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論語詳解352憲問篇第十四(20)衛の霊公無道’

論語憲問篇(20)要約:年収111億円と聞いて、どんな生活を想像します? 孔子先生は衛の殿様から、何も仕事をしないのにそれほどの俸給を貰いました。それなのに先生は、殿様が無茶な人だと若家老に愚痴ります。なぜでしょうか。

論語:原文・書き下し

原文(唐開成石経)

子言衞靈公之無道也康子曰夫如是奚而不喪孔子曰仲叔圉治賔客祝鮀治宗廟王孫賈治軍旅夫如是奚其喪

校訂

諸本

  • 武内本:清家本により、道の下久の字を補う。唐石経曰を言に作る。釋文云、子曰一本言に作る。唐石経久の字なし、此本久の字ある恐らくは衍。

東洋文庫蔵清家本

子曰衛霊公之無道也康子曰夫如是奚而不䘮孔子曰仲叔圉治賔客祝鮀治宗廟王孫賈治軍旅夫如是奚其䘮

後漢熹平石経

(なし)

定州竹簡論語

言a衛靈384……治軍旅。夫如385……

  1. 言、皇本、『釋文』作”曰”。

標点文

子言、「衞靈公之無道也。」康子曰、「夫如是、奚而不喪。」孔子曰、「仲叔圉治賓客、祝鮀治宗廟、王孫賈治軍旅。夫如是、奚其喪。」

復元白文(論語時代での表記)

子 金文言 金文 衛 金文霊 金文公 金文之 金文無 金文道 金文也 金文 康 金文子 金文曰 金文 夫 金文如 金文是 金文 奚 金文而 金文不 金文喪 金文 孔 金文子 金文曰 金文 仲 金文叔 金文圉 金文是 金文賓 金文客 金文 祝 金文鮀 篆書是 金文宗 金文廟 金文 王 金文孫 金文賈 金文是 金文軍 金文旅 金文 夫 金文如 金文是 金文 奚 金文其 金文喪 金文

※「治」→「是」・「鮀」→(篆書)。論語の本章は「鮀」の字が論語の時代に存在しないが、固有名詞のため同音近音のあらゆる漢字が置換請奉になりうる。「如」「奚」字の用法に疑問がある。

書き下し

いはく、ゑい靈公れいこうこれみちかりしかな康子かうしいはく、かくごとくんば、なんぞしうしなはざる。孔子こうしいはく、仲叔圉ちうしゆくぎよ賓客まらうとをさめ、祝鮀しゆくだ宗廟おやのつかをさめ、王孫賈わうそんか軍旅いくさをさむ。かくごとくんば、なんうしなはむ。

論語:現代日本語訳

逐語訳

孔子
先生があれこれと言葉を並べて言った。「衛の霊公は、まことに原則の無い殿様でしたよ。」季康子が言った。「その通りなら、どうして失わなかったのか。」孔子が言った。「仲叔ギョが国賓の応対をし、祝が祖先祭祀を司り、王孫が軍事を統制しました。その通りでしたから、どうして失いましょう。」

意訳

孔子 不気味 季康子
孔子「まったく衛の霊公さまは無茶苦茶な殿様で、困ったものでしたよ、本当に。」
季康子「フフフ。そんな暗君なら、なぜ衛国は滅ばない?」

孔子「家臣の出来がよかったからですよ。孔圉どのが外交を、祝鮀どのが祭祀を、王孫賈どのが軍事を司っていました。これで国が滅んだら、不思議というものです。」

従来訳

下村湖人

先師が、衛の霊公は無道な君主だと非難された。すると大夫の季康子がいった。――
「仰しゃるとおりだとしますと、どうして国が亡びないのでしょう。」
先師がいわれた。――
「仲叔圉が外交に任じ、祝駝が内政を司り、王孫賈が国防の責を負っています。これだけの人物がそろっていて、どうして国が亡びましょう。」

下村湖人『現代訳論語』

現代中国での解釈例

孔子說衛靈公之無道,季康子說:「既然如此,為什麽不敗亡呢?」孔子說:「仲叔圉治接待賓客、祝鮀管理宗廟、王孫賈統帥軍隊,像這樣,怎麽會敗亡呢?」

中国哲学書電子化計画

孔子が衛の霊公の無軌道ぶりを言った。季康子が言った。「なるほどその通りなら、なぜ国を滅ぼさなかった?」孔子が言った。「仲叔圉が賓客を接待し、祝鮀が宗廟を管理し、王孫賈が軍隊を統率していたら、どうして国を滅ぼしましょうか。」

論語:語釈

子言(しいはく)

現存最古の論語本である定州竹簡論語と唐石経は「子言」と記し、清家本は「子曰」と記す。論語では通常「子曰」だが、時系列から定州本・唐石経に従った。

「曰」が口を少し開いておもむろに言うことであるのに対し(論語語釈「曰」)、「言」は舌を振り回してペチャクチャ言うこと。孔子は霊公によほど不満があったらしい。

子 甲骨文 子 字解
「子」(甲骨文)

「子」は貴族や知識人に対する敬称。初出は甲骨文。字形は赤ん坊の象形で、古くは殷王族を意味した。春秋時代では、貴族や知識人への敬称に用いた。孔子のように学派の開祖や、大貴族は、「○子」と呼び、学派の弟子や、一般貴族は、「子○」と呼んだ。詳細は論語語釈「子」を参照。

言 甲骨文 言 字解
(甲骨文)

「言」の初出は甲骨文。字形は諸説あってはっきりしない。「口」+「辛」”ハリ・ナイフ”の組み合わせに見えるが、それがなぜ”ことば”へとつながるかは分からない。原義は”言葉・話”。甲骨文で原義と祭礼名の、金文で”宴会”(伯矩鼎・西周早期)の意があるという。詳細は論語語釈「言」を参照。

衞靈*公(エイレイコウ)

衛霊公
BC540-BC493。BC534年即位。論語時代の衛の代9代君主。姓は姫、名は元。妃は南子。太子は蒯聵カイカイ。やり手の君主で、小国の衛を大国・晋の圧力からよく守り抜いた。BC502、晋の家老に辱められたときには晋への反抗を決意したが、その際には都城の市民に意見を聞いてから実行している(『春秋左氏伝』定公八年)。

『史記』孔子世家によると、BC497、孔子が衛国に亡命した際には、特に仕事も与えないのに、粟六万斛(1,200,000リットル、2,568.5人が食費とそれ以外含め一年間生活できる俸給。2018年の日本の平均年収で換算すると、110億9,592万円)をポンと与えている。しかし孔子を政権中枢へ据えようとはせず、それが孔子が「無道」と言っている原因。

政権に就かせなかったのは、孔子の能力に疑問を持ったほかに、論語の本章のような人材が衛国には揃っており、割り込ませる隙間がなかったため。よそ者の孔子を政権に据えたら、当然それらの家老たちが反発するのも必至で、その意味からも孔子は無茶を言っている。

「霊」字はおくり名のタネ本、『逸周書』諡法解には次の通り言う。

死而志成曰靈。亂而不損曰靈。極知鬼神曰靈。不勤成名曰靈。死見神能曰靈。好祭鬼神曰靈。

死後に志が達成された者を霊という。暴君だったが国が滅びなかった者を霊という。鬼神を知り尽くした者を霊という。努力もせずに名を挙げた者を霊という。死んで奇跡が起こった者を霊という。鬼神の祭祀を好んだ者を霊という。

衛 甲骨文 衛 字解
(甲骨文)

「衞」の初出は甲骨文。新字体は「衛」。中国・台湾・香港では、新字体がコード上の正字として扱われている。甲骨文には、「韋」と未分化の例がある。現伝字体につながる甲骨文の字形は、「方」”首かせをはめられた人”+「行」”四つ角”+「夂」”足”で、四つ角で曝された奴隷と監視人のさま。奴隷はおそらく見せしめの異民族で、道路を封鎖して「入るな」と自領を守ること。のち「方」は「囗」”城壁”→”都市国家”に書き換えられる。甲骨文から”守る”の意に用い、春秋末期までに、国名・人名の例がある。詳細は論語語釈「衛」を参照。

靈 霊 靈 霊 字解
(金文)

「靈」の初出は西周早期の金文。ただし字形は「霝」または「𠱠」。「霝」の字形は甲骨文よりあるが、”雨が降る”の意であるらしく、”たましい”の意で用いたのは西周早期から。殷周革命の結果と思われる。現行字形はその下に〔示〕”祭壇”または〔心〕を加える。新字体は「霊」。西周の金文では”精霊”の意に、春秋の金文では”素晴らしい”の意に用いた。詳細は論語語釈「霊」を参照。

公 甲骨文 公 字解
「公」(甲骨文)

「公」の初出は甲骨文。字形は〔八〕”ひげ”+「口」で、口髭を生やした先祖の男性。甲骨文では”先祖の君主”の意に、金文では原義、貴族への敬称、古人への敬称、父や夫への敬称に用いられ、戦国の竹簡では男性への敬称、諸侯への呼称に用いられた。詳細は論語語釈「公」を参照。

之(シ)

之 甲骨文 之 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…の”。初出は甲骨文。字形は”足”+「一」”地面”で、あしを止めたところ。原義はつま先でつ突くような、”まさにこれ”。殷代末期から”ゆく”の語義を持った可能性があり、春秋末期までに”~の”の語義を獲得した。詳細は論語語釈「之」を参照。

無(ブ)

無 甲骨文 無 字解
(甲骨文)

論語の本章では”…がない”。初出は甲骨文。「ム」は呉音。甲骨文の字形は、ほうきのような飾りを両手に持って舞う姿で、「舞」の原字。その飾を「某」と呼び、「某」の語義が”…でない”だったので、「無」は”ない”を意味するようになった。論語の時代までに、”雨乞い”・”ない”の語義が確認されている。戦国時代以降は、”ない”は多く”毋”と書かれた。詳細は論語語釈「無」を参照。

道(トウ)

道 甲骨文 道 字解
「道」(甲骨文・金文)

論語の本章では”従うべき道”→”原則”。政治が行き当たりばったりでふらついていること。動詞で用いる場合は”みち”から発展して”導く=治める・従う”の意が戦国時代からある。”言う”の意味もあるが俗語。初出は甲骨文。字形に「首」が含まれるようになったのは金文からで、甲骨文の字形は十字路に立った人の姿。「ドウ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。詳細は論語語釈「道」を参照。

也(ヤ)

也 金文 也 字解
(金文)

論語の本章では「かな」と読んで”~だなあ”。詠嘆の意。断定の意にも解せるが、この語義は春秋時代では確認できない。初出は事実上春秋時代の金文。字形は口から強く語気を放つさまで、原義は”…こそは”。春秋末期までに句中で主格の強調、句末で詠歎、疑問や反語に用いたが、断定の意が明瞭に確認できるのは、戦国時代末期の金文からで、論語の時代には存在しない。詳細は論語語釈「也」を参照。

康子(コウシ)

?-BC468。別名、季孫肥。魯国の門閥家老「三桓」の筆頭、季氏の当主、魯国正卿。BC492に父・季桓子(季孫斯)の跡を継いで当主となる。この時孔子59歳。孔子を魯国に呼び戻し、その弟子、子貢冉有を用いて国政に当たった。

季康子と話していることから、論語の本章は孔子が魯に帰国した後のことと思われる(BC484、哀公十一年、孔子68歳)。季康子は衛での孔子のいきさつを知っているから、無道とは思えなかったわけ。だから”無道なら、なんで衛国は滅ばない?”と反問したわけ。

康 甲骨文 康 字解
「康」(甲骨文)

「康」の初出は甲骨文。春秋時代以前では、人名または”(時間が)永い”のいで用いられた。辞書的には論語語釈「康」を参照。

曰(エツ)

曰 甲骨文 曰 字解
(甲骨文)

論語で最も多用される、”言う”を意味する言葉。初出は甲骨文。原義は「𠙵」=「口」から声が出て来るさま。詳細は論語語釈「曰」を参照。

論語の本章での問い手である季康子は、孔子より一世代は下とは言え、身分は魯国筆頭家老家の当主であり、孔子より高い。これを反映して、論語では殿さまに問われたとき同様、孔子の回答は「孔子對曰」になる例が多い。だが論語の本章では「康子曰」と同じく「孔子曰」と記す。これを「問い手を敬ったのである」とは論語の前章で朱子が言いふらしたゴマスリ

「孔子對曰」と記すのは、主君を尊重するからである。(『論語集註』)

対して論語の本章のように、「(孔)子曰」と弟子相手のように記している場合もある。

これは帝政期以降に孔子と季康子の地位が逆転したことの反映で、つまり少なくとも帝政期以降にいじくられた文章であることを証している。ただし本章のみが「孔子曰」になっているのは、「孔子對曰」→「子曰」への過渡期を示すともとれ、ここから本章の文字列がまるまる史実ではないものの、説話は事実を伝えている可能性が高いと言える。

夫(フ)

夫 甲骨文 論語 夫 字解
(甲骨文)

論語の本章では「それ」と読んで”そもそも”、発語の意。「敷」”あまねく”の派生義。初出は甲骨文。論語では「夫子」として多出。「夫」に指示詞の用例が春秋時代以前に無いことから、”あの人”ではなく”父の如き人”の意で、多くは孔子を意味する。「フウ」は慣用音。字形はかんざしを挿した成人男性の姿で、原義は”成人男性”。「大夫」は領主を意味し、「夫人」は君主の夫人を意味する。固有名詞を除き”成人男性”以外の語義を獲得したのは西周末期の金文からで、「敷」”あまねく”・”連ねる”と読める文字列がある。以上以外の語義は、春秋時代以前には確認できない。詳細は論語語釈「夫」を参照。

如(ジョ)

如 甲骨文 如 字解
「如」(甲骨文)

論語の本章では”…のような(もの)”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。字形は「口」+「女」。甲骨文の字形には、上下や左右に部品の配置が異なるものもあって一定しない。原義は”ゆく”。詳細は論語語釈「如」を参照。

是(シ)

是 金文 是 字解
(金文)

論語の本章では”それ”。初出は西周中期の金文。「ゼ」は呉音(遣隋使より前に日本に伝わった音)。字形は「睪」+「止」”あし”で、出向いてその目で「よし」と確認すること。同音への転用例を見ると、おそらく原義は”正しい”。初出から”確かにこれは~だ”と解せ、”これ”・”この”という代名詞、”~は~だ”という接続詞の用例と認められる。詳細は論語語釈「是」を参照。

奚(ケイ)

奚 甲骨文 奚 字解
(甲骨文)

論語の本章では”なぜ”。この語義は春秋時代では確認出来ない。初出は甲骨文。字形は「𡗞」”弁髪を垂らした人”+「爪」”手”で、原義は捕虜になった異民族。甲骨文では地名のほか人のいけにえを意味し、甲骨文・金文では家紋や人名、”奴隷”の意に用いられた。春秋末期までに、疑問辞としての用例は見られない。詳細は論語語釈「奚」を参照。

而(ジ)

而 甲骨文 而 解字
(甲骨文)

論語の本章では”そして”。初出は甲骨文。原義は”あごひげ”とされるが用例が確認できない。甲骨文から”~と”を意味し、金文になると、二人称や”そして”の意に用いた。英語のandに当たるが、「A而B」は、AとBが分かちがたく一体となっている事を意味し、単なる時間の前後や類似を意味しない。詳細は論語語釈「而」を参照。

不(フウ)

不 甲骨文 不 字解
(甲骨文)

漢文で最も多用される否定辞。初出は甲骨文。「フ」は呉音、「ブ」は慣用音。原義は花のがく。否定辞に用いるのは音を借りた派生義だが、甲骨文から否定辞”…ない”の意に用いた。詳細は論語語釈「不」を参照。

喪(ソウ)

喪 甲骨文 喪 字解
(甲骨文)

論語の本章では”(国を)失う”→”失わせる”→”滅ぼす”。初出は甲骨文。字形は中央に「桑」+「𠙵」”くち”一つ~四つで、「器」と同形の文字。「器」の犬に対して、桑の葉を捧げて行う葬祭を言う。甲骨文では出典によって「𠙵」祈る者の口の数が安定しないことから、葬祭一般を指す言葉と思われる。金文では”失う”・”滅ぶ”・”災い”の用例がある。詳細は論語語釈「喪」を参照。

孔子(コウシ)

論語 孔子

論語の本章では”孔子”。いみ名(本名)は「孔丘」、あざ名は「仲尼」とされるが、「尼」の字は孔子存命前に存在しなかった。BC551-BC479。詳細は孔子の生涯1を参照。

論語で「孔子」と記される場合、対話者が目上の国公や家老である場合が多い。本章もおそらくその一つ。詳細は論語先進篇11語釈を参照。

孔 金文 孔 字解
(金文)

「孔」の初出は西周早期の金文。字形は「子」+「イン」で、赤子の頭頂のさま。原義は未詳。春秋末期までに、”大いなる””はなはだ”の意に用いた。詳細は論語語釈「孔」を参照。

仲叔圉(チュウシュクギョ)

=孔圉・孔文子。?ーBC480。衛国門閥家老家の当主で、国公の霊公の娘婿、のちに反乱を起こす太子・蒯聵カイカイの姉の夫に当たる。つまりの蒯聵の義兄。息子は孔カイ。死後「文」というおくりなを贈られたことについて、論語公冶長篇14に言及がある。孔子の弟子の子路は孔圉に仕えた。政権奪回を目指す蒯聵に隙を与えず、生前では蒯聵とそれを手引きした姉も手が出せなかった。

仲 甲骨文 仲 字解
「仲」「中」(甲骨文)

「仲」の初出は甲骨文。ただし字形は「中」。現行字体の初出は戦国文字。字形:は「コン」の上下に吹き流しのある「中」と異なり、多くは吹き流しを欠く。甲骨文の字形には、吹き流しを上下に一本だけ引いたものもある。字形は「○」に「丨」で真ん中を貫いたさま。原義は”真ん中”。甲骨文・金文では”兄弟の真ん中”・”次男”を意味した。論語語釈「中」も参照。詳細は論語語釈「仲」を参照。

叔 甲骨文 叔 字解
「叔」(甲骨文)

「叔」の初出は甲骨文。字形は「廾」”両手”+”きね”+”臼”で、穀物から殻を取り去るさま。ゆえに「まめ」の意がある。原義は”殻剥き”。甲骨文では地名、”包み囲む”の意に、金文では人名、”赤い”の意に用いた。”次男”を意味するのは後世の転用。詳細は論語語釈「叔」を参照。

圉 甲骨文 圉 字解
(甲骨文)

「圉」は論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。甲骨文の字形は〔囗〕”囲い”+〔幸〕”手かせをかけられた人”。「ゴ」は呉音。甲骨文では”捕らえる”と解せる。また殷代金文ではおそらく族徽(家紋)に用いた。詳細は論語語釈「圉」を参照。

治(チ)

治 秦系戦国文字 治 字解
(秦系戦国文字)

論語の本章では”指揮監督する”。初出は戦国文字。論語の時代に存在しない。”おさまる”の意では論語時代の置換候補は存在しない。”指揮監督する”の語義では近音の「是」。「ジ」は呉音。字形は「氵」+「台」で、「台」は「㠯」”すき”+「𠙵」”くち”で、大勢が工具を持って治水をするさま。原義は”ととのえる”。同音や近音には置換候補があるが、春秋時代以前に”おさまる”の用例が確認できない。詳細は論語語釈「治」を参照。

賓客(ヒンカク)

論語の本章では”(外国からの)来客と国内の来客”。

賓 甲骨文 賓 字解
(甲骨文)

「賓」の初出は甲骨文。字形は「宀」”屋根”+「夫」”かんざしや冠を着けた地位ある者”で、外地より来て宿る身分ある者のさま。原義は”高位の来客”。金文では原義、”贈る”の意に用いた。詳細は論語語釈「賓」を参照。

客 金文 客 字解
(金文)

「客」の初出は西周中期の金文。「キャク」は呉音。字形は「宀」”屋根”+「夊」”あし”+「𠙵」”くち”で、外地よりやって来て宿るさま。原義は”外来の人”。金文では原義で用いている(曾伯陭壺・春秋早期など)が、掲載例はみな「賓客」と記し、身分ある「賓」と身分無き「客」とは別物である。詳細は論語語釈「客」を参照。

祝鮀(シュクタ)

生没年未詳。論語時代の、衛国の家老の一人。「口がうまい」と論語雍也篇16で孔子に評されている。字は子魚。衛国の大神官(大祝)を務めたので氏を祝とした。春秋時代、姓は血統を前提としたが、氏は同業者集団と言ってよく、例えば山賊でも稼業を同じくするなら同氏を名乗れた。孔子生前の儒家も、自分たちの集団を「孔氏」と呼んだことが論語憲問篇41から分かる。

祝 甲骨文 祝 字解
「祝」(甲骨文)

「祝」の初出は甲骨文。字形にしめすへんを伴うものと欠くものがある。新字体は「祝」。中国と台湾では、こちらがコード上の正字として扱われている。”祝う・神官”の意では「シュク」、”のりと”の意では「シュウ」と読む。字形は「示」”祭壇または位牌”+「𠙵」”くち”+「卩」”ひざまずいた人”で、神に祝詞を上げるさま。原義は”のりと”・”いのる”。甲骨文では原義で、また”告げる”の意で用いられた。金文では原義に加えて、”神官”を意味した。戦国の竹簡では、”親密”を意味した。詳細は論語語釈「祝」を参照。

鮀 篆書 不明 字解
「鮀」(隷書)

「鮀」の初出は後漢の『説文解字』。「ダ」は呉音。語義は『説文解字』はナマズだと言い、『爾雅』はハゼだと言い、『神農本草経』はワニだと言う。要するに何の魚や水棲動物かわからない。部品の「它」はヘビ。本章の「鮀」は固有名詞のため、おそらく論語の時代には「它」と記された。詳細は論語語釈「鮀」を参照。

宗廟(ソウビョウ)

論語の本章では”国公の祖先祭殿”。魯は周の初代武王の弟・周公が開祖で、その子が領地を与えられて成立した。宗廟は祖先の霊魂を祀るだけでなく、国公主催の政治的な会議も行われた。従って宗廟は政府をも意味し、また廟堂とも呼ばれた。

宗 甲骨文 宗 字解
(甲骨文)

「宗」の初出は甲骨文。甲骨文の字形は「宀」”屋根”+「示」”先祖の位牌”。原義は一族の祖先を祀った祭殿。西周中期から、”祖先の霊”の用法があり、戦国時代の竹簡から”尊ぶ”、また地名の用例がある。詳細は論語語釈「宗」を参照。

廟 金文
(金文)

「廟」の初出は西周中期の金文。字形は「广」”屋根”+「𣶃」(「潮」の原字)で、初出ごろの金文にはさんずいを欠くものがある。「古くは祖先廟で朝廷を開くものであった」という通説には根拠が無く、字形の由来は不明。原義は”祖先祭殿”。金文では人名のほか原義に用いた。詳細は論語語釈「廟」を参照。

王孫賈(オウソンカ)

王 甲骨文 孫 甲骨文 賈 甲骨文
(甲骨文)

論語八佾篇13にも登場。孔子と同時代の、衛国の軍事担当家老。同名の人物が楚にもいたと『左伝』にある。また後世、斉王の家臣にも同名の人物がいた。「王孫」とは文字通り王族が名のる名で、「賈」は金持ちという目出度い意味があるので、同姓同名は珍しくない。

論語の時代の衛国は、西北の大国・晋に領土を削り取られ、国都も朝歌(殷の古都)から東の帝丘に移っていた。晋国の圧迫はさらに強まり、国君霊公は、晋公の家臣のさらに家臣と対等の盟約を結ばされた。その際霊公は晋人に手を取られ、誓いにすする血を盛った皿に強引に浸けられて、名誉を失った。

ここで王孫賈が走り出て、晋の非礼をとがめた。また憤懣やるかたない霊公が帰国後、王孫賈が晋に送る人質を前に演説すると、住民は全員晋からの離脱を決意した。その結果を悔いた晋が再度の盟約を求めたが、衛は応じなかった(『左伝』定公八年の条・BC502)。

王 甲骨文 王 字解
(甲骨文)

「王」の初出は甲骨文。字形は司法権・軍事権の象徴であるまさかりの象形。「士」と字源を同じくする漢字で、”斧・まさかりを持つ者”が原義。武装者を意味し、のちに戦士の大なる者を区別するため「士」に一本線を加え、「王」の字が出来た、はずだが、「王」の初出が甲骨文なのに対し、「士」の初出は西周早期の金文。甲骨文・金文では”王”を意味した。詳細は論語語釈「王」を参照。

孫 甲骨文 孫 字解
(甲骨文)

「孫」の初出は甲骨文。字形は「子」+「幺」”糸束”とされ、後漢の『説文解字』以降は、”糸のように連綿と続く子孫のさま”と解する。ただし甲骨文は「子」”王子”+「𠂤タイ」”兵糧袋”で、戦時に補給部隊を率いる若年の王族を意味する可能性がある。甲骨文では地名に、金文では原義のほか人名に用いた。詳細は論語語釈「孫」を参照。

賈 甲骨文 賈 字解
(甲骨文)

「賈」の初出は甲骨文。”売買”・”商人”の意では「コ」(上声)と読み、”値段”・国名・姓名の場合は「カ」(去声)と読む。字形は「貝」”貝貨”+「」”はこ”で、貝貨を箱に収納したさま。原義は”商売”。甲骨文での語義は不明、金文では”価格”、”取引”、”商売(人)”、国名に、また戦国早期の金文では人名に用いた。詳細は論語語釈「賈」を参照。

軍旅(クンリョ)

「軍」も「旅」もともに”軍隊”。

論語 軍 金文 戦車 千乗の国
「軍」(金文)

「軍」の初出は春秋末期の金文だが、一説に部品として西周の金文にも見える。「グン」は慣用音で、漢音(遣隋使・遣唐使が聞き帰った音)でも呉音(それ以前に日本に伝わった音)でも読みは「クン」。初出の字形は「ホウ」”包む”の中に「車」であり、戦車に天蓋ととばりを付けた指揮車を示すか。詳細は論語語釈「軍」を参照。

旅 甲骨文 論語 旅
「旅」(甲骨文)

「旅」の初出は甲骨文。字形は「㫃」”旗やのぼり”+「人」二つ”大勢”で、旗印を掲げて多人数で出掛けるさま、軍隊の一単位。現代でも「旅団」という。金文の字形には、「人」が「車」になっているものがある。甲骨文では原義の”軍隊”、地名に用いた。金文では、”旅”・”携帯する”、”黒色”の意、地名・人名に用いた。戦国の竹簡では、”旅”の意に用いた。詳細は論語語釈「旅」を参照。

其(キ)

其 甲骨文 其 字解
(甲骨文)

論語の本章では”それ”→”国”。この語義は春秋時代では確認できない。初出は甲骨文。甲骨文の字形は「𠀠」”かご”。それと指させる事物の意。金文から下に「二」”折敷”または「丌」”机”・”祭壇”を加えた。人称代名詞に用いた例は、殷代末期から、指示代名詞に用いた例は、戦国中期からになる。詳細は論語語釈「其」を参照。

論語:付記

中国歴代王朝年表

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検証

論語の本章は文字史的になんとか春秋時代まで遡れ、内容的にも孔子の史実と矛盾が無く、後世の儒者が偽作する動機も見当たらないので、史実の孔子と季康子の問答と考えてよい。

解説

論語の本章が言う「道がない」というのは、孔子の価値基準から言って原則がないように見えただけで、傍目から見れば孔子に実際の政務を任せない霊公の処置は当然に思えただろう。しかも上記六万もの捨て扶持をくれてやっただけでも、家老たちの反感を誘っただろうが、不満を持った孔子は恐らく衛国内で政治工作を行った。

「孔子様は理想の政治を実現させるため、諸国を巡った」とお行儀の良い論語本は書いているが、すでに確立した政権に政治のやり方を変えろと要求することは、要するにクーデターを企むことであり、身分制社会での政変とは、前政権担当者の処刑や追放が付き物

孔子は巡った諸国にとり、とんでもない危険人物だったのだ。現代中国でも権力者がその座にしがみつくのは、辞めたら殺されるからで、中国屈指の名君と言われる清の康煕帝でさえ、ひっそり暮らしていた明朝の生き残りを、「謀反の事実は無いが願わなかったはずが無い」という、無道を言い、しかも惨殺し、一族を皆殺しにている。中国の政治は殺すか殺されるかだ。

このため霊公が孔子に監視を付けたことが、『史記』孔子世家に記されている。また家老たちの反発も大きく、霊公に孔子を排除するよう告げたことも記されている。「巨額の金を貰ったのに、政権転覆の工作までしている。出て行って貰おう!」…当然ではなかろうか。

孔子は宿所に特務がうろつきだしたのを見て、特に抗議するでもなく、脱兎の如く衛国から逃げ去っている。仮にお行儀よく過ごしていたなら、武装集団でもある孔子一行は、何らかの抵抗を見せるはずだが、身に覚えがあり過ぎたからこそ、さっさと逃げたのだ。

孔子は恐らく、衛国の民間に巨大なつながりがあり、一つは子貢の実家だった商家で、もう一つは斉・魯・衛に幅広い勢力を持つ任侠団体の首領・顔濁鄒ガンダクスウだった。顔濁鄒は母の同族であり、弟子の子路の義兄。孔子は最初の衛国滞在の際、顔濁鄒の屋敷にわらじを脱いでいる。

衛国政府としては、無視するわけにはいかなかった。

論語の本章の対話相手である季康子は、事実上の魯の宰相で、国公の哀公との関係は、こんにちの世界で元首と首相が分かれているのに似ている。上記の通り、孔子は愚痴を季康子に言っているのであり、若くとも政治的には常識的な季康子は呆れて、孔子に反論したわけ。

そして孔子が理由を説明するのに、「家臣の出来がよかったからだ」と言ったのは、孔子の立場を示し、「私のような賢臣がいれば、無道な君主でも国は保つ」と主張した。孔子も人間であり、不平不満がこぼれることもあったわけで、この点からも儒者の注釈は信用できない。

朱子が何と言っているか覗いてみよう。

新注『論語集注』

仲叔圉,即孔文子也。三人皆衛臣,雖未必賢,而其才可用。靈公用之,又各當其才。尹氏曰「衛靈公之無道宜喪也,而能用此三人,猶足以保其國,而況有道之君,能用天下之賢才者乎?詩曰:『無競維人,四方其訓之。』」
朱子 新注 尹焞
朱子「仲叔圉とは孔文子である。本章に取り挙げられた三人の家老はどれも衛の臣下だが、孔子様ほどの賢者ではない。まあ使い道はあった。霊公は三人を用いて、才能に合った仕事をさせた。」

イントン「衛の霊公の無道は、国が滅んで当然だった。だが三人をうまく使いこなして、国を保てた。もし有道の君主なら、天下の賢才を使いこなせるに決まっているのだが。『詩経』に言う。”努力をやめない人は、天下の手本である”と。」

さすがの朱子も、霊公がやり手だったことは認めざるを得なかったようだ。尹焞の言っていることは良くわからない。ケチを付けようとして付けられないから、詩(『詩経』大雅・抑)でごまかしたのだろう。軍国主義者は官製の軍国スローガンしか言えないのと似ている。

余話

(思案中)

『論語』憲問篇:現代語訳・書き下し・原文
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