論語:原文・書き下し
原文(唐開成石経)
孔子於郷黨恂恂如也似不能言者其在宗廟朝廷便便言唯謹爾
校訂
東洋文庫蔵清家本
孔子於郷黨恂〻如也似不能言者/其在宗廟朝𢌜便〻言唯謹爾
慶大蔵論語疏
孔子扵1〔歹即〕2黨3/恂〻如也/似不〔䏍长〕4言者5/其在宗〔广龷田〕6朝〔辶广手〕7哽〻言唯〔言艹口土〕8尒9。
- 「於」の異体字。「唐王段墓誌銘」刻、『新加九経字様』(唐)所収。
- 「鄕」の異体字。「北魏元欽墓誌銘」刻字近似。
- 虫食い。「扵」字は残欠と他の論語本から推定。「〔歹即〕」字は直前の篇名と比較して推定。「黨」字は虫食い僅か。
- 「能」の異体字。「泰山都尉孔宙碑」(後漢)刻字近似、『仏教難字字典』所収。
- 新字体と同じ。原字。
- 「廟」の異体字。「唐陳崇本墓誌」刻。
- 「廷」の異体字。「魏元彬墓誌」(北魏?)刻字近似。
- 「謹」の異体字。「魏高宗嬪耿壽姬墓誌」(北魏)刻。
- 「爾」の異体字。「白石神君碑」(後漢)刻。
後漢熹平石経
(なし)
定州竹簡論語
……[其在宗廟朝廷],242……
標点文
孔子於郷黨、恂恂如也、似不能言者。其在宗廟朝廷、哽〻言、唯謹爾。
復元白文(論語時代での表記)
黨 恂恂 哽
※論語の本章は「黨」「恂」「哽」の字が論語の時代に存在しない。「如」「也」「便」「爾」の用法に疑問がある。本章は前漢帝国の儒者による創作である。
書き下し
孔子鄕黨に於ては恂恂が如き也、言ふ能は不る者に似たり。其の宗廟朝廷に在りては、哽〻りて言ふ、唯〻謹める爾。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生は故郷では慎み深く振る舞い、ものが言えない人に似ていた。魯国の祖先祭殿や朝廷では、口ごもって言った。ひたすら慎んだ。
意訳
同上
従来訳
孔先生は、自宅に引きこもっておいでの時には、単純素樸なご態度で、お話などまるでお出来にならないかのように見える。ところが、宗廟や朝廷にお出になると、いうべきことは堂々といわれる。ただ慎しみだけは決してお忘れにならない。
下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子在鄉親面前,溫和恭順,象不會說話的人;在宗廟朝廷裏,口齒清晰,衹是很謹慎。
孔子は故郷の縁者の前では、温和で腰が低く、話せない人のようだった。国公の祖先祭殿や朝廷では、はっきりとものを言い、ただしたいそう慎み深かった。
論語:語釈
孔子(コウシ)
論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。
論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章は対話ではないので、その例外。
(金文)
「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「乚」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。
(甲骨文)
「子」の初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。季康子や孔子のように、大貴族や開祖級の知識人は「○子」と呼び、一般貴族や孔子の弟子などは「○子」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。
於(ヨ)
(金文)
論語の本章では”~では”。初出は西周早期の金文。ただし字体は「烏」。「ヨ」は”~において”の漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)、呉音は「オ」。「オ」は”ああ”の漢音、呉音は「ウ」。現行字体の初出は春秋中期の金文。西周時代では”ああ”という感嘆詞、または”~において”の意に用いた。詳細は論語語釈「於」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「扵」と記す。「唐王段墓誌銘」刻、『新加九経字様』(唐)所収。
鄕黨(キョウトウ)
論語の本章では”郷里”。辞書的には家5軒=1鄰、5鄰=1里、100里=1鄕、100鄰=1黨だが、論語の本章を理解するのに、こういうカルト的な下らない知識はこだわらなくてもいい。たいがいは儒者のでっち上げだからで、それを真に受けるのは間抜けだから。
『史記』によると孔子は魯国の昌平鄉・陬邑に生まれたとされる(孔子の生涯)。地縁共同体としてある程度の自治を行う集団はあっただろうから、孔子もたまには郷里に帰り、そこでは地位身分よりも郷里の秩序に従った、ということ。
(甲骨文)
「鄕」の初出は甲骨文。新字体は「郷」、「鄕」は異体字。周初は「卿」と書き分けられなかった。中国・台湾・香港では、新字体に一画多い「鄉」がコード上の正字とされる。定州竹簡論語も「鄉」と釈文している。唐石経・清家本は新字体と同じく「郷」と記す。「ゴウ」は慣用音、「コウ」は呉音。字形は山盛りの食事を盛った器に相対する人で、原義は”宴会”。甲骨文では”宴会”・”方角”を意味し、金文では”宴会”(曾伯陭壺・春秋早期)、”方角”(善夫山鼎・西周末期)に用い、また郷里・貴族の地位の一つ・城壁都市を意味した。詳細は論語語釈「郷」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔歹即〕」と記す。上掲「北魏元欽墓誌銘」刻字近似。
(戦国末期金文)
「黨」の初出は戦国末期の金文。新字体は「党」。出土品は論語の時代に存在しないが、歴史書『国語』に春秋末期の用例がある。ただし物証とは言えない。『大漢和辞典』の第一義は”むら・さと”。第二義が”ともがら”。字形は「𦰩」”みこの火あぶり”+「冂」”たかどの”+「⺌」”まど”または”けむり”で、屋内でみこを火あぶりにして祈るさま。原義はそのような儀式をする共同体。戦国の金文では地名に用い、”党派”の語義は前漢まで時代が下る。詳細は論語語釈「党」を参照。
恂*(シュン)
(篆書)
論語の本章では”控えめでおとなしい”。武内本は「恭順の貌」という。確実な初出は後漢の説文解字。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は〔忄〕”こころ”+音符「旬」で、「ュン」の音に”従う”の意があり、初出が甲骨文の「順」に音が近い。同音に「旬」とそれを部品とする漢字群など膨大。「ジュン」は慣用音。論語の本章が文献上の初出。詳細は論語語釈「恂」を参照。
如(ジョ)
(甲骨文)
論語の本章では”…のように”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。年代確実な金文は未発掘。字形は「女」+「口」。甲骨文の字形には、上下や左右に「口」+「女」と記すものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。
也(ヤ)
(金文)
論語の本章では、「なり」と読んで断定の意に用いている。この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。
似*(シ)
(金文)
論語の本章では”似ている”。初出は西周中期の金文。字形は〔㠯〕”農具のスキ”+「司」から「𠙵」”くち”を欠いた形。スキに手をかざすさま。「ジ」は呉音。春秋末期までに、”似せる”の意に用いた。詳細は論語語釈「似」を参照。
不(フウ)
(甲骨文)
漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。
能(ドウ)
(甲骨文)
論語の本章では”~できる”。初出は甲骨文。「ノウ」は呉音。原義は鳥や羊を煮込んだ栄養満点のシチューを囲んだ親睦会で、金文の段階で”親睦”を意味し、また”可能”を意味した。詳細は論語語釈「能」を参照。
「能~」は「よく~す」と訓読するのが漢文業界の座敷わらしだが、”上手に~できる”の意と誤解するので賛成しない。読めない漢文を読めるとウソをついてきた、大昔に死んだおじゃる公家の出任せに付き合うのはもうやめよう。
慶大蔵論語疏では「〔䏍长〕」と記す。『仏教難字字典』所収、「泰山都尉孔宙碑」(後漢)刻字近似。
言(ゲン)
(甲骨文)
論語の本章では”言う”。初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。
者(シャ)
(金文)
論語の本章では”~である者”。旧字体は〔耂〕と〔日〕の間に〔丶〕一画を伴う。新字体は「者」。ただし唐石経・清家本ともに新字体と同じく「者」と記す。現存最古の論語本である定州竹簡論語も「者」と釈文(これこれの字であると断定すること)している。初出は殷代末期の金文。金文の字形は「木」”植物”+「水」+「口」で、”この植物に水をやれ”と言うことだろうか。原義は不明。初出では称号に用いている。春秋時代までに「諸」と同様”さまざまな”、”~する者”・”~は”の意に用いた。漢文では人に限らず事物にも用いる。詳細は論語語釈「者」を参照。
慶大蔵論語疏は新字体と同じく「者」と記す。「耂」と「日」の間の「丶」を欠く。もと正字。旧字の出典は「華山廟碑」(後漢)。
其(キ)
(甲骨文)
論語の本章では”それ”という指示詞。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。
在(サイ)
(甲骨文)
論語の本章では、”~で”。「ザイ」は呉音。初出は甲骨文。ただし字形は「才」。現行字形の初出は西周早期の金文。ただし「漢語多功能字庫」には、「英国所蔵甲骨文」として現行字体を載せるが、欠損があって字形が明瞭でない。同音に「才」。甲骨文の字形は「才」”棒杭”。金文以降に「士」”まさかり”が加わる。まさかりは武装権の象徴で、つまり権力。詳細は春秋時代の身分制度を参照。従って原義はまさかりと打ち込んだ棒杭で、強く所在を主張すること。詳細は論語語釈「在」を参照。
宗廟(ソウビョウ)
論語の本章では”国公の祖先祭殿”。魯は周の初代武王の弟・周公が開祖で、その子が領地を与えられて成立した。宗廟は祖先の霊魂を祀るだけでなく、国公主催の政治的な会議も行われた。従って宗廟は政府をも意味し、また廟堂とも呼ばれた。
(甲骨文)
「宗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「宀」”屋根”+「示」”先祖の位牌”。原義は一族の祖先を祀った祭殿。西周中期から、”祖先の霊”の用法があり、戦国時代の竹簡から”尊ぶ”、また地名の用例がある。詳細は論語語釈「宗」を参照。
(金文)
「廟」の初出は西周中期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣶃」(「潮」の原字)で、初出ごろの金文にはさんずいを欠くものがある。「古くは祖先廟で朝廷を開くものであった」という通説には根拠が無く、字形の由来は不明。原義は”祖先祭殿”。金文では人名のほか原義に用いた。詳細は論語語釈「廟」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔广龷田〕」と記す。「唐陳崇本墓誌」刻。
朝廷*(チョウテイ)
論語の本章では”朝廷”。論語の時代、朝廷は早朝と夕方の二度開かれ、列席する家老たちは一旦屋敷に帰って昼食をとった。
(甲骨文)
「朝」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「屮」”くさ”複数+「日」+「月」”有明の月”で、日の出のさま。金文では「𠦝」+「川」で、川べりの林から日が上がるさま。原義は”あさ”。甲骨文では原義、地名に、金文では加えて”朝廷(での謁見や会議)”、「廟」”祖先祭殿”の意に用いた。詳細は論語語釈「朝」を参照。
(金文)
「廷」の初出は西周早期の金文。初出の字形は「∟」(音不明)”区切り”+「彡」(三)”煉瓦敷き”+「人」で、区画され煉瓦を敷き詰めた場所に人が立つ姿。「三」を「土」と記す字形が現行字形に繋がる。原義は”宮殿の庭”。春秋末期までに、”朝廷”・”臣従する”の意に用いた。詳細は論語語釈「廷」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔辶广手〕」と記す。上掲「魏元彬墓誌」(北魏?)刻字近似。
便*(ヘン)→哽*(コウ)
唐石経を祖本とする現伝論語は「便」と記す。”すらすらと”の意。この語義は春秋時代では確認できない。定州竹簡論語はこの部分を欠く。従って現存最古となる文字列を伝える慶大蔵論語疏は「哽」と記す。これに従い校訂した。”口ごもる”の意。
原始論語?…→定州竹簡論語→白虎通義→ ┌(中国)─唐石経─論語注疏─論語集注─(古注滅ぶ)→ →漢石経─古注─経典釈文─┤ ↓↓↓↓↓↓↓さまざまな影響↓↓↓↓↓↓↓ ・慶大本 └(日本)─清家本─正平本─文明本─足利本─根本本→ →(中国)─(古注逆輸入)─論語正義─────→(現在) →(日本)─────────────懐徳堂本→(現在)
この部分について、慶大本に次ぐ最古級の古注系本である、東洋文庫蔵清家本・宮内庁蔵清家本は「便便」と経(本文)を記し、宮内庁本は付けられた鄭玄の注を「便便〔辛刃辛〕(=辨)也雖辯而謹敬也」と記す。”便便とは辨である。辯ではあるが慎み深いのである”の意。宮内庁本に先行する東洋文庫本も、字こそ体を変えながら同じ。
「辨」も「辯」も新字体は「弁」で、「弁別」のように”区別して明らかにする”の基本義を共有し、「辨」の中心は「刂」”刀”だから”aとbを切分ける”の意が、「辯」の中心は「言」だから”aとbは違うと口に出す”の意が強くなる。
対して慶大本は鄭玄注を「哽〻〔辛庠〕(=辨)〔一𠃌一〕(=而)謹敬」と記し、「辨而」の横に「也〔口衣隹〕(=雖)〔辛庠〕」と傍記する。
「辨」齊宋買造象(北斉)/「而」草書・王寵(明)
版本 | 経 | 鄭玄注 |
慶大本 | 哽〻 | 哽〻辨(也雖辨)*而謹敬 ”哽〻とは区別し同時に慎み敬うこと。” *傍記 |
清家本 | 便便 | 便便辨也雖辯而謹敬也 ”便便とは区別することである。はっきりと口に出して区別するが、同時に慎み敬う事である。” |
いずれも”区別”+”慎み敬う”の意だという。「哽」”口ごもる”とは矛盾しない。「分かっちゃいるけど言いはしない」というわけだ。例えば「狐に化かされている人に化かされていると言うのが無駄なのは、化かされているからだ」という人界普遍の道理の実践。
慶大本の傍記が唐石経以降の中国伝承に従って書き足されたのは明らかだ。唐石経以前ぼ論語はおおざっぱに古注系にまとめられ、ただし文字列に異同のあるさまざまな版本があったことが現存資料から分かるが、隋唐帝国が儒学を科挙の試験科目に入れたことで事情が変わった。
唐は王朝が傾いてから(いわゆる晩唐)、儒教経典の定本を石に刻んで公開した(837年)。試験の採点基準にするためだった。それを翌年到着した最後の遣唐使が見て、「本場の正しい」論語の文字列と信じ込んだだろう。その当人か伝え聞いた人が、慶大本に傍記をしたと考えるのが理屈が通る。
なお国会図書館蔵で「古寫」とのみあって年代不明の龍雩本(本サイトでの仮称)には、鄭玄の注を「便々辨也雖弁而謹敬也」とあり、「也」を草書で〔マ〕形に記す(コンナンヨメルカーバカモン)。「弁」を「辯」として用いるのは『大漢和辞典』によれば日本だけなので、日本で筆写されたと分かる。
(金文)
「便」の初出は西周末期の金文。字形は「亻」+「更」で、「更」は「宀」”屋根”+「攴」”打つ”。一家の中で刑罰を取り締まる者の意。「ベン」は呉音。論語の時代以前には一例のみ知られ、”鞭打つ”の意。”すなわち”・”よろしい”・”通りがよい”の語義は、戦国文字まで時代が下る。詳細は論語語釈「便」を参照。
武内本は「平平の仮借、閑雅(=物静かで上品)の貌」と言うが、儒者のひいきの引き倒しの猿真似。真に受けるべき根拠が無い。
説文解字・後漢
「哽」初出は後漢の『説文解字』。論語の時代に存在しない。論語時代の置換候補もない。字形は「口」+「更」”硬い”。戦国時代の『荘子』『楚辞』に見え、儒教経典では前漢末期の『説苑』に見える。詳細は論語語釈「哽」を参照。
〻
「子〻孫〻」史頌鼎・西周末期
慶大蔵論語疏は「哽」字の後ろに重文号(繰り返し記号)として小さく「二」を記し、現行では「〻」と記す。よって「哽〻」で”黙りに黙る”の意。wikipediaによると「二」を重文号に用いたのは殷代に始まり、周以降も受け継がれたという。訳者が確認した初出は西周早期「㢭白鬲」(集成697)で、「其萬年子〻孫〻永寶用」とある。
唯(イ)
(甲骨文)
論語の本章では”ひたすら”。初出は甲骨文。「ユイ」は呉音。字形は「𠙵」”口”+「隹」”とり”だが、早くから「隹」は”とり”の意では用いられず、発言者の感情を表す語気詞”はい”を意味する肯定の言葉に用いられ、「唯」が独立する結果になった。古い字体である「隹」を含めると、春秋末期までに、”そもそも”・”丁度その時”・”ひたすら”・”ただ~だけ”の語義が確認できる。詳細は論語語釈「唯」を参照。
謹(キン)
「堇」(甲骨文)
論語の本章では、”ゆるがせにしないこと”。初出は甲骨文。ただし字形はごんべんを欠く「𦰩」。字形は雨乞いに失敗したみこを焼き殺すさまで、原義は”雨乞い”・”日照り”。論語の時代までに「堇」と書かれるようになり、”つつしむ”の派生義があった。詳細は論語語釈「謹」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「〔言艹口土〕」と記す。「魏高宗嬪耿壽姬墓誌」(北魏)刻。
爾(ジ)
(甲骨文)
論語の本章では”…だけ”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は剣山状の封泥の型の象形で、原義は”判(を押す)”。のち音を借りて二人称を表すようになって以降は、「土」「玉」を付して派生字の「壐」「璽」が現れた。甲骨文では人名・国名に用い、金文では二人称を意味した。詳細は論語語釈「爾」を参照。
慶大蔵論語疏は異体字「尒」と記す。上掲「白石神君碑」(後漢)刻。
論語:付記
検証
論語の本章は、前漢中期の定州竹簡論語には載るので、それまでには論語の一章として成立していたことになる。それよりやや時代が遡る、『史記』孔子世家にも若干言葉を変えて記されている。しかし春秋戦国の誰一人、引用も再録もしていない。
「恂」の字の初出は後漢の説文解字だが、定州漢墓竹簡のうち論語の本章では、この字の部分が欠けている。「順」とあったのを後漢儒が書き換えたのか、「恂」の字が定州竹簡論語にもあったのか、どちらかはわからない。いずれにせよ論語の本章は、前漢儒による創作と考えるのが筋が通る。
解説
この論語郷党篇は、12章と最終章を除いて、弟子による孔子の日常風景の回想を記している。それゆえに白川静は、「最も愚かしい記録」と『孔子伝』に書いた(頁番号は中公叢書版)。
仁は純粋に意味的世界である。それはイデアである。それゆえ瞬時も離れえないものである。イデアとともにあるとき、富貴貧賤は問うべきではない…。(p.270)
孔子の没後、儒家は派閥的対立を含んだまま、ノモス的世界に沈淪していった…。(p.273)
孔子は、ノモス化しようとする社会の中で、仁を説いた。しかしもはやイデアへの福音が受け容れられる時代ではなかった。…孔子は、ノモスの外に立とうとした。…このようなイデアの場としての仁を理解したのは、おそらく顔回だけであろう。孔子は顔回に望みを託したが、先立たれてしまう。残された弟子たちは、おおむね仕官して、急速に形成され強化されつつあるノモス的社会の中に没していった。そして、いまは亡き師の言行録を伝承し、あるいは師の日常を規範化して、そこに師の精神を求めようとした。その最も愚かしい記録が、「上論」の結末をなすところの「郷党篇」である。(p.276)
「イデア」が”理想”で「ノモス」が”現実”もしくは”権力機構”を意味するのだろうが、いちいち横文字で説教しなければならなかったところに、明治以降の文系業者の情緒不安を思うべきである。『孔子伝』はこんにちでは、根拠なき憶測が多すぎて参考に値する本ではない。
日本人は、理解していない英単語や頭文字をオウムのように受け売りするようになっているからです。もし英単語や頭文字の意味を理解していれば、自分の言葉である日本語で表現できるはずではないでしょうか。
No.513 「IT社会でなすべきこと:企業として、個人として」に関するご意見と私のコメント(1)私の講演をお聞きになったお客様からお寄せいただいたご意見やご質問に対する私の回答をお送りします。
加えて白川の本は「仁」など間違った解釈がてんこ盛りなので(論語における「仁」)、読者は難解な漢文的言い廻しに目を眩まされた挙げ句、オトツイの方角に連れて行かれる。難解な漢文口調は、つまり白川が漢文を読めなかったのを白状している。意味を理解していれば、自分の言葉である日本語で表現できるはずではないでしょうか。
と言うわけで白川の『孔子伝』は、孔子や論語の研究者は、それを承知で一通り目を通さなければならないが、一度読んだら仕舞いの本でもある。21世紀に今になっても、不磨の大典のように有り難がる振りをする者が居るが、本のデタラメに気づけないか、気づいたけど人をびっくりさせるために言い張っているだけだ。
論語郷党篇がノモス的儒者により偽作されたのは『孔子伝』の言う通りだが、その下手人は春秋戦国の儒者ではなく、いわゆる儒教の国教化の過程で経典をいじくり、捏造した董仲舒一派からだと文字史上から断じてよい。面倒くさい「礼」の根拠を、孔子に求めるためだった。
現伝の大小の『礼記』、『周礼』のたぐいは、そのほとんどが文字史上から漢代以降の創作で、周の制度を伝えるものではない。煩瑣な礼儀作法の教師として儒者の職を作るため、せっせと捏造したわけだ。その意味でなら、たしかに郷党篇は「最も愚劣」と言える。
しかしだからと言って、論語の他の篇がまともという事は出来ない。どの篇も最低半分、たいていは3/4がニセモノだ。そして孔子をイデア的人間と見る限り、孟子や董仲舒が始め、歴代の儒者がコテコテに塗り固めた詐欺商売の、「被害者の会」に入るはめになる。
なお論語の本章、古注は次章と一体化して記している。
古注『論語集解義疏』
孔子於鄉黨恂恂如也似不能言者註王肅曰恂恂溫恭貎也其在宗廟朝廷便便言唯謹爾註鄭𤣥曰便便言辨貌雖辨而謹敬也
本文「孔子於鄉黨恂恂如也似不能言者」。
注釈。王粛「恂恂とは温和で恭しいさまである。」
本文。「其在宗廟朝廷便便言唯謹爾」。
注釈。鄭玄「便便とは言葉を言いはするものの、謹み敬いつつ言うさまである。」
王粛は後漢滅亡後に三国魏で儒者の親玉になった人物、鄭玄は後漢末の大儒と言われるがその実デタラメを言いふらしていただけの人物。論語解説「後漢というふざけた帝国」を参照。
新注は郷党篇を特殊な章立てにしている。その言い訳。
新注『論語集注』
楊氏曰:「聖人之所謂道者,不離乎日用之間也。故夫子之平日,一動一靜,門人皆審視而詳記之。」尹氏曰:「甚矣孔門諸子之嗜學也!於聖人之容色言動,無不謹書而備錄之,以貽後世。今讀其書,即其事,宛然如聖人之在目也。雖然,聖人豈拘拘而為之者哉?蓋盛德之至,動容周旋,自中乎禮耳。學者欲潛心於聖人,宜於此求焉。」舊說凡一章,今分為十七節。
楊時「聖人の説いた道は、日常生活と不可分だった。だから孔子先生の日常は、一挙一動に至るまで、門人がじっと観察して記録した。」
尹焞「弟子たちはなんとまあまじめに勉強したのだろう。聖人の顔つきや言葉のいちいちを、一つもゆるがせにせず書き留め、後世に残したのだ。今その記録を読めば、何を行うにも、聖人の目の前で行うような気分になる。とはいえ、聖人自らがくだくだとこんなことをしたためたはずがないだろう? 聖人は徳の至りを身につけているのだから、表情も振る舞いも、自然と礼法にかなっていただけだ。儒学を学ぶ者が聖人の心をうかがい知りたいなら、この篇をよく読むがよい。」
従来では郷党篇はまとめて一章にしていたが、今便宜上十七章に分ける。
本章については次の通り。
孔子於鄉黨,恂恂如也,似不能言者。恂,相倫反。恂恂,信實之貌。似不能言者,謙卑遜順。不以賢知先人也。鄉黨,父兄宗族之所在,故孔子居之,其容貌辭氣如此。其在宗廟朝廷,便便言,唯謹爾。朝,直遙反,下同。便,旁連反。便便,辯也。宗廟,禮法之所在;朝廷,政事之所出;言不可以不明辨。故必詳問而極言之,但謹而不放爾。此一節,記孔子在鄉黨、宗廟、朝廷言貌之不同。
本文。「孔子於鄉黨,恂恂如也,似不能言者。」
恂は、相-倫の反切で読む。恂恂とは、いつわりのないさまをいう。ものが言えない人のようだったわけは、謙遜してへり下り、他に譲って逆らわないためだ。自分の知識で、先人を知ったつもりにはならなかったのである。郷党とは、父兄や一族が住まう場所である。だから孔子は滞在中、表情言動をこのように謹んでいた。
本文。「其在宗廟朝廷,便便言,唯謹爾。」
朝は、直-遙の反切で読む。以下同。便は、旁-連の反切で読む。便便とは、すらすらと、の意である。宗廟とは、礼法の行われるべき場所である。朝廷とは、政治の尾発令される場所である。ものを言うには、分けが分からないではいられない。だから必ず相手を問い詰めはっきりとものを言った。ただし謹み深くし自分勝手にはならなかった。この一節で、孔子の郷党と宗廟と朝廷では、言動や顔つきは異なっていた。
余話
蛮族に逆戻り
史実の孔子一門は徹頭徹尾、第一に革命政党であり、第二に武装した謀略集団であり、第三にそれらの要員を育成する予備校だった。孔子が春秋諸国をさまようハメになったのは、滞在先で政府転覆活動を繰り返したからで、さんざんやって失敗したから、塾稼業に鞍替えした。
詳細は以下を参照。
- 論語為政篇9余話「書けないようなこと」
- 論語憲問篇20語釈
- 『墨子』非儒下篇・現代語訳
また上掲リンク通り、史実の孔子の仁とは徹頭徹尾ノモス(現世利益)的なもので、おおざっぱに言って当時の貴族が身につけるべき常識と技能を言う。自分の財布と腹具合しか考えない中国人が、イデア(理想)にあこがれて孔子塾に入門したなど、痴人のたわごとでしかない。
- 論語学而篇4余話「中華文明とは何か」
さて「党」の字形は、屋内でみこを焼き殺して天に祈るさまで、原義はそのようなことをする共同体だった。この字が現れるのは戦国時代も半ば以降で、中国人の精神が退化したことを思わせる。そもそも火あぶりをやりたがる殷を否定して、取って代わったのが周だったからだ。
- 論語子罕篇5余話「ウホウホ」
さらに詳細は論語解説「孔子はなぜ偉大なのか」を参照。一度否定された火あぶりが、戦国の世になって復活したのは、諸侯国の戦争が激しさを増し、負ければ国は併合され王家は皆殺しに遭ったからだ。藁にもすがる気持で火あぶったのだろうが、人命軽視も甚だしい。
だが戦国の中国人を責める資格は現代人に無い。君主国であれ共和国であれ、国民を平気で戦地に送りつけ、あるいは銃後に惨禍が及ぶのを放置するからには、火あぶりと大差ないからだ。これは現代なのに解決されないのではなく現代だから解決されないと言ってよい。
今見られるような「くに」を主権領域国家と言うが、その発生は戦争のためだった。日本のredはナントカにふさわしい一つ覚えで、「戦争々々」と言い張るが、現代国家という店を広げる以上、国=国民と戦争は不可分で、問題はどう防ぐかというその場しのぎにある。
憲法九条教徒がナントカなのは、そのお札の効果がきれかかっているのに、まだ効くと言い張っていることにある。宇宙を固定して考えるのは原始人と同類で、常に変化し続けると見、時々刻々最も妥当なその場しのぎで切り抜けようとしないのは、頭が悪すぎると言うべきだ。
現代国家は国民の平等を言う。国民の発生は無差別徴兵制に始まり、女性の参政権は一次大戦の総力戦により、女性も戦時動員しなければ負けてしまうと明らかになってからだった。対して前近代の社会はおおむねそうでない。日本の士族のように、戦争は専門家の仕事だった。
大坂夏の陣を描いた屏風に、弁当持参でいくさ見物する庶民があるのは、武士でない者にとっていくさが他人事だった史実を表す。孔子の時代も同様で、貴族に特権がある裏側は、戦時の従軍義務だった。箸と筆とワイロより重い物を持とうともしなかった、帝国の儒者と違う。
だから孔子生前の「君子」には、家臣領民を守る義務があり、守れない者は地位を追われるし、畳の上でも死ねなかった(論語雍也篇24余話「畳の上で死ねない斉公」)。孔子より約一世紀前、隣国の国公は好き勝手が酷くて殺され、食われている。
狄人伐衛,衛懿公好鶴,鶴有乘軒者,將戰,國人受甲者,皆曰使鶴。鶴實有祿位,余焉能戰?
北方の蛮族が騎馬で衛国に押し寄せた。それより前、時の国公・懿公は鶴を好み、戦車を与え貴族の待遇を与えていた。だが蛮族の襲来を前にしたとき、予備役の都市住民が口をそろえて言った。「鶴に戦って貰いましょう。殿は鶴に爵位まで与えたんですから。普段俸禄も貰っていない我らが、何で前線に?」と言って従軍しなかった。(『春秋左氏伝』閔公二年)
翟人至,及懿公於榮澤,殺之,盡食其肉,獨捨其肝。
蛮族が襲来し、懿公は栄沢で戦ったが敗れて殺された。蛮族は懿公の総身をすっかり食ったが、キモだけは「あたるから」と言って捨ててしまった。(『呂氏春秋』忠廉3)
対して戦国から前後の漢帝国まで、庶民は徴兵された上に特権がない、異常で哀れな時代を生きた。古代帝国が崩壊すると貴族政に戻ったが、隋唐帝国では貴族政のまま、徴兵が復活した。杜甫「兵車行」に歌われた庶民の地獄で、さすがにそっぽを向かれて制度崩壊した。
唐半ば以降は傭兵制になった。傭兵だから戦況が不利になると逃げ散る。怒った明の朱元璋は兵隊を世襲にして帝国への忠誠を強制したが、強制された兵隊はぜんぜん戦わず北虜南倭を招いた。征服王朝の清は子飼いの八旗兵を従えたが、帝国成立と共に全くの役立たずになった。
皆おじゃる化したからだ。同様に庶民も死なぬでいい道を必死に探す。
中国人は普段の生活の場面では押し合いへし合いして列の順番にも並ばないが、生存がかかると身を寄せ合って決死の覚悟で生き延びようとする。仲間同士で背を預け合い、他村を襲って略奪したり、山に籠もって山賊稼業をする。そうやって「異常で哀れな」世から逃れる。
それは同時に、拉致した他村民を火あぶりにしてウホウホと喜ぶことでもある。『水滸伝』は宋を舞台にした明の芝居だが、庶民英雄の一人・武松は宿屋のおかみに一服盛られて、生きギモを取って食われそうになる。今に至るまで中国での人肉食は、異常でも哀れでもない。
代わりに戦国時代の庶民は、暴政を行う国から逃げる。『孟子』の冒頭は、善政を敷いても全然他国人が亡命してこないのを歎く、梁の恵王と孟子との対話になっている。「五十歩百歩」の語源で、恵王程度の善政など、庶民にとっては見せかけに過ぎないと孟子は説教した。
だが秦帝国が統一すると、庶民は亡命先を失った。地獄の果てまで税と徴兵の帳簿を持った役人が追い掛けてくるのである。始皇帝の「暴政」とは庶民にとってはそういうことで、ゆえに「暴政」でない統一帝国など無かった。華僑が世界に広がったゆえんである。
重複をおそれず記せば、中華帝国の盛時の一つと言われる清の雍正帝時代、広い中国のどの村にも、必ず山賊や海賊がいたという(『鹿州公案』)。帝国の臣民として息苦しければ、海に出て華僑になるか、山や島に籠もって山賊海賊になるかだったのだ。それは今でも変わらない。
30年ほど前、北京大の女学生が山東省へ民俗調査にゆき、山賊に捕まって食われそうになった。たまたま親が党幹部だったので、解放軍が出向いて救出した。そうでなければありふれた出来事として、女学生は食われたまま、地方役人の記録にも残らなかったに違いない。
だから中国は政体にかかわらず、古代から「独特の民主主義」であり続けているわけだ。
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