど口がうまくて、宋朝ほどの美男子でないと、無事にはつとまらないらしい。何というなさけない時代だろう。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「沒有祝鮀的口才、卻有宋朝的美貌,一生難免災禍。」
孔子が言った。「祝鮀の弁舌の才が無く、それなのに宋朝の美貌があると、一生災難を免れない。」
論語:語釈
子曰(シエツ)(し、いわく)
論語の本章では”孔子先生が言った”。「子」は貴族や知識人に対する敬称で、論語では多くの場合孔子を指す。「子」は赤ん坊の象形、「曰」は口から息が出て来るさま。「子」も「曰」も、共に初出は甲骨文。辞書的には論語語釈「子」・論語語釈「曰」を参照。
(甲骨文)
この二文字を、「し、のたまわく」と読み下す例がある。「言う」→「のたまう」の敬語化だが、漢語の「曰」に敬語の要素は無い。古来、論語業者が世間からお金をむしるためのハッタリで、現在の論語読者が従うべき理由はないだろう。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
有(ユウ)
(甲骨文)
論語の本章では”持つ”。初出は甲骨文。ただし字形は「月」を欠く「㞢」または「又」。字形はいずれも”手”の象形。原義は両腕で抱え持つこと。詳細は論語語釈「有」を参照。
祝鮀(シュクタ)
生没年未詳。論語時代の、衛国の家老の一人。字は子魚。衛国の大神官(大祝)を務めたので氏を祝とした。春秋時代、姓は血統を前提としたが、氏は同業者集団と言ってよく、例えば山賊でも稼業を同じくするなら同氏を名乗れた。孔子生前の儒家も、自分たちの集団を「孔氏」と呼んだことが論語憲問篇41から分かる。
衛国は孔子もしばしば滞在し、中原諸侯国の中でも文化程度の高い国だったが、小国のため、しばしば大国の圧迫を受けた。それでも滅ばなかった理由の一つを、孔子は「祝鮀が祭礼を取り仕切っていたからだ」と論語憲問篇20で言っている。
それゆえ、後述するように、もし祝鮀の口車を孔子が讃えたとするなら、それは論語全体に矛盾を引き起こす。そうではなく、祝鮀は丁寧な祭祀と心遣いで、弱小の衛国を盛り立てた、と考えるべきだろう。
武内本には、「祝鮀は衛の才人、宋朝は衛の淫人、此の時祝鮀既に死してただ宋朝のみ存す、故にこの言あるなり」とある。
「祝」(甲骨文)
「祝」の初出は甲骨文。字形にしめすへんを伴うものと欠くものがある。新字体は「祝」。中国と台湾では、こちらがコード上の正字として扱われている。”祝う・神官”の意では「シュク」、”のりと”の意では「シュウ」と読む。字形は「示」”祭壇または位牌”+「𠙵」”くち”+「卩」”ひざまずいた人”で、神に祝詞を上げるさま。原義は”のりと”・”いのる”。甲骨文では原義で、また”告げる”の意で用いられた。金文では原義に加えて、”神官”を意味した。戦国の竹簡では、”親密”を意味した。詳細は論語語釈「祝」を参照。
「鮀」(隷書)
「鮀」の初出は後漢の『説文解字』。「ダ」は呉音。語義は『説文解字』はナマズだと言い、『爾雅』はハゼだと言い、『神農本草経』はワニだと言う。要するに何の魚や水棲動物かわからない。部品の「它」はヘビ。本章の「鮀」は固有名詞のため、おそらく論語の時代には「它」と記された。詳細は論語語釈「鮀」を参照。
之(シ)
(甲骨文)
論語の本章では、”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”…の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。
佞(ネイ)→仁(ジン)
(篆書)
論語の本章では”口上手”。初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補も無い。字形は「亻」+「二」+「交」の略体で、ころころと言うことを変える、二言ある者の意。詳細は論語語釈「佞」を参照。
(甲骨文)
定州竹簡論語の「仁」は孔子の生前、”貴族(らしさ)”を意味した。初出は甲骨文。字形は「人」+”敷物”で、敷物に座った貴人の姿。原義は”貴人”。戦国の金文では”憐れみ深さ”を意味し、戦国の竹簡では”憐れみ深さによる人徳”を意味した。詳細は論語語釈「仁」を参照。
孔子没後一世紀に現れた孟子は、一度滅んだ儒家を再興し、孔子の教説「仁」を「仁義」に書き換えて商材とした。それ以降、論語の「仁」も全て「仁義」で解することとなり、論語に非実用性や非現実性を帯びさせた。詳細は論語における「仁」を参照。
而(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”同時に”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。
宋朝(ソウチョウ)
生没年未詳。孔子と同時代の、衛国の大夫(家老)。美貌で知られた。もとは宋の公子で、衛国公・霊公の夫人南子と恋仲だった。南子が衛に輿入れしたのち、南子の要望で呼び寄せられ、その後も密通を繰り返したことになっている。
その頃衛の太子・蒯聵が公務で宋の郊外を通りがかると、宋の農民が歌を歌っていた。
既定爾婁豬,盍歸吾艾豭
既に定まらんかな、爾(なんじ)の豬(めすぶた)を婁(めと)らんこと。盍(なん)ぞ帰さざる、吾(わ)が艾(みめよ)き豭(おすぶた)を。
南子のメス豚を受け取ったのに、なんでオス豚宋朝を帰さないのか。(『春秋左氏伝』定公十四年2)
蒯聵は恥じたといわれ、南子暗殺を謀って失敗したとされる(定公十四年=BC496)。だが『春秋左氏伝』を読む限り、春秋時代の貴族が不義密通にふけるのはむしろ当たり前で、論語時代でもそれは変わらない。
楚王が息子の嫁を横取りし、いろんないきさつを経た後に伍子胥の復讐を招いて国を滅ぼす話、魯に亡命中の斉の公子が帰国して即位し(悼公)、亡命中にめとった季氏の娘はすでに叔父と密通していて一悶着あった話などがある。
齊悼公之來也,季康子以其妹妻之,即位而逆之,季魴侯通焉,女言其情,弗敢與也,齊侯怒,夏,五月,齊鮑牧帥師伐我。
斉の悼公が即位前に魯に亡命していた時、季康子は妹を妻合わせていたが、悼公は即位して夫人として迎えようとした。ところがすでに季孫家の季魴侯と密通しており、女は離れるのが嫌だと言い張ったので、季康子は妹を斉に送らなかった。悼公は激怒して、夏五月、鮑牧に軍を率いさせて魯に攻め寄せた。(『春秋左氏伝』哀公八年2)
だから蒯聵の恥じ入り話は政治力の無さを示したと見てよい。暗殺に失敗した蒯聵は諸国を放浪したあげくに、なんと衛の宿敵である大国晋の実力者、趙簡子の手駒となって暗躍した。論語との関係では、子路が死んだのも蒯聵の乱によるものである(『史記』衛世家・出公)。
また南子も当時の貴族女性と比べてそれほど淫乱だったわけでもなく、夫君の霊公はやり手の殿様として聞こえていた。二人は孔子に好意を持ったにも関わらず、孔子の方が嫌って論語に悪く書かれているので、儒者が口を揃えて暗君だの淫婦だの言ったが、それを現代人が真に受ける必要はさらさらない。まじめに史料を読めば、そうでないと分かるからである。
霊公とは、国を滅ぼしたバカ殿に死後貼り付けるおくり名=呼び名だが、霊公はバカ殿どころか、大国晋の侵略を何とか防ぎ止め、家臣も有能な者をそろえ、領民の意見を良く聞く、名君と言って良い殿様で、霊公という名そのものが、後世のでっち上げである可能性が高い。
漢帝国成立後、あらゆる記録の管理は儒者がやったから、その程度の書き換えは簡単だし、その程度のうそデタラメは、中国人なら平気でやる。儒者の動機は上記の通り、孔子と霊公の相性が悪かったからだが、これは全く孔子が悪い。亡命者のくせに、政府転覆を企てたからだ。
孔子は魯国を追い出され、最初に衛国にわらじを脱いだのだが、滞在したのは任侠道の大親分・顔濁鄒の屋敷で、弟子の子貢の実家も衛国にあった。孔子は霊公から約111億円もの捨て扶持を貰いながら、親分の手下と子貢商会の手代を使って、衛国乗っ取りの工作を始めた。
気が付いた霊公が、親分の屋敷におまわりをうろつかせると、孔子は特に抗議するでもなく、一目散に衛国から逃げ散っている。身に覚えがありすぎたから、さっさと逃げたのだ。そうでなければ重武装していた孔子一行が、おとなしく衛国を去る理由が見つからない。
「宋」(甲骨文)
「宋」の初出は甲骨文。字形は「宀」”祭殿”+「木」”神木”で、祭殿と鎮守の森を組み合わせた祖先祭殿。原義は”祖先祭殿”。甲骨文では地名・人名に用い、金文では国名・人名・氏族名に用いた。周が殷を滅亡させたとき、摂政の周公が殷王族の微子啓に領地を与えて建てさせた国とされる。詳細は論語語釈「宋」を参照。
「朝」(甲骨文)
「朝」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
美(ビ)
(甲骨文)
論語の本章では”美貌”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形はヒツジのかぶり物をかぶった高貴な人。春秋時代までは、人名や国名、氏族名に用いられ、”よい”・”うつくしい”などの語義は戦国時代以降から。甲骨文・金文では、横向きに描いた「人」は人間一般のほか、時に奴隷を意味するのに対し、正面形「大」は美称に用いられる。詳細は論語語釈「美」を参照。
難(ダン/ダ)
(金文)
論語の本章では”難しい”。初出は西周末期の金文。「ダン」の音で”難しい”、「ダ」の音で”鬼遣らい”を意味する。「ナン」「ナ」は呉音。字形は「𦰩」”火あぶり”+「鳥」で、焼き鳥のさま。原義は”焼き鳥”。それがなぜ”難しい”・”希有”の意になったかは、音を借りた仮借と解する以外にない。西周末期の用例に「難老」があり、”長寿”を意味したことから、初出の頃から、”希有”を意味したことになる。詳細は論語語釈「難」を参照。
乎(コ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~を”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は持ち手を取り付けた呼び鐘の象形で、原義は”呼ぶ”こと。甲骨文では”命じる”・”呼ぶ”を意味し、金文も同様で、「呼」の原字となった。句末の助辞や助詞として用いられたのは、戦国時代以降になる。ただし「烏乎」で”ああ”の意は、西周早期の金文に見え、句末でも詠嘆の意ならば論語の時代に存在した可能性がある。詳細は論語語釈「乎」を参照。
免(ベン)
(甲骨文)
論語の本章では”免れる”。この語義は戦国時代以降に音を借りた転用した仮借。「メン」は呉音。初出は甲骨文。新字体は「免」。大陸と台湾では「免」が正字として扱われている。字形は「卩」”ひざまずいた人”+「ワ」かぶせ物で、中共の御用学者・郭沫若は「冕」=かんむりの原形だと言ったが根拠が無く信用できない。
「卩」は隷属する者を表し、かんむりではあり得ない。字形は頭にかせをはめられた奴隷。甲骨文では人名を意味し、金文では姓氏の名を意味した。戦国の竹簡では「勉」”努力する”、”免れる”、”もとどりを垂らして哀悼の意を示す”を意味した。
春秋末期までに、明確に”免れる”と解せる出土例はない。詳細は論語語釈「免」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”…において”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”…において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
今(キン)
(甲骨文)
論語の本章では”いま”。初出は甲骨文。「コン」は呉音。字形は「亼」”集める”+「一」で、一箇所に人を集めるさまだが、それがなぜ”いま”を意味するのかは分からない。「一」を欠く字形もあり、英語で人を集めてものを言う際の第一声が”now”なのと何か関係があるかも知れない。甲骨文では”今日”を意味し、金文でも同様、また”いま”を意味した。詳細は論語語釈「今」を参照。
世(セイ)
(金文)
論語の本章では”世の中”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は西周早期の金文。「セ」は呉音。字形は枝葉の先で、年輪同様、一年で伸びた部分。派生して”世代”の意となった。春秋までの金文では”一生”、”世代”、戦国時代では”人界”を意味した。戦国の竹簡では”世代”を意味した。詳細は論語語釈「世」を参照。
矣(イ)
現存最古の論語本である定州竹簡論語は章末に「矣」字を記さず、簡125号を終えているが、現伝論語の次章の簡が欠損しており、「矣」字が無かった証拠にはならない。唐石経・清家本が記すように、「矣」字は有りのままとした。定州本の次の簡126号は、論語雍也篇19を記し、17・18章が欠けている。
論語の伝承について詳細は「論語の成立過程まとめ」を参照。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
(金文)
論語の本章では、”(きっと)~である”。初出はおそらく殷代の金文。字形は「𠙵」”人の頭”+「大」”人の歩く姿”。背を向けて立ち去ってゆく人の姿。原義はおそらく”…し終えた”。ここから完了・断定を意味しうる。詳細は論語語釈「矣」を参照。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢後期に埋蔵の定州竹簡論語にほぼ全文が残され、文字史的にも史実を疑い得ないのだが、先秦両漢に誰一人引用や再録した者がいない。事実上の再録は、後漢末から南北朝にかけて成立した古注になる。
古注『論語集解義疏』
…註孔安國曰佞口才也祝鮀衛大夫名子魚也時世貴之宋朝宋國之美人也而善婬言當如祝鮀之佞而及如宋朝之美難矣免於今世之害也
注釈。孔安国「佞とは口が上手いことを言う。祝鮀は衛国の大夫で、いみ名は子魚である。当時、宋朝が世間でもてはやされていた。宋国の美男子である。みだらなことに長けていた。あたかも祝鮀のような口車を持ちながら、宋朝のような美貌を持っていると、今の世の中の迫害から免れるのが難しいというのである。
前漢前半の人物とされる孔安国が、実在が疑わしいのはいつもの通り。
解説
古今東西、寝取られ男(コキュ)が笑い物になるのは人界に変わらない。
♪フランス殿様おっしゃった、コキュども溺れてくたばれと。
それを聞いた奥方さま、あなた泳ぎは大丈夫?(松谷健二訳 ブーフハイム『Uボート』)
論語の世界で言えば、孔子が生まれる150年ほど前に殺された魯の桓公は、夫人が斉公室の出身で、異母兄である斉の襄公と密通しており、それを誤魔化すために斉国に呼び出され、絞め殺されてしまった。そののち斉国の覇者桓公に仕えた豎刁が、史上初の宦官とされる。
宦官とは、もと君主の家内使用人をいい、必ずしも去勢者ではなかった。漢語で人間の去勢を意味する「閹」「宮」「獖」「火」などは、いずれも春秋時代以前に存在しないか、”去勢する”の用例が見つからない。豎刁の名も、『春秋左氏伝』には見つからない。
『韓非子』が諸侯を口説くための伝説として記し、前漢中期の董仲舒が記した『春秋公羊伝』に名が見えるだけだ。従って「君主や大貴族の後宮を管理するため、去勢した宦官が必要とされた」のが論語の時代まで遡るかどうか、極めて怪しいと言わざるを得ない。
董仲舒についてより詳しくは、論語公冶長篇24余話を参照。
宦官は歴代の王朝を大きく揺るがし、そのありさまが異様であることから、中国史を語るには不可欠の存在ではある。ただし面白半分に語られることも多く、史実を求めるにはそれなりに手続きが要る。訳者の見るところ、おそらく論語の時代、宦官は必要とされていなかった。
理由は当時の乳児死亡率が、恐ろしく高かったはずだからで、妻を大勢抱えるような者は、必ずしも子が実子であることにこだわらなかった可能性がある。最も恐ろしいのは跡継ぎの子が出来ない事で、自分の冥土を弔う者がいなくなり、家産をめぐって殺し合いが始まる。
同族の争いも凄惨だが、他族がハイエナのように群れて襲ってきた場合、女子供も含めて皆殺しにされる。祖先の祭祀は帝政期ほど激しくなかったろうが、一族の結束の中心が祖先祭殿であることは間違いなく、祖先の祭祀を絶やすことは不孝であり、冥土の自分の不幸でもある。
中国人は死をあの世への引っ越しと考えており、貴人ほどその傾向が強い。あの世の食事は子孫に供えて貰うほかはなく、そのお供えといえば、動物を殺して血祭りにするのがならいだった。これを「血食」と言い、日本人が想像する以上に中国の宗教は血なまぐさい。
そんな中国古代、孔子晩年のBC485、斉の宰相に田恒(陳成子)が就く。すでに斉国は国を田氏に奪われかけており、田恒が斉の簡公を殺した事件は論語憲問篇22にも記されている。田恒は田氏の勢力を強めるため、自分の後宮に体力のある大女を集め、間男の出入りを自由にした。
田常乃選齊國中女子長七尺以上為後宮,後宮以百數,而使賓客舍人出入後宮者不禁。及田常卒,有七十餘男。
(斉国の東半分を所領にした。)そこで田常(=田恒)は斉国じゅうから身長七尺(約158cm)以上の女性を集め、それで後宮を作り、相談役や私兵の出入りを自由にした。(生まれた子は全て自分の子として認知し、)こうして田常が死ぬ頃には、田氏には七十人以上の男子がいた。(『史記』田敬仲完世家18)
男子が多ければお家争いの元になると誰もが重々承知しながら、それでも跡継ぎの不在や、戦力政治力の元となる同族の男性の少なさを恐れた。田恒の末裔は結局斉国を奪い取って戦国七雄のさらに大国として名を馳せることになったのだから、このもくろみは成功した。
同様に衛の霊公が、夫人の南子に宋朝という間男まで呼んでやったのは、当時の政治的判断として間違っていない。太子の蒯聵がブタの歌を「恥じた」のは事実かも知れないが、それ以上に自分の廃嫡を恐れたはずである。年齢から見て、蒯聵は南子の子ではないからだ。
上掲『左伝』の記事を詳細に見よう。
大子蒯聵獻盂于齊,過宋野,野人歌之曰,既定爾婁豬,盍歸吾艾豭,大子羞之,謂戲陽速曰,從我而朝少君,少君見我,我顧乃殺之,速曰諾,乃朝夫人,夫人見大子,大子三顧,速不進,夫人見其色,啼而走曰,蒯聵將殺余,公執其手以登臺,大子奔宋,盡逐其黨,故公孟彄出奔鄭,自鄭奔齊,大子告人曰,戲陽速禍余,戲陽速告人曰,大子則禍余,大子無道,使余殺其母,余不許,將戕於余,若殺夫人,將以余說,余是故許而弗為,以紓余死,諺曰,民保於信,吾以信義也。
太子の蒯聵は盂の地を斉に献上するため、宋国の野原を進んでいた。宋国の百姓が(ブタの歌)、…太子は恥じて戯陽速に言った。「帰国したら私は南子に目通りを願うが、ともに付いてきてくれ。南子が私をじかに見るため御簾を上げるだろうから、私が振り返ったら南子を殺せ。」「承知しました。」
帰国した蒯聵が南子に目通りを願い、受けた南子が御簾を上げた。蒯聵は三度振り返ったが、戯陽速は動かなかった。焦った蒯聵の顔色を、ただ事ではないと南子は見て取り、「蒯聵が殺しに来た」と叫んで走り逃げた。夫の霊公が南子の手を取って物見櫓に上がると、失敗を悟った蒯聵は宋国へ逃げた。
蒯聵を支持していた貴族が追放され、公孟彄は鄭国へ、さらに斉国に逃げた。亡命してから蒯聵は愚痴をこぼした。「戯陽速の奴めにはしてやられた。」伝え聞いた戯陽速は人にこう言った。
「太子こそ私にしてやらかそうとした。太子はもともと身勝手な人で、私に国母を殺せと命じた。私が言うことを聞かなかったら、きっと殺すつもりだったろうし、自分で手を下したら、きっと私がやったと言いふらしただろう。
だから私は言う通りにしなかったし、それで私は命を助かったのだ。ことわざにも言うだろう、”民は信頼するから団結できる”と。私は信頼獲得こそ生きるために正しい方法だと思う。」(『春秋左氏伝』定公十四年2)
話を論語の本章に戻せば、孔子は同時代人として宋朝を見ているわけで、「今にひどい目に遭うぞ」といっているわけ。岩波文庫版『春秋左氏伝』では、その後宋朝も追放されたという(哀公十一年条)が、実は『春秋左氏伝』原文のどこにもそのような記事は無い。
BC480年、晋国の後ろ盾を得た蒯聵が衛国に舞い戻ってクーデターを起こした。この際、衛国に仕えていた孔門の子路は命を落としている。蒯聵は即位して荘公となると、南子を殺してしまったとされるが、その論拠である『列女伝』は前漢後半の編であり、信憑性に欠ける。
編者の劉向は、四世紀半も昔の事件を、見てきたように書いているだけだ。
衛二亂女者,南子及衛伯姬也。南子者,宋女衛靈公之夫人,通於宋子朝,太子蒯聵知而惡之,南子讒太子於靈公曰:「太子欲殺我。」靈公大怒蒯聵,蒯聵奔宋。靈公薨,蒯聵之子輒立,是為出公。衛伯姬者,蒯聵之姊也,孔文子之妻,孔悝之母也。悝相出公。文子卒,姬與孔氏之豎渾良夫淫。姬使良夫於蒯聵,蒯聵曰:「子苟能內我於國,報子以乘軒,免子三死。」與盟,許以姬為良夫妻。良夫喜,以告姬,姬大悅,良夫乃與蒯聵入舍孔氏之圃。昏時二人蒙衣而乘,遂入至姬所。已食,姬杖戈先太子與五介冑之士,迫其子悝於廁,強盟之。出公奔魯,子路死之,蒯聵遂立,是為莊公。殺夫人南子,又殺渾良夫。莊公以戎州之亂,又出奔,四年而出公復入。將入,大夫殺孔悝之母而迎公。二女為亂五世,至悼公而後定。《詩》云:「相鼠有皮,人而無儀。人而無儀,不死何為?」此之謂也。
頌曰:南子惑淫,宋朝是親,譖彼蒯聵,使之出奔,悝母亦嬖,出入兩君,二亂交錯,咸以滅身。
衛には二人のとんでもない女が居た。南子と衛伯姫である。南子は衛霊公の夫人で、宋の子朝と密通し、太子の蒯聵はそれを知って南子を憎み、南子も蒯聵を霊公に告げ口した。「太子が私を殺そうとしています。」霊公は真っ赤になって蒯聵に怒り、蒯聵は宋国に逃げた。霊公が世を去ると、蒯聵の子の輒が国君に立ち、これが出公である。
衛伯姫とは、蒯聵の姉で、孔文子の妻であり、孔悝の母だった。孔悝は出公の宰相だったが、孔文子が世を去ると衛伯姫は小姓の渾良夫を愛人にした。衛伯姫は渾良夫を亡命中の蒯聵のもとに遣わした。蒯聵は渾良夫に、「そなたが衛国で内応してくれるなら、家老格に引き揚げてやり、死罪も三度まで許す。」と言って密約を交わし、衛伯姫との仲も認めた。
渾良夫は喜んで帰り、衛伯姫に報告すると、衛伯姫も大喜びで、渾良夫は早速孔氏の荘園に蒯聵を招き入れた。夕闇を待って渾良夫は蒯聵と共にこもをかぶって車に乗り、衛伯姫の屋敷に入った。一同で腹ごしらえを済ますと、衛伯姫は武装して蒯聵を先頭に五人の甲冑武者と共に、息子の孔悝の屋敷に押しかけ、孔悝を雪隠詰めにし、無理やり一味に取り込んだ。
それからいよいよ騒ぎが起こると、出公は魯に逃亡し、子路は騒動の中で命を落とし、始末を付けた蒯聵は、即位して荘公となった。すぐさま南子を殺し、口止めのために渾良夫も殺してしまった。しかし戎州が反乱を起こすと、荘公は逃亡し、たったの四年で出公が復位した。
それに先立って家老たちが、よってたかって衛伯姫をなぶり殺し、出公を迎えた。二人の女が五代にわたって国を乱した。衛は悼公の時代になって、やっと安定した。詩経に言う、”人のくせにネズミの皮を被ったようだ。人間らしさがどこにもない。そんな人でなし、生きていても世間の迷惑”と。それはこの二人の女にふさわしい。
わたし劉向が思うに、南子は淫乱で、宋朝は間男だったが、蒯聵に告げ口されて逃げ出した。孔悝の母、衛伯姫もまた図々しい女で、霊公・出公の政治を乱した。二人の女は時期を同じくして悪事を働いたが、どちらもそれが元で身を滅ぼした。(『列女伝』衛二乱女)
このいきさつは『史記』衛世家・出公からも訳出したが、南子殺害や宋朝追放は劉向が言い出したことで、史実はまことに怪しい。ただし出戻って権力を得た蒯聵が、南子や宋朝をただで済ますはずはなく、姦夫姦婦を重ねて四つ、となった可能性が無くはない。
だが史料が無いとなると、存外手に手を取って逃げ延びたかも。
余話
世襲の合理
遺伝子の知られていない春秋時代、衛の霊公や斉の田常のように「家」とは、必ずしも血統を共にする集団を意味しない。当時の周王朝が姓を「姫」と名乗り、諸侯に自家の女性を嫁がせてせっせと血統の繁栄に励んだ一方、春秋の貴族はそれほど血統を有り難がらなかった。
春秋の大諸侯がみな周王室の分家というのは誤っている。東方の斉は太公望の末裔で、西方の秦は多分にスキタイ人的要素を持っている。南方の楚はもともと黄河文明圏と対峙する長江文明圏の盟主で、周は勢力圏の大部分を、征服ではなく土侯の「周連合」加盟によって広げた。
春秋時代の家門は領地領民や家職を含んだ家産がその証しで、現在で言う財団法人に近い。そうした「家」を血統を同じくする「姓」に対して「氏」という。孔子一門もまた「氏」を名乗ったことは、子路が門番に「孔氏の者だ」と言った事から分かる(論語憲問篇41)。
だから春秋の貴族の当主に求められるのは、家臣領民を含めた家産を守ることだった。彼らが田中芳樹に出てくる同業の真似をすると、必ず地位を追われ、多くは殺される。孔子生誕ごろの斉の荘公は家臣の妻と密通して殺され、60年ほど前の懿公は殺され竹やぶに捨てられた。
理由は側仕えをもてあそんだからだった。姜氏斉国の国公は四割が殺されている。
忠君愛国の概念は、春秋時代に存在しない。忠の字が漢語に現れるのも(語釈)、愛の字が現れるのも戦国末期である(語釈)。つまり諸侯国の戦争が激化し、負ければ容赦なく併合されるようになってから、忠君愛国という絵空事を領民にすり込み、戦うよう仕向ける必要が出来た。
血統の評価は、殷以来の中原の文化と、殷を滅ぼした西方の周文化との違いをも示す。主に畑作で暮らしていた殷人に対し、周人は羊を飼って暮らしていた。メンデルならぬ殷人が、遺伝子に気付かなかったのも無理は無く、常に掛け合わせに悩む周人は、より血統にこだわった。
そして中国史は、周文化が圧倒して現在に至る。周も秦帝国も宗室の血統を重んじ、儒教を受け入れた漢帝国以降も血統を重んじ、帝室の血を引かない人間を跡目に据えなかった。これは先祖が遊牧民である隋唐帝国や、遊牧のモンゴル帝国、半農半牧の清帝国も変わらない。
帝政期の儒教は帝室にばかりでなく、庶民にもやかましく血統を説いた。従って中国人の価値観から殷的な「氏」の概念が取り除かれ、周的な「姓」の概念が定着した。つまり後宮を管理する宦官が猛威を振るったそもそもは、周が持ち込んだ牧民的価値観に始まると言ってよい。
中国の史料で夫人を「○氏」と書くのは、夫にとって夫人の血統がよそ者であることを示す。だから中国人は「同姓不婚」といって、見知らぬ他人だろうと姓が同じ者とは結婚してこなかった。決して「同氏不婚」と書かないのは、氏が血統を意味しないことを示している。
その結果血統の概念は中華文明の真髄を形成する要素となり、その精華として福禄寿(乜-的快感・カネ・長寿と健康)の追求を生み出した。饑饉が来るたび「子を取り替えて喰らう」のは、他人の子なら血統が違うから平気で喰えるという、中華文明の真髄の然らしめる所である。
ただし「氏」が中国史から消え去ったかと言えばそうでない。血統を守ろうとする王朝に対し、やはり血統を守ろうとする王朝が取って代わった時代はすでに終わり、最後の清朝がなし崩し的に滅びたあと、「姓」か「氏」かで中国人はしばらく悩んだ。それが民国時代である。
その中にあって、山賊→「氏」を率いて山奥に立てこもり、王朝→「姓」を否定するマルクス主義を奉じる毛沢東が、中華民国を滅ぼして現中国政権を勝ち取った。それゆえ初期の共産党指導者は、決して地位を世襲させようとしなかった。毛沢東の息子は朝鮮で戦死している。
「氏」は一時的に中国を制覇した。だが革命第一世代が世を去ると、中国では血統的「姓」による世襲が復活した。中華文明の真髄だけに、一度の「氏」の制覇では、「姓」が消え去るわけがないし、人類を捉え損なっているマルクス主義が、いつまでも信奉されるわけがない。
今の日本も世襲が流行っている。合理主義のおかげと言えなくはない。
参考記事
- 論語公冶長篇15余話「マルクス主義とは何か」
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