論語:原文・書き下し
原文
子曰、「孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫*。」
校訂
武内本
清家本により、文末に也の字を補う。
定州竹簡論語
……謂a:「孟公綽b為趙魏老則優,不可以為滕[薛大夫c]。」372
- 謂、今本作”曰”。
- 綽、『釋文』云:”本又作繛”。『汗簡』”繛”出『古論語』。
- 皇本、高麗本”夫”下有”也”字。
→子謂、「孟公綽、爲趙魏老則優、不可以爲滕薛大夫。」
復元白文(論語時代での表記)
魏優
※論語の本章は赤字が論語の時代に存在しない。「則」の用法に疑問がある。「可以」は戦国中期にならないと確認できない。本章は戦国時代以降の儒者による創作である。
書き下し
子謂く、孟公綽は、趙魏の老爲らば則ち優れたるも、以て滕薛の大夫爲る可からず。
論語:現代日本語訳
逐語訳
先生が言った。「孟公綽は、趙や魏の執事ならば優れているが、滕や薛の大臣ではいられない。」
意訳
先生が言った。「孟公綽は、大国晋の家老家、趙家や魏家の執事ならば優れているが、小国だろうと、滕国や薛国の家老職は務まらない。」
従来訳
先師がいわれた。――
「孟公綽は、たとい晉の趙家や魏家のような大家であっても、その家老になったらりっぱなものだろう。しかし、滕や薜のような小国でも、その大夫にはなれない人物だ。」下村湖人『現代訳論語』
現代中国での解釈例
孔子說:「孟公綽當趙氏、魏氏的總管都能當好,但不能當滕、薛等小國的大夫。」
孔子が言った。「孟公綽は趙氏・魏氏の執事ならよく務まるが、滕や薛のような小国の家老は務まらない。」
論語:語釈
謂
論語の本章では、”…であると評価する”。同じ「いう」でも、”…と評価する・評論する”の意。詳細は論語語釈「謂」を参照。
孟公綽(モウコウシャク)
「綽」(金文)
孔子の青年期に魯の家老を務めた。魯国門閥の一家・孟孫氏の一族。論語では本章と次章のみに登場し、次章に「不欲」と評されている。
魯の襄公二十四年、晋の指示で魯は孟孝伯(孟孫氏の当主・孔子と縁が深い孟懿子の祖父)の指揮で斉国を攻めたが、その翌年斉軍が報復として押し寄せた。
二十五年、春、斉の崔杼師を帥いて我が北鄙を伐つは、以て孝伯之師に報じる也。公之を患い、使して晋于(に)告ぐ。孟公綽曰く、崔子将に大志有らん、我を病ますに在らず、必ずや速かに帰せん。何ぞ患え焉(ん)と。其れ来たる也冦(あら)さず、民を使て厳(そな)えしめず。他日於(と)異なりて、斉の師徒に帰る。(『春秋左氏伝』)
崔杼とは、のちに妻を斉公に寝取られたうらみで殺した斉の筆頭家老だが(『史記』斉世家)、この翌年妻をめとる。それはさておき、孟公綽の記録はこれだけ。孔子は青年期だっただけあって、孟公綽についての詳しい情報を持っていたのだろう。
なお「綽」とは、”ゆるい・しとやか”の意。初出は西周中期の金文。論語では人名としてのみ登場。詳細は論語語釈「綽」を参照。
趙・魏
いずれも西北の大国・晋の家老家で、のち韓とともに晋を分割して独立する。一般にこの独立をもって春秋時代が終わり、戦国時代になったとする(BC453)。
「趙」は論語では本章のみに登場。初出は春秋末期の金文。語義は”小さい”。詳細は論語語釈「趙」を参照。
「魏」は論語では本章のみに登場。初出は不明。論語の時代に確認できない。語義は”高い”。詳細は論語語釈「魏」を参照。
則(ソク)
(甲骨文)
論語の本章では、”~の場合は”。初出は甲骨文。字形は「鼎」”三本脚の青銅器”と「人」の組み合わせで、大きな青銅器の銘文に人が恐れ入るさま。原義は”法律”。論語の時代=金文の時代までに、”法”・”則る”・”刻む”の意と、「すなわち」と読む接続詞の用法が見える。詳細は論語語釈「則」を参照。
優
論語の本章では”優れる”。
初出は楚系戦国文字。論語の時代に存在しない。同音多数。詳細は論語語釈「優」を参照。
可以(カイ)
論語の本章では”~できる”。現代中国語でも同義で使われる助動詞「可以」。ただし出土史料は戦国中期以降の簡帛書(木や竹の簡、絹に記された文書)に限られ、論語の時代以前からは出土例が無い。春秋時代の漢語は一字一語が原則で、「可以」が存在した可能性は低い。ただし、「もって~すべし」と一字ごとに訓読すれば、一応春秋時代の漢語として通る。
「可」(甲骨文)
「可」の初出は甲骨文。字形は「口」+「屈曲したかぎ型」で、原義は”やっとものを言う”こと。甲骨文から”~できる”を表した。日本語の「よろし」にあたるが、可能”~できる”・勧誘”…のがよい”・当然”…すべきだ”・認定”…に値する”の語義もある。詳細は論語語釈「可」を参照。
「以」(甲骨文)
「以」の初出は甲骨文。人が手に道具を持った象形。原義は”手に持つ”。論語の時代までに、名詞(人名)、動詞”用いる”、接続詞”そして”の語義があったが、前置詞”~で”に用いる例は確認できない。ただしほとんどの前置詞の例は、”用いる”と動詞に解せば春秋時代の不在を回避できる。詳細は論語語釈「以」を参照。
滕(トウ)・薛(セツ)
滕は山東省にあった小国。弱小のためほとんど史料がない。周の一族で、侯爵を与えられて格は高かった。BC414に一旦越に滅ぼされたが復活し、文公が希代の世間師・孟子の教説を真に受けて実施したが、それが元で国が荒廃、BC290ごろに宋に併合された。
漢字「滕」は、論語では本章のみに登場。初出は西周早期の金文。語義は”湧き出る”。詳細は論語語釈「滕」を参照。
薛は山東省にあった小国。こちらも弱小のためほとんど史料がない。伝説上の黄帝の末裔とされ、侯爵を与えられて格は高かった。戦国時代に斉に併合された。
漢字「薛」は、論語では本章のみに登場。初出は甲骨文。語義は”ヨモギ”。詳細は論語語釈「薛」を参照。
老・大夫
「老」(金文)
論語の本章では”執事・家老”。
「老」はまさに家の宿老で、当時趙・魏は独立前で、建前上晋の家臣に過ぎないので、身分秩序にうるさい孔子は「老」と言っている。「大夫」は当時の身分秩序で、士の上、卿の下に位置する貴族だが、論語時代は”大臣”・”(国政家としての)家老”の意味。
ちなみに訳者が学生時代に習った現代中国語では、医師は格が高く「大夫」と言った。日本語で言うなら「先生」というより「閣下」に近い。今はどうか分からない。ただ当時は大学教授の宛名も「閣下」だったから、英語のドクターの意訳だったかも知れない。
論語:付記
論語の本章は、読むそばから贋作と分かる話。あるいは単に次章の注釈だったかも。晋が趙・魏・韓に分裂した戦国時代より前には遡らず、おそらく孟子が滕の文公の顧問だったことを知っていた者による捏造で、定州竹簡論語にあることから、前漢宣帝期までの作品と分かる。
加えて「謂」の用法、つまり「曰」「言」との違いの分かる男(?)による作品で、となると肌身でその語義を知っていた、戦国時代の儒者による作品だろう。なお『論語集釋』には、適材適所の例として論語の本章を引用した『漢書』の記事を引いている。
薛宣字贛君,東海郯人也。…以明習文法詔補御史中丞。
…頻陽縣北當上郡、西河,為數郡湊,多盜賊。其令平陵薛恭本縣孝者,功次稍遷,未嘗治民,職不辦。而粟邑縣小,辟在山中,民謹樸易治。令鉅鹿尹賞久郡用事吏,為樓煩長,舉茂材,遷在粟。宣即以令奏賞與恭換縣。二人視事數月,而兩縣皆治。宣因移書勞勉之曰:「昔孟公綽優於趙魏而不宜滕薛,故或以德顯,或以功舉,『君子之道,焉可憮也!』屬縣各有賢君,馮翊垂拱蒙成。願勉所職,卒功業。」
薛宣、あざ名は贛君、東海郡郯県(山東省)出身である。…法律に詳しいという事で、御史中丞(事実上、全官吏の監察長官)になった。
…頻陽県(陝西省渭南市付近)と言えば、北に匈奴との最前線である上郡・西河郡を控え、前線と帝都長安を繋ぐ要地だが、どういうわけか両郡によく似て住民にDQNが多く、盗賊が横行して手が付けられなかった。
その県知事を務めた平陵(山東省歴城県)出身の薛恭は、もとは地元の豪族から「親孝行だ」という評判で役人になった男だが、少しづつ功績を重ねて昇進したものの、まともに民を治めたことがなく、知事として役立たずと言われていた。
ところで当時粟邑県(西安市付近)という小さな県があり、僻地のうえ山の中にあった。おかげで住民はまじめな者が揃っており、統治しやすかった。鉅鹿(河北省)出身の尹賞が、長く県知事を務めていたが、その間に地元の有力者と結託して私領化のおそれが出たので、他の誰かに知事を任せようということになった。
そこでダメ知事の烙印を押されていた薛恭を、薛宣が粟邑県知事に推薦して任じられ、尹賞は入れ替わりに、DQNの待ち構える頻陽県の知事に転任した。だが二人が着任して二ヶ月過ぎると、不思議にも両県そろってよく治まった。
薛宣はこの人事に苦慮した日々について、薛恭への手紙にこう書いている。
「むかし、孟公綽は趙・魏の大臣ならよく務まったが、滕や薛の家老には向かなかったという。人には向き不向きがあって、人柄が善い者もいれば、仕事の出来る者もいる。見抜いて使わないと、”せっかくの君子が、腐って使いものにならなくなる”。今回の人事で、両県付近の各県の知事は、帝都長安近郊の者まで、尹賞を見習ってまともになった。君もどうか、まじめに働いて職を全うしてもらいたい。」(『漢書』薛宣朱博伝5)
何だか薛恭ばかりが一方的に得をしているように見えるが、人事とはこういうものかも知れない。ただし薛宣と薛恭は姓氏を同じくし、出身地から見ておそらく同族である。要するにいかにも中国らしい縁故主義であり、誉められた話ではないかも知れない。
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